deadlock3 暁闇
「いえ……、あの緊急事態ではないのですけど、少しでも早くお伝えしたくて……お部屋にいてくださって、助かりました」
露が慌てて伝えると秀就はホッとした様子で、それまで座っていた回転椅子に、深く腰を下ろした。
「今しがた、安倍様からお電話がありました。信乃ちゃんの意識が戻ったそうです」
「そうか……! それは良かった」
秀就の表情が和らぐ。
一族の長である秀就は、滅多なことでその心情を表に出すことはない。特に一族の者の前では、微笑を浮かべることすら稀である。
そんな秀就の見せた小さな表情の変化に、思わず露も微笑み返しそうになり、とっさに頬を引き締める。
「お見舞いは如何なさいますか?」
努めて事務的な声を出した。
「そうだな……。露が行ってやってくれないか? 信乃ちゃんも、私が行くよりそのほうが嬉しいだろうし。お見舞いの品も、私より露のほうが信乃ちゃんの喜びそうなものを選べるんじゃないかな?」
「それはもちろん、かまわないのですが」
そこで露は少しだけ間を置いた。
「秀一さんのことも、私から話してしまってよろしいのでしょうか?」
露の言葉に、秀就はわずかに眉尻を下げた。
「お願いしてもいいかな……。泰造には一応伝えてあるんだ」
「わかりました」
そう答えながらも、露はそっとため息をつく。
廃墟から帰ってきた秀一は、暫くの間片時も離れずに信乃に付き添っていた。
これでは秀一も倒れてしまうのではないかと、皆が心配し始めた頃、秀一は大神の家に戻ってきた。
そして、それまでの反抗的な態度から一変し、勉学や武道の稽古に、朝から晩まで没頭するようになった。
あれほど避けていた秀就にも頭を下げ、稽古をつけてもらっている。
一安心だと思っていたのも、束の間だった。
今の自分には力が足りていない。まだまだ大神で学ばなければいけないことがたくさんある。九十九学園には入学しない。信乃の保護者としての契約も、暫くは保留にするし、自信がつくまでは、信乃にも会わない。
そう言いだした時には、露も秀就も慌てた。
秀就は九十九学園の理事である。
他ならぬ理事の息子が学園に入学しないというのでは、示しがつかない。なにしろ「なるべく学園に入学するように」と、皆に宣伝している立場なのだ。
いくら話し合っても、説得しても、秀一の決意は揺らがなかった。
秀就はしばし考えあぐねた後で、言った。
「二年だ。二年猶予をやる。高校入学に合わせて九十九学園に入学すること。それ以上の譲歩はない!」
言い渡された言葉に、秀一は深々と頭を下げた。
あの廃墟の中で何があったのかはわからない。けれども、よほど考えることがあったのだろう。
秀一が成長しようとしている。それはわかってやりたい。しかし。
「信乃ちゃんに、なんて言ったらいいのかしら……」
思わず呟いた。
返事を期待していたわけではなかったのだが、秀就は露を振り返ると「これは、先代に聞いた話なんだが……」と、唐突に語りだした。
「女というのは、生まれたときから女なのだが、男というのは、男になるのだそうだ」
露は、今ひとつ秀就の言葉を理解できなくて、ぱちぱちと瞬きをした。
「秀一は今、子どもから大人の男になろうと、蛹の中で必死にもがいているところなんだろう。はたから見ると、それに何の意味があるのかわからないだろうが……。彼の中では意味のあることで、大きな変化が起きてるわけだ」
「はあ……」
「鷹揚に構えていればいいのさ。私にも、覚えがある。秀一のこだわりを、意味のないものだと一蹴することは簡単だが、彼の中の葛藤は、彼が大人になるために大切なプロセスなんじゃないかと思う。だから待っていてくれと、伝えてくれないか。信乃ちゃんのフォローを任せてしまってすまない」
「わかりました。信乃ちゃんのことは、ええ、私も心配ですから……」
露は主に向かって一礼した。
秀就の言葉を全て理解できたわけではないのだが、秀一が大人になろうともがいているというのは、確かなのだと思う。それを秀就が見守ろうと決めたのなら、露もそれに従うほかはない。
「早いほうがいいでしょう。私は今日にも安倍様のお宅へ行ってまいります。あと、出かける前に、秀一様にも、信乃ちゃんが意識を取り戻したことをお知らせしてまいりますね」
「頼んだ」
