innocent3 約束
結局賊は取り逃がしてしまったものの、今回の事件での学園創設推進派の損害は、さしたるものではなかった。
車が何台か大破してしまったが、替えはいくらでもあるし、負傷した警備員の怪我の程度も、軽症といえる範囲のものだ。
何しろ今日、大神家には、力のある種族の長たちに加え、先祖返りの能力者までも存在していたのだ。その内の誰かが傷つけられたり、人質にでも取られていたら、大変な事態になっていたはずである。
帰る足を失ってしまった客のために、迎えを呼んだり大神家の車で送り届けたりと、いらぬ手間がかかってしまったことはしようのないことで、全員を見送ると、暮れ始めた空に、丸く黄色い月が輝き始めていた。
そう、客人はみんな帰ったはずなのである。
……が、大神家にはまだ安倍信乃が一人残っていた。父親である泰造は妻に迎えに来てもらい、すでに大神家を辞しているのにだ。
「信乃、帰らないのか?」
父親を見送り、大神の屋敷内へ戻ってきた信乃へ秀一はたずねた。
「今日は満月だ」
「え?……ああ、そうみたいだな」
「満月の日には、異界が近くなる」
「へーそうなのかよ?」
「秀一は、僕の守護者になってくれるって言ったじゃないか? また、昼間のように異界が近くなった時にそばに居てくれなかったら、どうやって守ってくれるつもりなんだ?」
つまり信乃は、異界の近づいている満月の夜が不安だから、秀一のいるこの大神家に泊まるというのだった。
守護者になるということをそこまで深く考えていなかった秀一は「はあ?」と素っ頓狂な声を出したのだが、父親の秀就がぎろりと秀一を睨んだので、慌てて口をつぐんだ。
「秀一。お前は信乃ちゃんの第一守護者になるという契約を結んだそうじゃないか。大神家の当主たるもの、軽はずみな約束はしないものだ。また、約束をしたのなら、果たさねばならない。おまえはいつか、父さんの後を継いで大神家の当主になるのだから、信乃ちゃんを守ると約束したのなら、自分の出来る限りのことはしてみるんだな。信乃ちゃんのお父さんとも話し合って、今日だけは信乃ちゃんを家で預かることにした」
「わかった」
父に諭されて、秀一は大きく首を縦に振った。
別に信乃が急に泊まることに驚いただけで、嫌だったわけではない。いや、むしろいつも大人にばかり囲まれている秀一にとって、友達が宿泊する、というのはうれしいことだ。
それに「約束を果たしなさい」と父に言われることは、自分が父に少しは近づいたような、そして認められたような感じがしてうれしい。
『信乃を守る』
言葉にしてみると、それはなんだか誇らしくも思えてくる。
「さあ、遅くなってしまいましたから、お食事にしましょうね」
露の声に、秀一は信乃と一緒にダイニングルームへと向かった。
大神の家は、何もかもが洋風な作りになっている。
ダイニングルームのつやつやと磨き込まれたフローリングの上には、真っ白なダイニングテーブルとダイニングチェアが置かれているし、テーブルの中央には大きな白磁の花瓶に美しい花々が活けられている。出窓には格子のデザインのガラスが嵌め込まれていて、たっぷりひだの寄ったレースのカーテンが、優雅な雰囲気を醸し出していた。
テーブルの上では美味しそうな食事がホカホカと湯気を立てながら、家人が席につくのを待っている。
その日はいつもより遅い夕食だったから、料理を目にした途端、秀一の腹はギュルギュルと音を立てた。
「うちとはぜんぜん違う」
信乃が秀一の隣の席につくと、きょろきょろと周囲を見回した。
「そう?」
信乃の隣に腰掛けた秀一も信乃と一緒に部屋を見回してみたが、秀一にとってはいつもと同じ、別に何も変わり映えのしない室内だ。
「うちは畳で、正座してご飯を食べる」
「大神の家も、昔は和風だったんだがね」
声に振り向くと、子どもたちに遅れて秀就がダイニングに姿を現したところだった。
「この家はね。秀一が生まれる少し前に建て替えたんだよ。秀一の母親がフランス人だったからね、彼女のために洋風な家にしたんだ」
「秀一のお母さんは? ご飯を食べないの?」
信乃の問に、おひつからご飯をよそっていた露の手が止まった。
秀就は困ったような笑みを浮かべている。
「母さんはいない!」
秀一はそう言うと、露の差し出した茶碗をもぎ取るように受け取った。
「いただきます!」
白いご飯を口の中へとかきこみ始める。それから、口の中へ詰め込んだ大量のご飯をごっくんと飲み込むと、箸をテーブルの上に置き、不思議そうに首を傾げている信乃の目を見つめ返した。
「俺は母さんに会ったこともないし、見たこともないし、全然知らない」
そう言ってから秀一は、立ち働く露に視線を移した。
「ゆっくり食べてください。ハンバーグもご飯も、おかわりがありますからね」
秀一と目のあった露は、少し困ったような微笑を浮かべている。
「俺には、露がいるもん。母さんはいなくても平気」
