trap1 黒の微動
山の端が、青い空にくっきりと浮かび上がっていた。あと少しで周囲は見事な紅葉に彩られるのだろうが、今はまだ幾分緑が勝っている。
関東地方。西の外れにある山中にその学園はあった。
つい数年前までは、対向車が来ようものなら行き交うことさえままならないような細い道が一本あったっきりの、山奥である。
だが今は、初等科から高等科までの一貫教育を掲げる私立九十九学園が来年度から開校されることとなり、それに合わせて立派な道路が整備されていた。
車さえあれば、難なく学園に辿りくことができる。
だが、公共の交通機関となると、日にたった二本のバスしか通っていない。それだって今回の学園開設に合わせて、ようやくできた新しいルートなのだった。
澄んだ日差しを受けて、真新しい校舎が白く輝いている。
いつもはひっそりとした山の中に、今日は朝から賑やかな声がこだましていた。
学園では、来年入学予定の生徒たちとその保護者に向けた、内覧会が行われているのだった。
◇
学園のある山とは対面の山の斜面。生い茂るブナの梢の隙間から、賑わう学園の様子をじっと眺めている者がいる。
黒い長袖のティーシャツにブラックジーンズ。ショートボブの黒髪が微かな風に揺れた。
全身黒ずくめで背を丸め、大きな枝に腰掛けている様子は、烏が枝にとまってでもいるかのように見える。
切れ長だが大きな目の中の、小さな瞳。赤い唇は薄く、その右下にある黒子が印象的な少年だった。
枝の上で、片足を抱えるようにして葉陰から学園の様子をうかがっていた彼の唇が釣り上がり、笑の表情になる。
「……史郎。作戦を、変更する」
小柄で細身の少年には不釣り合いな、かすれた低い声だった。
ブナの木の根本に控えていた男は、梢にとまる少年を見上げる。
男は、木の上に座る少年の父親ほどの年齢だろうか。Tシャツの上に丈の短いジャケットをはおり、太めのワークパンツを履いているが、やはり全身黒づくめである。
ほっそりとした少年とは対称的に、ジャケットの下からのぞく胸板は分厚く、筋肉が盛り上がっていた。男の左の頬には、大きな三本の傷跡が斜めに走っている。もともとの人相はそう悪くないのだろうが、体格と傷のために、とても堅気の人間には見えなかった。
「変更とは?」
「見えたんだ。史郎は覚えているかな?」
少年の質問の意味を掴みかねて、男は答えること無くただ黙って少年を見上げ続けている。
「ほら、昔。僕と二人で大神の家に忍び込んだことがあっただろう? 僕が八歳……いや、もう九つになってたかな? あの時見た異界渡りの女。……そいつがいるよ」
「安倍、信乃ですか」
「そう。あの時は大変だったよね。史郎が見つかっちゃってさ。でもお陰で異界渡りを見ることもできたし、いろいろ知りたかったことを知ることができたよね」
ブナの大木の根本で膝をついていた男は立ち上がり、学園の方へと目を向けた。じいっと見やった後で「確かに」と小さく頷く。
「ね? あなたの子どもも一緒でしょう? 大神秀一?」
「あれは、私の子ではありません」
ふふふふ。と、梢の上から忍び笑いが漏れ聞こえた。
「そうか、そうだよね。あいつの父親は大神秀就 だもんね。アイツもあの学園に入学するんだね。父親が理事なんだから、当然なのかな? 化け物が人間の世界で学校に通う? おっかしいの。ねえ、あいつ何年? 僕、学校になんて行かないから、よくわからないよ」
「弓弦様は八月に十四歳になりましたから、日本の人間世界の中学に通うとなると二年生になりますね。学園開校時には中学三年でしょう。阿部信乃もあなたと一日違いの誕生日ですから同じ年です。そして……大神秀一は……ひとつ下の学年になります」
「そっか……」
弓弦は後ろを振り向きながら、腰を下ろしていたブナの枝を蹴る。
関東地方。西の外れにある山中にその学園はあった。
つい数年前までは、対向車が来ようものなら行き交うことさえままならないような細い道が一本あったっきりの、山奥である。
だが今は、初等科から高等科までの一貫教育を掲げる私立九十九学園が来年度から開校されることとなり、それに合わせて立派な道路が整備されていた。
車さえあれば、難なく学園に辿りくことができる。
だが、公共の交通機関となると、日にたった二本のバスしか通っていない。それだって今回の学園開設に合わせて、ようやくできた新しいルートなのだった。
澄んだ日差しを受けて、真新しい校舎が白く輝いている。
いつもはひっそりとした山の中に、今日は朝から賑やかな声がこだましていた。
学園では、来年入学予定の生徒たちとその保護者に向けた、内覧会が行われているのだった。
◇
学園のある山とは対面の山の斜面。生い茂るブナの梢の隙間から、賑わう学園の様子をじっと眺めている者がいる。
黒い長袖のティーシャツにブラックジーンズ。ショートボブの黒髪が微かな風に揺れた。
全身黒ずくめで背を丸め、大きな枝に腰掛けている様子は、烏が枝にとまってでもいるかのように見える。
切れ長だが大きな目の中の、小さな瞳。赤い唇は薄く、その右下にある黒子が印象的な少年だった。
枝の上で、片足を抱えるようにして葉陰から学園の様子をうかがっていた彼の唇が釣り上がり、笑の表情になる。
「……史郎。作戦を、変更する」
小柄で細身の少年には不釣り合いな、かすれた低い声だった。
ブナの木の根本に控えていた男は、梢にとまる少年を見上げる。
男は、木の上に座る少年の父親ほどの年齢だろうか。Tシャツの上に丈の短いジャケットをはおり、太めのワークパンツを履いているが、やはり全身黒づくめである。
ほっそりとした少年とは対称的に、ジャケットの下からのぞく胸板は分厚く、筋肉が盛り上がっていた。男の左の頬には、大きな三本の傷跡が斜めに走っている。もともとの人相はそう悪くないのだろうが、体格と傷のために、とても堅気の人間には見えなかった。
「変更とは?」
「見えたんだ。史郎は覚えているかな?」
少年の質問の意味を掴みかねて、男は答えること無くただ黙って少年を見上げ続けている。
「ほら、昔。僕と二人で大神の家に忍び込んだことがあっただろう? 僕が八歳……いや、もう九つになってたかな? あの時見た異界渡りの女。……そいつがいるよ」
「安倍、信乃ですか」
「そう。あの時は大変だったよね。史郎が見つかっちゃってさ。でもお陰で異界渡りを見ることもできたし、いろいろ知りたかったことを知ることができたよね」
ブナの大木の根本で膝をついていた男は立ち上がり、学園の方へと目を向けた。じいっと見やった後で「確かに」と小さく頷く。
「ね? あなたの子どもも一緒でしょう? 大神秀一?」
「あれは、私の子ではありません」
ふふふふ。と、梢の上から忍び笑いが漏れ聞こえた。
「そうか、そうだよね。あいつの父親は
「弓弦様は八月に十四歳になりましたから、日本の人間世界の中学に通うとなると二年生になりますね。学園開校時には中学三年でしょう。阿部信乃もあなたと一日違いの誕生日ですから同じ年です。そして……大神秀一は……ひとつ下の学年になります」
「そっか……」
弓弦は後ろを振り向きながら、腰を下ろしていたブナの枝を蹴る。