露は、秀就の部屋を辞すると、身につけていた割烹着を脱ぐ。
木目の美しい廊下には、東雲色の光がすうっと差し込んでいた。
群青の底から、夜が明けようとしていた。
露は掃除を担当していた者を一人捕まえて、キッチンで梨花の手伝いをするように指示を出すと、自分自身は大神の結界内にある道場へと向かった。
大神の家は、大山津見神社の裏にあり、周辺には強力な結界が常に張り巡らされている。その範囲はかなり広く、神社裏の大鳥居から、家屋敷はもちろん、裏山の一部にまで及ぶ。
道場周辺も、結界内であり、大神家北西部に広がる木々の生い茂る林の中に位置していた。更にその背後には男岳と女岳という二つの頂を持つ霊山・多々良山があり、その山自体が、狼の一族の修練場でもあるのだった。
こじんまりとした道場ではあるが、大神家のものなら自由に使用することができ、毎日誰かしらかが利用している。
また、道場の周辺の林の中には小さな平屋の家が数棟点在しており、大神の一族の住まう集落になっている。
山を降り、人間の中に紛れ暮らす者も増えているために、空き家も増えている。
あたりはすでに明るかったが、木立のなかに入ると霧が立ち込めていて、露の着ている木綿の着物をしっとりと濡らした。
空気の冷たい。露は指をこすり合わた指先にほうっと息を吹きかけた。
この時期、天気の良い日ほど、朝は霧が発生しやすくなる。きっとこの、仄かに白い靄の向こうには青空が待っているのだろうが、今はまだ周囲には夜のにおいが漂っていた。
木立の合間から小さな道場が見え始める。
「やあっ!」
「きえーーっ!」
勇ましい掛け声が、道場の入り口の露にまで聞こえてきた。
ガラガラと扉を開け、三和土 に草履を脱ぐ。
玄関ホールから道場へ入るための入り口は開いたままになっていて、中の様子が直ぐに露の目に飛び込んできた。
奥の二面に敷かれた畳の上では、空手の組手や柔道の乱取り、手前のフローリング部分では、竹刀や木刀を持った者たちが素振りなどを行っている。
開いた扉の前で露は背筋を伸ばし、一礼をした。
「露さぁん!」
とたんに、少し間延びした可愛らしい声が聞こえ、露は不覚にも「ひゃ!」と、変な声を立てて飛び上がってしまった。
露が慌てて伝えると秀就はホッとした様子で、それまで座っていた回転椅子に、深く腰を下ろした。
「今しがた、安倍様からお電話がありました。信乃ちゃんの意識が戻ったそうです」
「そうか……! それは良かった」
秀就の表情が和らぐ。
一族の長である秀就は、滅多なことでその心情を表に出すことはない。特に一族の者の前では、微笑を浮かべることすら稀である。
そんな秀就の見せた小さな表情の変化に、思わず露も微笑み返しそうになり、とっさに頬を引き締める。
「お見舞いは如何なさいますか?」
努めて事務的な声を出した。
「そうだな……。露が行ってやってくれないか? 信乃ちゃんも、私が行くよりそのほうが嬉しいだろうし。お見舞いの品も、私より露のほうが信乃ちゃんの喜びそうなものを選べるんじゃないかな?」
「それはもちろん、かまわないのですが」
そこで露は少しだけ間を置いた。
「秀一さんのことも、私から話してしまってよろしいのでしょうか?」
露の言葉に、秀就はわずかに眉尻を下げた。
「お願いしてもいいかな……。泰造には一応伝えてあるんだ」
「わかりました」
そう答えながらも、露はそっとため息をつく。
廃墟から帰ってきた秀一は、暫くの間片時も離れずに信乃に付き添っていた。
これでは秀一も倒れてしまうのではないかと、皆が心配し始めた頃、秀一は大神の家に戻ってきた。
そして、それまでの反抗的な態度から一変し、勉学や武道の稽古に、朝から晩まで没頭するようになった。
あれほど避けていた秀就にも頭を下げ、稽古をつけてもらっている。
一安心だと思っていたのも、束の間だった。
今の自分には力が足りていない。まだまだ大神で学ばなければいけないことがたくさんある。九十九学園には入学しない。信乃の保護者としての契約も、暫くは保留にするし、自信がつくまでは、信乃にも会わない。
そう言いだした時には、露も秀就も慌てた。
秀就は九十九学園の理事である。
他ならぬ理事の息子が学園に入学しないというのでは、示しがつかない。なにしろ「なるべく学園に入学するように」と、皆に宣伝している立場なのだ。