「そうだな。露がいてくれると、父さんも安心だな」
そう言って、秀就も箸をとった。
車が何台か大破してしまったが、替えはいくらでもあるし、負傷した警備員の怪我の程度も、軽症といえる範囲のものだ。
何しろ今日、大神家には、力のある種族の長たちに加え、先祖返りの能力者までも存在していたのだ。その内の誰かが傷つけられたり、人質にでも取られていたら、大変な事態になっていたはずである。
帰る足を失ってしまった客のために、迎えを呼んだり大神家の車で送り届けたりと、いらぬ手間がかかってしまったことはしようのないことで、全員を見送ると、暮れ始めた空に、丸く黄色い月が輝き始めていた。
そう、客人はみんな帰ったはずなのである。
……が、大神家にはまだ安倍信乃が一人残っていた。父親である泰造は妻に迎えに来てもらい、すでに大神家を辞しているのにだ。
「信乃、帰らないのか?」
父親を見送り、大神の屋敷内へ戻ってきた信乃へ秀一はたずねた。
「今日は満月だ」
「え?……ああ、そうみたいだな」
「満月の日には、異界が近くなる」
「へーそうなのかよ?」
「秀一は、僕の守護者になってくれるって言ったじゃないか? また、昼間のように異界が近くなった時にそばに居てくれなかったら、どうやって守ってくれるつもりなんだ?」
つまり信乃は、異界の近づいている満月の夜が不安だから、秀一のいるこの大神家に泊まるというのだった。
守護者になるということをそこまで深く考えていなかった秀一は「はあ?」と素っ頓狂な声を出したのだが、父親の秀就がぎろりと秀一を睨んだので、慌てて口をつぐんだ。
「秀一。お前は信乃ちゃんの第一守護者になるという契約を結んだそうじゃないか。大神家の当主たるもの、軽はずみな約束はしないものだ。また、約束をしたのなら、果たさねばならない。おまえはいつか、父さんの後を継いで大神家の当主になるのだから、信乃ちゃんを守ると約束したのなら、自分の出来る限りのことはしてみるんだな。信乃ちゃんのお父さんとも話し合って、今日だけは信乃ちゃんを家で預かることにした」
「わかった」
父に諭されて、秀一は大きく首を縦に振った。
別に信乃が急に泊まることに驚いただけで、嫌だったわけではない。いや、むしろいつも大人にばかり囲まれている秀一にとって、友達が宿泊する、というのはうれしいことだ。
それに「約束を果たしなさい」と父に言われることは、自分が父に少しは近づいたような、そして認められたような感じがしてうれしい。
『信乃を守る』
言葉にしてみると、それはなんだか誇らしくも思えてくる。
「さあ、遅くなってしまいましたから、お食事にしましょうね」
露の声に、秀一は信乃と一緒にダイニングルームへと向かった。
大神の家は、何もかもが洋風な作りになっている。
ダイニングルームのつやつやと磨き込まれたフローリングの上には、真っ白なダイニングテーブルとダイニングチェアが置かれているし、テーブルの中央には大きな白磁の花瓶に美しい花々が活けられている。出窓には格子のデザインのガラスが嵌め込まれていて、たっぷりひだの寄ったレースのカーテンが、優雅な雰囲気を醸し出していた。
テーブルの上では美味しそうな食事がホカホカと湯気を立てながら、家人が席につくのを待っている。
その日はいつもより遅い夕食だったから、料理を目にした途端、秀一の腹はギュルギュルと音を立てた。
「うちとはぜんぜん違う」
信乃が秀一の隣の席につくと、きょろきょろと周囲を見回した。
「そう?」
信乃の隣に腰掛けた秀一も信乃と一緒に部屋を見回してみたが、秀一にとってはいつもと同じ、別に何も変わり映えのしない室内だ。
「うちは畳で、正座してご飯を食べる」
「大神の家も、昔は和風だったんだがね」
声に振り向くと、子どもたちに遅れて秀就がダイニングに姿を現したところだった。
「この家はね。秀一が生まれる少し前に建て替えたんだよ。秀一の母親がフランス人だったからね、彼女のために洋風な家にしたんだ」
「秀一のお母さんは? ご飯を食べないの?」
信乃の問に、おひつからご飯をよそっていた露の手が止まった。
秀就は困ったような笑みを浮かべている。
「母さんはいない!」
秀一はそう言うと、露の差し出した茶碗をもぎ取るように受け取った。
「いただきます!」
白いご飯を口の中へとかきこみ始める。それから、口の中へ詰め込んだ大量のご飯をごっくんと飲み込むと、箸をテーブルの上に置き、不思議そうに首を傾げている信乃の目を見つめ返した。
「俺は母さんに会ったこともないし、見たこともないし、全然知らない」
そう言ってから秀一は、立ち働く露に視線を移した。
「ゆっくり食べてください。ハンバーグもご飯も、おかわりがありますからね」
秀一と目のあった露は、少し困ったような微笑を浮かべている。
「俺には、露がいるもん。母さんはいなくても平気」
「そうだな。露がいてくれると、父さんも安心だな」
そう言って、秀就も箸をとった。