deadlock2 試練
上の階の方から「がんばってねー」という弓弦のくぐもった声が、小さく響いて聞こえた。
そして……。
廊下の奥の、地下室の方向から、金色の淡い光が近づいてくる。今まではっきりとしていた地下の廊下や壁がうっすらとかすみ始めた。
「そうだ! 輝ける者、その黒い化物を……虚無を全部飲み込んで異界に連れ戻せ!」
信乃が拳を握りしめて叫んでいる。
どんどん薄くなっていく現実の世界の映像。それと入れ替わるように濃くなっていくのは、今まで見たこともない景色だ。
まるで異界に現実が飲み込まれていくような感覚。
異界渡り。
異界に渡って帰れなくなった者たち。
そんな噂話と、未知の感覚への恐怖が秀一を襲う。
――怖くなんかない!
そう、自分に言い聞かせる。
金の巨大な、平べったい楕円形をした何かが、近づいてくる。
虚無たちが、不規則に右に左へと動き始めた。今まではじわじわとだが、確実に秀一たちの方へと向かってきていた虚無が、どちらの方角へ行ってらいいのか、戸惑っているような動きを見せ始めている。
地の底から近づいくる金の鯨は、背中にそれ自体がほのかに発光する草のような触手をびっしりと生やしている。
見つめる先で、楕円の先端がぱっくりと開いた。
口のようなものなのかもしれない。が、あまりにも巨大で、口という感じがしない。
「うそだろ……」
秀一は痛みも、焦りも、恐怖も……すっかり忘れて呟いていた。
すでに廊下と地下室を隔てていた壁すら見えなくなっている。今この空間は、現実よりも異界に近いものになっているのかも知れない。
ひとかたまりになって、押し合いへし合い右往左往している虚無の群れ。黒い大地の中を、まるで泳ぐように近づいてくる巨大な魔物が、透けて見えている。
「信乃逃げろ! こんなのに飲み込まれたら……!」
秀一の声が聞こえないのか、信乃は陶然として、地のそこから浮上してくる魔物を見つめている。
二匹の狼は虚無へ向かって唸りをあげてはいたが、ジリジリと上階へ向かう階段の方へと後退し始めていた。
金の勇魚は浮上し、口とおぼしい空間の中に虚無を飲み込み始める。あまりに近づきすぎているために、もう輝ける者の全体の形を、秀一は見て取ることができなかった。
奥の方から飲み込まれていく虚無と、虚無を飲み込みながらこちらに近づいてくる金の大きな口を、秀一は眺めていた。その光景は、まるでスローモーションのようだった。
虚無を腹の中に収め、最奥にいた秀一を捉えている虚無を飲み込もうとしたところで、信乃の叫びが響く。
「ソイツは飲み込んじゃ、ダメだ!」
信乃の第三の目が、輝けるモノをギロリと睨んでいた。
叱られたのだと認識しただろうか、輝けるものは少し下の方に潜った。
異界は映像として重なっているけれど、足元には現実の廊下の感触もまだ残っている。
その下に、金色に光る草原がじわりと広がっているように見える。
「あんたら! 信乃を連れて逃げろ!」
秀一は階段の下でしっぽを下げてうろうろしている二匹の狼に向けて言った。
秀一の声を理解したのだろう。一度動きを止めた灰色の狼が、信乃めがけて走り寄ってくる。
信乃だけでも、助けてくれ!
祈るような気持ちだった。
けれど信乃は、自分に向かってくる狼に向かって「くるな!」と一喝する。
そしてあろうことか、虚無に飲み込まれている秀一へ向かって走りだした。躊躇なく虚無に近づき、手を伸ばしてくる。
何をしようとしている?
信乃は何故逃げない?
「ずっと一緒だって、言った! 秀一が虚無に飲み込まれて死ぬなら、僕も一緒だから!」
伸ばされた信乃の指先が、虚無に触れる。
信乃も、飲み込まれてしまう。
信乃の踏み出した足が、ずぶずぶと虚無の中に沈み込んでいく。
「やめろぉ!」
秀一の中で何かが大きく弾けた。
自分は守護者である。信乃を守ること。それが自分の役目なのだ。自分のために信乃が傷つくなんて、許されるわけがない。
変化は、あまりにも一瞬のことだった。
かつて経験した、身体の奥底からふつふつと何かが湧き上がるような感覚も、二度目の今となっては、それほどの不快感を感じなかった。メキメキという自分自身の身体が作り変えられていく音も、あまりに一瞬のことで、気がつけば秀一は狼の姿にかわり、虚無の中から踊りだしていた。
信乃のガラス玉のような二つの瞳と、真っ赤に輝く一つの瞳が、飛び上がる秀一を見つめている。
――信乃!
狼族ではない信乃に、変化してしまった秀一の声は届かないはずなのに、信乃はまるでその声を聞いたかのように両手を大きく開くと、狼の姿となった秀一の首にしがみついた。
妖気を乗せた足で、虚無を蹴りつけ、大きく跳ね上がり、虚無の中からすっかり抜け出した秀一は信乃をその身体に張り付かせたまま、全力で駆けた。
秀一の首元で信乃の声がする。
「輝ける者、虚無を残らず連れて……行け!」
下の方に沈んでいた輝けるものは、信乃の声にすばやく反応する。地の底から浮上すると、最後に一匹残っていた虚無を吸い込み、再びズブズブと地下に潜っていった。
真っ暗な地底の国に、どんどん遠のいていく金の光。それとともに、地下室に重なっていた異界の景色自体が遠のいていく。
後にはただ闘いの残骸が、今度こそ本当の静寂に包まれた地下の空間に、投げ出されたままになっていた。
そして……。
廊下の奥の、地下室の方向から、金色の淡い光が近づいてくる。今まではっきりとしていた地下の廊下や壁がうっすらとかすみ始めた。
「そうだ! 輝ける者、その黒い化物を……虚無を全部飲み込んで異界に連れ戻せ!」
信乃が拳を握りしめて叫んでいる。
どんどん薄くなっていく現実の世界の映像。それと入れ替わるように濃くなっていくのは、今まで見たこともない景色だ。
まるで異界に現実が飲み込まれていくような感覚。
異界渡り。
異界に渡って帰れなくなった者たち。
そんな噂話と、未知の感覚への恐怖が秀一を襲う。
――怖くなんかない!
