trap2 内覧会
建物の中に足を踏み入れた途端、真新しい匂いに圧倒される。
「臭い」
秀一は思わず一歩後ずさった。
鼻の良い秀一にとって、建物の中にこもる匂いは、かなり強烈な刺激だったのだ。
「出来たばかりなんだから、しかたのないことだ。だんだんに熟 れるだろう」
後ろからやってきた秀就 が秀一を追い抜き、正面の玄関から中等部校舎内へと入って行った。
ずらりと並んだ来客用の濃紺のスリッパに履き替え、今まで履いていた靴は、入ってすぐのところに広げられたブルーシートの上に置く。
今日は、来年度から開校が決まっている私立九十九学園の、内覧会なのだった。
近い将来学園に通う予定の生徒と、その父兄のために、学園内のすべての施設が開放されており、自由に見学できるようになっていた。
学園には初等科、中等科、高等科、の三つの棟があり、それぞれの中央昇降口には、真新しいスリッパが、来客を待ち構えていた。
昼には、食堂での給食試食会も開催される予定となっている。
試食会の時間は決められているが、それ以外については、時間内であれば好きに校内を見て回ることが可能なのである。
秀一は、今年で十三歳になった。もし来年度からこの学園に入学するとすれば、中等科二年に入ることになる。
父親の秀就が理事に就任することが決まっており、入学しないわけにはいかないのだろうが、彼自身にまだその実感は湧いてきていない。
何しろ生まれてこの歳になるまで、学校などというものに通ったことがない。家族や知り合いにだって、学校に通ったなんて者はいないのだ。
ただ、入学したくないわけではない。むしろ、この学園に入学することを楽しみにしていた。
理由の一つは、この学園が全寮制であるということだ。
全国各地から人非ざるものたちが集まる「私立九十九学園」は、日本国内では唯一無二の学園であり、すべての生徒に入寮が義務付けられている。
中にはそれを危惧する声もあったというが、今の秀一にとっては、それこそ願ったり叶ったりの制度だ。
「秀一さん、上履き……」
「わかってるよ……」
後ろから声をかけてきた露に、秀一は眉根を寄せながら答えた。わかりきったことを指摘されて、答える声に自然と棘が交じる。
「秀一、何だその態度は」
先に校舎内に入っていた秀就が振り返り、秀一の態度をたしなめる。
「べつに……」
秀一は視線を下へ向けたまま上履きを荷物から取り出すと廊下へぱん、と音を立てて置いた。
力が入っていたのだろう。自分でしたこととはいえ、秀一自身も音の大きさに、実は少しばかり驚いたのだ。ただ、その驚きを、周囲に気取られるのは恥ずかしくて、平然とした様子を取り繕う。それがいけなかった。
「秀一……」
振り返った秀就の声に、怒りの色がこもる。
秀一の心のなかに立った漣 が、次第に大きくなっていく。
最近はいつもこうだ。父にも、そして露にも、ちょっとしたことで苛立ち、反抗的な態度を取ってしまう。
――俺が何をした。少しばかり大きな音をたてて上履きを廊下においたくらいで、なぜそんな怒ったような声で呼ばれなくちゃならない?
そんな暗い思いが、胸の中にジワリと染み出す。
露も露だ、と思う。
「上履きに履き替えるのなんて、いちいち言われなくてもわかってるんだよ」
と秀一が言えば、申し訳なさそうに「あ、ごめんなさい」と謝る。
「露! 謝る必要はない」
と秀就が言えば「あ、すいま……」と謝りそうになり、慌てたように口に手を当てる。そんな露の様子にすらイライラしてくる。
昔はそうじゃなかった。
露の柔らかな笑顔が好きだった。
なのに、今はその笑顔にすら苛立ちがつのる。
「親父の言いなりかよ」
だからそんな憎まれ口をきいて秀一は横を向く。
こちらへ近づいてくる秀就に
――ああ、これは手をあげられるかもしれない。
と秀一が覚悟を決めたところで、背後から声がかかった。
「こんにちは」
低い声だった。
秀一が振り返ると、そこには赤毛のソフトモヒカンが印象的な、大きな身体の少年が立っていた。
天羽翔。
彼は秀一と同じ十三歳であるにも関わらず、すでに大人の雰囲気を纏っていた。声変わりも終わったらしく、低くて深い声色をしている。ゆったりめの薄手のセーターにジーンズという服装も、彼を更に大人っぽく見せていた。流石に今日は、いつもの変な柄のTシャツは着ていない。
「ああ、翔くんか!」
そんな翔の姿に秀就が感嘆の声を上げた。
「いやあ、すっかり大人っぽくなったねえ。うちの秀一と同い年とは思えないなあ」
おそらく悪気があったのではないのだろうが、秀一には父の言うことがいちいち癪に障る。
「父さん。俺、翔と校内を見てくるから」
そう言って、秀一は翔の隣に立った。
秀就は何かいいかけたが、翔の後ろから校舎の中へと入ってきた天羽高志の姿を認めると、笑顔を浮かべた。
