deadlock2 試練
秀一は腕を振り、周りの空を掻きながら、倒れそうになる体制をなんとか立て直した。
「しゅういち!」
信乃が名を叫びながら、秀一に手を伸ばし駆け寄ろうとたが、近くにいた弓弦が信乃の身体をしっかりと抱きとめ、阻止している。
「信乃! 来るな! 俺ならなんとかするから……逃げないと!」
反射的になんとかすると言ったものの、秀一の頭の中に妙案などない。
秀一の足は、地下室から染み出した粘液のようなものに絡め取られ、動くことができない。しかし、あの黒いアイスクリームのような本体は、まだ地下室から姿を現してはいない。
モウセンゴケに捕まった虫になったような気分だ。簡単に逃れられそうに見えるのに、全く動けなくなり、焦りばかりが深くなっていく。
「来るなあ!」
信乃の叫びに秀一が振り向くと、秀一の背後では、地下室の入り口からどす黒い小山が少しずつその姿を表し始めていた。
先程まではただ炭を溶かし込んだ黒っぽいスライムの塊のようだった虚無は今、その身の中に千切れた犬の残骸を閉じ込めている。
秀一は思わず、果物がごろっと入ったゼリーを思い浮かべてしまった。
黒かった虚無は、今では赤黒く染まって見える。
「異界の扉を閉じる! お前、力を貸せ!」
信乃が自分を抱きとめている弓弦に向かって叫んだ。その途端、信乃の額が明るい朱色に輝き始める。
しかし弓弦は首を立てには振らなかった。
「信乃ちゃん、落ち着いて? 今更異界の扉を閉じても……」
その間にも、くるぶしが浸るくらいだった虚無の粘液は、秀一のふくらはぎを包み込み始めている。
秀一は足をあげようとしたり、身体を捻ったりするのだが、一ミリも動かすことができない。
「弓弦様、ここにいては危険です」
御先が声をかけたが、弓弦は「少しだけ待て」と指示を出した。
御先は虚無に神経を向けたまま、弓弦の背後に回る。
「秀一くん!」
史郎と、新太という名の少年は、近づけるギリギリのところまでやってきて、秀一に声をかけてきた。
「変身するんだ! 人間の姿のままでは飲まれるぞ!」
「はやく!」
「そんなこと言ったって……!」
確かに、狼の姿になれば人間の姿でいる時の何倍もの力が出せる。
力だけではなく、瞬発力も、妖力も、人間でいるときの比ではない。力に、己の妖力を乗せることで、この呪縛から逃れることも可能かもしれない。虚無からははっきりと妖気を感じることができる。だから、こちらにそれを上回る妖気があればいいのだ。絶対とは言い切れないだろうが、賭けてみる価値はある。
けれど……秀一が狼の姿になったのは、信乃と出会ったあの晩一度きりなのだった。
実のところ、秀一はいまだに自分自身の意思で変身をしたことがない。
普通の狼族なら、十を超えたあたりで少しずつ自らの意思での変身を体験するものだ。
普通より、ずいぶん遅い。
そんなことはわかっている。
けれど……。
自分の力が誰かを傷つけてしまうかもしれない。そんな思いが、秀一に変化することに対する恐れを抱かせた。
「兄さん! 何をしてるの! 早く!」
新太が焦ったように喚いている。
――兄さん?
