背徳の雅荘
その少年は絶望していた。
この世に未練などない。
ただ、天国への憧れと、
現世からの逃避欲が、頭を占めていた。
背徳の雅荘
6.肥前と南海
肥前忠広は、その家庭から疎まれていた。
いや、忠広の両親が、疎まれる存在だった。
酷く荒れた家庭だったが、それでも忠広はそれを受け入れていた。
父親も、母親も、何も出来ない人間だった。
それでも学校には行けていたし、家事をやるのもそこまで苦ではなかった。
例えどんなに辛い環境でも、両親が居てくれて、その世話をするという事が、自分の存在意義だった。
中学の卒業式の日。
それは、散りゆく桜が綺麗な日だった。
ベランダから桜吹雪が部屋に入ってくる。
その二つの死体は、散った桜の花びらを浴びつつ、眠る様に横たわっていた。
もう、疲れた。
睡眠薬乱用をした両親の死に、その感情が脳を占めた。
もう、何も残っていない。
世話の掛かる両親も、心の支えであった学校も、そして、唯一の友達も。
その葬式に出ていた親戚は、忠広が知らない遠い存在ばかりだった。
誰も忠広を家族にしたいとは思わず、他に擦り付けようとする。
そんな口論を聞くのが嫌で、忠広は式場から逃げ出した。
逃げてどうするのだ。
そんな自問に、その答えが出た。
もう、疲れた。
生きるのに、疲れたんだ。
どうせ俺は何も無い。
何も残ってないのだ。
早々に別の生き方に逃げた細川行平が羨ましかった。
俺は、生き方を変えられなかった。
なら、生きるのを変えたかった。
でも、死、という、正反対の道に、逃げる事しか思いつかなかった。
だから、ビルの屋上の柵を越え、遥か下の地面を見つめていた。
よし。
俺は、現世から逃げよう。
そうして片足を出した時,
その腕が、忠広を現世に括り留めたのだ。
「やっと会えた」
柵越しに抱き締められる。
忠広は驚いて振り向く。
至近距離に、丸眼鏡と長い睫毛と、銀の眼が有った。
「久しぶり、ひぜんくん」
男はそう言った。
何故俺の名前を知っているのか、とか、そんな事はどうでもいい気がした。
「僕は南海太郎朝尊、だった生き物だよ」
その男は、生き物、という言い方をした。
「あの時、僕はカラスだった」
からす?と感情の無い声で問い返す。
「そう、そして君は猫だった」
それで、何故か合点がいった。
彼は,黒い翼の天使だ。
俺を迎えに来た、天使。
何故か、そう思えた。
「ひぜんくんの今の名前は?」
「…肥前忠広」
「そうか。良い名前だ」
そのメガネの男は抱き締める腕の力を強める。
「僕の今の名前は南海朝尊。太郎は無いよ。いやあでも、まさか同じ生物として会えると思わなかった」
前の君は犬だったから、と言われても対して興味は無かった。
「折角再会出来たんだ、少し話をしよう」
その声が楽しそうだったから、忠広は少しだけ付き合ってやろうという気になれた。
自ら柵を乗り越え、その手を取られてコンクリートの上に立つ。
そして改めてその男の姿を見て、美しい天使だな、と思った。
その取り留めの無い話を聞いていながら、頭の隅にあった言葉を口にした。
「なあ、先生」
「いつか、俺を殺してくれ」
先生はきょとんとした顔をしたが、直ぐ笑顔になる。
「うん。いいよ」
その言葉が、生きる希望として心臓に宿った。
「だから、俺は今まで必死に生きてきた」
肥前はそう言ってオレンジジュースのペットボトルを煽る。
「…へえ」
アメジストの眼は特に感想は言わず、相槌だけ打った。
「何でその話をしてくれたんだ?」
そう問われ、なんでだろうな、と返す。
「お前は俺に一番似てる気がしたんだ」
あの中で。と肥前は言った。
「心外だな、俺は生きるの楽しいぜ?」
「でも心療内科掛かるくらいには心が壊れてるじゃねえか」
「まあ、それはそうだが」
薬研は黒手袋で持った缶コーヒーをぷらぷらと振る。
「これは話が脱線するが、俺は精神病を心の病気、って言うのが好きじゃなくてな」
