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innocent3 約束

 ◇

 自分自身を見失ってしまってから、どれほどの時間が過ぎたのだろうか。
 少し前から目は覚めていた。けれどあまりにも身体が重くて、起き上がる気になれないでいる。目を開けることすら億劫で……だから、赤い瞼の裏を見つめている。
 空気はじんわりと暑いけれど、風がそよぐと涼しくも感じた。
 昨夜、意識を失う前に最後に見たのは……信乃だった。
 少し眠たげな瞳。どうしたんだ? とでもいうかのように、ちょこっとかしいだ頭。サラリと黒髪が揺れて……。
 そして……?

 ――信乃?

 パチリと目を開くと、目の前には覗き込むようにこちらを見下ろしている、当の信乃の顔があった。
 秀一は起きたばかりのぼんやりとした頭で、ぐるぐると包帯の巻かれている、信乃の首や腕を目で追った。

「信乃? 怪我したのか? 痛いのか? 誰にやられたんだ? 俺が……」
「秀一くん! 目が覚めたのかい?」

 信乃の後ろには、何故か安倍泰造の顔がある。
 ――彼は信乃を置いて帰ったはずではなかったか?
 頭の中をクエスチョンマークが跳ね回っていた。
 ぐるりと首を巡らせて、間違いなく自分の部屋のベットの上で寝ていることを確認する。
 あたりは明るい。
 人工的な明るさではなく、夏の太陽の眩しいほどの光が、部屋の中に満ちていた。
 泰造は、朝になって信乃を迎えに来たのだろうか。

「覚えていないのかい? 秀一くん」

 泰造が近づいてきて、信乃の後ろから心配げに秀一を見下ろした。

「秀一、目が覚めたのか」

 カチャリと開いたドアから姿を表したのは、父の秀就だった。

 ――なんだって、みんなして俺の部屋に集まってくるんだ?

 そう思ったところで、秀一の脳裏に昨夜の景色が、くっきりと蘇ってきた。それは、匂いや触感まで伴うような、はっきりとしたイメージだった。

 フローリングの長い廊下は銀色の月に照らされて、夜だというのに異様な明るさだった。
 その輝きの中に、ひとつ影が落ちる。
 影の形を、秀一は覚えている。

 獣のような四足の影は、自分自身から伸びていた。影からつながる己の腕はフローリングを踏みしめ、真っ白な獣毛に覆われていて……。

「俺っ!」

 勢いよく跳ね起きた。

「思い出したか、秀一」

 秀一は父を見た。

「おまえは昨夜生まれて初めて本来の姿を取り戻したんだ。ただ、まだ自分自身でコントロールは出来ていないな?」

 秀就の言葉をどこか遠くで聞きながら、秀一は、華奢な体を包帯でぐるぐると巻かれている信乃へと視線を移す。

「俺がやったのか? 信乃のこと、俺が……」

 意識のないうちに、誰かを傷つけてしまったのではないかという恐れが、掛布を握る手を震わせてた。
 信乃を守ると言ったのに、その自分が……他ならぬ自分自身が……信乃を傷つけたのか?
 すうっと血の気が引いた。
 朝の光が眩しすぎて、目眩がする。
 じっと秀一を見つめる信乃の目は凪いでいたけれども、信乃の痛々しい姿を見ていることが苦しくて、秀一は信乃から目をそらした。

「そうだ、秀一。お前は本来の狼としての体を取り戻した。しかし、己をコントロールできず我を忘れてしまった」
「そんな……」

 いつかは覚醒するのだと思っていた。

「若い狼にはよくあることだ。そのせいで人狼というものは、人に嫌われ恐れられる。ただ、今の秀一は、信乃ちゃんにとっても危険な存在だ。少し距離をおいたほうがいい……」

 覚醒には個人差があるから、幼い頃から狼化を繰り返すものもいるし、なかなか本来の姿にならずに成長するものもある。
 感情と理性の制御のうまいものほど、人間の姿のままでも自由に力を扱えるし、狼の姿になっても自分を失うことは無く、意識を保ったまま最大限の力を引き出せるのだという。
 覚醒した事自体は喜ばしいことだったが、狼と化した間のことを少しも覚えていなかったということは、大きなショックだった。
 大山津見の眷属である狼族の中でも、最も格の高い大神家の跡取りであり、そんじょそこらの輩になんて負けないと思っていた。もし覚醒することがあっても、自分自身を失ったりしない。そのはずだと信じていた。
 その自分が理性をなくし、よりによって信乃を傷つけた。
 秀一は布団を握りしめる自分の手を、呆然と見つめた。

「やだよ!」

 途端に暖かな重みが、秀一に飛びついてきて、はっと我に返る。

「僕、いやだからね! 秀一と一緒にいるんだからね! 会えなくなるなんて、絶対イヤだからね!」

 秀一は飛びついてきた信乃を上に乗せたまま、ベットの上にひっくり返ってしまう。

「信乃……」
「信乃ちゃん……」

 泰造と秀就の声が重なっていた。

「ヤダ! 秀一は僕の友達なんだから……それに、一番の守護者になってもらうんだから……ずっと一緒にいるんだから!」

 秀一の首筋が暖かく濡れてる。
 秀一はおそるおそる腕を上げ、泣きついている信乃の背中に腕を回した。片方の手で信乃の真っ黒でサラッとした髪の毛に触れ、もう片方の手は、ポンポンと規則的なリズムで信乃の背を叩いてやる。
 あの信乃が泣いている。あまり感情を映さないガラス玉みたいな瞳から溢れてるのは、間違いなく少し塩辛い涙だ。
 やだやだと、だだっこのようにぐずりながら泣いている信乃を、大人たちは引き剥がそうとはしなかった。
 暫くの間そうしていたら、腕の中で、信乃の泣き声が次第に小さくなっていく。ふと気がつくと、耳元からはすうすうと、小さな寝息が聞こえてきた。

「すまないね、秀一くん。信乃は、昨夜一睡もしてなかったんだよ」

 ぐったりと重くなった信乃を、泰造が抱き上げた。
 秀就に呼ばれた露が部屋へとやってきて、目を覚ました秀一に気分は悪くないか? どこか、体におかしいところはないか? と、心配そうに聞く。
 大丈夫だと答えると、嬉しそうに笑って「今日はお赤飯を炊きましょうね」なんて言っている。いつもと変わらない笑顔がそこにあった。
 いくら狼に変化できたと言っても、秀一はちっともめでたい気分なんかじゃないのに……。     
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