trap4 潜入
「信乃は……どこだよ」
「お姫様を手に入れるためには、戦って、勝たなければね」
男の姿が、また崩れていく。
分裂し、生まれた無数の黒い羽が、再び天井を埋め尽くしていった。
「くそっ!」
――コイツ! さっき何羽か殺したのに、まったくダメージを受けてない!
グルルルと喉を鳴らしながら、秀一は奥歯を噛み締め、いつでも迎え撃てるように腰を落とした。
しかし、黒い烏の群れは天井を旋回するばかりで、襲ってくる様子はない。
「何だよ……襲ってこないのかよ?」
秀一がわずかに力を抜いた時だった。
廊下に並んだいくつものドアが、パタン、とひらいた。続いてその隣の扉がパタン……と開く。
パタン……パタン……。
静かに、一つづつ開かれていく扉。けれど、秀一の並外れた感覚は、扉の向こうの異様な気配をすでに感じ取っていた。
ドアの奥を、瞬きすら忘れて凝視する秀一の表情に、険しさがましていく。
『君の相手は、彼らにしてもらおうと思うんだ。お似合いの相手じゃないかい?』
ウー。
グルルルルル……。
扉の奥から、唸り声が聞こえて、ぞくりと背中が震えた。
テッテッテッテッテッテッ……
間の抜けた音。そして、開いたドアから出てきたのは「犬」だった。
犬の爪が床をひっかく、どこか間の抜けた音だけが、しんと静まり返った建物の中に響いていた。
眼の前に現れたのは、何の変哲もないただの犬だ。それ以上でもそれ以下でもなく、妖力のようなものも感じることはない。
けれども秀一は、気圧されるように一歩後ずさった。
何匹もの犬が、最初の一匹に続いて廊下に姿を現していた。次から次から、途切れることなく、廊下に溢れ出す。
部屋の中に、どれだけ詰め込まれていたのだろう。
「うー……」
思わず漏れたのは、自分自身の唸りだった。
妖気が感じられないということは、化け物や妖怪の類ではないのだろうが、ごくごく普通の犬かと問われれば、否である。
普通の犬であれば、秀一が牙を向いて唸って見せれば、尻尾を巻いて逃げ出すはずだ。
それがどうだろう。廊下に溢れ出した犬の目に、感情のゆらぎは全く表れない。秀一を恐れる様子もなければ、数を頼みに襲いかかろうとする殺気もない。犬たちの目は濁り、牙をむき出した口元からはダラダラと涎が垂れていた。
『お前たち、敵は目の前のその少年だ……』
先程のスーツの男の声がどこからともなく聞こえてきた途端、膜を貼ったようだった濁った瞳に、赤黒い狂気が浮かんだ。
バタバタと天井を覆っていた黒い烏たちは、犬と秀一を置いて、秀一が立つ場所よりも、もう一つ向こうの階段から、上の階へと吸い込まれるように姿を消して行った。
「待てよ!」
烏を追って一歩踏み出そうとしたが、できなかった。
数え切れないほどの犬が、秀一の行く手を遮る。
犬たちは、怒りに支配された瞳で、秀一を見つめていた。
しんと静まったのは一瞬のことで、次の瞬間、犬たちは一斉に吠えながら、秀一に向かって、飛びかかって来た。
秀一は犬をなぎ払い、蹴り倒しながら前に進もうとするが、おびただしい犬の数に、前に進むどころか、後退していく。
一匹一匹は、秀一の敵ではない。しかし、数で圧倒される。
おそらくこの犬たちは、何者か――おそらくさっきの烏男――に操られているのだろう。もともと犬にはリーダーに従いたいという欲求がある。それをうまくつついてやれば、従順な犬の兵隊が出来上がるというわけだ。更に、敵は妖力により、その支配の力を強めているに違いない。
正気をなくしているだけの犬を、殺したくないという思いが、秀一の攻撃力を鈍らせた。
「いってー!」
躊躇している間に足に噛みつかれ、秀一は悲鳴を上げた。
脛に齧りついている犬の鼻面を、もう一方の足で蹴り飛ばす。
「ちくしょー! どうしろっていうんだよ!」
秀一が天井に向かって泣き言を叫んだ時だった。
『上じゃない!』
突然声が聞こえた。
人間の言葉ではないけれど、一般的な念話でもない。
それは、秀一の耳から聞こえる、はっきりとした声だった。
――仲間がいる!?
