deadlock2 試練
はやくも彼の唇には、微笑が戻ってきていた。
「なるほど、狼の”声”か。ならば彼が屋上ではなく地下に真っ直ぐに向かったことも、不思議ではない。あなたが誘導していたわけだ……犬神史郎。あなた、我々を……いえ、弓弦様を裏切ると? あなた、弓弦様が幼い頃からそばに仕え、我が子のように……我が子以上に共に過ごしてきたのではないでしょうか? そのあなたが?」
御先の目は、ただ真っ直ぐに犬神史郎に向かっていた。顔に微笑を張り付けたまま、目の奥には憤怒の炎がチラチラと燃えている。 秀一はちらりと弓弦へ目を向けたが、彼の顔には、怒りも、裏切られたことへの悲しみも見て取ることが出来なかった。ただ、興味津々に成り行きを見守っている、そんな表情だ。
チャンスである。
秀一は、少しずつ動き始めた。
少しずつ、少しずつ体を動かしながら、この危機を乗り切るにはどうしたらいいのか、必死に考えを巡らせる。
と、少し先に座り込んでいた信乃と目があった。
信乃はそれまで微動だにせずに固まっていたが、秀一と目が合うと、そろそろと秀一に向かって動き出そうとした。
「どれほどあなた、弓弦様に目をかけていただいていたか、わかっているのですか……?」
「感謝している」
史郎の答えを聞いた御先から、殺気が溢れ出て、思わず秀一と信乃は動きを止めた。
殺気を向けられた史郎は、飄々とそれ受け止め、眉一つ動かさない。
御先が動いた。
立ったままの姿勢から大きく跳躍し、史郎に向かって鋭い蹴りを繰り出す。
史郎はすうっと身体をずらした。風に揺れる柳のようなしなやかな動きだった。
史郎の背後にストっと降り立った御先が、振り向きざま構えた拳を史郎に向け繰り出す。
その時だった。
タタタタタタタタッ!
地下室に流れる緊張感を破るように、軽快な足音が、上階から降ってきた。
全員の視線が階段の上へと向かう。拳を繰り出していた御先の動きも止まった。
タンッ!
最後に勢いのある足音を響かせて、史郎と御先の間に男の子が一人、立っていた。
「おっまたせー! この建物にいた妖魔は全部縛り上げて屋上においてきたよ! 犬は皆、下の階に向かって走って行っちゃってさあ~!」
現れた少年は、この場の状況に全くそぐわない底抜けに明るい声で言った。
秀一よりも一回り小さい体。肌の色や彫りの深さにコーカソイドらしさがあるが、髪の色や瞳の色は日本人に近い暗い色合いで、全体的には秀一よりはモンゴロイドの特徴も併せ持っているように見える。多少外国人っぽい日本人。そんな感じの顔立ちをした少年だ。
「犬神新太。なぜ君がここにいる?」
御先に睨まれながら、新太少年は頬を指で掻きながら、えへへ、と笑った。
「今回の作戦はあなたとサラには知らせていなかったはずです。まあ、父親の史郎があなた方を組織に残したまま裏切るわけはありませんね。犬神秀一を助けて、逃げ出した狼族に受け入れてもらおうというわけですか?」
サラ。
その名前に、秀一ははっとして、目の前に降り立った少年をまじまじと見つめた。
「サ……ラ?」
呆然と呟く。
その名前を、秀一は知っている。
一度も見たことのない人だけれど。
写真すら見せられたことのない人だけれど。 名前だけは教えられていた。
『お前の母親の名前は、サラというのだ』
そう教えてくれたのは、父の秀成だった。
では、この犬神史郎という男と、犬神新太という少年は誰だ?
