trap5 駆引
「君が、安倍のところの娘か……」
信乃がキュッと唇を結んだまま返事をしないでいると
「まあいい。私は八尋尊、弓弦の父だ」
と男は自分から名乗り、先程まで弓弦が座っていたパイプ椅子に腰をおろした。
信乃はトイレのドアを背にしたまま、戻ることも男に近づくこともできずにいた。
「色々聞きたいことがあるんじゃないのかい?」
「聞いたら答えてくれるのか?」
信乃の答えを聞いた尊の口元は、小さく歪んだ。
「なるほど、気の強いお嬢さんだ」
パイプ椅子の軋む音が、タイル張りの部屋の中にやけに大きく響いた。
「まあ、立ち話もなんだ。君もそこにかけたらどうだい?」
尊が指し示したのは、先程まで信乃が横になっていたベットの上だった。
信乃は尊から目を離さなようにしながら少しずつ近づくと、尊と向かい合わせになるようにベットの端に腰を掛ける。
「なにが聞きたいか、言ってごらん。答えられることもあるかもしれないぞ」
尊の口調は穏やかだったが、無理やりこんな地下に押し込めた上に首輪をはめて自由を奪われたのだ、到底緊張を解くことはできない。
話したくもないが、話すことで、なにか解決の糸口が見つけられるかも知れない……。
「……あんたの目的はなんなんだ」
尊は腕を組み、幾度か小さく頷いた。
「先祖返りの姫君。君には知る権利があるかもしれないね。私たちは、君の父上とは考え方が違ってね。人間の中に紛れて生き永らえようなんていう気持ちは、毛頭ないんだよ」
「だけど、どんどん闇はなくなっていく。このままじゃあ、僕たちに未来はないんだろう?」
「そんなことか」
尊は呆れたように首を振った。
「人間が増えすぎ、均衡が崩れ、闇が消えていこうとするのなら、神である我々が人間を間引いてやればいいまでじゃないか」
「神?」
「人間から見れば、我々妖のものは、神にも等しい存在ではないかい? じっさい神の使いとして、または神本体として崇められているものたちも多い」
ありきたりな考えだと信乃は感じたが、尊を刺激するのは得策ではない。
「なるほど。で? それがどうして僕を人質にとらなくちゃいけないんだ?」
尊はクククッと喉の奥で笑い声を上げた。
「今日は幸運だったよ。弓弦には、学園の周辺でひと騒ぎ起こしてくるようにと指示していたが、君をここに招待することができたとはね」
急に鎖を引かれて、息が止まる。
「我々はこれまで、喉から手が出るほど君を手に入れたかったのだよ。阿部信乃。……君の持っている異界渡りの力。あれはなかなかに魅力的だ」
「……!」
鎖から尊の手が離れて、信乃はベットの上に崩れ落ち、肩を揺らしながら激しくむせた。息を吸い込むたびに、ひゅーひゅーと喉が鳴った。
まさか、学園反対派が信乃を手に入れたいと思っていただなんて、信乃自信、これまで夢にも思ったことがない。
だいたい、幼い頃から先祖返りの姫だの、異界渡りの能力者だのと大層な呼び名を付けられていたが、その力が何かの役に立ったことなど、これまでただの一度もないのだ。
そのくせあの力のせいで周囲の人々からは敬遠される。
欲しいという者がいるなら、熨斗をつけて譲ってやりたいような力だ。
「あれは……あの力は……」
少し治まってきた呼吸の中から、信乃は声を絞り出した。
「あれは、なんだね?」
「あれは……僕の自由にはならない。僕を捉えたところで、僕にさえコントロールできないのに、あんなもの、なんの役にも立たないぞ」
そう訴えたが、尊にはまったく意に介した様子はない。
「ああ、いいんだよ」
と、優しげな笑顔まで浮かべている。
「まだ君はほんの子どもじゃないか。これから覚醒するということもあり得るだろう? 我々としても、先祖返りの”姫”として、大切に預からせてもらうよ」
「大切に? これが?」
信乃は抗議の意味を込めて、自分の首から伸びる鎖を持ち上げてみせた。
「ああ、済まないねえ。お姫様に傷でもついたら大変だからね、行動は制限させてもらうよ。今は首だけだが、もし暴れるようなら手枷足枷も準備しなくてはいけないね。我々としても、そうならないように願いたいのだが……」
平静を装いながらも、信乃の心の奥底では、今自分が置かれている状況への恐怖がじわりと広がり始めていく。
この男は、いつか信乃が覚醒するかもしれないと言った。信乃自身が目的なのだといった。
単なる人質ならば、交渉次第でここを出ることもできるかもしれない。
けれど、信乃自信が目的であるということは、事態がどう動こうと、信乃をここから解放する気など、さらさらないということだ。
いままで自分にとって親しかったものたちと二度と会うことができないかもしれない。
そう思い至った時、信乃はぶるりと小さく震えた。広がり始めた恐怖を心の奥底に必死に押し込めようとする。そうでもしなければ、喚きだしてしまいそうだった。
――落ち着け。僕が目的だということは、僕が壊されたり、殺されたりすることは無いっていうことだ。
そう自分自身に言い聞かせる。
「もし……」
それでも絞り出した声は情けなくもかすれていて、喉を潤そうと唾を飲み込んだ。
「もし僕が覚醒したとしても、あんたたちになんて協力しない。そうは思わないか?」
八尋尊はニッコリと、優しげにすら見える笑顔を浮かべた。今となっては、その笑顔が、逆に信乃の心を氷つかせていく。
