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trap4 潜入

 そうっと足を進めていくと、その先に階段をみつけた。
 この建物にはどうやら地下もあるらしく、階段は下にも伸びていく。
 ザァァァーー、間断なく聞こえている雨音の中に、カタン、という物音が聞こえて、秀一ははっと振り返った。
 振り返った先では、侵入してきた待合室がうっすらとした明かりの中で浮かび上がって見えた。動くものは見当たらない。
 埃っぽさが鼻をくすぐる、非常灯すら灯らぬ廊下。
 闇の底に立っているような気持ちになってくる。
 耳を澄ませるが、物音はもう聞こえない。空耳なわけはないのだと思うのだが……。
 は、は、は、は、
 今聞こえるのは自分自身の呼吸音だ。鳴り止まぬ雨音は、すでに意識の外にある。
 ここまで走り通しだったから、多少息があがっている。
 呼吸を落ち着けようと、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
 暗闇も静けさも、秀一にとっては恐怖ではない。本能に飲み込まれない程度に感情を殺し、周囲の気配を探ることに集中した。
 カタン。
 ――上!
 今一度聞こえた物音に、秀一は弾かれたように上へ向かって飛び出していった。
 踊り場でくるりと方向転換したところで、上階から何者かが襲いかかってきた。 
 ザリ……。
 埃の積もった床材を蹴り、秀一は跳んだ。
 初めに襲いかかってきた一体の獣を躱してその背後に回り込み、階下に蹴落とす。
 現れたのは、二体の魔物だった。鬼の仲間ではあるが、かなり格下の、邪鬼、もしくは悪鬼などと呼ばれる類の妖魔だ。
 筋肉質な体つきではあるが、不自然なほど前かがみで、腹が出ている。腕が長く、その動きは人というよりは、猿といったたぐいの獣を連想させた。
 一体を階下に突き落としたところで、秀一は背中に衝撃を受けた。

「ぐっ……!」

 思わず声が漏れる。
 背中の皮膚が裂けたかもしれない。
 秀一が床に転がりながら襲ってきたもう一体から距離をとった。

 はっ、はっ、はっ、はっ……

 踊り場には、秀一と鬼の呼吸音が絡まり合いながら反射している。
 その場には、生臭い匂いが広がっていた。
 秀一は痛みをこらえて起き上がると、敵めがけてふたたび跳ぶ。それほど深手ではなかったのだろう、動き出してしまえば、痛みを忘れることが出来た。
 鬼の繰り出す腕の下をかいくぐり、トン、と壁を蹴ると鬼の肩に跳び乗った。そのまま腕を鬼の首に回し、力を込める。
 ゴキン!
 という音とともに、嫌な感触が腕に伝わり、鬼の体から力が抜けていった。
 秀一は鬼の首から腕を外すと、さらに上の階へ向かって歩き始めた。
 二階を何事もなく通り過ぎ、三階にたどり着いたとき、一斉に何かが羽ばたく音が聞こえた。秀一が天井へと目を向けると、廊下の奥から、無数の黒い鳥が、秀一をめがけて飛び掛かってくる。かなり大きな鳥だ。
 秀一は思わず頭を両腕でかばった。
 ギャア、ギャア、という鳴き声と、バサバサという羽音に包まれる。
 休む間もなく嘴でつつかれる。
 秀一は身体を小さくして耐えた。
 腕の間から、覗き見ると、幾羽もの黒い鳥――おそらく烏の群れが、秀一を攻撃している。

「ちっくしょ……ちょこまかと……うぅぅぅおりゃぁぁ!」

 気合を入れると、秀一は目の前の鳥の足をむんずと掴んだ。手にした足が三本あることにほんの少しぎょっとしたが、そんなことに気を取られている暇はない。

 ギャーーッ!

 と、鋭い鳴き声が上がるのも意に介さずに、秀一はその足を持ったまま振り回し、周囲の鳥を追い払った。
 新たに仕留めた一羽を空いた手に掴み、両腕を大車輪のように振り回す。狙いも何もあったものではないが、それでも最初のうちは確かな手応えを感じていた。
 しかし、しばらくする烏の群れは秀一から離れていった。 
 天井を埋め尽くすようだった黒い鳥が一つに集まろうとしている。黒っぽい影のようだったものが、ぎゅっとその存在を濃くして、その影の中に無数の烏が吸い込まれていく。今までの乱闘の名残か、周囲には黒い羽がふわふわと舞っていた。
 暗闇の中のことだ。
 普通の人間だったら、この光景を目撃することは出来なかっただろう。
 けれども秀一の瞳には、目の前の変化がはっきりと映っていた。
 まとまった黒い鳥は、どんどん小さくなり、人の形になろうとしている。
 は音がしなくなり、再び静寂に包まれた闇の中に、黒いスーツを纏った男が立っていた。
 長い髪を後ろにゆるく一つに束ねている。はらりと一筋の髪が白磁の頬に落ちかかる。
 薄い唇がゆっくりと開いた。
 どこか大人の男の色香のようなものを漂わせたその男は、確かに美しかったが、その瞳には、殺気にもにた気配が、チラチラと見え隠れしている。

「飛んで火に入るなんとやら……だね。大神秀一」

 地の底から聞こえてきたのではないか。そう思わせるような低い声だった。
 秀一は手にしていた鳥を、力いっぱい男に向けて投げつけてみた。
 男はそこに立ったまま、手をポケットから出すこともなければ瞬きすらしなかった。
 投げつけた黒い二羽の鳥は、男にぶつかると思った途端に、当の男の中に音もなく、吸い込まれるように消えていった。

 くすっ。

 男が笑った。きれいな笑だったが、秀一にはどこか歪んで見えた。
    
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