君との出会い
その日の夕方、空穏の家に遼平が母親と一緒に訪れた。
空穏の父、元 が農作業を終え、泥の着いた長靴を外の水道で洗い流し、ちょうど家の中に入ってきたところで、母の静香は父のためにお茶を淹れているところだった。
空穏の家は数年前にリフォームしたばかりだ。大きい母屋と小さめの離れがあって、母屋には空穏たち家族が、こじんまり離れには祖父母夫婦が住んでいた。母屋と離れはつながっていて、外を通ることなく行き来することができる。夕食は家族全員一緒にとるという決まりになっているので、夕方になると、離れに住む祖父母が母屋へとやってくる。
遼平とその母親の結が空穏の家にやってきた時、ちょうど祖母も母屋へと顔を出したところだった。
「まあまあまあまあ、結ちゃんかね? なんだって久しぶりでねえか? 上がってかい?」
空穏の祖母が遼平親子を見るなり甲高い声をあげた。菓子折りをもった結はぺこりと頭を下げる。
長靴を脱ぎ首に巻いたタオルで汗を拭いながら、空穏の父は家に上がってきた。
「上がってかい、上がってかい! 茶でも飲んでいったらいいべ」
元にもうながされ、結と遼平は空穏の家に上がった。
「結ちゃんはなあ、父ちゃんと一緒に、今では廃校になっちまった戸沢小学校に通ってたんだぞ」
元は、廃校となった戸沢小学校の最後の卒業生だ。かつて小学校であった建物は、今では集落の共同の物置と化し、校庭は子どもたちの遊び場兼スクールバスの発着所となっている。
「お友達だったの?」
空穏の妹で小学二年の清水が興味津々といった様子で、身を乗り出して結の顔をみている。
結は長くさらさらとしたストレートの黒髪を揺らす。さらりとした生地の、涼し気なサマードレスにレースのカーディガン。この辺の集落のお母ちゃんたちとは、持っている雰囲気がまるで違う。服装も、この辺の女たちは、日常でスカートなんてはいているものはいない。
清水の目から見れば、これから何処かにお出かけでもするかのように見えるだろう。
結は不躾な清水の視線に、緩やかに微笑みながら「そうよ」と言った。
空穏に向き直ると、そのきれいな額にうっすらを皺を寄せる。
「遼平のせいで怪我をしたんでしょう? 先生から電話があったの。ごめんなさいね」
そう言って手をついて頭を垂れた。
「い、いえいえ! 俺、あのっ、全然大丈夫ですっ!」
空穏は胸の前で大きく手を振る。
母の静香が台所から盆を持って現れると、テーブルの上にお茶菓子やら漬物を並べはじめた。
こうなると、大人たちのおしゃべりは長い。
清水はその気配を察して「宿題してくる!」と、早々に二階の自室へと逃げ出した。
実際には、長いと言っても小一時間のことだろうが、子どもにとっては十分に長い。空穏は遼平を置いていくことも出来ずに結局居間に残ってしまった。
しゃべることも出来ずに、口をつぐんだ空穏と遼平を気遣いもせずに、大人たちの会話は止まる気配はない。
昔は、この集落にも子どもがたくさんいたっけない。
結ちゃんは勉強のできる子だったない。
空穏の祖父が姿を表すと、祖母が意気揚々と「ほらじいちゃん、覚えってっかい? 大槻の、富雄さんとこの結ちゃん」と、まるで自分の手柄でもあるかのように説明する。
結が頭を下げ、皆さん昔と変わりませんねと笑う。
空穏はしばらくその場で正座をしてお茶をすすっていたが、どうにもこうにも居心地が悪かった。
「おれ、前の畑に行ってくる」
そう言って立ち上がる。
「ああ、じゃあ遼平くんと野菜、なってたら採ってきてよ。ほらこれ」
静香が待ってましたとばかりに、かごを二つ突き出した。
きゅうりを挟んで空穏と遼平は向かい合わせに立っている。
「じゃあ、遼平はそっち側から。俺はこっちから」