秀一の心の中に、小さな灯明が灯った。
耳に聞こえてきた声は、人狼同士が仲間に呼びかける時に使う声だ。他の種族には聞き取ることのできない声である。
個体差はあるが、その声の聞こえる範囲は四キロ前後といったところだ。
秀一はその声に向かって、全身で吠えた。
藁にもすがる思いというのは、こういうときに使う言葉なのかも知れない。
間を置かずに返事が返ってくる。
『屋上に向かってはいけない。トラップだ。下だ。阿部信乃は地下に囚われている』
もしかすると、この声だって罠かもしれない。
頭の隅でそう考えなかったわけではないが、今の秀一にとってこの声以外に、頼れるものはなかった。
秀一は飛びかかってきた一匹に渾身の力で拳を埋め込むと、振り返りざま大きく跳ね跳び、犬の群れを飛び越え、登ってきたばかりの階段を今度は一目散に駆け下り始めた。
ダダダダダダダダ! ダダダダ! ダダダダ!
先程小鬼二体と戦った踊り場に差し掛かった時、突然銃声が響いた。思わず身をすくめ、手すりの影に身を伏せる。
銃声は断続的に続き、あたりに硝煙の匂いが立ち込めていた。
敵が銃器を使用したということは、秀一にとっては驚きだった。鬼に出くわしたことよりも、烏男よりも、操られた犬に襲われたことよりも、秀一に深い衝撃を与えた。
「嘘だろう?」
言葉が思わず秀一の口から漏れる。
妖同士の戦いで、人間の使う武器が使用されることはまず無いはずだった。
妖というのは、もともとそれぞれに高い能力を持っている。人間の扱う道具には確かに便利なものもあるが、戦いの場に於いて、それを使いこなすことよりも、自分たちの持っている力を使ったほうが圧倒的に楽なのだ。
もちろん、妖力の高くない妖ならば、人間の使う武器をもたせたほうが破壊力は上がるかも知れないけれど、それでも妖には妖なりのプライドというものもある。
「お姫様を手に入れるためには、戦って、勝たなければね」
男の姿が、また崩れていく。
分裂し、生まれた無数の黒い羽が、再び天井を埋め尽くしていった。
「くそっ!」
――コイツ! さっき何羽か殺したのに、まったくダメージを受けてない!
グルルルと喉を鳴らしながら、秀一は奥歯を噛み締め、いつでも迎え撃てるように腰を落とした。
しかし、黒い烏の群れは天井を旋回するばかりで、襲ってくる様子はない。
「何だよ……襲ってこないのかよ?」
秀一がわずかに力を抜いた時だった。
廊下に並んだいくつものドアが、パタン、とひらいた。続いてその隣の扉がパタン……と開く。
パタン……パタン……。
静かに、一つづつ開かれていく扉。けれど、秀一の並外れた感覚は、扉の向こうの異様な気配をすでに感じ取っていた。
ドアの奥を、瞬きすら忘れて凝視する秀一の表情に、険しさがましていく。
『君の相手は、彼らにしてもらおうと思うんだ。お似合いの相手じゃないかい?』
ウー。
グルルルルル……。
扉の奥から、唸り声が聞こえて、ぞくりと背中が震えた。
テッテッテッテッテッテッ……
間の抜けた音。そして、開いたドアから出てきたのは「犬」だった。
犬の爪が床をひっかく、どこか間の抜けた音だけが、しんと静まり返った建物の中に響いていた。
眼の前に現れたのは、何の変哲もないただの犬だ。それ以上でもそれ以下でもなく、妖力のようなものも感じることはない。
けれども秀一は、気圧されるように一歩後ずさった。
何匹もの犬が、最初の一匹に続いて廊下に姿を現していた。次から次から、途切れることなく、廊下に溢れ出す。
部屋の中に、どれだけ詰め込まれていたのだろう。
「うー……」
思わず漏れたのは、自分自身の唸りだった。
妖気が感じられないということは、化け物や妖怪の類ではないのだろうが、ごくごく普通の犬かと問われれば、否である。
普通の犬であれば、秀一が牙を向いて唸って見せれば、尻尾を巻いて逃げ出すはずだ。
