trap4 潜入
ほんの少し前まであれほど青かった空は、もうすっかり分厚い雲に覆われていた。ただでさえ暗い森の中は、さらに暗色を濃くしている。
昼間だというのに夕暮れのような薄暗さの中、大神秀一は山中を走っていた。
ゴロゴロという雷の音が耳に届き、ぽつ、ぽつ、と水滴が顔にかかるのを感じた。
雨によって匂いがかき消されてしまう前に、追いつかなければいけない。
まだそれほど雨脚は強くはなく、学園のある山の反対側の斜面の方へと向かっていく信乃の匂いを秀一ははっきりと感じることができた。
しかし、反対側の斜面へ真っ直ぐに通じる道はない。
学園のある場所から、反対側の斜面に向かうためには、一度麓へ下り、別ルートで登らなければいけない。
もちろん、地元の人間が利用するための細い砂利道や、獣道ならある。ただ、よほど土地勘のあるものでなくては周囲を覆い尽くす藪に紛れ、道があることすら気が付かないかも知れない。
秀一はそんな山の中を、信乃の臭いだけを頼りに、ひた走っていく。
並の人間なら方向感覚さえあっという間に失い、進むこともままならないであろう山の中を、全力疾走で駆けていた。
鬱蒼と茂る枝がバチバチと身体に当たり、秀一の着ていたシャツやズボンはすでにあちこちにかぎ裂きが出来ている。
しかし、敵が車を使わずにこの山道を突っ切っていってくれたであろうことは、秀一にとっては喜ばしいことだった。車など使われては、匂いを追うことが難しくなる。
それにしても、信乃を抱えていた頬に傷のある大きな男は、かなりの能力を持った妖 に違いない。
意識をなくした人間をひとり抱えて、秀一でも追いつくことの出来ない速さでこの山の中を駆け抜けていったのだ。
秀一はまだ子どもではあるが、妖しの中でも高位であり、高い能力を有する大神家の総領息子だ。もともとの能力に加え、幼いころからそれなりの訓練を受けてきている。
たいていの妖魔には――たとえ相手が大人であっても――能力で劣ることはまずない。
それなのに、これだけ必死で追いかけているというのに、相手との距離が縮んでいるという気がしない。
枝をかき分け、急に現れる亀裂を飛び越え、岩を蹴り、どれだけ森の中を駆け抜けただろうか。
唐突に途切れた藪の向こうは、アスファルトの道だった。
はあ。
はあ。
はあ。
はあ。
突如として開けた場所に出て、秀一は一瞬立ち止まった。
先程から降り出した雨は、アスファルトに黒い大きな水玉をつけていた。出来ては消える水玉模様は、後少しすれば真っ黒に塗りつぶされてしまうだろう。
――はやく見つけなくては。
秀一は坂道を転がるように走り出した。
しばらくすると、巨大な廃墟があった。
敷地の奥へと続くゲートには、立入禁止の看板が立っている。看板とゲートの金属の柱は鎖で繋がれていて、さながらゴールテープのようだった。
秀一は天を仰ぎ、鼻をうごめかした。
そのゲートの向こう、いくつかある建物のひとつに、秀一の意識は吸い寄せられていく。野生の勘が、あそこに信乃がいると告げている。
見失わずに、追いかけることができた。
胸の中に安堵が広がり、秀一はほんの少し肩の力を抜いた。
◇
薄暗がりの中に、その洋風な建物は黒い影のように浮かび上がっていた。
バブル期に企業の保養所として建設されたものの、完成間近でバブルが弾け、そのまま打ち捨てられた過去の遺物だ。
もう少し町中にあったのなら、無節操な若者たちの肝試しの場にでもなったのだろうが、あまりにも山奥だったために、誰の目にも止まらないまま、ゆるゆると朽ちていこうとしている。
秀一は侵入者を退けるために設置されたのであろう鎖をまたぎ、静かに廃墟の中へと足を踏み入れた。
気分が高揚し、人としての意識よりも、狼としての本能のほうが大きく膨れ上がっていく。
狼の姿になってしまえば信乃の追跡もたやすいのだろうが、秀一はまだ自分自身を律し、コントロールすることができない。狼化してしまえば、人としての意識を失って、ここまで来た目的さえも忘れてしまう恐れがある。
きちんと成熟した人狼であれば、人間になることも、狼になることも、自分自身の意識を保ったまま自由にできるというのに……。
秀一は自分がまだ子どもだということを、これほど歯がゆく思ったことはなかった。
ギリツ……。
噛み締めた奥歯が、小さな音をたてた。
ゲートを潜った先は開けた空間になっていて、真ん中を突っ切れば建物までは近いのだが、身を隠せる場所が全くない。
秀一は多少遠回りでも、建物や大きな木の影を伝って、目的の建物へと向かうことにした。
身を隠しながら少しずつ前進し、ようやく目指す建物の前までたどり着く。
まるで侵入してくれと言わんばかりに、大きな扉にはめ込まれたガラスは砕け、ジグザグとした穴が開いていた。
その穴から、そろりと体を滑り込ませる。
パリンッ!