解けない問題を前にしたときのような苛立たしさと混乱が秀一を襲う。
脳細胞が、一斉に活動を休止してしまったようで、考えがまとまらない。いや、答えはもう出ているのに、感情が認めようとしていない。
「あったり~! 母さんは、この場所を九十九学園に伝えに走ったよ。だから、もうすぐ学園側の応援がここにたどり着くんじゃないかな? 形勢逆転だよ?」
秀一の混乱をよそに、得意げに話す少年の表情は、晴れやかですらある。
秀一にも喜ばしい情報のはずなのに、頭の中にみっちりと密度の高いスポンジが詰まってでもいるようで、まったく感情が動かなかった。
だから、自分の後ろに迫る気配にも、全く気づけないでいたのだ。
秀一だけではない。その場にいる全員が、気づいていなかった。
階段から降り立った少年と、彼のもたらした情報に注意が向かっていた。
御先は小さく舌打ちをして、屋上へ目を向けた。
弓弦はじっと史郎を見つめていた。
信乃も、新しい登場人物に束の間、目を奪われていた。
気が付いた時には、先程までこの地下に響いていた、野犬の唸り声や吠え声が、全く聞こえなくなっていた。
信乃の目が、秀一を振り返り、そして凍りついた。
「逃げて!」
そう叫んだのは信乃で、彼女の目は大きく見開かれたまま、秀一を凝視していた。いや、正確には秀一の後ろを。
続いて起きた信乃の悲鳴を聞きながら、秀一は自分に起こっていることを、ようやく理解する。
背後に迫っていた虚無が、自分を飲み込もうとしていたのだ。
巨大な黒いスライムは、野犬をたいらげ満足したのだろうか、もともとそう素早くはなかったのだが、さらに動きは緩慢になっているようだ。もちろん、この不可解な生き物に満腹という概念があるのかどうかはわからない。
野犬に襲いかかったときのように、もう少し勢いよく攻撃してきたのなら、あるいは秀一も虚無の動きに気がついたのかもしれなかったが、じわじわと染み出すように地下室から這い出した虚無は、音もなく床を這い、秀一の足に絡みつき始めていた。
はっとして、とびのこうとしたが、足を上げることもできずにバランスを崩し、虚無の中に倒れ込みそうになる、
秀一の足は、くるぶしのあたりまで、虚無の黒く半透明な身体の中に浸っていた。
「なるほど、狼の”声”か。ならば彼が屋上ではなく地下に真っ直ぐに向かったことも、不思議ではない。あなたが誘導していたわけだ……犬神史郎。あなた、我々を……いえ、弓弦様を裏切ると? あなた、弓弦様が幼い頃からそばに仕え、我が子のように……我が子以上に共に過ごしてきたのではないでしょうか? そのあなたが?」
御先の目は、ただ真っ直ぐに犬神史郎に向かっていた。顔に微笑を張り付けたまま、目の奥には憤怒の炎がチラチラと燃えている。 秀一はちらりと弓弦へ目を向けたが、彼の顔には、怒りも、裏切られたことへの悲しみも見て取ることが出来なかった。ただ、興味津々に成り行きを見守っている、そんな表情だ。
チャンスである。
秀一は、少しずつ動き始めた。
少しずつ、少しずつ体を動かしながら、この危機を乗り切るにはどうしたらいいのか、必死に考えを巡らせる。
と、少し先に座り込んでいた信乃と目があった。
信乃はそれまで微動だにせずに固まっていたが、秀一と目が合うと、そろそろと秀一に向かって動き出そうとした。
「どれほどあなた、弓弦様に目をかけていただいていたか、わかっているのですか……?」
「感謝している」
史郎の答えを聞いた御先から、殺気が溢れ出て、思わず秀一と信乃は動きを止めた。
殺気を向けられた史郎は、飄々とそれ受け止め、眉一つ動かさない。
御先が動いた。
立ったままの姿勢から大きく跳躍し、史郎に向かって鋭い蹴りを繰り出す。
史郎はすうっと身体をずらした。風に揺れる柳のようなしなやかな動きだった。
史郎の背後にストっと降り立った御先が、振り向きざま構えた拳を史郎に向け繰り出す。
その時だった。
タタタタタタタタッ!