カナカナカナ……
蝉の声が聞こえた。夏の盛りのような勢いはなくて、カナカナカナカナ……、という鳴き声が、どことなく寂しく感じる夕方だった。
パチン、パチン。
空穏と遼平の立てるハサミの音が重なる。
「これは?」
「うん。採っちゃっていいよ。あんまり大きくなっちゃうより、少し早めくらいで大丈夫だから」
赤みの強くなった空にパチン、パチン、とハサミの音が吸い込まれていく。
空穏は真剣な顔をしてきゅうりの収穫をする遼平を盗み見た。
「ねえ、今日のことだけどさ……雷太のこと」
空穏がそう言うと、きゅうりの葉の陰で、遼平の目が険しくなった。
「山木雷太。あいつ、嫌いだ」
はっきりとした声だった。
「って言ったって、同じクラスだし。やっぱりさあ……」
「ボクはなにも悪いことはしてないよ」
「……そうだけどさ。でもさ、目をつけられたら面倒だろ? それに、殴るのはやっぱりよくないと思う」
「クオンには関係ない。クオンは僕の世話をするように先生から頼まれたかもしれないけど、僕は別にそこまで世話してもらおうなんて思ってるわけじゃない!」
強い口調に空穏の手が止まった。
「けどさ。誰かを殴ったりしたら嫌な気持ちになっぺした……。それに、誰かが喧嘩してると、お腹が痛くならねえ?」
遼平は首を傾げて、じっと考えているようだった。
パチン。
だが遼平はまた、きゅうりの収穫を始める。
二人はきゅうりを収穫し終えると、次はナスに取り掛かった。
「まだトマトもなってるな。でも、ここらへんのトマトはもう終わりかなあ?」
空穏は畑を見渡す。
ナスを収穫しながら遼平がポツリと言った。
「誰かが喧嘩してると、お腹が痛くなるっていう感じはわかる」
すっかりあの話は終わってしまったのだと思っていた空穏は口をあんぐりと開けて、遼平をみた。
「うん、うん! そうだよ。それにね、雷太は乱暴者だし気まぐれだけど、そんなにひどいいじめとかはしないよ。えばりんぼなだけだよ!」
小さい町の小さい小学校のことだ。テレビで見るような陰湿ないじめは、空穏は経験したことも、聞いたこともなかった。
力説する空穏に、遼平は「ふーん」と、気のなさそうな返事をしたが、またしばらく考えた後に「じゃあ、少し我慢してみる」と言った。
そして急に、なにかすごいものを発見したかのように声をあげた。
「なあ、あれ!」
と、ハサミの先で何かを指し示した。空穏が目を向けると、そこにはオクラが一本なっている。
「うっわ、オクラってこんなふうになるんだ!」
遼平はオクラを見て興奮しているらしい。
きゅうりやトマトと違い、オクラはピンと上を向いて突き立っている。たしかに、見慣れない者には、変わった実のつき方に見えるかもしれない。遼平が見つけたオクラは、やや大きめで、たいそう立派なオクラだった。
「とってみる?」
「うん」
オクラに手を伸ばした遼平は「いて!」と声を上げると手を引っ込める。
「オクラにはトゲトゲがあるんだよ」
空穏は笑いながら、オクラに手を伸ばし、先端をつまむとぱちんと茎を切り、遼平に差し出した。
「はいあげる。オクラ美味しいよ」
「ありがとう。でも……ボク、オクラってあんまり食べたことない」
「えー! オレ大好き。焼いて食べると美味しんだけど。一本だから刻んでさ、納豆とかに入れるといいよ。オクラだけで、かつぶしと醤油かけても美味しいし、そうだ! 豆腐に乗せてもいいんだよ。切るとお星様みたいだよ」
遼平はこわごわオクラをつまむと、眼の前に掲げてじっと観察していた。
「わかった。やってみる」
そして、大切そうに自分が手に下げたカゴに、オクラを入れた。
