deadlock1 酸鼻
「殺さずに……ですか?」
御先が眉を跳ね上げた。
岬がこの表情を見せるときは、納得がいっていない時だ。
この男は時折、こんな表情を主である弓弦にも向ける。
「なに?」
声が尖った。
「あなたも甘い。こんな犬一匹、生かしていて何の意味が?」
「僕に口答えするの? 御先真珠。その意味わかってるよね?」
御先の瞳が弓弦をみつめた。口元に浮かぶ微笑はそのままで、表情は一ミリも変化していない。ただならぬ緊張感が二人の間に膨れ上がった。しかし、先に視線を外したのは、御先だった。
「滅相もありません。ただ、この犬がいささか私の癇に障るので……」
御先の靴の踵がグリグリと秀一の背中を抉り、靴の下からうめき声が上がる。
「ちくしょう……、おまえら……ぜってえゆるさねぇ……!」
御先に足蹴にされているにもかかわらず、まだ強がる元気が残っているらしい。
「確かに、この考えなしの直情型大型犬には苛つくものがあるかもしれないけど、でもね、そいつにはまだ利用価値があるんだよ」
弓弦はそこで少し間をあけて、ゆっくりと信乃へ視線を移した。
「ね? 信乃ちゃん?」
信乃はまっすぐに弓弦の視線を受け止める。
「秀一を使って、僕を意のままにしようっていうんだろ? あんまり捻りがなくて、面白くないね」
追い詰められながら、それでも強がる信乃がおかしくて、弓弦は声をたてて笑った。
「捻りなんて、あってもなくてもかまわないんだよ。効き目があればいいんだからさ。さあ、君に耐えられるかなあ? 御先。やっちゃって!」
弓弦の命に、御先の踵にさらに力がこもっていく。
灰色の箱の中に、苦痛を耐えようとする秀一のうめき声が響いた。
秀一をさんざん踏みつけにした御先は、ぐったりとした秀一の髪を掴んで起き上がらせると、数回頬を打った。数度目の平手打ちで派手に吹き飛ばされたが、秀一は身体を回転させ、なんとか壁にまともに当たるのを回避する。
まだそれほどの力が残っていることに驚いて、弓弦は軽く口笛を吹いた。
床に崩れそうになりながらも歯を食いしばって顔を上げ、自分を張り飛ばした相手を見上げている。
殴られた頬はみるみる腫れ上がり、唇の端は切れ、血がこびりついている。日本人離れした整った顔立ちが、今では見る影もない。
けれども当人は、腕で軽く口元を拭うと「へ……っ」と小さく笑った。ひどい顔だったが、目にはまだ力がある。
「まだそんな余裕があるんですね……」
だがその表情は、御先の嗜虐心を煽ってしまったらしい。
御先は秀一に近づくと、鋭い回し蹴りを繰り出す。尖った靴先が当たれば、平手打ち以上に大きなダメージを食らうはずだ。
しかし御先の靴先は、秀一の髪の先を掠めて空を切った。
「秀一!」
暴れる信乃を、弓弦は背後から羽交い締めにした。
「暴れたら、君が傷つくんだってば! どんなに頑張っても、アイツにきみの手は届かないよ。ほら、首がすりむけてきちゃったじゃないか……」
「うるさい、離せ! この、悪趣味! 鎖をはずせ!」
信乃が弓弦の戒めから逃れようともがいている間にも、御先と秀一の激しい戦いは繰り広げられている。
「信乃ちゃん。秀一を助ける方法が一つだけあるじゃん。君の力を使ってごらん?」
「だから……僕には使えないって……」
「君、まだそんなこと言ってるの?」
弓弦は軽くため息をつく。
「御先! そいつの腕へし折っちゃって!」
弓弦がイライラと言い放ったと同時に、ベキッと言う音がした。それに続いて秀一の短い悲鳴。
「な……っ!」
信乃の目が驚愕に見開かれる。
弓弦はそんな信乃の瞳を、じっと覗き込みながら語りかけた。
「僕も力を貸してあげるよ。ね? 神経を集中して、第三の目を使うんだよ。僕たち以外に持ってるやつはいないんだ。君には他の誰にも見えない物が見える。今、異界がどこにあるか。感じるでしょう?」
しばらくそうして見つめ合っていると、信乃は瞬き一つしなくなった。
「今日は満月だから、近いはずだよ。ね? ほら!」
ささやくような声で弓弦が信乃に語りかける。
「僕も感じる。君が近くにいてくれると、いつもよりもはっきりとその在処を感じる。さあ、引き寄せるんだ」
「引き……寄せる?」
「信……乃……!」
だらりと力の抜けた腕をもう一方の腕で抱え、床に転がる秀一が、最後の力を振り絞って信乃に呼びかけたが、信乃がその呼びかけに応えることはなかった。
「無駄だよ秀一。信乃ちゃんは第三の目を開いたんだよ。まあ、君たちにはわからないだろうけどね。今彼女は、君たちには見ることの出来ない世界を見ているんだ。君を助けるためだなんて、ちょっと妬けるけど、いいよね、どうせ君はもうすぐいなくなるんだから……」