いくら話し合っても、説得しても、秀一の決意は揺らがなかった。
秀就はしばし考えあぐねた後で、言った。
「二年だ。二年猶予をやる。高校入学に合わせて九十九学園に入学すること。それ以上の譲歩はない!」
言い渡された言葉に、秀一は深々と頭を下げた。
あの廃墟の中で何があったのかはわからない。けれども、よほど考えることがあったのだろう。
秀一が成長しようとしている。それはわかってやりたい。しかし。
「信乃ちゃんに、なんて言ったらいいのかしら……」
思わず呟いた。
返事を期待していたわけではなかったのだが、秀就は露を振り返ると「これは、先代に聞いた話なんだが……」と、唐突に語りだした。
「女というのは、生まれたときから女なのだが、男というのは、男になるのだそうだ」
露は、今ひとつ秀就の言葉を理解できなくて、ぱちぱちと瞬きをした。
「秀一は今、子どもから大人の男になろうと、蛹の中で必死にもがいているところなんだろう。はたから見ると、それに何の意味があるのかわからないだろうが……。彼の中では意味のあることで、大きな変化が起きてるわけだ」
「はあ……」
「鷹揚に構えていればいいのさ。私にも、覚えがある。秀一のこだわりを、意味のないものだと一蹴することは簡単だが、彼の中の葛藤は、彼が大人になるために大切なプロセスなんじゃないかと思う。だから待っていてくれと、伝えてくれないか。信乃ちゃんのフォローを任せてしまってすまない」
「わかりました。信乃ちゃんのことは、ええ、私も心配ですから……」
露は主に向かって一礼した。
秀就の言葉を全て理解できたわけではないのだが、秀一が大人になろうともがいているというのは、確かなのだと思う。それを秀就が見守ろうと決めたのなら、露もそれに従うほかはない。
「早いほうがいいでしょう。私は今日にも安倍様のお宅へ行ってまいります。あと、出かける前に、秀一様にも、信乃ちゃんが意識を取り戻したことをお知らせしてまいりますね」
「頼んだ」
露は、秀就の部屋を辞すると、身につけていた割烹着を脱ぐ。
木目の美しい廊下には、東雲色の光がすうっと差し込んでいた。
群青の底から、夜が明けようとしていた。
露は掃除を担当していた者を一人捕まえて、キッチンで梨花の手伝いをするように指示を出すと、自分自身は大神の結界内にある道場へと向かった。
大神の家は、大山津見神社の裏にあり、周辺には強力な結界が常に張り巡らされている。その範囲はかなり広く、神社裏の大鳥居から、家屋敷はもちろん、裏山の一部にまで及ぶ。
道場周辺も、結界内であり、大神家北西部に広がる木々の生い茂る林の中に位置していた。更にその背後には男岳と女岳という二つの頂を持つ霊山・多々良山があり、その山自体が、狼の一族の修練場でもあるのだった。
こじんまりとした道場ではあるが、大神家のものなら自由に使用することができ、毎日誰かしらかが利用している。
また、道場の周辺の林の中には小さな平屋の家が数棟点在しており、大神の一族の住まう集落になっている。
山を降り、人間の中に紛れ暮らす者も増えているために、空き家も増えている。
あたりはすでに明るかったが、木立のなかに入ると霧が立ち込めていて、露の着ている木綿の着物をしっとりと濡らした。
空気の冷たい。露は指をこすり合わた指先にほうっと息を吹きかけた。
この時期、天気の良い日ほど、朝は霧が発生しやすくなる。きっとこの、仄かに白い靄の向こうには青空が待っているのだろうが、今はまだ周囲には夜のにおいが漂っていた。
木立の合間から小さな道場が見え始める。
「やあっ!」
「きえーーっ!」
勇ましい掛け声が、道場の入り口の露にまで聞こえてきた。
ガラガラと扉を開け、
玄関ホールから道場へ入るための入り口は開いたままになっていて、中の様子が直ぐに露の目に飛び込んできた。
奥の二面に敷かれた畳の上では、空手の組手や柔道の乱取り、手前のフローリング部分では、竹刀や木刀を持った者たちが素振りなどを行っている。
開いた扉の前で露は背筋を伸ばし、一礼をした。
「露さぁん!」
とたんに、少し間延びした可愛らしい声が聞こえ、露は不覚にも「ひゃ!」と、変な声を立てて飛び上がってしまった。