紫は何処か遠くを見ていた。
「あれって結構物理的に脳の問題なんだ。ホルモンとか神経伝達物質の所為だから、心の病気じゃなく、脳の障害なんだよ」
へえ、と考えのない相槌を打つ。
「心、で言ったら、思想とか信念が突拍子の無い奴のが言わないか?まあそれも脳の認識だが」
暗に何を言いたいかはわかる。日頃ニュースを見ていれば、そう思う事は多い。
「まあものにもよるんだろうけど、精神病の患者ってまともな奴も多いよ」
現在進行形で見てきている者の言葉の重みはなかなかだった。
「あんたもまともだもんな」
「そう見えてるなら嬉しいよ」
性癖はまともじゃないがな、と自分でネタにして笑いやがったが。
こんな話公共の場で言うもんじゃないよなあ、と公園のベンチで休憩しながら思う。
夕焼けが眩しい。
今は買い出しの帰りだった。
「悪いな、重いの持たせて」
肥前は、スーパーで買った物を持ってもらっている事に謝罪をする。
「別にいいぜ。買い物って気分転換になるしな」
薬研は両手にずっしりとしたエコバッグを持っていた。
「肥前も大変だな、対価が家事とかさ」
「慣れてる事だから逆にありがてえよ」
そういえば、と肥前は続ける。
「薬研の対価って何なんだ?」
「俺か?俺はな、「行平を一生愛す事」が対価だ」
何だそれ、と肥前は呆れた顔をする。
「まあ普通に考えたら楽そうだけど、その縛りが有るから俺は今此処に居れるんだ」
その気持ちはわかった。愛という鎖は頑丈で、生きる理由になる。
肥前はそれを常々実感していた。
「あと他と比べたら10倍の家賃を実家から払っている」
「そっちが対価じゃねえか」
そうツッコむと薬研はハハハと笑う。
二人は休憩をやめ、夕暮れの中を歩いた。
雅荘に戻った時は、もう空は黒くなっている。
最近は日が落ちるのが早いな,と思いつつ、買ってきた物を冷蔵庫にしまう作業をした。
「いやあ、正直行平は女だと思ってたんだよな」
その薬研の発言に行平は、は?と漏らした。
「女流の文章だし、絵も可愛いからさ」
そう珈琲を啜る薬研に、行平の真っ白な肌が少し赤く色付く。
「そ、そうか!?」
「ああ、確かに僕も薬研君と同意見だ」
アイスティーを飲んでいた丸眼鏡の奥の銀眼もそう同意した。
朝尊は、契約通り行平のアシストをするので、行平の創作物を知っていた。
雅荘で行平の作品を知っているのは、薬研と朝尊の二人だけだ。
「えええ〜…作風変えようかな…」
一人だけビールを呑む行平は眉間に皺を寄せ呟いた。
「別にいいじゃねえか、俺は行平のそういう所が好きだぜ」
薬研はそう口説き、ちゅ、と行平の頬にキスをしてくる。
朝尊も小さく笑った。
せんせえ〜〜〜〜〜〜!!!!と焦った声がドアの向こうから聞こえる。
行平君の部屋だよー、と朝尊が呼ぶと、直ぐに肥前が入って来た。
「ノックぐらいしてくれないか」
行平がそう言うと、肥前は、わりぃ、と軽く謝った。
「先生、もう帰って来るって言ったろ」
「ああ、そうだったね」
「また既読スルーしやがって…いつも一言返せっつってるだろ」
心配性だねえ、と朝尊が言うと、心配するに決まってるだろ!と肥前は返す。
行平も最初は朝尊と同意見だったが、1ヶ月アシストしてもらうと肥前の気持ちもわかった。
どうも南海朝尊という男は、しっかりして見えてどこか抜けており、更に遠慮と倫理観が無い。
行平だから流せる点も多いが、興味本意でプライベートな事を聞いて来るので、友達居ないんだろうなと思った。
具体的に言えば、情事の事を訊いてくる。
行平の過去も詮索してきた。
しかし何処か憎めない所が有るのも事実なので、朝尊が今まで生きてこられたのはそれが幼子の様な純粋さから来ているからなんだろうなぁ、と行平は分析する。
朝尊を連れて部屋を出る肥前も大変だ、と他人事として思った。
「…それにしても、こんな時間までバイトとは肥前も大変だなぁ」
二人きりになって薬研は言う。