地下室に流れる緊張感を破るように、軽快な足音が、上階から降ってきた。
全員の視線が階段の上へと向かう。拳を繰り出していた御先の動きも止まった。
タンッ!
最後に勢いのある足音を響かせて、史郎と御先の間に男の子が一人、立っていた。
「おっまたせー! この建物にいた妖魔は全部縛り上げて屋上においてきたよ! 犬は皆、下の階に向かって走って行っちゃってさあ~!」
現れた少年は、この場の状況に全くそぐわない底抜けに明るい声で言った。
秀一よりも一回り小さい体。肌の色や彫りの深さにコーカソイドらしさがあるが、髪の色や瞳の色は日本人に近い暗い色合いで、全体的には秀一よりはモンゴロイドの特徴も併せ持っているように見える。多少外国人っぽい日本人。そんな感じの顔立ちをした少年だ。
「犬神新太。なぜ君がここにいる?」
御先に睨まれながら、新太少年は頬を指で掻きながら、えへへ、と笑った。
「今回の作戦はあなたとサラには知らせていなかったはずです。まあ、父親の史郎があなた方を組織に残したまま裏切るわけはありませんね。犬神秀一を助けて、逃げ出した狼族に受け入れてもらおうというわけですか?」
サラ。
その名前に、秀一ははっとして、目の前に降り立った少年をまじまじと見つめた。
「サ……ラ?」
呆然と呟く。
その名前を、秀一は知っている。
一度も見たことのない人だけれど。
写真すら見せられたことのない人だけれど。 名前だけは教えられていた。
『お前の母親の名前は、サラというのだ』
そう教えてくれたのは、父の秀成だった。
では、この犬神史郎という男と、犬神新太という少年は誰だ?
解けない問題を前にしたときのような苛立たしさと混乱が秀一を襲う。
脳細胞が、一斉に活動を休止してしまったようで、考えがまとまらない。いや、答えはもう出ているのに、感情が認めようとしていない。
「あったり~! 母さんは、この場所を九十九学園に伝えに走ったよ。だから、もうすぐ学園側の応援がここにたどり着くんじゃないかな? 形勢逆転だよ?」
秀一の混乱をよそに、得意げに話す少年の表情は、晴れやかですらある。
秀一にも喜ばしい情報のはずなのに、頭の中にみっちりと密度の高いスポンジが詰まってでもいるようで、まったく感情が動かなかった。
だから、自分の後ろに迫る気配にも、全く気づけないでいたのだ。
秀一だけではない。その場にいる全員が、気づいていなかった。
階段から降り立った少年と、彼のもたらした情報に注意が向かっていた。
御先は小さく舌打ちをして、屋上へ目を向けた。
弓弦はじっと史郎を見つめていた。
信乃も、新しい登場人物に束の間、目を奪われていた。
気が付いた時には、先程までこの地下に響いていた、野犬の唸り声や吠え声が、全く聞こえなくなっていた。
信乃の目が、秀一を振り返り、そして凍りついた。
「逃げて!」
そう叫んだのは信乃で、彼女の目は大きく見開かれたまま、秀一を凝視していた。いや、正確には秀一の後ろを。
続いて起きた信乃の悲鳴を聞きながら、秀一は自分に起こっていることを、ようやく理解する。
背後に迫っていた虚無が、自分を飲み込もうとしていたのだ。
巨大な黒いスライムは、野犬をたいらげ満足したのだろうか、もともとそう素早くはなかったのだが、さらに動きは緩慢になっているようだ。もちろん、この不可解な生き物に満腹という概念があるのかどうかはわからない。
野犬に襲いかかったときのように、もう少し勢いよく攻撃してきたのなら、あるいは秀一も虚無の動きに気がついたのかもしれなかったが、じわじわと染み出すように地下室から這い出した虚無は、音もなく床を這い、秀一の足に絡みつき始めていた。
はっとして、とびのこうとしたが、足を上げることもできずにバランスを崩し、虚無の中に倒れ込みそうになる、
秀一の足は、くるぶしのあたりまで、虚無の黒く半透明な身体の中に浸っていた。