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deadlock1 酸鼻

 クーッ、クーッ……

 という悲しげな鳴き声とともに、犬は生きたまま虚無の中へと取り込まれていった。
 目を大きく見開いたまま固まっていた信乃が、数回口をパクパクと開閉した。
 それから一度、大きく息を吸い込むと、ついに叫んだ。

「止めろお!」

 ようやくほとばしり出た声は、裏返りかすれていた。あっという間もなく、信乃は弓弦の手を振り払うと、虚無に向かって走りだしてしまった。

「信乃!」
「信乃ちゃん!」

 弓弦と秀一の声が重なる。
 弓弦が手を伸ばし、秀一は折れた腕をかばいながら、雄叫びとともに起き上がった。
 ほとんど同時に動いた秀一と弓弦だったが、先に信乃に届いたのは、秀一の方だった。
 体ごと、信乃に体当たりをしたのだ。弾き飛ばされた信乃を、弓弦の手が掴んで引き寄せる。

「虚無に食われたくなければ、起き上がって走れ!」

 弓弦は痛みにのたうつ秀一に言った。

「秀一!」

 信乃が秀一のもとへ戻ろうとしたが、今度こそ弓弦は手を離さなかった。

 今や地下室は地獄のような光景と化していた。
 一体、また一体と、現実世界に渡ってくる虚無の群れが、その場にいた野犬の群れを、バリバリとたいらげ始めたのだ。
 生きたまま咀嚼されていく恐ろしい音と、あたりに充満する血の匂い。そして、助けを求めるかのような犬の細い鳴き声。

「待てこの!……ちくしょう……」

 呻く秀一を置いて、弓弦は信乃を引きずりながら地下室を出ていく。
 虚無を警戒しながら、その後に御先真珠が続いた。

 階段下付近には、つい数分前に秀一に倒されたのであろう男たちが、転がっている。

「しゅういちぃぃ! 離せ! 離せってばぁぁ!」

 信乃が弓弦の腕の中で、声を振り絞るようにして叫んでいた。

「秀一が死んだら、僕も死ぬ! お前たちに僕を自由になんて、できるもんかぁ!」

 弓弦一人では感情を爆発させた信乃を引きずっていくことが困難になって、御先も手をかそうとするが、本気で抵抗する人間を取り押さえるのは、大人二人がかりでもなかなか大変なことだった。傷つけてはいけないとなれば、なおさらだ。

「まだ死んでない」

 背後から聞こえた声に、信乃の動きがピタリと止まる。三人が声のした方へと視線を向けると、折れた左腕をかばいながら壁により掛かるようにして、大神秀一がそこに立っていた。

「しゅういち!」

 信乃の声に、喜色が混じる。

「よお信乃。まだ……死んでねえよ……」
「うん」

 秀一は信乃にかすかに笑いかけると、弓弦へと視線を移した。

「あの黒いバケモン、犬どもをたいらげたら、こっちへ来るぞ。どうにかできないのか?」

 秀一はちらりと背後を見るような仕草をした。
 後ろに見えるあの地下室から、虚無はまだ這い出してきてはいなかったが、地下室の中で、恐ろしい地獄絵が繰り広げられている気配は、はっきりと届いてくる。

「まったくしつこい男ですね……」

 御先の姿が、崩れ始めた。崩れた先から、一羽、また一羽と黒い烏が生まれ、秀一をめがけて羽ばたく。
 秀一は「まだやる気なのかよ!」と一言吐いて、自分に向かってくる烏の群れに対峙した。

「逃げろ……信乃!」

 叫びながら秀一は黒い鳥の群れに突っ込んでいく。

「御先も珍しくアツくなっちゃって……バカなやつら……」

 弓弦がつぶやく間にも、秀一の姿が黒い鳥に包まれていく。

「バカなんかじゃないぞ!」

 信乃が、弓弦をきつい瞳で見上げた。

「やめろ!」

 信乃は弓弦の手を振りほどき、その辺に散らばるものをかたっぱそから放り投げ始める。
 ちょうどその辺りは、秀一が地下へ降りてきた時に待ち構えていた敵と一戦を交えた場所だったらしく、数名の意識をなくして倒れている者たちと一緒に、彼らが携帯していた武器などが散らばっていたのだ。
 信乃はそれを、烏の群れ目掛けて手当たり次第に投げつけている。
 しかし、烏の群れには、いっこうにダメージを受けた様子はない。

「弓弦! アイツの弱点は?」

 めぼしい得物のなくなった信乃は、ふぅふぅと肩で息をしながら弓弦を振り返る。
 首を傾げて、早く答えろというように、小さく眉間にシワを寄せて睨んでいる。
 暫くの間、弓弦はあっけにとられてピクピクと動く信乃の眉間のシワを眺めていたのだが、どうにもこうにもおかしくて、現状を忘れて笑いだしてしまった。

「信乃ちゃん、それ……僕が答えると思ってるの? ほんと、面白い子だよね」

 笑いすぎて、涙が出そうだった。

 ドウン!

「!」

 突然の銃声に、弓弦は現実に引き戻される。何が起きているのか、一瞬判断ができなかった。

 銃声は烏と秀一のいる方向から聞こえてきて、弓弦がそちらを向けたときには、もうすでに黒の群れは跡形もなく姿を消していた。
 そのかわり、ひざまずき目をつぶったまま、折れていない方の手で拳銃を握りしめている秀一と、その直ぐ側で脇腹を押さえながら、やはり跪いている御先真珠がいた。
 
「くっ!」

 御先真珠が短くうめいた。脇腹を押さえた手には赤いものが見える。

「よくやったな。大神秀一」

 突然、階段の上から第三者の声が聞こえた。

「御先の分身は、よくあるタイプの変化だ。やつの本体はひとつ。そいつに攻撃を当てることができれば、幻影は消える。一度コツを掴めば、見破ることはたやすい。特に俺たち狼族は……視覚以外の感覚を使えば、どうということもなく本体を見破ることができる」

トン。トン。トン。トン。

 落ち着いた足取りで、何者かが階段を降りてくる。

「犬神。犬神史郎」

 もともと低い御先の声が、更に低くなった。すっとした白皙が、怒りに歪んでいる。

「裏切ったか……犬神!」

 大きな体躯、短めの丈の黒のジャケットに黒のワークパンツ。そして左の頬に残る三本の傷跡。
 一歩づつゆっくりと階段を踏みしめながら降りてきたのは、これまで弓弦の側近として仕えていた、犬神史郎だった。
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