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例大祭

 今年の稲荷神社の例大祭は、十月九日だった。
 ひと昔前までは、お祭りは十月十五日と決まっていたのだが、今現在は体育の日のある三連休の日曜日と決まっている。土曜日には宵宮を行うことが出来るし、月曜日は一日ゆっくり休養がとれるというわけだ。


 あれほど待ちに待った祭り当日だというのに、朝から今ひとつパッとしない天気で、のっぺりとした雲が低くたれ込め、気温が低い上に、時折パラパラとにわか雨が降る。降水確率はそう高くはなく、雨が降ってもたいしたことがないのが、いくらかの救いかもしれない。これで大雨に降られたりしたら、目も当てられない。祭りは、雨天決行なのだ。
 空穏は目が覚めると、鯉口に股引き、腹掛けを着せてもらった。

「自分で脱げっか?」

 静香が笑いながら聞く。

「出来っから!」

 もう六年だ。毎年着る服だから、脱ぎ方もちゃんと覚えている。空穏も清水も、寒いからといって縮こまってはいない。玄関で足踏みをしながら、出発を今か今かと待っている。
 小学校の校庭には、昨日からもうこの集落の山車が準備万端でスタンバイしているのだと思うと、体がうずうずしてくる。
 そこへ、若衆の半被を着た、元が姿を現した。

「じゃあ、父ちゃんは、山車を小学校から集会所まで運んでっから! 空穏と清水は母ちゃんと一緒にあとから集会所の方さ!」

 そう言って家を出て行く元は、子どもたち以上に気合が入っているように見えた。
 空穏は(お祭りの格好をすると、父ちゃんはいつもの三倍くらい格好いいな!)などと思いながら、元の背中を見送った。
 元が玄関から出掛けていったと同時に、居間の電話が鳴る。
 準備を終え、上がり框に座って靴を履こうとしていた静香が「もう、いま出るところだったのに」と口を尖らせながら部屋へともどっていった。

「はい、佐藤です……。はい。ああ、これから出ようと思ってたとこ……え? ほんとに? まあ、それは……ええ、遼平くんは、大丈夫なの?」

 玄関の土間で清水とふざけあっていた空穏は「遼平」という名前が聞こえて、動きを止め聞き耳を立てた。
 土足のまま、手のひらと膝を使って廊下を少しばかり進むと、居間を覗き込む。
 電話を終え、出てきた静香が「うわぁ!」と、目の前で廊下を這っている空穏に驚きの声を上げた。

「母ちゃん。遼平、どうしたの?」
「もうっ、あんたは、驚くかんねー。行儀の悪い! ああ、遼平くん、お囃子に参加できないみたいなのよ。その連絡だったんだけど」
「え!?」

 静香は眉間にしわを寄せた。

「なんかね、微熱があるんだって。それに今日は寒いから、お囃子は無理だろうって」
「うそ」
「でも、神社の方にはちょっと顔を出すっていってた。お囃子は、一日中外を練り歩くからねえ、遼平くんには無理かもしれないね」

 空穏はもう、母の言葉をきいてはいなかった。

「遼平んちに、行ってくる!」

 そう言うとすぐに玄関を飛び出し、家の前の坂道を駆け下りていった。


 ◇

 
「おはようございます!」

 と、遼平の家の玄関を開けると、空穏の目の前には、今までみたことのない男の人が立っていた。
 髪の毛の明るさといい、顔の一つ一つのパーツといい、遼平と良く似ている。驚いた空穏が玄関先で固まっていると、男の人は「おはよう。はじめまして。遼平のお友だちかな?」と言った。

「え? お父……さん?」
「君が空穏くんだね。遼平からきいているよ。仲良くしてくれているそうで、ありがとう」

 穏やかそうなその人は、部分的には遼平とよくにているが、女の子みたいな遼平とは違い、しっかりとした大人の男の人で、とても格好良くて、背も高くてがっしりとしていた。

「空穏くん、上がって? 遼平に会っていってやってくれる?」

 父親の後ろから、結が顔を出した。

「遼平も、祭りに参加できないのがショックだったみたいでね、起きてこないんだよ」

 空穏は上目遣いで二人をちらっと見てから「失礼します!」と、家の中に上がり、遼平の部屋へと向かった。
 遼平の部屋は、一階の北側の奥の部屋だ。

「遼平! オレ!」

そう声をかけて襖を開けると、和室に敷かれた布団の上に、遼平の背中がこちらを向いていた。もしかして泣いているのではないかと思ったが空穏はなるべく明るく「遼平、大丈夫?」と、声をかけた。
 勢い込んでここまで来たものの、出てきた言葉はそんなもので、もっと気の利いた言葉をかけられないものかと、空穏は自分自身にがっかりする。
 無言でこちらを振り返り、パチリと開いた目が少し赤くて、やはり遼平は泣いたのかもしれない、と思った。

「くおん……」

 少しかすれて鼻にかかった声。遼平はこほこほと咳き込んだ。

「風邪、ひどいの? 声、つらそう」
「ううん、たいしたことないよ」

 そう言ってうっすらと笑みを刻んだ口元が、痛々しい。あんなに練習したのに。はじめて参加する祭りをすごく楽しみにしていたのに。

「暖かくなったら、お父さんとお母さんと、お祭りを見に行くから。……あのさ、お店いっぱい出る?」

 遼平は、体をこちらに向け聞いてくる。

「おお、出る出る! 神社のとこ、いっぱい出っから! 買いに来るといいよ! 綿菓子だって、フライドチキンだって、フリフリポテトだって、たこ焼きだってあるしさ。射的とかくじ引きもあるよ。それに、集会所ではお菓子とかジュースも飲み放題。大人は昼間っから酒のんでるしさ」

 勢い込んで話す空穏に、遼平はくすりと笑った。

「オレ、クレープ食べたいなあ」
「クレープ! もし神社で会えたら、一緒に食べようよ!」

 遼平は「楽しみだな」と言ったが、長いまつげが頬に影を落とす。
 空穏ははっとした。
 楽しみなわけ、あるはずないじゃないか。みんな祭りでうかれて、山車をひいて、太鼓を叩いているときに、自分ひとりだけ参加できないなんて! 
 あんなに毎日練習してきたのに!

「空穏、頑張ってね。見に行くからね」
「うん、うん! オレ頑張るよ。見つけたら声かけろよ!」

 遼平の右手が、布団の中から顔を出した。小指だけがぴょこんと立っている。

「約束」

 空穏は股引で、自分の手のひらを一度こすると、遼平の小指に自分の小指を絡めた。

「待ってるからな!」

 そう言い残して遼平の部屋を出る。静香と清水が玄関先で、空穏のことを待っていた。
 遼平の家を出て、周囲の山々を見回す。冷たく湿気のこもった空気は靄となって山の谷間から立ち上り、その靄の合間から、黄色やオレンジや赤の葉が、しっとりと美しい姿を見せている。
 空穏は大きく息を吸い込むと「よし!」と、自分に気合を入れた。
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