innocent1 異界
何かとんでもない異質なものが、信乃の背後から忍び寄って来る。
信乃もそれを感じ取っているらしい。焦りからか、それとも恐怖からなのか、足がうまく動いていない。
そんな信乃の様子を見て取った秀一は「そこの後ろのでっかい木に登ってろ!」と翔に一声かけてから、全速力で走り出した。
「わかった」
翔は身体が大きく、おっとりしているように見えるが、普段の動作がゆっくりなためにそう見えるだけで、実は機敏で判断力もある。
秀一の指示に迷うこと無く従い、持っていた虫取り網を投げ捨てて赤樫の大木を登りはじめた。
秀一は信乃に向かって走りながら、信じられない光景を目の当たりにしていた。
信乃の周囲の景色が変化していく。
近づく気配は、異質な『モノ』などという生易しいものではなかった。
耕された畑の土が、きゅうりやナスやトマトが、さわさわとさざめく黄金の光に飲み込まれていく。
そしてその景色の向こうから、真夏の畑の中とは思えないような涼やかな風が、秀一に向かって吹き付けていた。
風にそよぐのは、少し緑がかった黄金色の……稲の葉のような形状をしたもので、まるで収穫期の田んぼのようにさわさわと光る金の波が、こちらへ向かって押し寄せてくる。
透けて見える立体映像が次第に濃さを増し、この現実の世界を飲み込もうとしている。
信乃は幾度も躓きながら、異質な世界に追い立てられるように秀一に向かって走っていた。
秀一たち大神家の一族は足が早い者が多く、全速力で走れば、子どもですらオリンピック選手並のスピードを出すことができる。
一直線に走る秀一と、よろけながら走る信乃の手が繋がった。
ただ風にそよいでいるように見えた金色の葉が、ざわりと意思を持つ。
ぼやけていた景色がはっきりと色を持ち、踏みしめていたはずの地面が波打った。
秀一は満身の力を込めて信乃を引き寄せると「よいしょお!」という掛け声をあげ、抱き上げた。
信乃の足に巻き付いた金の触手が一本地面から抜けて、その途端にはらり崩れて消えていった。
秀一は自分と大差ない体格の信乃を抱えながらも一切スピードを落とさない。
普通の九歳の子どもにはとてもこんなことはできないだろうけれども、秀一は山津見の神の眷属である。その中でも誇り高い、大神の一族の棟梁息子なのだ。
そのプライドが秀一の足を動かしていた。信乃を抱いた手がジンと痺れたが、絶対に離すもんか! と、歯を食いしばった。
走る先には翔が待つ赤樫の大木がある。
「あれに登れるか?」
秀一は信乃に聞いた。
秀一の腕の中で信乃は首を伸ばし、目的の大木を確認している。
「どうだろう。あまり自信はないな。それに、あの木に登ったからって、逃げ切れるとは限らないんじゃないか?」
秀一に抱きかかえられているくせに、信乃は恐縮した様子もなく、淡々とした口調で答えた。
「逃げ切れる! 異界の匂いが、あの木の上はしない。重なっているのは、この畑の地面に近いあたりだけだ」
秀一はたどり着いた赤樫の木の下で、信乃を下ろした。
けれども信乃は木に登ろうとはしない。それどころか
「助けてくれてありがとう。でも僕には登れないと思う。君だけでも逃げてくれよ」
などと言い出し始める。
――せっかく助けようとしてるのに、ふざけるな!
そう言おうとした秀一だったが、目の前にある信乃の青い顔と、ぎゅっと力の入った肩を見た途端、怒りがしゅんとしぼんでいった。
信乃の肩に両手を乗せると、秀一を見上げた信乃に向かってニカッと笑いかける。
「そうはいくか。ちょっと待ってろよ」
そうして、秀一は翔のいる枝まで登った。
「翔! 俺の手を握っててくれ! 」
翔に一声かけると、つないでいない方の手を伸ばし、信乃へと差し出す。
めいいっぱい伸ばしたものの、信乃が背伸びをしてもまだ秀一の手のひらを掴むことはできないようだった。
「翔! 力入れろ!」
秀一はゆっくりと枝から腰を下ろしていく。最後には翔が一人で、秀一と自分自身の体重を支えていた。
もう信乃の手は秀一の手に届くはずなのに、信乃は一向にその手をつかもうとしない。
「信乃! 何してんだよ! 早くつかめ!」
そうこうしている間にも、金の波は信乃の直ぐ背後まで迫っている。
「僕が掴んだら、翔……支えきれなくなっちゃうよ」
信乃の言葉を聞いた秀一の頭にカッと血が登った。
「ばっ……! お前、バカにすんなよ! 翔は天羽の男なんだぞ! すっげー力があんだぞ!」
上を振り向いて、な? 翔? と声を掛ける。
「秀一と信乃くらい余裕だ」
翔の言葉に信乃はこくんとうなずくと、ようやく手を伸ばした。
しかし、金のさざなみの先端は、信乃の履いている茶色のキッズ用サンダルを包み込み始めている。
「信乃! 早くしろよ!」
サワサワサワサワサワサワ……。
小さかった金のざわめきが大きなうねりとなっていた。
ひっ!