信乃がキュッと唇を結んだまま返事をしないでいると
「まあいい。私は八尋尊、弓弦の父だ」
と男は自分から名乗り、先程まで弓弦が座っていたパイプ椅子に腰をおろした。
信乃はトイレのドアを背にしたまま、戻ることも男に近づくこともできずにいた。
「色々聞きたいことがあるんじゃないのかい?」
「聞いたら答えてくれるのか?」
信乃の答えを聞いた尊の口元は、小さく歪んだ。
「なるほど、気の強いお嬢さんだ」
パイプ椅子の軋む音が、タイル張りの部屋の中にやけに大きく響いた。
「まあ、立ち話もなんだ。君もそこにかけたらどうだい?」
尊が指し示したのは、先程まで信乃が横になっていたベットの上だった。
信乃は尊から目を離さなようにしながら少しずつ近づくと、尊と向かい合わせになるようにベットの端に腰を掛ける。
「なにが聞きたいか、言ってごらん。答えられることもあるかもしれないぞ」
尊の口調は穏やかだったが、無理やりこんな地下に押し込めた上に首輪をはめて自由を奪われたのだ、到底緊張を解くことはできない。
話したくもないが、話すことで、なにか解決の糸口が見つけられるかも知れない……。
「……あんたの目的はなんなんだ」
尊は腕を組み、幾度か小さく頷いた。
「先祖返りの姫君。君には知る権利があるかもしれないね。私たちは、君の父上とは考え方が違ってね。人間の中に紛れて生き永らえようなんていう気持ちは、毛頭ないんだよ」
「だけど、どんどん闇はなくなっていく。このままじゃあ、僕たちに未来はないんだろう?」
「そんなことか」
尊は呆れたように首を振った。
「人間が増えすぎ、均衡が崩れ、闇が消えていこうとするのなら、神である我々が人間を間引いてやればいいまでじゃないか」
「神?」
「人間から見れば、我々妖のものは、神にも等しい存在ではないかい? じっさい神の使いとして、または神本体として崇められているものたちも多い」
ありきたりな考えだと信乃は感じたが、尊を刺激するのは得策ではない。
「なるほど。で? それがどうして僕を人質にとらなくちゃいけないんだ?」
尊はクククッと喉の奥で笑い声を上げた。
「今日は幸運だったよ。弓弦には、学園の周辺でひと騒ぎ起こしてくるようにと指示していたが、君をここに招待することができたとはね」
急に鎖を引かれて、息が止まる。
「我々はこれまで、喉から手が出るほど君を手に入れたかったのだよ。阿部信乃。……君の持っている異界渡りの力。あれはなかなかに魅力的だ」
「……!」
鎖から尊の手が離れて、信乃はベットの上に崩れ落ち、肩を揺らしながら激しくむせた。息を吸い込むたびに、ひゅーひゅーと喉が鳴った。
まさか、学園反対派が信乃を手に入れたいと思っていただなんて、信乃自信、これまで夢にも思ったことがない。
だいたい、幼い頃から先祖返りの姫だの、異界渡りの能力者だのと大層な呼び名を付けられていたが、その力が何かの役に立ったことなど、これまでただの一度もないのだ。
そのくせあの力のせいで周囲の人々からは敬遠される。
欲しいという者がいるなら、熨斗をつけて譲ってやりたいような力だ。
「あれは……あの力は……」
少し治まってきた呼吸の中から、信乃は声を絞り出した。
「あれは、なんだね?」
「あれは……僕の自由にはならない。僕を捉えたところで、僕にさえコントロールできないのに、あんなもの、なんの役にも立たないぞ」
そう訴えたが、尊にはまったく意に介した様子はない。
「ああ、いいんだよ」
と、優しげな笑顔まで浮かべている。
「まだ君はほんの子どもじゃないか。これから覚醒するということもあり得るだろう? 我々としても、先祖返りの”姫”として、大切に預からせてもらうよ」
「大切に? これが?」
信乃は抗議の意味を込めて、自分の首から伸びる鎖を持ち上げてみせた。
「ああ、済まないねえ。お姫様に傷でもついたら大変だからね、行動は制限させてもらうよ。今は首だけだが、もし暴れるようなら手枷足枷も準備しなくてはいけないね。我々としても、そうならないように願いたいのだが……」
平静を装いながらも、信乃の心の奥底では、今自分が置かれている状況への恐怖がじわりと広がり始めていく。
この男は、いつか信乃が覚醒するかもしれないと言った。信乃自身が目的なのだといった。
単なる人質ならば、交渉次第でここを出ることもできるかもしれない。
けれど、信乃自信が目的であるということは、事態がどう動こうと、信乃をここから解放する気など、さらさらないということだ。
いままで自分にとって親しかったものたちと二度と会うことができないかもしれない。
そう思い至った時、信乃はぶるりと小さく震えた。広がり始めた恐怖を心の奥底に必死に押し込めようとする。そうでもしなければ、喚きだしてしまいそうだった。
――落ち着け。僕が目的だということは、僕が壊されたり、殺されたりすることは無いっていうことだ。
そう自分自身に言い聞かせる。
「もし……」
それでも絞り出した声は情けなくもかすれていて、喉を潤そうと唾を飲み込んだ。
「もし僕が覚醒したとしても、あんたたちになんて協力しない。そうは思わないか?」
八尋尊はニッコリと、優しげにすら見える笑顔を浮かべた。今となっては、その笑顔が、逆に信乃の心を氷つかせていく。