深まりゆく秋
遼平はコンコンと咳き込んだ後に、くちゅんとくしゃみをした。
「これ着る?」
そう言いながらも、空穏はもうすでに上着を脱いでいる。ふわりと肩にかかった派手なスカジャンに、遼平は長いまつげをぱちぱちと瞬かせた。
「空穏は?」
「平気だよ。だって本当、暑いくらいなんだ。母ちゃんが、着てけ着てけってうるさくってさ」
空穏はジャンパーの下に着ていた、厚手のトレーナーを指で摘んでみせた。その厚手のトレーナーの下にも、チェックのシャツを着ている。今からこんなに厚着をしたら、これから冬になったらどうするんだという感じだが、たしかに山の上の夜は冷える。
山の上というのは、同じ地域であっても下界とは気候が違う。今年始めてこの山で秋から冬を過ごす遼平は、まだそれをわかっていないらしく、結構な薄着だった。一応は長袖のパーカーを羽織っているが、それも薄手のものだ。
遼平が素直に「ありがとう」と言いながらスカジャンに腕を通す。
女の子のように可愛い顔に、ド派手な虎のイラストの入った黒いスカジャンがどうにも違和感があって、空穏は「似合わねえ」とつぶやいた。
「うん、オレあんまり黒は着ないかな?」
そう言って遼平は腕を広げると、自分自身を見下ろした。
黒とか、そういう問題じゃあないんだけどな、と空穏は思うがそこは指摘をしないでおいた。だいたい空穏だってこの虎柄が気に入ってるわけではない。父の元のセレクトだ。
「ちょっと大きいな」
遼平は袖を折り返す。
体格も細くて小柄な遼平には、平均的な空穏のものでもサイズが大きいらしく、尻がすっぽり隠れている。空穏の目がジャンパーから見える細い腕に吸い寄せられた。
遼平は、そんな視線にも気づかずに、縁側から投げ込まれた紙テープでぐるぐる巻きになった漫画雑誌を拾い上げる。
「これ何?」
「へ? ああ、それ! それな。それで太鼓の練習すんの。座布団の前に並べないと」
「これで?」
「うん。太鼓は人数分あるわけじゃないし、それに今日は太鼓締めなおしたりするから、これで練習かなあ?」
二人は分厚い漫画を適当に座布団の前に並べていく。
準備が整うと、早速練習がはじまった。子どもたちの指導をするのは遼平の祖父の富雄だ。富雄は、この集落でも一番の太鼓の名手で、子どもたちの指導は富雄を中心にして行われる。
遼平は、富雄の孫であるのに、そんなことも知らなかったらしい。子どもたちの手を取り太鼓を教える自分の祖父を、物珍しそうにみていた。
初日だから、それほど気合の入った練習があるわけではない。
子どもの指導は富雄一人に任せ、他の男衆は久しぶりに倉庫から出してきた太鼓のメンテナンスに取り掛かっている。
そして、子どもたちが久しぶりの練習に飽きてきた頃、集落の女性陣が小学校から盆を手にして集会所へとやってきた。
お茶の時間だ。
集会場へとやってきた母親たちは、お茶を沸かし、備え付けの器に本日のお茶菓子をもる。
子どもたちはもう、練習どころではなく、目がちらちらと給湯室へと向かっている。
「ほら、子どもたちは、手ぇ拭きな」
集落のおばあちゃんが、子どもたちに声をかけると、子どもたちは待ってましたとばかりにバチをおいた。
「大槻の本家の栗の木になってた栗だかんねえ。芋も、この集落で採れたやつ。いっぱいあっからねえ」
練習を終え、縁側に二人で並ぶ空穏と遼平のところへも、器に入った栗きんとんが運ばれてきた。
この練習のときに出されるお茶菓子は、毎年お母さんたち女衆の手作りで、秋祭りの練習での大きな楽しみだ。がんづきだの、栗きんとんだの、ずんだ餅だの、蒸しパンだのといった、腹に溜まりそうな手作りお菓子が毎回振る舞われる。田舎ならではの風習かもしれない。
