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秋の終わり

 その数週間後。
 遼平は戸沢の集落を去った。

 高校でまた会おうねと言っていた。また戸沢に遊びに来るとも言っていた。空穏はクラスの寄せ書きに「また、会おう!」と書き記した。

 遼平がこの集落を去っていく日の朝は、真っ白な霜が下りた。わずかに残った赤や黄色の葉っぱの縁が、白いヴェールに縁取られている。
 朝早く、遼平たちの一家は、この集落を出ていくことになっていた。
 空穏が見送りに行くと、家の前に停まる遼平の父の乗用車は、すでにエンジンがかかっている。明人と結は家と車を往復しながら、トランクに荷物を載せていた。
 空穏が白い息を吐きながら近づいていくと、大きな旅行用のバックを抱えた遼平がちょうど玄関から出てくるところだった。
 見送りに来たのは空穏だけではない。空穏の後ろには元と静香。その他に数名の集落の大人たちも遼平の一家を見送りに来ていた。

「なんか、運ぶの手伝うかい?」
「いいえ! そんなに荷物は多くないんで、大丈夫ですから」
「いやいやいやいやー。あっという間だったない。またいつでも遊びさ来るんだぞい」

 そんな声を聞きながら、トランクに自分の荷物を載せる遼平を空穏はただ見つめていた。
 荷物を詰め終えた遼平が空穏の前にやってきて、伏し目がちだった目がゆっくりと上を向き、空穏の顔を真っ直ぐに捉える。
 遼平の口元は、数度開いたり閉じたりを繰り返したのだけれど、言葉になることはなく、また遼平の顔がうつむいてしまった。

「また……、来年太鼓叩きにきなよ!」

 空穏の声に、ぱっと顔を上げた遼平の目からは、ぽろっと涙がこぼれた。それでも、長いまつげをパシパシと瞬いて一生懸命涙をこらえている遼平を、空穏は急に抱きしめたくなったのだが、その衝動を堪えて笑顔を作る。

「待ってるからな」
「……う、ん……」

 遼平は、そう答えるのがやっとだった。明人と結が遼平の隣に立っていた。

「空穏くん……」

 体の大きな明人が空穏と視線を合わせるように腰を曲げてこちらをみていた。

「本当にお世話になったね。ありがとう」

 そう言って頭を下げた明人に、空穏は首をふることしかできなかった。

「お父さんもお母さんも、反省したみたいだからさ、きっともう、ケンカなんかしないよ」

 少し落ち着いてきたらしい遼平が、そっと空穏の耳元に口を寄せていった。

「だな」

 空穏も笑顔で返す。




「お世話になりました」

 まず、明人が運転席に乗り込んだ。助手席には結が、幾度も空穏たち一家に頭を下げながら乗り込む。

「遼平」

 空穏が声をかけると、後部座性に乗り込もうとしていた遼平は動きを止めた。

「また、また会えるよね?」

 そう聞くと、遼平は笑顔で大きくうなずいた。

「当たり前だ。オレは空穏と同じ高校行くんだから」と、力強い答えが返ってくる。
「うん。あ、これ……」

 空穏は握りしめていたタオル地のハンカチを遼平に差し出した。すっかり忘れるところだった。それは、あの祭りの日に、遼平が空穏に貸してくれたものだ。
 遼平は、空穏の手の中のハンカチをじっと見つめた。

「それ、今度会うときまで持っていて」

 そう言うと、遼平は空穏の首に腕を回した。一度ギュッとしがみつかれる。空穏はとっさのことに、なにもすることができなくて、びっくりしている間に、遼平の体は離れ、もう車の中に消えていた。

 車が走り出す。

「空穏! またね!」

 車のウィンドウが空いて、遼平が叫んだ。その言葉を追って、空穏は駆け出す。

「遼平! 遼平! また! また会おうね!」

 下り坂を走り出した空穏は、車が見えなくなっても、止まることができずに、最後に転んでしまった。
 手のひらと膝小僧も派手に擦りむいて、涙が滲んで、泣いた。
 これが、空穏と遼平の別れだった。



 遼平と分かれて最初の正月には年賀状が届いた。
 春になると、陽菜が高校生となり、この集落から去っていった。
 空穏は中学生になった。まあ、小学校も中学校も町に一つしかないのだから、メンバーは代り映えがしない。雷太も莉乃も一緒の中学生となった。

 その年の秋に、遼平のお父さんが海外転勤になったのだという話を、空穏は父の元から聞かされた。
 その後、遼平の祖父である富雄さんも、体を悪くして山を下り、町の中のグループホームに入り、最初の年には届いた年賀状も、その次の年からは届かなくなってしまった。
 

 形の良い頭に茶色の髪。アーモンドみたいな少しつり気味の二重の目。クラスのどの女の子よりも可愛くて、そのくせ怒ると見境なくて、凶暴で、強くて、男らしかった。

 そんな遼平を思い出し、もう、会えないのかもしれないと思った時、ちょっぴり涙が滲んだ。
 
 そして今、空穏は中学を卒業し、高校生になる。

『オレ、クオンと同じ高校へ行く!』

 遼平の声が聞こえたようなきがする。
 約束の高校生だ。なのに空穏は遼平が今、なんていう国に住んでいるのかさえ知らない。

「空穏、準備はいいの?」
「んー、今行く」

 自分の部屋を見回した。
 今日、戸沢を出ていく。
 手に持っていたハンカチに視線を落として、ギュッと握りしめた。
 遼平のことが好きだったのだと、気づいたのはいつだったろう。
 きっとあれが、自分の初恋であったのだと気づいたときには、もう何もかもなくしたあとだった。
 
「うそつき」

 手にしたハンカチに向かって小さくつぶやいた。

 目を閉じたら、あの時遼平と一緒にドキドキしながら聞いた祭り囃子に担ぎ手たちの威勢のよい掛け声が、頭の中に蘇ってくる。

 いつか……いつか会えるのか?
 遼平はあの時の約束を、空穏のことを、今でも覚えていてくれるのか?
 
 もう、この村には戻らないのかもしれない。
 一つ大人になってこの村を出ていく。
 けれど、絶対に忘れない。
 この村で過ごした日々。スクールバス。学校の友達との小さな喧嘩と仲直り。畑仕事。祭ばやしの練習。おやつに出てきた栗きんとん。
 そして、喧嘩っ早くて振り回されてばかりだった、誰よりも可愛い顔をした友達。

「バイバイ。またな」

 そういうと空穏は静かにまぶたを開き、十五年と数ヶ月を過ごした懐かしい部屋を後にした。

 了
 
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