深まりゆく秋
遼平は、自分自身の咳で目が覚めた。
そっとまぶたを持ち上げると、常夜灯の薄い光に照らされて、くうくうと小さな寝息を立てる空穏の寝顔が目の前にある。
けほ、こほっ……げほっ……
我慢しようとすればするほど、腹の底から咳がこみ上げてきて、遼平は暖かい布団から抜け出して、身を起こした。横になったり、うつむいたりしているより、体を起こして上を向いていたほうが咳は楽になる。
本当は、今日は朝から喉に違和感を感じていた。ちょっと風邪気味だったのかもしれない。でも、それを周囲に悟られて、空穏の家に泊まりに行ってはいけないといわれるのが嫌で、誰にも言わなかった。
遼平は布団を出て上着を羽織ると、そっと部屋を出ていく。空穏の家は二階にもお手洗いと洗面台がついているので、そこでうがいをして水を飲んだ。
もう今日は、横にならないほうがいいかもしれない。そう思って部屋に戻ると、空穏が心配げな顔で布団の上に起き上がっていた。
「起こしちゃった?」
「咳、止まらないの?」
「うん。横になってると止まらないから、今日は起きてるよ」
「寝ると咳が出るの?」
「寝るっていうか、横になるとよくないらしい。体を起こしていたほうがいいんだ」
空穏はなにか考えるようにうつむきがちに下唇を指で摘んでいたが「わかった! いいこと思いついた」というと、ガバッと起き上がった。
そして、自分の布団をバタバタと畳んでいく。畳んだ布団を重ねて、雑巾がけをするように壁際に押しやると、その上に遼平の布団を敷いた。布団製のローソファと言った感じのものが出来上がる。
「ほら、ここによっかかって寝たらいいんじゃねえ? どうかな? これだったら大丈夫?」
「大丈夫……だけど、クオンは?」
「一緒に寝ればいいじゃん」
そう言うと、さっさと布団の中に潜り込む。「ほら!」と言って、遼平を手招きした。
「だけど、クオン、寝づらくないの?」
「平気平気。オレどこでも寝れるから」
空穏が布団をめくった。
布団の中に入ると空穏と遼平の足先が触れた。
「うっわ、冷たい!」
と空穏がびっくりする。
遼平が謝って、触れてしまった足を引っ込めようとしたら、逆に空穏の足が遼平の足を追いかけて絡め取られてしまった。
「くっついてたら、すぐあったまるよ」
そういうと、空穏はすりすりと遼平に身を寄せる。遼平の冷えた体がじんわりと温まっていった。
「クオン?」
しばらくしてそっと呼びかけたが、もうすでに、遼平の肩に頭をもたれるようにして、寝入っているらしい。どこでも寝れるというのは本当なんだ。遼平は、幸せそうな顔をして眠る空穏の顔をまじまじと見つめた。
遼平の母親である結は、高校三年生で家出をし、戸沢の集落を後にした。母親の幸枝と折り合いが悪かったというのが家出の一番大きな理由だ。
結婚が決まるまで一度も故郷には帰らなかった。
結の結婚相手の明人は結の両親ともぶつかることなく、一人娘の結を嫁に出したくないという願いも受け入れて、婿養子にも入った。だが、どうしても結と幸枝は顔を合わせれば言い合いになってしまい、結局、結と明人の夫婦はあまり戸沢を訪れることはなかった。
遼平が生まれると、孫の顔を見せるために数度里帰りはしたのだが、遼平は祖母の幸枝の顔を覚えてはいない。
遼平の記憶に残る戸沢集落は、小学校に上がってすぐに訪れたゴールデンウィークの時の記憶だ。それ以前の記憶はなく、それ以降に戸沢を訪れたのは幸枝の葬儀の時だけだった。