それがどうだろう。廊下に溢れ出した犬の目に、感情のゆらぎは全く表れない。秀一を恐れる様子もなければ、数を頼みに襲いかかろうとする殺気もない。犬たちの目は濁り、牙をむき出した口元からはダラダラと涎が垂れていた。
『お前たち、敵は目の前のその少年だ……』
先程のスーツの男の声がどこからともなく聞こえてきた途端、膜を貼ったようだった濁った瞳に、赤黒い狂気が浮かんだ。
バタバタと天井を覆っていた黒い烏たちは、犬と秀一を置いて、秀一が立つ場所よりも、もう一つ向こうの階段から、上の階へと吸い込まれるように姿を消して行った。
「待てよ!」
烏を追って一歩踏み出そうとしたが、できなかった。
数え切れないほどの犬が、秀一の行く手を遮る。
犬たちは、怒りに支配された瞳で、秀一を見つめていた。
しんと静まったのは一瞬のことで、次の瞬間、犬たちは一斉に吠えながら、秀一に向かって、飛びかかって来た。
秀一は犬をなぎ払い、蹴り倒しながら前に進もうとするが、おびただしい犬の数に、前に進むどころか、後退していく。
一匹一匹は、秀一の敵ではない。しかし、数で圧倒される。
おそらくこの犬たちは、何者か――おそらくさっきの烏男――に操られているのだろう。もともと犬にはリーダーに従いたいという欲求がある。それをうまくつついてやれば、従順な犬の兵隊が出来上がるというわけだ。更に、敵は妖力により、その支配の力を強めているに違いない。
正気をなくしているだけの犬を、殺したくないという思いが、秀一の攻撃力を鈍らせた。
「いってー!」
躊躇している間に足に噛みつかれ、秀一は悲鳴を上げた。
脛に齧りついている犬の鼻面を、もう一方の足で蹴り飛ばす。
「ちくしょー! どうしろっていうんだよ!」
秀一が天井に向かって泣き言を叫んだ時だった。
『上じゃない!』
突然声が聞こえた。
人間の言葉ではないけれど、一般的な念話でもない。
それは、秀一の耳から聞こえる、はっきりとした声だった。
――仲間がいる!?
秀一の心の中に、小さな灯明が灯った。
耳に聞こえてきた声は、人狼同士が仲間に呼びかける時に使う声だ。他の種族には聞き取ることのできない声である。
個体差はあるが、その声の聞こえる範囲は四キロ前後といったところだ。
秀一はその声に向かって、全身で吠えた。
藁にもすがる思いというのは、こういうときに使う言葉なのかも知れない。
間を置かずに返事が返ってくる。
『屋上に向かってはいけない。トラップだ。下だ。阿部信乃は地下に囚われている』
もしかすると、この声だって罠かもしれない。
頭の隅でそう考えなかったわけではないが、今の秀一にとってこの声以外に、頼れるものはなかった。
秀一は飛びかかってきた一匹に渾身の力で拳を埋め込むと、振り返りざま大きく跳ね跳び、犬の群れを飛び越え、登ってきたばかりの階段を今度は一目散に駆け下り始めた。
ダダダダダダダダ! ダダダダ! ダダダダ!
先程小鬼二体と戦った踊り場に差し掛かった時、突然銃声が響いた。思わず身をすくめ、手すりの影に身を伏せる。
銃声は断続的に続き、あたりに硝煙の匂いが立ち込めていた。
敵が銃器を使用したということは、秀一にとっては驚きだった。鬼に出くわしたことよりも、烏男よりも、操られた犬に襲われたことよりも、秀一に深い衝撃を与えた。
「嘘だろう?」
言葉が思わず秀一の口から漏れる。
妖同士の戦いで、人間の使う武器が使用されることはまず無いはずだった。
妖というのは、もともとそれぞれに高い能力を持っている。人間の扱う道具には確かに便利なものもあるが、戦いの場に於いて、それを使いこなすことよりも、自分たちの持っている力を使ったほうが圧倒的に楽なのだ。
もちろん、妖力の高くない妖ならば、人間の使う武器をもたせたほうが破壊力は上がるかも知れないけれど、それでも妖には妖なりのプライドというものもある。