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deadlock3 暁闇

 季節は移ろい、吹く風も冷たさを増していく。
 クリニックの最寄り駅に降り立った露の長い髪を、吹く抜ける風が逆立てていった。
 都会に沈殿する淀んだ暖かさを清浄してくれるような気がして、露はその冷たさを心地よいと感じた。
 電車から降りた人々は、大きな塊となってあっという間に駅という場所を後にしていく。
 群れだ。
 人というのは、群れで行動する生き物なのだな。
 と、感じた。
 群れの中の一人になってしまうのを躊躇して、露は少しだけゆっくりと足を運ぶ。
 駅前のロータリーに立ち、周囲を見回した。ビルの合間にはもうすでに「岩倉クリニック」という白地に青の文字の看板が顔を出していて、露は迷うことなく信乃の病室の前にたどり着くことができた。
 自分が信乃に伝えなければならないことを考えると、気が重くなる。あっという間にたどり着いたクリーム色の引き戸の前で、大きく深呼吸をしてから扉を開ける。

「露さん」

 信乃は身を起こし、笑顔で露を迎えてくれた。

「もう、起きていて大丈夫なの?」

 飲まず食わずだったからだろうか、ほんの少しだけ頬がコケたような気がして、露は思わず信乃の身体を支えるように手を伸ばす。
 信乃は手で露の動きを制すると「大丈夫です」と言って笑顔を見せた。
 ここに来るまで不安が、肩の力と一緒にほうっと抜けた。

「よかったわ。本当に良かった……ああ、たくさんお見舞いの品を預かってきているの!」

 露は持ってきた折りたたみ式のボストンバックの中身を信乃のベットの脇の棚の上に並べていった。

「えっと、これは秀就様から」

 やはり家長からのお見舞いの品は最初に渡さなければと、秀就に言付かっていた小さな包を渡す。秀就からと言いながら、これを見立てたのは露だ。今流行りのハーバリウムとかいう観賞用の瓶詰めにされた植物標本のようなものだ。水を変える必要もないし、病院に飾るのにいいだろうと考えた。

「これはお手伝いの梨花さんから、信乃さんが好きだった手作りのお菓子ですって」

 信乃は何度も大神の家に遊びに来ているから、使用人や警備の人間とも顔見知りになっている。特にお手伝いの梨花は年が近いこともあって、仲良くしていたようだった。

「これは、警備員の方たちからで……それからこれは、私から」

 たくさんあったお見舞いの品がバックの中からなくなっていく。
 けれども……。
 このバックの中に、おそらく信乃が一番欲しいであろうものは、入っていないのだ。

 ――誰からのお見舞いの品よりも、彼からの一言が、彼女には一番の励ましになるのだろうに。

 ついに空になったバックをしまい、露はベットの脇に腰掛けた。
 信乃がベットの隣りにある小さな冷蔵庫から出してくれた清涼飲料水を、一口飲み下す。
 さっきまでガサゴソと包みを開ける音や、お互いの声が絶え間なく聞こえていた病室に不意に訪れた静寂。
 言わなければならない。
 
「信乃さん……」

 露は信乃を見ることが出来なくて、うつむき、膝の上で握りしめたハンカチを見つめていた。

「秀一様なんですが、今修行で山にこもっていらっしゃって……私も会っていないんです……本当なら、彼からのお見舞いもお持ちしたかったんですけれど……それから……」

 本当なら、信乃が待っているのは、お見舞いの品などではなく、彼自身の姿だろう。
 そう思うと言葉が出てこなくなる。
 沈黙を埋めるように、風の唸りが聞こえた。
 信乃は窓の方向へ顔を向け、風を受けてざわざわと揺れる並木を見ているようだった。

「露さん」
「……はい」
「父からも、それから翔からも聞いてます。彼のこと」

 信乃が窓の外から視線を外し、露を振り返った。頬がこけ、鋭い印象だった顔がふわりと柔らかくなる。

「翔は、ちょうど僕が目を覚ました時にこの病室にいてくれました。彼の持つ予感が働いたのでしょう。僕が目を覚ます少し前に、ふらりと病院に現れたそうです。それで、翔も秀一も九十九学園には入学できないけれど、私にはきっと入学するようにと……そう言ってました」
「翔さんも?」

 初耳の情報に、露の声が大きくなる。

「はい。天羽はもともと人里に降り、多数の中で暮らすことが苦手な種族です。内覧会に来てみて、やはり自分には学校というのは合わないみたいだと言ってました」
「そう、でも信乃ちゃんには入学しろって?」
「はい。おそらく秀一が側にいられるようになるまでは、あそこが一番安全だろうからと……」
「まあ……」
「それから、秀一のこともちゃんと聞きました」
「翔さん……なんて?」

 信乃は何かを思い出したのだろう。笑いを堪えるように、そっと口元を手で押さえた。

「事実をそのまま。秀一が、しばらく僕には会わないと言っているって。それで、そう言ってから翔が言ったんです。あいつがお前に会わないのは、怖いからとか、面倒くさいからとかじゃないぞ……って」

 そしてやはり、堪えきれないようにくすりと笑う。    
 信乃の笑顔が眩しくて、露は目を細めた。

「信乃さん」

 背中を伸ばし、露は居住まいを正した。

「二年。秀就は秀一に猶予を二年与えました。どうか、二年彼に時間をください。彼を待っていてやって下さい」

 そう言って、頭を下げる。

「はい。承知いたしました」

 そう言った信乃は、窓から差し込む薄っすらと仄暗い光の中にいた。

『僕、いやだからね! 秀一と一緒にいるんだからね! 会えなくなるなんて、絶対イヤだからね!』

 露の脳裏に、初めて大神の家に泊まった時の、幼い信乃の泣き顔が思い浮かぶ。
 あの女の子が、今は笑顔で彼の帰りを待つと言う。
 なんてしなやかな女性に育ったのだろう。
 秀一も、信乃も、そして翔も、三人が子ども時代の最後の縁に立って、今そこから飛び出して行こうとしているのだった。

    
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