innocent1 異界
「……ぶ?」
遠くから翔の声が聞こえてきて、秀一は現実に引き戻された。
「え?」
「だから、何して遊ぶ? って、さっきから聞いてる」
訝 しげな顔で、翔がこちらをみていた。
「あ? あー。そうだなあ。なあ、おまえ、蝉取りできるか?」
秀一は信乃に聞いた。
秀一と翔はTシャツに短パン(翔はステテコ)というラフな出で立ちだったが、信乃は随分きちんとした服装をしていた。
淡いブルーのボタンダウンの半袖シャツに、サスペンダー付きのきちんと折り目の付いたクリーム色の半ズボン。どこぞのお坊ちゃまか! というような服装だ。しかもクリーム色なんて、すぐに汚れてしまいそうだ。
が、そうたずねられた信乃の瞳がカチリ、と動いた。
「できるよ。あんまりやったことはないけどね」
そう言うと、首を少し横に倒し、秀一を見上げる。
セリフは相変わらず棒読みだったが、その瞳には挑むような光が宿っていた。生気のない人形に、血が通った瞬間を見たようで、秀一はその変化にびっくりした。
「あー、っつうか、その服汚れても平気なのかよ」
秀一は内心の動揺を気取られないように気を引き締めると、信乃の着ているクリーム色の半ズボンを指さす。
「僕の服のこと気にしてたの? 大丈夫。汚れてもかまわないよ。父は、僕が泥んこになるくらい外で遊んだって知ったら、かえって喜ぶかもしれないよ」
話し出すと、印象が変わった。
特に表情は変わらないし口調も平坦ではあるけれど、性格は思ったより勝ち気なようで、秀一は「面白そうだな」と嬉しい気持ちになった。
ただ、どういうわけで「センゾガエリノヒメ」とよばれているのかについては、大きく疑問が残ったままだ。
どこからどう見ても「姫」には見えないし、自分のことを「僕」と呼んでいるのだから、男の子に違いない。それに、秀就は力の強い子どもだと言ってたけれど、薄い身体で細い手足をした信乃に、秀一や翔よりも大きな力があるとは信じ難かった。
「あ、そだ。信乃はいくつなんだよ」
「いくつ?」
「年だよ年。俺と翔は同い年で、九歳だからな」
翔からはひとつ年上だと聞かされたが、ずいぶんと小柄だから、もしかしたら年下ではないのか? そう思って確認をしたのだ。
だが意外にも
「僕は、このあいだ十歳になったよ」
という返事がかえってきた。
「この間っていつだよ」
「八月十一日」
今日は八月二十日である。
「ふうん。なったばっかじゃん。じゃあ、同い年でいいじゃん。んじゃ、蔵から虫取り網とカゴ、持ってこようぜ!」
秀一は自分から聞いたにもかかわらず、信乃が歳上であるという事実はさっさと意識の外へ追いやることに決めると、先頭になって走り出した。
――そうして。
その日の出来事は、秀一にとって生涯忘れられないものとなった。
真夏の、真っ白な日差し。
畑の周囲に植えられた木々。
蝉の声。
滴る汗。
張り付くシャツ。
揺らめく蜃気楼。
三人は、蝉を見つけては捕まえて、カゴの中に入れていく。
秀一が「よーい、どん!」と言ってから「おわり!」と言うまでに一番たくさん蝉を捕れた者が勝ち、という単純な勝負だ。
捕っていいのは畑の中だけ。畑から出たら反則負け。
畑の周囲を取り囲むように植えてある木々にはたくさんの蝉がとまっていて、獲物に困ることはない。三人ともその遊びに夢中になっていた。
秀一たち大神家の一族の者は、鼻がきく。
翔たち天羽家の一族の者は、予兆を感じる力がある。
最初にそれに気付いたのは翔だった。
「秀一、なんだか嫌な感じがしないか?」
木にとまるミンミンゼミを捕まえようとしていた秀一は、翔の声にふと集中が途切れた。
ジジッ……!