ああ、やっぱりそうなんだ。
この非常時だというのに、秀一の頭の中は新太の発した言葉でいっぱいになってしまった。
サラという名前。
秀一の母親は、フランスから来たルーガルーの一族の娘で、名をサラと言った。
ある時父にそう教えられた。
秀一の知っている母親の情報はそれだけだった。
どうして自分の前からいなくなったのかすら、秀一は知らない。
一度だけ父に尋ねたことがある。その時秀就は
「父さんが至らなかったんだ。お前には苦労をかける」
と言った時の父の苦しそうな表情。
それでもう、秀一は母について父に尋ねることができなくなってしまった。
なにも知らず、知らされず……。
幼い頃から、みんなにかしずかれて、自分が一番だと思って育ってきたのに、何一つ自分できることなんて、ありはしない。そんな大切なことだって、誰も自分には教えてくれない。
力を使うことも出来ず、露と父を理解してやることもできなくて、本当の母親だって、自分を捨てて、こうして新しい家族を作っている。……信乃すら、守れない。
足元が、ぐずぐずと崩れていくような感覚だった。
虚無に蝕まれていく。そうして、無力になってしまう。
いや、はじめから無力だった。
自分が気づいていなかっただけ。
「早くしろ協力しろ! 異界を……閉じないと!」
信乃の声が聞こえた。
信乃が、秀一を助けようとしてくれているのだろう。
「聞いて信乃ちゃん? 今異界を閉じたら、秀一を助けられないよ。虚無はこちら側にもう渡ってきてしまっているからね。秀一を助けられないどころか、こっちの世界に虚無が何体も放たれることになるんだよ」
弓弦がいきり立つ信乃の肩を揺さぶっていた。
あいつも少しは慌てているのかな? なんて、他人事のように秀一は考えた。
「じゃあ……じゃあ……どうすれば……」
「呼び出すんだよ。虚無をも凌駕する魔物を。そいつに虚無を一掃させ、異界へ戻らせるんだ。できるかな?」
「ぼ……僕……が?」
「そうだよ信乃ちゃん。秀一を助けたければ、やり遂げないといけないよ。できるよ、君なら。僕の力も貸してあげる。特別だよ。そのかわり、いつか僕に力を貸して? 約束だからね」
信乃と弓弦が向かい、手のひら同士を重ねていた。ゆっくりと指が絡まり合っていくと同時に、二人の額が強く輝き始める。
「わかった。八尋弓弦。約束する」
信乃はゆっくりと、噛みしめるようにして、弓弦に言った。
その声を聞きながら、秀一は次第に足を這い登ってくる得も言われぬ感触に、ようやく我を取り戻していた。
じわじわと自分の足が朱殷色のゼリーの中に埋まっていく。
と同時に、足に激痛が走る。
ゆっくりゆっくり、次第に強くなっていく力。ぎゅーっと足に力が加えられていく感触。プルプルとゼリーのようでありながら、蹴散らそうとしてもまったくビクともしない。それどころか、秀一の足を押しつぶそうとしてきたり、ねじ切ろうとするように、じわーっといろいろな角度から力が加えられているのを感じる。
足を踏ん張ってその力に抵抗してみる。
全く動いていないというのに、秀一の額には玉の汗が浮かび上がり始めていた。
「くっ……は……!」
苦悶の声が漏れる。
「兄さん! 変身して!」
新太の声も、次第に大きくなっていた。
「僕のせいだ……僕の。秀一はあの日以来、一度も変身しないんだ……」
秀一の苦悶の声に、信乃の集中が途切れたのか、額の光がわずかに小さくなる。
「信乃ちゃん!」
譲が今まで聞いたこともないような大声で叫んでいた。
「集中して!」
「しゅういち!」
信乃が名を叫びながら、秀一に手を伸ばし駆け寄ろうとたが、近くにいた弓弦が信乃の身体をしっかりと抱きとめ、阻止している。
「信乃! 来るな! 俺ならなんとかするから……逃げないと!」
反射的になんとかすると言ったものの、秀一の頭の中に妙案などない。
秀一の足は、地下室から染み出した粘液のようなものに絡め取られ、動くことができない。しかし、あの黒いアイスクリームのような本体は、まだ地下室から姿を現してはいない。
モウセンゴケに捕まった虫になったような気分だ。簡単に逃れられそうに見えるのに、全く動けなくなり、焦りばかりが深くなっていく。
「来るなあ!」
信乃の叫びに秀一が振り向くと、秀一の背後では、地下室の入り口からどす黒い小山が少しずつその姿を表し始めていた。
先程まではただ炭を溶かし込んだ黒っぽいスライムの塊のようだった虚無は今、その身の中に千切れた犬の残骸を閉じ込めている。
秀一は思わず、果物がごろっと入ったゼリーを思い浮かべてしまった。
黒かった虚無は、今では赤黒く染まって見える。
「異界の扉を閉じる! お前、力を貸せ!」
信乃が自分を抱きとめている弓弦に向かって叫んだ。その途端、信乃の額が明るい朱色に輝き始める。
しかし弓弦は首を立てには振らなかった。
「信乃ちゃん、落ち着いて? 今更異界の扉を閉じても……」
その間にも、くるぶしが浸るくらいだった虚無の粘液は、秀一のふくらはぎを包み込み始めている。
秀一は足をあげようとしたり、身体を捻ったりするのだが、一ミリも動かすことができない。
「弓弦様、ここにいては危険です」
御先が声をかけたが、弓弦は「少しだけ待て」と指示を出した。
御先は虚無に神経を向けたまま、弓弦の背後に回る。
「秀一くん!」
史郎と、新太という名の少年は、近づけるギリギリのところまでやってきて、秀一に声をかけてきた。
「変身するんだ! 人間の姿のままでは飲まれるぞ!」
「はやく!」
「そんなこと言ったって……!」
確かに、狼の姿になれば人間の姿でいる時の何倍もの力が出せる。
力だけではなく、瞬発力も、妖力も、人間でいるときの比ではない。力に、己の妖力を乗せることで、この呪縛から逃れることも可能かもしれない。虚無からははっきりと妖気を感じることができる。だから、こちらにそれを上回る妖気があればいいのだ。絶対とは言い切れないだろうが、賭けてみる価値はある。
けれど……秀一が狼の姿になったのは、信乃と出会ったあの晩一度きりなのだった。
実のところ、秀一はいまだに自分自身の意思で変身をしたことがない。
普通の狼族なら、十を超えたあたりで少しずつ自らの意思での変身を体験するものだ。
普通より、ずいぶん遅い。
そんなことはわかっている。
けれど……。
自分の力が誰かを傷つけてしまうかもしれない。そんな思いが、秀一に変化することに対する恐れを抱かせた。
「兄さん! 何をしてるの! 早く!」
新太が焦ったように喚いている。
――兄さん?