それに、幸枝の葬儀は町の中の葬儀場で執り行われたため、遼平は戸沢へはほんの少し立ち寄った程度にすぎない。
だから、遼平には戸沢集落での記憶がほとんどない。
たったひとつ残っている戸沢での記憶は、廃校になった小学校の校庭に咲く桜の花だ。
山の上は、ちょうどゴールデンウィークの時期まで桜を楽しむことができる。風が散らす花びらを、一人で手でつかもうとして遊んでいたら、集落の男の子に声をかけられて、一緒に遊ぶことになった。二人で桜の花びらを掴んでは投げたり、その子が持っていた砂場セットで、力を合わせて、校庭に穴をほったりして遊んだ。祖母の顔は覚えていないけれど、その男の子のことははっきりと覚えている。
「君は忘れちゃったみたいだけどね」
そう囁いて、遼平はふとため息をつく。
「クオン、オレ、クオンと離れ離れになりたくないなぁ」
そう話かけても、寝ている空穏は返事をしてはくれない。
今日、遼平の母親は家庭裁判所へ出かけたのだ。
そこで、父の明人とと会っているのだろう。もしかして、明人と一緒にホテルに泊まっているのかもしれないと、遼平は思っている。
結の様子がおかしくなり始めたのはいつからだったか、遼平には思い出せない。でも、夏休みに入った頃には、家の中の雰囲気は最悪になっていた。
明人と結が険悪なムードになるたびに、遼平の胃はチクチクと痛んだ。
詳しいことはわからないけれど、浮気、と言う単語が遼平の耳に残っている。
結は精神的にかなり追い詰められていたらしく、突然泣き出したり怒り出したりする。
明人は結に話しかけようと試みるのだが、結は目も合わせようとしない。かと思えば激昂して明人に掴みかかる。始めの頃は明人は黙っていたが、そのうち結に対して言葉を荒らげるようになる。酔って帰ってくることも増えた。
両親の仲を取り持とうと、遼平自身も話しかけてみたり、休みの日には出掛けたいと言ってみたりもしたが、二人にその気持が届くことはなかった。
夏休みも終わりに近づいたある日、結がなんの前触れもなく荷造りをはじめる。
荷造りしたダンボールを業者に引き取ってもらうと、遼平に「引っ越しすることに決めたの」と、結は言った。
「遼平も一緒に来るでしょう? もう、転校の手続きもしたの」
自分が転校をすると知ったのは、この時がはじめてだった。切羽詰ったような結を目の前にすると、遼平は何も言えなくなってしまった。
(お父さんは、多分一人でも大丈夫だけど、お母さんはオレがいないとダメかもしれない)
何故かそのときはそう思ったのだ。転校なんてしたくないと思ったけれど、この時の遼平には結と戸沢へ行くという選択肢以外は考えつかなかった。
だから転校初日は、はっきり言って気分は最悪だった。本当に転校したのかどうかさえ、理解できないでいた。
これって、全部冗談なんじゃないだろうか? とすら思えてくる。転校したという実感がまったくなかったのだ。
新しい学校の校門を母とくぐり、校長室へと通され、新しい担任に挨拶をして、気がつけばもう新しいクラスの教壇の前に立って、皆に挨拶をしなくてはいけない。自分がその場に立っている事自体、信じられないのに。
自分の気持ちすら作り物めいて感じていた。少し離れたところで、教壇の前に立つ自分を見ているような感覚だった。
でも、隣の席の生徒が同じ戸沢集落で、空穏という名前だときいたときに、はじめて感情が動いた。
(こいつ、知ってる……!)