もうあと少しで捉えることが出来たのに、蝉は伸ばした網の先から逃げていってしまう。
「ああああぁぁぁぁ!」
振り返って、翔を睨んだ。
「もう、なんだよ! 嫌な予感って! お前が負ける予感だろう! 俺もう少しであと一匹……」
しかし秀一は、あたりに漂いはじめたただならぬ気配に、残る言葉を飲み込んだ。
「来る! 匂いがする……何か、来る!」
秀一は鼻をひくつかせながら、あたりの様子をうかがった。
「信乃! 信乃ーーぉ! どこにいる!?」
翔が大声で呼びかけたけれども返事がない。
「信乃おぉ! どこだぁ!」
秀一も口元に手を当てて、大きな声で呼びかけた。
「しゅ……いち……」
秀一の耳が信乃のささやきを拾った。
声のする方向をたどると、広い畑のちょうど反対側の木陰に信乃が立っていた。
ぞわり。
秀一の全身の毛が逆立つ。
なにか、とてつもなく恐ろしいことが起きようとしている。
しかもそれは、信乃のいる方角からやって来ようとしていた。
「走れ! 信乃!」
秀一の声に弾かれて、それまで固まっていた信乃が、よろよろと足を動かしはじめた。
「なんだこれ? この気配……」
つぶやく秀一の額には、暑さのせいではない汗が吹き出していた。
「知るか。なあ、なんだか涼しくなってきたみたいじゃないか?」
異変を察した翔も、腰を落とし、不測の事態に備えているようだ。
秀一の耳がピクピクと動いた。思わず歯をむき出して、唸ってしまいそうになる。
遠くから翔の声が聞こえてきて、秀一は現実に引き戻された。
「え?」
「だから、何して遊ぶ? って、さっきから聞いてる」
「あ? あー。そうだなあ。なあ、おまえ、蝉取りできるか?」
秀一は信乃に聞いた。
秀一と翔はTシャツに短パン(翔はステテコ)というラフな出で立ちだったが、信乃は随分きちんとした服装をしていた。
淡いブルーのボタンダウンの半袖シャツに、サスペンダー付きのきちんと折り目の付いたクリーム色の半ズボン。どこぞのお坊ちゃまか! というような服装だ。しかもクリーム色なんて、すぐに汚れてしまいそうだ。
が、そうたずねられた信乃の瞳がカチリ、と動いた。
「できるよ。あんまりやったことはないけどね」
そう言うと、首を少し横に倒し、秀一を見上げる。
セリフは相変わらず棒読みだったが、その瞳には挑むような光が宿っていた。生気のない人形に、血が通った瞬間を見たようで、秀一はその変化にびっくりした。
「あー、っつうか、その服汚れても平気なのかよ」
秀一は内心の動揺を気取られないように気を引き締めると、信乃の着ているクリーム色の半ズボンを指さす。
「僕の服のこと気にしてたの? 大丈夫。汚れてもかまわないよ。父は、僕が泥んこになるくらい外で遊んだって知ったら、かえって喜ぶかもしれないよ」
話し出すと、印象が変わった。
特に表情は変わらないし口調も平坦ではあるけれど、性格は思ったより勝ち気なようで、秀一は「面白そうだな」と嬉しい気持ちになった。
ただ、どういうわけで「センゾガエリノヒメ」とよばれているのかについては、大きく疑問が残ったままだ。
どこからどう見ても「姫」には見えないし、自分のことを「僕」と呼んでいるのだから、男の子に違いない。それに、秀就は力の強い子どもだと言ってたけれど、薄い身体で細い手足をした信乃に、秀一や翔よりも大きな力があるとは信じ難かった。
「あ、そだ。信乃はいくつなんだよ」
「いくつ?」
「年だよ年。俺と翔は同い年で、九歳だからな」
翔からはひとつ年上だと聞かされたが、ずいぶんと小柄だから、もしかしたら年下ではないのか? そう思って確認をしたのだ。
だが意外にも
「僕は、このあいだ十歳になったよ」
という返事がかえってきた。
「この間っていつだよ」
「八月十一日」
今日は八月二十日である。
「ふうん。なったばっかじゃん。じゃあ、同い年でいいじゃん。んじゃ、蔵から虫取り網とカゴ、持ってこようぜ!」
秀一は自分から聞いたにもかかわらず、信乃が歳上であるという事実はさっさと意識の外へ追いやることに決めると、先頭になって走り出した。
――そうして。
その日の出来事は、秀一にとって生涯忘れられないものとなった。
真夏の、真っ白な日差し。
畑の周囲に植えられた木々。
蝉の声。
滴る汗。
張り付くシャツ。
揺らめく蜃気楼。
三人は、蝉を見つけては捕まえて、カゴの中に入れていく。
秀一が「よーい、どん!」と言ってから「おわり!」と言うまでに一番たくさん蝉を捕れた者が勝ち、という単純な勝負だ。
捕っていいのは畑の中だけ。畑から出たら反則負け。
畑の周囲を取り囲むように植えてある木々にはたくさんの蝉がとまっていて、獲物に困ることはない。三人ともその遊びに夢中になっていた。
秀一たち大神家の一族の者は、鼻がきく。
翔たち天羽家の一族の者は、予兆を感じる力がある。
最初にそれに気付いたのは翔だった。
「秀一、なんだか嫌な感じがしないか?」
木にとまるミンミンゼミを捕まえようとしていた秀一は、翔の声にふと集中が途切れた。
ジジッ……!
もうあと少しで捉えることが出来たのに、蝉は伸ばした網の先から逃げていってしまう。
「ああああぁぁぁぁ!」
振り返って、翔を睨んだ。
「もう、なんだよ! 嫌な予感って! お前が負ける予感だろう! 俺もう少しであと一匹……」
しかし秀一は、あたりに漂いはじめたただならぬ気配に、残る言葉を飲み込んだ。
「来る! 匂いがする……何か、来る!」
秀一は鼻をひくつかせながら、あたりの様子をうかがった。
「信乃! 信乃ーーぉ! どこにいる!?」
翔が大声で呼びかけたけれども返事がない。
「信乃おぉ! どこだぁ!」
秀一も口元に手を当てて、大きな声で呼びかけた。
「しゅ……いち……」
秀一の耳が信乃のささやきを拾った。
声のする方向をたどると、広い畑のちょうど反対側の木陰に信乃が立っていた。
ぞわり。
秀一の全身の毛が逆立つ。
なにか、とてつもなく恐ろしいことが起きようとしている。
しかもそれは、信乃のいる方角からやって来ようとしていた。
「走れ! 信乃!」
秀一の声に弾かれて、それまで固まっていた信乃が、よろよろと足を動かしはじめた。
「なんだこれ? この気配……」
つぶやく秀一の額には、暑さのせいではない汗が吹き出していた。
「知るか。なあ、なんだか涼しくなってきたみたいじゃないか?」
異変を察した翔も、腰を落とし、不測の事態に備えているようだ。
秀一の耳がピクピクと動いた。思わず歯をむき出して、唸ってしまいそうになる。