という小さく息を呑む音が信乃の喉からなって、秀一が覗き込むと、ひゅるりと伸びた数本の金の触手が信乃の足に絡みつこうとしている。
信乃もそれを感じ取っているらしい。焦りからか、それとも恐怖からなのか、足がうまく動いていない。
そんな信乃の様子を見て取った秀一は「そこの後ろのでっかい木に登ってろ!」と翔に一声かけてから、全速力で走り出した。
「わかった」
翔は身体が大きく、おっとりしているように見えるが、普段の動作がゆっくりなためにそう見えるだけで、実は機敏で判断力もある。
秀一の指示に迷うこと無く従い、持っていた虫取り網を投げ捨てて赤樫の大木を登りはじめた。
秀一は信乃に向かって走りながら、信じられない光景を目の当たりにしていた。
信乃の周囲の景色が変化していく。
近づく気配は、異質な『モノ』などという生易しいものではなかった。
耕された畑の土が、きゅうりやナスやトマトが、さわさわとさざめく黄金の光に飲み込まれていく。
そしてその景色の向こうから、真夏の畑の中とは思えないような涼やかな風が、秀一に向かって吹き付けていた。
風にそよぐのは、少し緑がかった黄金色の……稲の葉のような形状をしたもので、まるで収穫期の田んぼのようにさわさわと光る金の波が、こちらへ向かって押し寄せてくる。
透けて見える立体映像が次第に濃さを増し、この現実の世界を飲み込もうとしている。
信乃は幾度も躓きながら、異質な世界に追い立てられるように秀一に向かって走っていた。
秀一たち大神家の一族は足が早い者が多く、全速力で走れば、子どもですらオリンピック選手並のスピードを出すことができる。
一直線に走る秀一と、よろけながら走る信乃の手が繋がった。
ただ風にそよいでいるように見えた金色の葉が、ざわりと意思を持つ。
ぼやけていた景色がはっきりと色を持ち、踏みしめていたはずの地面が波打った。
秀一は満身の力を込めて信乃を引き寄せると「よいしょお!」という掛け声をあげ、抱き上げた。
信乃の足に巻き付いた金の触手が一本地面から抜けて、その途端にはらり崩れて消えていった。
秀一は自分と大差ない体格の信乃を抱えながらも一切スピードを落とさない。
普通の九歳の子どもにはとてもこんなことはできないだろうけれども、秀一は山津見の神の眷属である。その中でも誇り高い、大神の一族の棟梁息子なのだ。
そのプライドが秀一の足を動かしていた。信乃を抱いた手がジンと痺れたが、絶対に離すもんか! と、歯を食いしばった。
走る先には翔が待つ赤樫の大木がある。
「あれに登れるか?」
秀一は信乃に聞いた。
秀一の腕の中で信乃は首を伸ばし、目的の大木を確認している。
「どうだろう。あまり自信はないな。それに、あの木に登ったからって、逃げ切れるとは限らないんじゃないか?」
秀一に抱きかかえられているくせに、信乃は恐縮した様子もなく、淡々とした口調で答えた。
「逃げ切れる! 異界の匂いが、あの木の上はしない。重なっているのは、この畑の地面に近いあたりだけだ」
秀一はたどり着いた赤樫の木の下で、信乃を下ろした。
けれども信乃は木に登ろうとはしない。それどころか
「助けてくれてありがとう。でも僕には登れないと思う。君だけでも逃げてくれよ」
などと言い出し始める。
――せっかく助けようとしてるのに、ふざけるな!
そう言おうとした秀一だったが、目の前にある信乃の青い顔と、ぎゅっと力の入った肩を見た途端、怒りがしゅんとしぼんでいった。
信乃の肩に両手を乗せると、秀一を見上げた信乃に向かってニカッと笑いかける。
「そうはいくか。ちょっと待ってろよ」
そうして、秀一は翔のいる枝まで登った。
「翔! 俺の手を握っててくれ! 」
翔に一声かけると、つないでいない方の手を伸ばし、信乃へと差し出す。
めいいっぱい伸ばしたものの、信乃が背伸びをしてもまだ秀一の手のひらを掴むことはできないようだった。
「翔! 力入れろ!」
秀一はゆっくりと枝から腰を下ろしていく。最後には翔が一人で、秀一と自分自身の体重を支えていた。
もう信乃の手は秀一の手に届くはずなのに、信乃は一向にその手をつかもうとしない。
「信乃! 何してんだよ! 早くつかめ!」
そうこうしている間にも、金の波は信乃の直ぐ背後まで迫っている。
「僕が掴んだら、翔……支えきれなくなっちゃうよ」
信乃の言葉を聞いた秀一の頭にカッと血が登った。
「ばっ……! お前、バカにすんなよ! 翔は天羽の男なんだぞ! すっげー力があんだぞ!」
上を振り向いて、な? 翔? と声を掛ける。
「秀一と信乃くらい余裕だ」
翔の言葉に信乃はこくんとうなずくと、ようやく手を伸ばした。
しかし、金のさざなみの先端は、信乃の履いている茶色のキッズ用サンダルを包み込み始めている。
「信乃! 早くしろよ!」
サワサワサワサワサワサワ……。
小さかった金のざわめきが大きなうねりとなっていた。
ひっ!
という小さく息を呑む音が信乃の喉からなって、秀一が覗き込むと、ひゅるりと伸びた数本の金の触手が信乃の足に絡みつこうとしている。