踏み砕いたガラスが音をたてる。秀一は思わず立ち止まり、周囲の気配をうかがった。
音は周囲に反響しながら建物の奥に広がる闇の中に吸い込まれていった。
秀一が侵入したのは、ロビーか待合室という雰囲気の場所で、大きく開けている。大きな窓もあるおかげで、ほんのりと明るい。
けれど、奥へと続いていく廊下は真っ暗で、闇の中へと溶けていくようだった。
昼間だというのに夕暮れのような薄暗さの中、大神秀一は山中を走っていた。
ゴロゴロという雷の音が耳に届き、ぽつ、ぽつ、と水滴が顔にかかるのを感じた。
雨によって匂いがかき消されてしまう前に、追いつかなければいけない。
まだそれほど雨脚は強くはなく、学園のある山の反対側の斜面の方へと向かっていく信乃の匂いを秀一ははっきりと感じることができた。
しかし、反対側の斜面へ真っ直ぐに通じる道はない。
学園のある場所から、反対側の斜面に向かうためには、一度麓へ下り、別ルートで登らなければいけない。
もちろん、地元の人間が利用するための細い砂利道や、獣道ならある。ただ、よほど土地勘のあるものでなくては周囲を覆い尽くす藪に紛れ、道があることすら気が付かないかも知れない。
秀一はそんな山の中を、信乃の臭いだけを頼りに、ひた走っていく。
並の人間なら方向感覚さえあっという間に失い、進むこともままならないであろう山の中を、全力疾走で駆けていた。
鬱蒼と茂る枝がバチバチと身体に当たり、秀一の着ていたシャツやズボンはすでにあちこちにかぎ裂きが出来ている。
しかし、敵が車を使わずにこの山道を突っ切っていってくれたであろうことは、秀一にとっては喜ばしいことだった。車など使われては、匂いを追うことが難しくなる。
それにしても、信乃を抱えていた頬に傷のある大きな男は、かなりの能力を持った
意識をなくした人間をひとり抱えて、秀一でも追いつくことの出来ない速さでこの山の中を駆け抜けていったのだ。
秀一はまだ子どもではあるが、妖しの中でも高位であり、高い能力を有する大神家の総領息子だ。もともとの能力に加え、幼いころからそれなりの訓練を受けてきている。
たいていの妖魔には――たとえ相手が大人であっても――能力で劣ることはまずない。
それなのに、これだけ必死で追いかけているというのに、相手との距離が縮んでいるという気がしない。
枝をかき分け、急に現れる亀裂を飛び越え、岩を蹴り、どれだけ森の中を駆け抜けただろうか。
唐突に途切れた藪の向こうは、アスファルトの道だった。
はあ。
はあ。
はあ。
はあ。
突如として開けた場所に出て、秀一は一瞬立ち止まった。
先程から降り出した雨は、アスファルトに黒い大きな水玉をつけていた。出来ては消える水玉模様は、後少しすれば真っ黒に塗りつぶされてしまうだろう。
――はやく見つけなくては。
秀一は坂道を転がるように走り出した。
しばらくすると、巨大な廃墟があった。
敷地の奥へと続くゲートには、立入禁止の看板が立っている。看板とゲートの金属の柱は鎖で繋がれていて、さながらゴールテープのようだった。
秀一は天を仰ぎ、鼻をうごめかした。
そのゲートの向こう、いくつかある建物のひとつに、秀一の意識は吸い寄せられていく。野生の勘が、あそこに信乃がいると告げている。
見失わずに、追いかけることができた。
胸の中に安堵が広がり、秀一はほんの少し肩の力を抜いた。
◇
薄暗がりの中に、その洋風な建物は黒い影のように浮かび上がっていた。
バブル期に企業の保養所として建設されたものの、完成間近でバブルが弾け、そのまま打ち捨てられた過去の遺物だ。
もう少し町中にあったのなら、無節操な若者たちの肝試しの場にでもなったのだろうが、あまりにも山奥だったために、誰の目にも止まらないまま、ゆるゆると朽ちていこうとしている。
秀一は侵入者を退けるために設置されたのであろう鎖をまたぎ、静かに廃墟の中へと足を踏み入れた。
気分が高揚し、人としての意識よりも、狼としての本能のほうが大きく膨れ上がっていく。
狼の姿になってしまえば信乃の追跡もたやすいのだろうが、秀一はまだ自分自身を律し、コントロールすることができない。狼化してしまえば、人としての意識を失って、ここまで来た目的さえも忘れてしまう恐れがある。
きちんと成熟した人狼であれば、人間になることも、狼になることも、自分自身の意識を保ったまま自由にできるというのに……。
秀一は自分がまだ子どもだということを、これほど歯がゆく思ったことはなかった。
ギリツ……。
噛み締めた奥歯が、小さな音をたてた。
ゲートを潜った先は開けた空間になっていて、真ん中を突っ切れば建物までは近いのだが、身を隠せる場所が全くない。
秀一は多少遠回りでも、建物や大きな木の影を伝って、目的の建物へと向かうことにした。
身を隠しながら少しずつ前進し、ようやく目指す建物の前までたどり着く。
まるで侵入してくれと言わんばかりに、大きな扉にはめ込まれたガラスは砕け、ジグザグとした穴が開いていた。
その穴から、そろりと体を滑り込ませる。
パリンッ!
踏み砕いたガラスが音をたてる。秀一は思わず立ち止まり、周囲の気配をうかがった。
音は周囲に反響しながら建物の奥に広がる闇の中に吸い込まれていった。
秀一が侵入したのは、ロビーか待合室という雰囲気の場所で、大きく開けている。大きな窓もあるおかげで、ほんのりと明るい。
けれど、奥へと続いていく廊下は真っ暗で、闇の中へと溶けていくようだった。