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deadlock1 酸鼻

 御先の靴先が、秀一のみぞおちを蹴り上げる。もう秀一には抵抗する力も残っていなかった。

「御先、あなたも見ているといいよ。最後に本格的な異界渡りが起こったのは昭和初期だっていうから、これから始まるのはまさに”世紀の瞬間”ってやつだよ」

 弓弦が二人に説明をしている間にも信乃の額のあたりがぽうっと鮮やかな赤い光を放ち始めていた。

「見える。僕にも見える……信乃ちゃん! 呼ぶよ!」

 閉じられた小さな四角い部屋の中に、かすかな風が吹き始めた。
 御先が風の吹いてくる先を見極めようと、目を細めて顔を上げる。
 秀一も、身体を起こそうともがいた。

 弓弦はうっとりと、自分自身の額が熱を持ち始める感覚を味わっていた。
 これまで何度か異界を引き寄せたことはあっても、ここまではっきりと、この世ならざる世界を感じることはなかったし、こんなふうに額に熱を感じることもなかった。

「来い! この世界に異界の魔物を導き出せ!」

 弓弦の叫びと同時に、灰色のタイル張りの壁が、黒っぽく光り始める。
 目の前に広がりはじめたそれは、黒いセロファンで覆われたような世界だった。
 地下室の、入り口とは反対側の壁に、うぞうぞと蠢く何か・・が、映像のように見え始める。

「虚無!」

 それを目にした御先が鋭く叫ぶ。
 声には、彼がめったにみせることのない、驚きの色が滲んでいて、弓弦の気分を高揚させた。

「虚無ね。最初に呼び出す魔物としては上等なんじゃないの? まあ、このまま地下にいたら、僕たちも危ないけどね」

 弓弦は信乃の首の鎖を外した。

「信乃ちゃん、行くよ。呼び出した相手が虚無じゃあ、コントロールは難しい。このアジトは廃棄かな」

 信乃の額の輝きはすでに消えていたが、彼女はまだ放心状態にあるようで、焦点の合わない瞳で、ぼんやりと目の前の光景を眺めている。「信乃ちゃん?」と声をかけながらペチペチと頬を叩いていると、御先の舌打ちが聞こえた。

「冗談じゃありません、弓弦様。虚無とは喰らうもの。私も出会うのは初めてですが、文献によれば知性など無いと伝わっています。敵も味方も見境なく、飲み込んでしまう。もう少し扱いやすい魔物を呼び出して頂けませんかね?」

 早口でそう言うと、ヒュウッと、指笛を鳴らした。
 御先の指笛に呼応して、何かがこの地下の部屋へと近づいてくる気配がした。
 息遣いと、無数の小さな足音。
 それは、上の階の方からこの地下へ向かってどんどんと近づいて来る。
 一方、地下室の中では、異界の景色がますますはっきり姿を表し始めていた。
 入り口と反対側の壁は、異界のビジョンと重なり、もともとあった灰色のタイルは、ほとんど見えなくなっていた。
 そのかわり、どこまでも続く黒い物体の群れがそこに出現している。
 その群れの一体一体は、コーンのないアイスクリームのような形をしていた。
 人の背丈もある巨大なアイスクリーム。しかし、ぶよぶよと蠢くそれは、スライムの中に炭を練り込んだように黒く、とても、美味しそうには見えない。
 よくよく見れば大きさもまちまちで、平均すれば成人男性の背丈ほどなのかもしれないが、中にはもっと大きいものや、その半分くらいの小さなものもある。
 虚無と呼ばれる化け物たちは、群となってこの地下室に重なり、広がり始めていた。

「本当に、こいつをこちらの世界に呼び出すつもりですか」

 御先は、いつでも地下室を後にできるように、入り口の方向へと身体をずらしていく。常に余裕を見せていた御先の口元から、微笑みが消えていた。
 ぼんやりと空を見つめる信乃の鼻先に、一体の虚無が迫りつつあった。だがその姿はまだ幻のように半透明で、はっきりこの世界に出現しているわけではいないように見える。
 この場にいた全員の視線がこちらの世界に渡ってこようとする虚無に釘付けになっていた時、地下室の入口から、ガウガウと唸りをあげながら、野犬の群れがなだれ込んできた。
 野犬の群れは、入口近くに立つ御先をきれいに避けながら、彼の足元に群がりこの世に存在するはずもない魔物に向かって激しく吠え立て始める。

「お前たち、虚無を足止めしろ!」

 御先が、なだれ込んだ野犬に命じた。
 異界の景色はまだソフトフォーカスをかけた写真のように、その輪郭はふんわりとしている。
 御先の命令に応じて、犬たちは次々に虚無へ飛びかかるが、虚無はまだこちらの世界にはっきりとは重なっていないらしく、犬たちは勢いよく、反対側の壁や、ベットに激突しながらキャウン! と、情けない声を上げた。
 しかし次の瞬間、飛びついた一匹の犬が虚無の先端に齧りつくことに成功する。
 映像の世界から抜け出した一体の虚無が、この世界に実像となって現れてた瞬間だった。
 ようやく実体のある黒き魔物に齧りついた野犬は、牙を容赦なく食い込ませて、首を振る。もしも人間の腕だったら、食いちぎられているのではないかというほどの勢いだ。
 けれども、甲高い悲鳴を響かせたのは、虚無に食らいついている犬の方だった。

 ベキッ!

 という固いものをへし折ったような音がして、犬の胴体はあらぬ方向へとねじ曲がっている。
    
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