「短時間のバイトらしいけど、一体何やってんだか」
さあ、と行平は返す。
「あんな血生臭くなるバイトって、本当何なんだ?」
今度訊いてみようかな、と薬研が呟くので、やめておきなよ、と言っておいた。
行平も薬研も、朝尊の様な憎めない人間ではないのだから。
前は倉庫だった狭い自室の扉を閉め、肥前は鍵を掛ける。
外着の赤いパーカーを脱ぎ捨て、洗面台に放り込んで水に浸けた。
血の臭いが部屋に充満する。肥前は舌打ちして軽く顔を拭いた。
「肥前君」
朝尊は肥前を背後から抱き締める。
肥前は大きく呼吸をした。
「今日は、辛い事があったのかい?」
朝尊は、鈍感のようでこういう時の察しは鋭い。
先生には敵わねえな、と思いつつ腹に回された腕を取った。
「…カラスを、殺した」
そう震える声で呟くと、朝尊は、そうかい、と言った。
肥前は、“掃除”のバイトをしていた。
比喩ではなく、本当に掃除屋のバイトだ。
普段は不法投棄のゴミ袋や廃棄物を掃除している。
しかし、地区が地区だけに、血生臭い“ゴミ”も有った。
そして、自治体が表向きに掃除出来ない物も片付けている。
今日のゴミは、ゴミ置き場に集るカラスだった。
生きたカラスだ。
肥前は何でも淡々とこなせたが、今回ばかりは、精神的にきた。
その黒い翼に、
カラスに、救われた恩を忘れていない。
猫として、カラスと過ごした日々を忘れていても、
どうしても、朝尊を殺した様な感覚を覚えてしまっていた。
ふら、と朝尊は肥前を抱きしめたまま硬いベッドに雪崩れ込む。
肥前は貪る様に朝尊の口内を弄った。
「せんせい、せんせ、い」
「ん、大丈夫、だよ」
僕は此処に居るよ。
翼の様に、肥前の背中を抱きしめた。
血の臭いが、性の香りで上書きされる。
汗だらけの身体で、二人は抱きしめ合っていた。
「なあ、先生」
肥前は呟く。
「俺は、いつまで生きればいい」
血の様な眼は、ほとほとと涙を落としていた。
「いつになったら殺してくれるんだ」
朝尊は答えず、その背中をあやしている。
やがて、肥前は疲れから目を閉じた。
この現実が夢なら、どれだけ善いだろう。
でも、夢の中なら、僕達は出会えなかったかもしれないね。
猫の君は、とても小さくて、か弱くて、
でも、気高く美しかったんだよ。
カラスほ羽は七色に輝く。
猫は、その輝きを知っていた。
この世に未練などない。
ただ、天国への憧れと、
現世からの逃避欲が、頭を占めていた。
背徳の雅荘
6.肥前と南海
肥前忠広は、その家庭から疎まれていた。
いや、忠広の両親が、疎まれる存在だった。
酷く荒れた家庭だったが、それでも忠広はそれを受け入れていた。
父親も、母親も、何も出来ない人間だった。
それでも学校には行けていたし、家事をやるのもそこまで苦ではなかった。
例えどんなに辛い環境でも、両親が居てくれて、その世話をするという事が、自分の存在意義だった。
中学の卒業式の日。
それは、散りゆく桜が綺麗な日だった。
ベランダから桜吹雪が部屋に入ってくる。
その二つの死体は、散った桜の花びらを浴びつつ、眠る様に横たわっていた。
もう、疲れた。
睡眠薬乱用をした両親の死に、その感情が脳を占めた。
もう、何も残っていない。
世話の掛かる両親も、心の支えであった学校も、そして、唯一の友達も。
その葬式に出ていた親戚は、忠広が知らない遠い存在ばかりだった。
誰も忠広を家族にしたいとは思わず、他に擦り付けようとする。
そんな口論を聞くのが嫌で、忠広は式場から逃げ出した。
逃げてどうするのだ。
そんな自問に、その答えが出た。
もう、疲れた。
生きるのに、疲れたんだ。
どうせ俺は何も無い。
何も残ってないのだ。
早々に別の生き方に逃げた細川行平が羨ましかった。
俺は、生き方を変えられなかった。
なら、生きるのを変えたかった。
でも、死、という、正反対の道に、逃げる事しか思いつかなかった。
