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deadlock3 暁闇

「あ、びっくりさせちゃいましたか? すいません。おはようございまーす」

 露のすぐ左隣で、壁に背を預けて今にも飲もうとしていたかのように水筒を両手で持ち上げた少年が、満面の笑みを浮かべてこちらを見上げている。

「新太くん……」
「どうしたんですかぁ? こんな朝早くに露さんが道場に来るなんて、珍しいですねえ!」

 犬神新太。

 この少し甘えたようなしゃべり方をする、やたらに明るい笑顔の少年は、九十九学園内覧会での混乱の中、学園建設反対派から九十九学園側へ寝返ってきた少年だ。
 新太と共に、彼の父親である犬神史郎と、母親である犬神サラも、学園側の一員となった。
 彼らが狼の一族を離れた経緯は複雑で、犬神家よりも大神家に多くの関わりがあるために、今この三人は大神家預かりという処分になっている。
 特に犬神サラの立ち位置は微妙なものがある。
 今は犬神サラと名乗っているが、以前は大神サラという名前だった。
 彼女はフランスのルー・ガルーの一族から、日仏の友好のためにやってきた秀就の花嫁だったのだ。彼女と秀就はわずかな期間とはいえ夫婦であり、二人の間には秀一という子どもが生まれている。
 つまり、新太少年は秀一の異父兄弟ということになる。

 あの内覧会の行われた日。
    
 子どもたちは昼を過ぎても学内食堂へ姿を現さなかった。露も秀就も……天羽や安倍泰造もそれぞれに忙しかったこともあり、さして気にはしていなかった。どこかで、時間を確認することも忘れて遊んでいるのだろう。そのくらいの認識だったのだ。
 ところが、あれほど明るかった空が曇り始め、雷鳴までとどろき始めても秀一たち三人は戻らなかった。
 大人たちがようやくなにかただならぬ事態が起きているのではないか? と考え始めた時、天羽翔がたった一人で学園に戻ってきた。
 そこでもたらされた情報に、学園の役員たちは、軽くパニックに陥った。
 学園建設反対派の出現。異界渡りと呼ばれる能力を持つ信乃の拉致。しかも秀一はたった一人で信乃を追いかけていったという。
 露は心の奥底に、最悪な事態を予感した。
 すぐにも動きたいのに、情報が少なすぎて、動くに動けない。そんな中、九十九学園に現れたのが犬神サラだった。

「大神秀一の居場所、知ってます!」

 驚く秀就たちに開口一番そう言うと、自分について来いと言う。

「君のことは覚えている。サラ・ド・サヴォワだったかな?」

 落ち着いた口調で言ったのは初代校長への就任が決まっていた九鬼勝治だ。

「クキね……私もアナタ覚えてる。でも、秀一ピンチなの。昔を懐かしんでいるヒマは、ないわ」

 外国人特有の訛りはあるものの、サラの日本語は昔に比べれば格段にうまくなっていた。
 突然現れたさらに驚きつつも、役員たちはサラの言葉を信じる他の手段を持ち合わせていなかった。
 そして、駆けつけた廃墟の前で、三匹の狼と信乃を見つけたのだった。

 ◇

「新太くん、秀一さんは……」
「ああ、兄さんを探しに来たんですか!?」

 露は座ったままでいいのよとジェスチャーで伝えたのだが、新太は元気にぴょこんと立ち上がる。今年十歳になったという新太は、その年としては背が高いのだろうが、まだまだ子どもらしい体つきだ。
 
「残念です! さっきまでいたんですけど、まだ暗いうちに父さんと一緒に裏の山に行っちゃいました。しばらく帰って来ないと思います!」
「しばらく?」
「はい! テントも持っていったから、数日山ごもりですね」
「そう……なの」

 秀一に信乃のことを早く伝えたい。もしかしたら秀一も信乃の見舞いに行くといい出すのではないか? そうでなくても、ようやく目を覚ました信乃に伝言の一つくらい携えて行きたい、そう思っていた露は、平静を装いながらも、ついつい肩を落としてしまう。

「ツユ!」

 普通とは違うイントネーションで名を呼ばれてツユが振り返ると、金髪碧眼の女性が袴姿で立っていた。

「サラ……さま」

 露は思わず一歩後ろに下がった。

    
「ツユ……ワタシ、もう、あなたの主じゃない。様、いりません」

 決してうまくはないが、聞き取りやすい日本語だ。
 犬神サラ。
 秀一と新太の実母だ。
 露は日本に来てすぐの、右も左も分からなかったサラの世話をしていた事がある。記憶の中のたどたどしい日本語から比べれば、ずいぶんと上達した。あの頃は、サラの気持ちを汲み取るのに、かなりの努力が必要だった。
 史郎とサラと新太。この三人を受け入れることに、大神の一族全員が諸手を挙げて賛成だったわけではない。
 まだ乳飲み子だった秀一を置いて家を出たサラと、彼女と共に姿を消した犬神史郎に対して、大神一族の者は一言では言い表せないような感情を持っている。
 そのうえ彼らは、九十九学園と敵対する組織にこれまで組してきたのだ。
 気持ちよく迎え入れろという方が難しい。
 しかし秀就は『今回の事件に於いて、史郎たち一家が秀一を危機から救ってくれた』ことを皆に説明し、一族を納得させた。
 一族だけではない。学園設立派のそれぞれの妖たちにも、理解をしてもらうために、彼は短期間に日本全国を奔走した。
    
 その結果大神家預かりとなった彼らは、それ以来大神の結界の中の一軒家を与えられ、道場で毎日稽古をしている。彼らは三人とも武道に秀でており、彼らに稽古をつけて貰いたがるものも、近頃ではポロポロと出て来ていた。

「ツユ。会いたかった……。元気だった?」

 露がサラと二人きりで顔を合わせるのは、あの事件以来のことだ。

「……はい。もっと早くに会いに来たかったのですが……忙しくて……」

 そんな言い訳をする自分を、露は苦々しく思う。
 忙しいのは間違いない。けれども、サラに一度も会いに来ることができないほどではない。
 秀一の母であり、秀就の妻であったサラへのわだかまり。
 もやもやと心の奥でざわめくこの気持ちを持て余し、どうしたら良いのかわからなかったのだ。
 秀就も秀一も、サラが共に暮らすようになったというのに、何も変わったことなどないように見えた。露は秀一のあまりの変化の無さに驚いた。
 過去にこだわっているのは、自分ばかりだと、取り残されたような気持になったりもする。

「ねえサラ! 露さんに聞かないの?」

 新太が露の背後から半身を乗り出して、サラの顔を覗き込んでいた。この少年は、自分の母親のことを『サラ』と名前で呼ぶらしい。
 目をキラキラと輝かせた新太の表情を見たサラは、露の背後から顔を突き出す新太を睨みつけ、ちっと小さく舌打ちをした。
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