このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

孤独

 ある日、山奥の小さな集落で、一人の男が、ぽつんと消えた。

 ◇

 佐藤輝幸は、小学校低学年の時に二親をなくし、東北の山奥に住む叔父一家のもとへと引き取られた。

 山間にへばりつくように建つ叔父の家。限界集落と呼ばれる其処には、輝幸以外に子どもはいない。叔父には二人の子供がいたが、二人とも、すでに家を出ていた。叔父はよくしてくれたが、それでも自分の居場所がここではないというような寂しさを、いつも輝幸は抱えていた。

 そこは雪深い地方であった。

 冬の間は常に一メートル、多い時には二メートルを超える雪に閉じ込められる。

 叔父は画家であり、都会の喧騒を逃れてこの地へ家族ともども移り住んでいた。冬になれば、降りやまぬ雪のために絵をかく時間は削られる。小学五年生頃までは、冬の間の叔父の仕事は雪かきなのだと、輝幸は思っていた。

 そんな場所であったから、雪にまつわる伝承もあって、輝幸も叔父や近所のじいさまやばあさまから、そんな話をよく聞かされていた。

 雪の積もった満月の晩には、雪女が子どもを連れに来るから、外に出てはならないとか。しんしんと雪の降る日には、雪ん子を抱いた雪女が出るのだとか。そうして、雪女は通りがかった男に、「この子を抱いてくださいな」と話しかける。その子を抱こうものなら腕の中の子の重さに男は動けなくなり、雪に埋まって死んでしまうのだそうだ。

 そんな話を聞かされて育ったのもだから、輝幸は、いい大人になっても雪の日の夜に一人で外を歩くときは、どうにも薄気味悪いような、誰かに見られているような気がしてならないのだった。

 輝幸は高校進学を機に、叔父の家を出た。叔父の家から通えるような高校はなかったからだ。叔父の二人の子どもも、高校進学を機にこの集落を出て行っており、高校へは下宿をして通った。

 大学は、幼いころに自分が住んでいた関東圏の大学へと進み、そのまま、そちらで就職した。

 万が一の時にも誰一人として頼るものもいない都会暮らしだった。だが、輝幸は大学生の時に運命の出会いをした。少なくとも本人はそう思っている。

 友人に誘われて参加した飲み会の席で、偶然にも、あの東北の山奥の中学校で同級生だった女と再会した。

 輝幸は、女にすぐ気が付いて声をかけた。彼女は、あまりにも、中学生の頃の印象と変わらぬままだった。黒髪は染もせずに後ろで一つに縛り、化粧気もない。しかし、彼女のほっそりとしたうなじやきめ細やかで白い肌、薄いけれども赤いくちびる、黒目がちな瞳……それらはとても美しかった。彼女は声をかけられたのが信じられないというように驚いた顔をし、うれしそうにその白い頬を染めた。

 二人は恋に落ち、大学を卒業と同時に籍を入れた。

 女は輝幸の妻となった。

 二人の間には五人の子供が出来た。

 輝幸は幸せだった。

 妻は、五人の子供を産んでも、いつまでも少女のようだった。かいがいしく輝幸や子どもたちの世話を焼く妻。輝幸は気が付くとじっと目で追ってしまうのだった。妻は妻で、そんな輝幸の様子に気が付くと、はじけるような笑顔を見せる。

 妻の笑顔に見惚れて、敷居に躓く中年男がいるだろうか? 輝幸は時々そんな自分にはっとするのだが、それでもやはり、妻と目が合うと心だけは少年のようにドキドキとしてしまうのだ。


 そんな幸せな時間を過ごし、一番上の男の子は中学三年となり、五人目の子どもが生まれて一年ばかり過ぎたころだった。

 結婚してからというもの、輝幸は一度もあの雪深い集落へ戻ったことはなかったのだが、思いがけず、中学時代に一番仲の良かった友人から結婚式の招待状が届いた。年賀状だけの付き合いとなっていたが、輝幸は中学時代、彼のことを好いていたし、それはうれしい知らせだった。

 結婚式には中学時代の友人も数名参加しており、会ってみれば懐かしく楽しい時間を過ごした。

 結婚式を挙げるのは、ふもとの町中のことであるし、もう、三月だからと油断していた。寒い寒いと思っていたら、式の途中から雪が降り始め、次第に灰色の空があたりを覆っていった。まあ、輝幸はその日は一泊のつもりでいたから問題はないのだが、次の日の新幹線が動かないのは困る。そんな程度に考えていた。

 雪の降りしきる中、結婚式の二次会で輝幸は昔の級友たちと、お互いの近況などを報告しあう。

「ええ、お前、同じ中学の子と結婚したのかよ? 全然知らなかったよ」

 誰だ誰だ、と、新郎ともう一人の中学時代の親しい友人がたずねた。輝幸が名を告げたが、その二人はそんな名前の女子がいたかなあ? と首をひねる。

 一クラスしかなかった小学校とは違い、町に一つしかない中学は、一学年四クラスだったから、知らなくてもおかしくはないが、ここで会話をしている三人が三人とも、輝幸の妻の中学時代を知らないというのは少し変な気がした。

 そんなことを思い始めると、輝幸の中にありながら、やんわりとした靄に包まれていたものが、次第にその姿を現していく。頭の中が、キン、と冴えたような気がした。

 あの中学に本当に妻はいたのだろうか?

 妻と結婚してからというもの、どうして俺は一度もあの故郷の集落へ帰ろうとする気が起きなかったのか?

 待て、俺は妻の親せきというものを知らないのではないか?

 妻は、俺と同じで天涯孤独なのだと言った。両親を亡くし、親戚の家に引き取られたが、折り合いが悪く大学進学を機にその家を出て、もう、連絡もしないのだと。だが、そんな境遇の同級生がいればあの小さな学校で知らないわけがあるだろうか?
ハッとして、スマホを取り出すと、そこに保存してある家族の写真を表示させた。

 そこに写る、出逢った頃と全く変わらぬ美しい女。

 その女の笑顔を見つめる輝幸の顔が、次第に蒼ざめていく。ぴくりとスマホを持つ手が揺れた。

「へえ? それが奥さんかあ」

 隣から友人が覗き込む。「やっぱり覚えてないなあ」などとつぶやきながら。

 何てことだ! おれはこの女を知っている。なぜ今まで気づかなかったのだ!

「思い出した……。あの時の女だ。俺が、子どもの頃雪山で迷子になった時、助けてくれた……」

 そうつぶやいたとき、輝幸はハッとして己の口を手で覆った。

「え? 雪山で?」

 問うてくる友人の声が、遠くに聞こえた。
1/3ページ
スキ