広縁の前は、屋根が大きく張り出しており、庭にいても雨に濡れないようになっている。
テラスというと聞こえはいいが、そんなに洒落た雰囲気のものではない。とりあえず、雨に濡れない場所を作るために屋根をかけた、と言う感じだ。
大人の男たちは、その屋根の下でたむろして、煙草を指にはさみ、茶碗を片手にのんびりと世間話をしている。
清水たち小さい子組は、集会所の中でかくれんぼを始めたようだ。
空穏と遼平が、縁側に座って栗きんとんを食べていると、同じ集落の四年生の杏樹が隣にやってきた。
「ウチの栗、うまいべ?」
杏樹は、ポチャッとした白い頬をモゴモゴさせながら空穏の隣りに座った。
沢登集落には大槻家と佐藤家がある。名字は二つあるが、それぞれどこかしらかでつながっていて、集落全員が親戚のようなものだ。杏樹の家は大槻家の本家と言われる大きな家だ。敷地内に栗の木が何本も立っていて、子どもたちが栗拾いをさせてもらうこともあった。
「うん、まじうまい」
空穏がお世辞抜きでほめると、杏樹はうれしそうに笑った。
「それにしても結ちゃんが富雄さんとこに来てくれてよかったない」
縁側から大人たちの話し声が聞こえた。
「ああ、幸枝さんが死んじまってから、富雄さん一人暮らしだったかんない」
「腰も悪くなってきてるようだったし」
「あとに残ったのが富雄さんでよかったない」
「あんた、なに言ってんの!」
「ホントのことだべぇ? 幸枝さんと結ちゃんは折り合いが悪かったしなあ」
「まあ、残ったのが幸枝さんだったら、結ちゃんも此処には戻らなかったべなあ」
そんな、話をしている。
空穏にとっては、初めて聞く遼平の家の事情だった。
話の内容が内容なだけに空穏が心配げに遼平を盗み見たが、遼平は気にした様子もなく、最後のきんとんを嚥下すると、コンコンと小さく咳をした。
そういえば、遼平のお父さんというのを見たことがないと、このときになって空穏ははじめて気がついたのだった。
「これ着る?」
そう言いながらも、空穏はもうすでに上着を脱いでいる。ふわりと肩にかかった派手なスカジャンに、遼平は長いまつげをぱちぱちと瞬かせた。
「空穏は?」
「平気だよ。だって本当、暑いくらいなんだ。母ちゃんが、着てけ着てけってうるさくってさ」
空穏はジャンパーの下に着ていた、厚手のトレーナーを指で摘んでみせた。その厚手のトレーナーの下にも、チェックのシャツを着ている。今からこんなに厚着をしたら、これから冬になったらどうするんだという感じだが、たしかに山の上の夜は冷える。
山の上というのは、同じ地域であっても下界とは気候が違う。今年始めてこの山で秋から冬を過ごす遼平は、まだそれをわかっていないらしく、結構な薄着だった。一応は長袖のパーカーを羽織っているが、それも薄手のものだ。
遼平が素直に「ありがとう」と言いながらスカジャンに腕を通す。
女の子のように可愛い顔に、ド派手な虎のイラストの入った黒いスカジャンがどうにも違和感があって、空穏は「似合わねえ」とつぶやいた。
「うん、オレあんまり黒は着ないかな?」
そう言って遼平は腕を広げると、自分自身を見下ろした。
黒とか、そういう問題じゃあないんだけどな、と空穏は思うがそこは指摘をしないでおいた。だいたい空穏だってこの虎柄が気に入ってるわけではない。父の元のセレクトだ。
「ちょっと大きいな」
遼平は袖を折り返す。
体格も細くて小柄な遼平には、平均的な空穏のものでもサイズが大きいらしく、尻がすっぽり隠れている。空穏の目がジャンパーから見える細い腕に吸い寄せられた。
遼平は、そんな視線にも気づかずに、縁側から投げ込まれた紙テープでぐるぐる巻きになった漫画雑誌を拾い上げる。
「これ何?」
「へ? ああ、それ! それな。それで太鼓の練習すんの。座布団の前に並べないと」