だから、ビルの屋上の柵を越え、遥か下の地面を見つめていた。
よし。
俺は、現世から逃げよう。
そうして片足を出した時,
その腕が、忠広を現世に括り留めたのだ。
「やっと会えた」
柵越しに抱き締められる。
忠広は驚いて振り向く。
至近距離に、丸眼鏡と長い睫毛と、銀の眼が有った。
「久しぶり、ひぜんくん」
男はそう言った。
何故俺の名前を知っているのか、とか、そんな事はどうでもいい気がした。
「僕は南海太郎朝尊、だった生き物だよ」
その男は、生き物、という言い方をした。
「あの時、僕はカラスだった」
からす?と感情の無い声で問い返す。
「そう、そして君は猫だった」
それで、何故か合点がいった。
彼は,黒い翼の天使だ。
俺を迎えに来た、天使。
何故か、そう思えた。
「ひぜんくんの今の名前は?」
「…肥前忠広」
「そうか。良い名前だ」
そのメガネの男は抱き締める腕の力を強める。
「僕の今の名前は南海朝尊。太郎は無いよ。いやあでも、まさか同じ生物として会えると思わなかった」
前の君は犬だったから、と言われても対して興味は無かった。
「折角再会出来たんだ、少し話をしよう」
その声が楽しそうだったから、忠広は少しだけ付き合ってやろうという気になれた。
自ら柵を乗り越え、その手を取られてコンクリートの上に立つ。
そして改めてその男の姿を見て、美しい天使だな、と思った。
その取り留めの無い話を聞いていながら、頭の隅にあった言葉を口にした。
「なあ、先生」
「いつか、俺を殺してくれ」
先生はきょとんとした顔をしたが、直ぐ笑顔になる。
「うん。いいよ」
その言葉が、生きる希望として心臓に宿った。
「だから、俺は今まで必死に生きてきた」
肥前はそう言ってオレンジジュースのペットボトルを煽る。
「…へえ」
アメジストの眼は特に感想は言わず、相槌だけ打った。
「何でその話をしてくれたんだ?」
そう問われ、なんでだろうな、と返す。
「お前は俺に一番似てる気がしたんだ」
あの中で。と肥前は言った。
「心外だな、俺は生きるの楽しいぜ?」
「でも心療内科掛かるくらいには心が壊れてるじゃねえか」
「まあ、それはそうだが」
薬研は黒手袋で持った缶コーヒーをぷらぷらと振る。
「これは話が脱線するが、俺は精神病を心の病気、って言うのが好きじゃなくてな」
紫は何処か遠くを見ていた。
「あれって結構物理的に脳の問題なんだ。ホルモンとか神経伝達物質の所為だから、心の病気じゃなく、脳の障害なんだよ」
へえ、と考えのない相槌を打つ。
「心、で言ったら、思想とか信念が突拍子の無い奴のが言わないか?まあそれも脳の認識だが」
暗に何を言いたいかはわかる。日頃ニュースを見ていれば、そう思う事は多い。
「まあものにもよるんだろうけど、精神病の患者ってまともな奴も多いよ」
現在進行形で見てきている者の言葉の重みはなかなかだった。
「あんたもまともだもんな」
「そう見えてるなら嬉しいよ」
性癖はまともじゃないがな、と自分でネタにして笑いやがったが。
こんな話公共の場で言うもんじゃないよなあ、と公園のベンチで休憩しながら思う。
夕焼けが眩しい。
今は買い出しの帰りだった。
「悪いな、重いの持たせて」
肥前は、スーパーで買った物を持ってもらっている事に謝罪をする。
「別にいいぜ。買い物って気分転換になるしな」
薬研は両手にずっしりとしたエコバッグを持っていた。
「肥前も大変だな、対価が家事とかさ」
「慣れてる事だから逆にありがてえよ」
そういえば、と肥前は続ける。
「薬研の対価って何なんだ?」
「俺か?俺はな、「行平を一生愛す事」が対価だ」
何だそれ、と肥前は呆れた顔をする。
「まあ普通に考えたら楽そうだけど、その縛りが有るから俺は今此処に居れるんだ」
その気持ちはわかった。愛という鎖は頑丈で、生きる理由になる。
肥前はそれを常々実感していた。
「あと他と比べたら10倍の家賃を実家から払っている」