空穏なんて名前、そうそうある名前じゃない。しかも戸沢集落に住んでるなんて、自分の知っているクオン以外にいないはずだ。
遼平の瞼の裏に、幼いころ追いかけた、桜の花びらが見えた気がした。
不安だった心のなかが、少しだけほわりと明るくなった。
そうして、こちらの生活にもようやく少し慣れてきた頃、結に家庭裁判所から『夫婦円満調停の呼出状』というものが届いた。
円満調停というのがうまくいけば、遼平はまた父の住む家に戻るのかもしれない。最近、そんな雰囲気を遼平は結から感じ取っていた。
明人は、まだ戸沢へ顔を出してはいないが、夏休みからずっとどこか不安げだった結が最近とても落ち着いているように見える。
父と母が、仲が良くなるのは嬉しい。……でも。
「くおん」
遼平はそっと呼びかけると、空穏の髪に顔を埋め、目を瞑った。
そっとまぶたを持ち上げると、常夜灯の薄い光に照らされて、くうくうと小さな寝息を立てる空穏の寝顔が目の前にある。
けほ、こほっ……げほっ……
我慢しようとすればするほど、腹の底から咳がこみ上げてきて、遼平は暖かい布団から抜け出して、身を起こした。横になったり、うつむいたりしているより、体を起こして上を向いていたほうが咳は楽になる。
本当は、今日は朝から喉に違和感を感じていた。ちょっと風邪気味だったのかもしれない。でも、それを周囲に悟られて、空穏の家に泊まりに行ってはいけないといわれるのが嫌で、誰にも言わなかった。
遼平は布団を出て上着を羽織ると、そっと部屋を出ていく。空穏の家は二階にもお手洗いと洗面台がついているので、そこでうがいをして水を飲んだ。
もう今日は、横にならないほうがいいかもしれない。そう思って部屋に戻ると、空穏が心配げな顔で布団の上に起き上がっていた。
「起こしちゃった?」
「咳、止まらないの?」
「うん。横になってると止まらないから、今日は起きてるよ」
「寝ると咳が出るの?」
「寝るっていうか、横になるとよくないらしい。体を起こしていたほうがいいんだ」
空穏はなにか考えるようにうつむきがちに下唇を指で摘んでいたが「わかった! いいこと思いついた」というと、ガバッと起き上がった。
そして、自分の布団をバタバタと畳んでいく。畳んだ布団を重ねて、雑巾がけをするように壁際に押しやると、その上に遼平の布団を敷いた。布団製のローソファと言った感じのものが出来上がる。
「ほら、ここによっかかって寝たらいいんじゃねえ? どうかな? これだったら大丈夫?」
「大丈夫……だけど、クオンは?」
「一緒に寝ればいいじゃん」
そう言うと、さっさと布団の中に潜り込む。「ほら!」と言って、遼平を手招きした。
「だけど、クオン、寝づらくないの?」
「平気平気。オレどこでも寝れるから」
空穏が布団をめくった。
布団の中に入ると空穏と遼平の足先が触れた。
「うっわ、冷たい!」
と空穏がびっくりする。
遼平が謝って、触れてしまった足を引っ込めようとしたら、逆に空穏の足が遼平の足を追いかけて絡め取られてしまった。
「くっついてたら、すぐあったまるよ」
そういうと、空穏はすりすりと遼平に身を寄せる。遼平の冷えた体がじんわりと温まっていった。
「クオン?」
しばらくしてそっと呼びかけたが、もうすでに、遼平の肩に頭をもたれるようにして、寝入っているらしい。どこでも寝れるというのは本当なんだ。遼平は、幸せそうな顔をして眠る空穏の顔をまじまじと見つめた。
遼平の母親である結は、高校三年生で家出をし、戸沢の集落を後にした。母親の幸枝と折り合いが悪かったというのが家出の一番大きな理由だ。
結婚が決まるまで一度も故郷には帰らなかった。
結の結婚相手の明人は結の両親ともぶつかることなく、一人娘の結を嫁に出したくないという願いも受け入れて、婿養子にも入った。だが、どうしても結と幸枝は顔を合わせれば言い合いになってしまい、結局、結と明人の夫婦はあまり戸沢を訪れることはなかった。
遼平が生まれると、孫の顔を見せるために数度里帰りはしたのだが、遼平は祖母の幸枝の顔を覚えてはいない。
遼平の記憶に残る戸沢集落は、小学校に上がってすぐに訪れたゴールデンウィークの時の記憶だ。それ以前の記憶はなく、それ以降に戸沢を訪れたのは幸枝の葬儀の時だけだった。