「これで?」
「うん。太鼓は人数分あるわけじゃないし、それに今日は太鼓締めなおしたりするから、これで練習かなあ?」
二人は分厚い漫画を適当に座布団の前に並べていく。
準備が整うと、早速練習がはじまった。子どもたちの指導をするのは遼平の祖父の富雄だ。富雄は、この集落でも一番の太鼓の名手で、子どもたちの指導は富雄を中心にして行われる。
遼平は、富雄の孫であるのに、そんなことも知らなかったらしい。子どもたちの手を取り太鼓を教える自分の祖父を、物珍しそうにみていた。
初日だから、それほど気合の入った練習があるわけではない。
子どもの指導は富雄一人に任せ、他の男衆は久しぶりに倉庫から出してきた太鼓のメンテナンスに取り掛かっている。
そして、子どもたちが久しぶりの練習に飽きてきた頃、集落の女性陣が小学校から盆を手にして集会所へとやってきた。
お茶の時間だ。
集会場へとやってきた母親たちは、お茶を沸かし、備え付けの器に本日のお茶菓子をもる。
子どもたちはもう、練習どころではなく、目がちらちらと給湯室へと向かっている。
「ほら、子どもたちは、手ぇ拭きな」
集落のおばあちゃんが、子どもたちに声をかけると、子どもたちは待ってましたとばかりにバチをおいた。
「大槻の本家の栗の木になってた栗だかんねえ。芋も、この集落で採れたやつ。いっぱいあっからねえ」
練習を終え、縁側に二人で並ぶ空穏と遼平のところへも、器に入った栗きんとんが運ばれてきた。
この練習のときに出されるお茶菓子は、毎年お母さんたち女衆の手作りで、秋祭りの練習での大きな楽しみだ。がんづきだの、栗きんとんだの、ずんだ餅だの、蒸しパンだのといった、腹に溜まりそうな手作りお菓子が毎回振る舞われる。田舎ならではの風習かもしれない。
広縁の前は、屋根が大きく張り出しており、庭にいても雨に濡れないようになっている。
テラスというと聞こえはいいが、そんなに洒落た雰囲気のものではない。とりあえず、雨に濡れない場所を作るために屋根をかけた、と言う感じだ。
大人の男たちは、その屋根の下でたむろして、煙草を指にはさみ、茶碗を片手にのんびりと世間話をしている。
清水たち小さい子組は、集会所の中でかくれんぼを始めたようだ。
空穏と遼平が、縁側に座って栗きんとんを食べていると、同じ集落の四年生の杏樹が隣にやってきた。
「ウチの栗、うまいべ?」
杏樹は、ポチャッとした白い頬をモゴモゴさせながら空穏の隣りに座った。
沢登集落には大槻家と佐藤家がある。名字は二つあるが、それぞれどこかしらかでつながっていて、集落全員が親戚のようなものだ。杏樹の家は大槻家の本家と言われる大きな家だ。敷地内に栗の木が何本も立っていて、子どもたちが栗拾いをさせてもらうこともあった。
「うん、まじうまい」
空穏がお世辞抜きでほめると、杏樹はうれしそうに笑った。
「それにしても結ちゃんが富雄さんとこに来てくれてよかったない」
縁側から大人たちの話し声が聞こえた。
「ああ、幸枝さんが死んじまってから、富雄さん一人暮らしだったかんない」
「腰も悪くなってきてるようだったし」
「あとに残ったのが富雄さんでよかったない」
「あんた、なに言ってんの!」
「ホントのことだべぇ? 幸枝さんと結ちゃんは折り合いが悪かったしなあ」
「まあ、残ったのが幸枝さんだったら、結ちゃんも此処には戻らなかったべなあ」
そんな、話をしている。
空穏にとっては、初めて聞く遼平の家の事情だった。
話の内容が内容なだけに空穏が心配げに遼平を盗み見たが、遼平は気にした様子もなく、最後のきんとんを嚥下すると、コンコンと小さく咳をした。
そういえば、遼平のお父さんというのを見たことがないと、このときになって空穏ははじめて気がついたのだった。