空穏は遼平の笑顔を見た瞬間に、心臓がことりとなったけれども、頬が熱く感じるのは、山の後ろに隠れようとしている真っ赤な太陽のせいなんだと思うことにした。
空穏の父、
空穏の家は数年前にリフォームしたばかりだ。大きい母屋と小さめの離れがあって、母屋には空穏たち家族が、こじんまり離れには祖父母夫婦が住んでいた。母屋と離れはつながっていて、外を通ることなく行き来することができる。夕食は家族全員一緒にとるという決まりになっているので、夕方になると、離れに住む祖父母が母屋へとやってくる。
遼平とその母親の結が空穏の家にやってきた時、ちょうど祖母も母屋へと顔を出したところだった。
「まあまあまあまあ、結ちゃんかね? なんだって久しぶりでねえか? 上がってかい?」
空穏の祖母が遼平親子を見るなり甲高い声をあげた。菓子折りをもった結はぺこりと頭を下げる。
長靴を脱ぎ首に巻いたタオルで汗を拭いながら、空穏の父は家に上がってきた。
「上がってかい、上がってかい! 茶でも飲んでいったらいいべ」
元にもうながされ、結と遼平は空穏の家に上がった。
「結ちゃんはなあ、父ちゃんと一緒に、今では廃校になっちまった戸沢小学校に通ってたんだぞ」
元は、廃校となった戸沢小学校の最後の卒業生だ。かつて小学校であった建物は、今では集落の共同の物置と化し、校庭は子どもたちの遊び場兼スクールバスの発着所となっている。
「お友達だったの?」
空穏の妹で小学二年の清水が興味津々といった様子で、身を乗り出して結の顔をみている。
結は長くさらさらとしたストレートの黒髪を揺らす。さらりとした生地の、涼し気なサマードレスにレースのカーディガン。この辺の集落のお母ちゃんたちとは、持っている雰囲気がまるで違う。服装も、この辺の女たちは、日常でスカートなんてはいているものはいない。
清水の目から見れば、これから何処かにお出かけでもするかのように見えるだろう。
結は不躾な清水の視線に、緩やかに微笑みながら「そうよ」と言った。
空穏に向き直ると、そのきれいな額にうっすらを皺を寄せる。
「遼平のせいで怪我をしたんでしょう? 先生から電話があったの。ごめんなさいね」
そう言って手をついて頭を垂れた。
「い、いえいえ! 俺、あのっ、全然大丈夫ですっ!」
空穏は胸の前で大きく手を振る。
母の静香が台所から盆を持って現れると、テーブルの上にお茶菓子やら漬物を並べはじめた。
こうなると、大人たちのおしゃべりは長い。
清水はその気配を察して「宿題してくる!」と、早々に二階の自室へと逃げ出した。
実際には、長いと言っても小一時間のことだろうが、子どもにとっては十分に長い。空穏は遼平を置いていくことも出来ずに結局居間に残ってしまった。
しゃべることも出来ずに、口をつぐんだ空穏と遼平を気遣いもせずに、大人たちの会話は止まる気配はない。
昔は、この集落にも子どもがたくさんいたっけない。
結ちゃんは勉強のできる子だったない。
空穏の祖父が姿を表すと、祖母が意気揚々と「ほらじいちゃん、覚えってっかい? 大槻の、富雄さんとこの結ちゃん」と、まるで自分の手柄でもあるかのように説明する。
結が頭を下げ、皆さん昔と変わりませんねと笑う。
空穏はしばらくその場で正座をしてお茶をすすっていたが、どうにもこうにも居心地が悪かった。
「おれ、前の畑に行ってくる」
そう言って立ち上がる。
「ああ、じゃあ遼平くんと野菜、なってたら採ってきてよ。ほらこれ」
静香が待ってましたとばかりに、かごを二つ突き出した。
きゅうりを挟んで空穏と遼平は向かい合わせに立っている。
「じゃあ、遼平はそっち側から。俺はこっちから」
カナカナカナ……
蝉の声が聞こえた。夏の盛りのような勢いはなくて、カナカナカナカナ……、という鳴き声が、どことなく寂しく感じる夕方だった。