御先が眉を跳ね上げた。
岬がこの表情を見せるときは、納得がいっていない時だ。
この男は時折、こんな表情を主である弓弦にも向ける。
「なに?」
声が尖った。
「あなたも甘い。こんな犬一匹、生かしていて何の意味が?」
「僕に口答えするの? 御先真珠。その意味わかってるよね?」
御先の瞳が弓弦をみつめた。口元に浮かぶ微笑はそのままで、表情は一ミリも変化していない。ただならぬ緊張感が二人の間に膨れ上がった。しかし、先に視線を外したのは、御先だった。
「滅相もありません。ただ、この犬がいささか私の癇に障るので……」
御先の靴の踵がグリグリと秀一の背中を抉り、靴の下からうめき声が上がる。
「ちくしょう……、おまえら……ぜってえゆるさねぇ……!」
御先に足蹴にされているにもかかわらず、まだ強がる元気が残っているらしい。
「確かに、この考えなしの直情型大型犬には苛つくものがあるかもしれないけど、でもね、そいつにはまだ利用価値があるんだよ」
弓弦はそこで少し間をあけて、ゆっくりと信乃へ視線を移した。
「ね? 信乃ちゃん?」
信乃はまっすぐに弓弦の視線を受け止める。
「秀一を使って、僕を意のままにしようっていうんだろ? あんまり捻りがなくて、面白くないね」
追い詰められながら、それでも強がる信乃がおかしくて、弓弦は声をたてて笑った。
「捻りなんて、あってもなくてもかまわないんだよ。効き目があればいいんだからさ。さあ、君に耐えられるかなあ? 御先。やっちゃって!」
弓弦の命に、御先の踵にさらに力がこもっていく。
灰色の箱の中に、苦痛を耐えようとする秀一のうめき声が響いた。
秀一をさんざん踏みつけにした御先は、ぐったりとした秀一の髪を掴んで起き上がらせると、数回頬を打った。数度目の平手打ちで派手に吹き飛ばされたが、秀一は身体を回転させ、なんとか壁にまともに当たるのを回避する。
まだそれほどの力が残っていることに驚いて、弓弦は軽く口笛を吹いた。
床に崩れそうになりながらも歯を食いしばって顔を上げ、自分を張り飛ばした相手を見上げている。
殴られた頬はみるみる腫れ上がり、唇の端は切れ、血がこびりついている。日本人離れした整った顔立ちが、今では見る影もない。
けれども当人は、腕で軽く口元を拭うと「へ……っ」と小さく笑った。ひどい顔だったが、目にはまだ力がある。
「まだそんな余裕があるんですね……」
だがその表情は、御先の嗜虐心を煽ってしまったらしい。
御先は秀一に近づくと、鋭い回し蹴りを繰り出す。尖った靴先が当たれば、平手打ち以上に大きなダメージを食らうはずだ。
しかし御先の靴先は、秀一の髪の先を掠めて空を切った。
「秀一!」
暴れる信乃を、弓弦は背後から羽交い締めにした。
「暴れたら、君が傷つくんだってば! どんなに頑張っても、アイツにきみの手は届かないよ。ほら、首がすりむけてきちゃったじゃないか……」
「うるさい、離せ! この、悪趣味! 鎖をはずせ!」
信乃が弓弦の戒めから逃れようともがいている間にも、御先と秀一の激しい戦いは繰り広げられている。
「信乃ちゃん。秀一を助ける方法が一つだけあるじゃん。君の力を使ってごらん?」
「だから……僕には使えないって……」
「君、まだそんなこと言ってるの?」
弓弦は軽くため息をつく。
「御先! そいつの腕へし折っちゃって!」
弓弦がイライラと言い放ったと同時に、ベキッと言う音がした。それに続いて秀一の短い悲鳴。
「な……っ!」
信乃の目が驚愕に見開かれる。
弓弦はそんな信乃の瞳を、じっと覗き込みながら語りかけた。
「僕も力を貸してあげるよ。ね? 神経を集中して、第三の目を使うんだよ。僕たち以外に持ってるやつはいないんだ。君には他の誰にも見えない物が見える。今、異界がどこにあるか。感じるでしょう?」
しばらくそうして見つめ合っていると、信乃は瞬き一つしなくなった。
「今日は満月だから、近いはずだよ。ね? ほら!」
ささやくような声で弓弦が信乃に語りかける。
「僕も感じる。君が近くにいてくれると、いつもよりもはっきりとその在処を感じる。さあ、引き寄せるんだ」
「引き……寄せる?」
「信……乃……!」
だらりと力の抜けた腕をもう一方の腕で抱え、床に転がる秀一が、最後の力を振り絞って信乃に呼びかけたが、信乃がその呼びかけに応えることはなかった。
「無駄だよ秀一。信乃ちゃんは第三の目を開いたんだよ。まあ、君たちにはわからないだろうけどね。今彼女は、君たちには見ることの出来ない世界を見ているんだ。君を助けるためだなんて、ちょっと妬けるけど、いいよね、どうせ君はもうすぐいなくなるんだから……」