そう、自分に言い聞かせる。
金の巨大な、平べったい楕円形をした何かが、近づいてくる。
虚無たちが、不規則に右に左へと動き始めた。今まではじわじわとだが、確実に秀一たちの方へと向かってきていた虚無が、どちらの方角へ行ってらいいのか、戸惑っているような動きを見せ始めている。
地の底から近づいくる金の鯨は、背中にそれ自体がほのかに発光する草のような触手をびっしりと生やしている。
見つめる先で、楕円の先端がぱっくりと開いた。
口のようなものなのかもしれない。が、あまりにも巨大で、口という感じがしない。
「うそだろ……」
秀一は痛みも、焦りも、恐怖も……すっかり忘れて呟いていた。
すでに廊下と地下室を隔てていた壁すら見えなくなっている。今この空間は、現実よりも異界に近いものになっているのかも知れない。
ひとかたまりになって、押し合いへし合い右往左往している虚無の群れ。黒い大地の中を、まるで泳ぐように近づいてくる巨大な魔物が、透けて見えている。
「信乃逃げろ! こんなのに飲み込まれたら……!」
秀一の声が聞こえないのか、信乃は陶然として、地のそこから浮上してくる魔物を見つめている。
二匹の狼は虚無へ向かって唸りをあげてはいたが、ジリジリと上階へ向かう階段の方へと後退し始めていた。
金の勇魚は浮上し、口とおぼしい空間の中に虚無を飲み込み始める。あまりに近づきすぎているために、もう輝ける者の全体の形を、秀一は見て取ることができなかった。
奥の方から飲み込まれていく虚無と、虚無を飲み込みながらこちらに近づいてくる金の大きな口を、秀一は眺めていた。その光景は、まるでスローモーションのようだった。
虚無を腹の中に収め、最奥にいた秀一を捉えている虚無を飲み込もうとしたところで、信乃の叫びが響く。
「ソイツは飲み込んじゃ、ダメだ!」
信乃の第三の目が、輝けるモノをギロリと睨んでいた。
叱られたのだと認識しただろうか、輝けるものは少し下の方に潜った。
異界は映像として重なっているけれど、足元には現実の廊下の感触もまだ残っている。
その下に、金色に光る草原がじわりと広がっているように見える。
「あんたら! 信乃を連れて逃げろ!」
秀一は階段の下でしっぽを下げてうろうろしている二匹の狼に向けて言った。
秀一の声を理解したのだろう。一度動きを止めた灰色の狼が、信乃めがけて走り寄ってくる。
信乃だけでも、助けてくれ!
祈るような気持ちだった。
けれど信乃は、自分に向かってくる狼に向かって「くるな!」と一喝する。
そしてあろうことか、虚無に飲み込まれている秀一へ向かって走りだした。躊躇なく虚無に近づき、手を伸ばしてくる。
何をしようとしている?
信乃は何故逃げない?
「ずっと一緒だって、言った! 秀一が虚無に飲み込まれて死ぬなら、僕も一緒だから!」
伸ばされた信乃の指先が、虚無に触れる。
信乃も、飲み込まれてしまう。
信乃の踏み出した足が、ずぶずぶと虚無の中に沈み込んでいく。
「やめろぉ!」
秀一の中で何かが大きく弾けた。
自分は守護者である。信乃を守ること。それが自分の役目なのだ。自分のために信乃が傷つくなんて、許されるわけがない。
変化は、あまりにも一瞬のことだった。
かつて経験した、身体の奥底からふつふつと何かが湧き上がるような感覚も、二度目の今となっては、それほどの不快感を感じなかった。メキメキという自分自身の身体が作り変えられていく音も、あまりに一瞬のことで、気がつけば秀一は狼の姿にかわり、虚無の中から踊りだしていた。
信乃のガラス玉のような二つの瞳と、真っ赤に輝く一つの瞳が、飛び上がる秀一を見つめている。
――信乃!
狼族ではない信乃に、変化してしまった秀一の声は届かないはずなのに、信乃はまるでその声を聞いたかのように両手を大きく開くと、狼の姿となった秀一の首にしがみついた。
妖気を乗せた足で、虚無を蹴りつけ、大きく跳ね上がり、虚無の中からすっかり抜け出した秀一は信乃をその身体に張り付かせたまま、全力で駆けた。
秀一の首元で信乃の声がする。
「輝ける者、虚無を残らず連れて……行け!」
下の方に沈んでいた輝けるものは、信乃の声にすばやく反応する。地の底から浮上すると、最後に一匹残っていた虚無を吸い込み、再びズブズブと地下に潜っていった。
真っ暗な地底の国に、どんどん遠のいていく金の光。それとともに、地下室に重なっていた異界の景色自体が遠のいていく。
後にはただ闘いの残骸が、今度こそ本当の静寂に包まれた地下の空間に、投げ出されたままになっていた。