父親同志が笑顔で握手を交わし、軽い挨拶をはじめる。それと一緒に、その場に漂っていた険悪な空気が消えていった。
「臭い」
秀一は思わず一歩後ずさった。
鼻の良い秀一にとって、建物の中にこもる匂いは、かなり強烈な刺激だったのだ。
「出来たばかりなんだから、しかたのないことだ。だんだんに
後ろからやってきた
ずらりと並んだ来客用の濃紺のスリッパに履き替え、今まで履いていた靴は、入ってすぐのところに広げられたブルーシートの上に置く。
今日は、来年度から開校が決まっている私立九十九学園の、内覧会なのだった。
近い将来学園に通う予定の生徒と、その父兄のために、学園内のすべての施設が開放されており、自由に見学できるようになっていた。
学園には初等科、中等科、高等科、の三つの棟があり、それぞれの中央昇降口には、真新しいスリッパが、来客を待ち構えていた。
昼には、食堂での給食試食会も開催される予定となっている。
試食会の時間は決められているが、それ以外については、時間内であれば好きに校内を見て回ることが可能なのである。
秀一は、今年で十三歳になった。もし来年度からこの学園に入学するとすれば、中等科二年に入ることになる。
父親の秀就が理事に就任することが決まっており、入学しないわけにはいかないのだろうが、彼自身にまだその実感は湧いてきていない。
何しろ生まれてこの歳になるまで、学校などというものに通ったことがない。家族や知り合いにだって、学校に通ったなんて者はいないのだ。
ただ、入学したくないわけではない。むしろ、この学園に入学することを楽しみにしていた。
理由の一つは、この学園が全寮制であるということだ。
全国各地から人非ざるものたちが集まる「私立九十九学園」は、日本国内では唯一無二の学園であり、すべての生徒に入寮が義務付けられている。
中にはそれを危惧する声もあったというが、今の秀一にとっては、それこそ願ったり叶ったりの制度だ。
「秀一さん、上履き……」
「わかってるよ……」
後ろから声をかけてきた露に、秀一は眉根を寄せながら答えた。わかりきったことを指摘されて、答える声に自然と棘が交じる。
「秀一、何だその態度は」
先に校舎内に入っていた秀就が振り返り、秀一の態度をたしなめる。
「べつに……」
秀一は視線を下へ向けたまま上履きを荷物から取り出すと廊下へぱん、と音を立てて置いた。
力が入っていたのだろう。自分でしたこととはいえ、秀一自身も音の大きさに、実は少しばかり驚いたのだ。ただ、その驚きを、周囲に気取られるのは恥ずかしくて、平然とした様子を取り繕う。それがいけなかった。
「秀一……」
振り返った秀就の声に、怒りの色がこもる。
秀一の心のなかに立った
最近はいつもこうだ。父にも、そして露にも、ちょっとしたことで苛立ち、反抗的な態度を取ってしまう。
――俺が何をした。少しばかり大きな音をたてて上履きを廊下においたくらいで、なぜそんな怒ったような声で呼ばれなくちゃならない?
そんな暗い思いが、胸の中にジワリと染み出す。
露も露だ、と思う。
「上履きに履き替えるのなんて、いちいち言われなくてもわかってるんだよ」
と秀一が言えば、申し訳なさそうに「あ、ごめんなさい」と謝る。
「露! 謝る必要はない」
と秀就が言えば「あ、すいま……」と謝りそうになり、慌てたように口に手を当てる。そんな露の様子にすらイライラしてくる。
昔はそうじゃなかった。
露の柔らかな笑顔が好きだった。
なのに、今はその笑顔にすら苛立ちがつのる。
「親父の言いなりかよ」
だからそんな憎まれ口をきいて秀一は横を向く。
こちらへ近づいてくる秀就に
――ああ、これは手をあげられるかもしれない。
と秀一が覚悟を決めたところで、背後から声がかかった。
「こんにちは」
低い声だった。
秀一が振り返ると、そこには赤毛のソフトモヒカンが印象的な、大きな身体の少年が立っていた。
天羽翔。
彼は秀一と同じ十三歳であるにも関わらず、すでに大人の雰囲気を纏っていた。声変わりも終わったらしく、低くて深い声色をしている。ゆったりめの薄手のセーターにジーンズという服装も、彼を更に大人っぽく見せていた。流石に今日は、いつもの変な柄のTシャツは着ていない。
「ああ、翔くんか!」
そんな翔の姿に秀就が感嘆の声を上げた。
「いやあ、すっかり大人っぽくなったねえ。うちの秀一と同い年とは思えないなあ」
おそらく悪気があったのではないのだろうが、秀一には父の言うことがいちいち癪に障る。
「父さん。俺、翔と校内を見てくるから」
そう言って、秀一は翔の隣に立った。
秀就は何かいいかけたが、翔の後ろから校舎の中へと入ってきた天羽高志の姿を認めると、笑顔を浮かべた。
父親同志が笑顔で握手を交わし、軽い挨拶をはじめる。それと一緒に、その場に漂っていた険悪な空気が消えていった。