ああ、やっぱりそうなんだ。
この非常時だというのに、秀一の頭の中は新太の発した言葉でいっぱいになってしまった。
サラという名前。
秀一の母親は、フランスから来たルーガルーの一族の娘で、名をサラと言った。
ある時父にそう教えられた。
秀一の知っている母親の情報はそれだけだった。
どうして自分の前からいなくなったのかすら、秀一は知らない。
一度だけ父に尋ねたことがある。その時秀就は
「父さんが至らなかったんだ。お前には苦労をかける」
と言った時の父の苦しそうな表情。
それでもう、秀一は母について父に尋ねることができなくなってしまった。
なにも知らず、知らされず……。
幼い頃から、みんなにかしずかれて、自分が一番だと思って育ってきたのに、何一つ自分できることなんて、ありはしない。そんな大切なことだって、誰も自分には教えてくれない。
力を使うことも出来ず、露と父を理解してやることもできなくて、本当の母親だって、自分を捨てて、こうして新しい家族を作っている。……信乃すら、守れない。
足元が、ぐずぐずと崩れていくような感覚だった。
虚無に蝕まれていく。そうして、無力になってしまう。
いや、はじめから無力だった。
自分が気づいていなかっただけ。
「早くしろ協力しろ! 異界を……閉じないと!」
信乃の声が聞こえた。
信乃が、秀一を助けようとしてくれているのだろう。
「聞いて信乃ちゃん? 今異界を閉じたら、秀一を助けられないよ。虚無はこちら側にもう渡ってきてしまっているからね。秀一を助けられないどころか、こっちの世界に虚無が何体も放たれることになるんだよ」
弓弦がいきり立つ信乃の肩を揺さぶっていた。
あいつも少しは慌てているのかな? なんて、他人事のように秀一は考えた。
「じゃあ……じゃあ……どうすれば……」
「呼び出すんだよ。虚無をも凌駕する魔物を。そいつに虚無を一掃させ、異界へ戻らせるんだ。できるかな?」
「ぼ……僕……が?」
「そうだよ信乃ちゃん。秀一を助けたければ、やり遂げないといけないよ。できるよ、君なら。僕の力も貸してあげる。特別だよ。そのかわり、いつか僕に力を貸して? 約束だからね」
信乃と弓弦が向かい、手のひら同士を重ねていた。ゆっくりと指が絡まり合っていくと同時に、二人の額が強く輝き始める。
「わかった。八尋弓弦。約束する」
信乃はゆっくりと、噛みしめるようにして、弓弦に言った。
その声を聞きながら、秀一は次第に足を這い登ってくる得も言われぬ感触に、ようやく我を取り戻していた。
じわじわと自分の足が朱殷色のゼリーの中に埋まっていく。
と同時に、足に激痛が走る。
ゆっくりゆっくり、次第に強くなっていく力。ぎゅーっと足に力が加えられていく感触。プルプルとゼリーのようでありながら、蹴散らそうとしてもまったくビクともしない。それどころか、秀一の足を押しつぶそうとしてきたり、ねじ切ろうとするように、じわーっといろいろな角度から力が加えられているのを感じる。
足を踏ん張ってその力に抵抗してみる。
全く動いていないというのに、秀一の額には玉の汗が浮かび上がり始めていた。
「くっ……は……!」
苦悶の声が漏れる。
「兄さん! 変身して!」
新太の声も、次第に大きくなっていた。
「僕のせいだ……僕の。秀一はあの日以来、一度も変身しないんだ……」
秀一の苦悶の声に、信乃の集中が途切れたのか、額の光がわずかに小さくなる。
「信乃ちゃん!」
譲が今まで聞いたこともないような大声で叫んでいた。
「集中して!」