パチン、パチン。
空穏と遼平の立てるハサミの音が重なる。
「これは?」
「うん。採っちゃっていいよ。あんまり大きくなっちゃうより、少し早めくらいで大丈夫だから」
赤みの強くなった空にパチン、パチン、とハサミの音が吸い込まれていく。
空穏は真剣な顔をしてきゅうりの収穫をする遼平を盗み見た。
「ねえ、今日のことだけどさ……雷太のこと」
空穏がそう言うと、きゅうりの葉の陰で、遼平の目が険しくなった。
「山木雷太。あいつ、嫌いだ」
はっきりとした声だった。
「って言ったって、同じクラスだし。やっぱりさあ……」
「ボクはなにも悪いことはしてないよ」
「……そうだけどさ。でもさ、目をつけられたら面倒だろ? それに、殴るのはやっぱりよくないと思う」
「クオンには関係ない。クオンは僕の世話をするように先生から頼まれたかもしれないけど、僕は別にそこまで世話してもらおうなんて思ってるわけじゃない!」
強い口調に空穏の手が止まった。
「けどさ。誰かを殴ったりしたら嫌な気持ちになっぺした……。それに、誰かが喧嘩してると、お腹が痛くならねえ?」
遼平は首を傾げて、じっと考えているようだった。
パチン。
だが遼平はまた、きゅうりの収穫を始める。
二人はきゅうりを収穫し終えると、次はナスに取り掛かった。
「まだトマトもなってるな。でも、ここらへんのトマトはもう終わりかなあ?」
空穏は畑を見渡す。
ナスを収穫しながら遼平がポツリと言った。
「誰かが喧嘩してると、お腹が痛くなるっていう感じはわかる」
すっかりあの話は終わってしまったのだと思っていた空穏は口をあんぐりと開けて、遼平をみた。
「うん、うん! そうだよ。それにね、雷太は乱暴者だし気まぐれだけど、そんなにひどいいじめとかはしないよ。えばりんぼなだけだよ!」
小さい町の小さい小学校のことだ。テレビで見るような陰湿ないじめは、空穏は経験したことも、聞いたこともなかった。
力説する空穏に、遼平は「ふーん」と、気のなさそうな返事をしたが、またしばらく考えた後に「じゃあ、少し我慢してみる」と言った。
そして急に、なにかすごいものを発見したかのように声をあげた。
「なあ、あれ!」
と、ハサミの先で何かを指し示した。空穏が目を向けると、そこにはオクラが一本なっている。
「うっわ、オクラってこんなふうになるんだ!」
遼平はオクラを見て興奮しているらしい。
きゅうりやトマトと違い、オクラはピンと上を向いて突き立っている。たしかに、見慣れない者には、変わった実のつき方に見えるかもしれない。遼平が見つけたオクラは、やや大きめで、たいそう立派なオクラだった。
「とってみる?」
「うん」
オクラに手を伸ばした遼平は「いて!」と声を上げると手を引っ込める。
「オクラにはトゲトゲがあるんだよ」
空穏は笑いながら、オクラに手を伸ばし、先端をつまむとぱちんと茎を切り、遼平に差し出した。
「はいあげる。オクラ美味しいよ」
「ありがとう。でも……ボク、オクラってあんまり食べたことない」
「えー! オレ大好き。焼いて食べると美味しんだけど。一本だから刻んでさ、納豆とかに入れるといいよ。オクラだけで、かつぶしと醤油かけても美味しいし、そうだ! 豆腐に乗せてもいいんだよ。切るとお星様みたいだよ」
遼平はこわごわオクラをつまむと、眼の前に掲げてじっと観察していた。
「わかった。やってみる」
そして、大切そうに自分が手に下げたカゴに、オクラを入れた。
空穏は遼平の笑顔を見た瞬間に、心臓がことりとなったけれども、頬が熱く感じるのは、山の後ろに隠れようとしている真っ赤な太陽のせいなんだと思うことにした。