それに、幸枝の葬儀は町の中の葬儀場で執り行われたため、遼平は戸沢へはほんの少し立ち寄った程度にすぎない。
だから、遼平には戸沢集落での記憶がほとんどない。
たったひとつ残っている戸沢での記憶は、廃校になった小学校の校庭に咲く桜の花だ。
山の上は、ちょうどゴールデンウィークの時期まで桜を楽しむことができる。風が散らす花びらを、一人で手でつかもうとして遊んでいたら、集落の男の子に声をかけられて、一緒に遊ぶことになった。二人で桜の花びらを掴んでは投げたり、その子が持っていた砂場セットで、力を合わせて、校庭に穴をほったりして遊んだ。祖母の顔は覚えていないけれど、その男の子のことははっきりと覚えている。
「君は忘れちゃったみたいだけどね」
そう囁いて、遼平はふとため息をつく。
「クオン、オレ、クオンと離れ離れになりたくないなぁ」
そう話かけても、寝ている空穏は返事をしてはくれない。
今日、遼平の母親は家庭裁判所へ出かけたのだ。
そこで、父の明人とと会っているのだろう。もしかして、明人と一緒にホテルに泊まっているのかもしれないと、遼平は思っている。
結の様子がおかしくなり始めたのはいつからだったか、遼平には思い出せない。でも、夏休みに入った頃には、家の中の雰囲気は最悪になっていた。
明人と結が険悪なムードになるたびに、遼平の胃はチクチクと痛んだ。
詳しいことはわからないけれど、浮気、と言う単語が遼平の耳に残っている。
結は精神的にかなり追い詰められていたらしく、突然泣き出したり怒り出したりする。
明人は結に話しかけようと試みるのだが、結は目も合わせようとしない。かと思えば激昂して明人に掴みかかる。始めの頃は明人は黙っていたが、そのうち結に対して言葉を荒らげるようになる。酔って帰ってくることも増えた。
両親の仲を取り持とうと、遼平自身も話しかけてみたり、休みの日には出掛けたいと言ってみたりもしたが、二人にその気持が届くことはなかった。
夏休みも終わりに近づいたある日、結がなんの前触れもなく荷造りをはじめる。
荷造りしたダンボールを業者に引き取ってもらうと、遼平に「引っ越しすることに決めたの」と、結は言った。
「遼平も一緒に来るでしょう? もう、転校の手続きもしたの」
自分が転校をすると知ったのは、この時がはじめてだった。切羽詰ったような結を目の前にすると、遼平は何も言えなくなってしまった。
(お父さんは、多分一人でも大丈夫だけど、お母さんはオレがいないとダメかもしれない)
何故かそのときはそう思ったのだ。転校なんてしたくないと思ったけれど、この時の遼平には結と戸沢へ行くという選択肢以外は考えつかなかった。
だから転校初日は、はっきり言って気分は最悪だった。本当に転校したのかどうかさえ、理解できないでいた。
これって、全部冗談なんじゃないだろうか? とすら思えてくる。転校したという実感がまったくなかったのだ。
新しい学校の校門を母とくぐり、校長室へと通され、新しい担任に挨拶をして、気がつけばもう新しいクラスの教壇の前に立って、皆に挨拶をしなくてはいけない。自分がその場に立っている事自体、信じられないのに。
自分の気持ちすら作り物めいて感じていた。少し離れたところで、教壇の前に立つ自分を見ているような感覚だった。
でも、隣の席の生徒が同じ戸沢集落で、空穏という名前だときいたときに、はじめて感情が動いた。
(こいつ、知ってる……!)
空穏なんて名前、そうそうある名前じゃない。しかも戸沢集落に住んでるなんて、自分の知っているクオン以外にいないはずだ。
遼平の瞼の裏に、幼いころ追いかけた、桜の花びらが見えた気がした。
不安だった心のなかが、少しだけほわりと明るくなった。
そうして、こちらの生活にもようやく少し慣れてきた頃、結に家庭裁判所から『夫婦円満調停の呼出状』というものが届いた。
円満調停というのがうまくいけば、遼平はまた父の住む家に戻るのかもしれない。最近、そんな雰囲気を遼平は結から感じ取っていた。
明人は、まだ戸沢へ顔を出してはいないが、夏休みからずっとどこか不安げだった結が最近とても落ち着いているように見える。
父と母が、仲が良くなるのは嬉しい。……でも。
「くおん」
遼平はそっと呼びかけると、空穏の髪に顔を埋め、目を瞑った。