「そっちが対価じゃねえか」
そうツッコむと薬研はハハハと笑う。
二人は休憩をやめ、夕暮れの中を歩いた。
雅荘に戻った時は、もう空は黒くなっている。
最近は日が落ちるのが早いな,と思いつつ、買ってきた物を冷蔵庫にしまう作業をした。
「いやあ、正直行平は女だと思ってたんだよな」
その薬研の発言に行平は、は?と漏らした。
「女流の文章だし、絵も可愛いからさ」
そう珈琲を啜る薬研に、行平の真っ白な肌が少し赤く色付く。
「そ、そうか!?」
「ああ、確かに僕も薬研君と同意見だ」
アイスティーを飲んでいた丸眼鏡の奥の銀眼もそう同意した。
朝尊は、契約通り行平のアシストをするので、行平の創作物を知っていた。
雅荘で行平の作品を知っているのは、薬研と朝尊の二人だけだ。
「えええ〜…作風変えようかな…」
一人だけビールを呑む行平は眉間に皺を寄せ呟いた。
「別にいいじゃねえか、俺は行平のそういう所が好きだぜ」
薬研はそう口説き、ちゅ、と行平の頬にキスをしてくる。
朝尊も小さく笑った。
せんせえ〜〜〜〜〜〜!!!!と焦った声がドアの向こうから聞こえる。
行平君の部屋だよー、と朝尊が呼ぶと、直ぐに肥前が入って来た。
「ノックぐらいしてくれないか」
行平がそう言うと、肥前は、わりぃ、と軽く謝った。
「先生、もう帰って来るって言ったろ」
「ああ、そうだったね」
「また既読スルーしやがって…いつも一言返せっつってるだろ」
心配性だねえ、と朝尊が言うと、心配するに決まってるだろ!と肥前は返す。
行平も最初は朝尊と同意見だったが、1ヶ月アシストしてもらうと肥前の気持ちもわかった。
どうも南海朝尊という男は、しっかりして見えてどこか抜けており、更に遠慮と倫理観が無い。
行平だから流せる点も多いが、興味本意でプライベートな事を聞いて来るので、友達居ないんだろうなと思った。
具体的に言えば、情事の事を訊いてくる。
行平の過去も詮索してきた。
しかし何処か憎めない所が有るのも事実なので、朝尊が今まで生きてこられたのはそれが幼子の様な純粋さから来ているからなんだろうなぁ、と行平は分析する。
朝尊を連れて部屋を出る肥前も大変だ、と他人事として思った。
「…それにしても、こんな時間までバイトとは肥前も大変だなぁ」
二人きりになって薬研は言う。
「短時間のバイトらしいけど、一体何やってんだか」
さあ、と行平は返す。
「あんな血生臭くなるバイトって、本当何なんだ?」
今度訊いてみようかな、と薬研が呟くので、やめておきなよ、と言っておいた。
行平も薬研も、朝尊の様な憎めない人間ではないのだから。
前は倉庫だった狭い自室の扉を閉め、肥前は鍵を掛ける。
外着の赤いパーカーを脱ぎ捨て、洗面台に放り込んで水に浸けた。
血の臭いが部屋に充満する。肥前は舌打ちして軽く顔を拭いた。
「肥前君」
朝尊は肥前を背後から抱き締める。
肥前は大きく呼吸をした。
「今日は、辛い事があったのかい?」
朝尊は、鈍感のようでこういう時の察しは鋭い。
先生には敵わねえな、と思いつつ腹に回された腕を取った。
「…カラスを、殺した」
そう震える声で呟くと、朝尊は、そうかい、と言った。
肥前は、“掃除”のバイトをしていた。
比喩ではなく、本当に掃除屋のバイトだ。
普段は不法投棄のゴミ袋や廃棄物を掃除している。
しかし、地区が地区だけに、血生臭い“ゴミ”も有った。
そして、自治体が表向きに掃除出来ない物も片付けている。
今日のゴミは、ゴミ置き場に集るカラスだった。
生きたカラスだ。
肥前は何でも淡々とこなせたが、今回ばかりは、精神的にきた。
その黒い翼に、
カラスに、救われた恩を忘れていない。
猫として、カラスと過ごした日々を忘れていても、
どうしても、朝尊を殺した様な感覚を覚えてしまっていた。
ふら、と朝尊は肥前を抱きしめたまま硬いベッドに雪崩れ込む。
肥前は貪る様に朝尊の口内を弄った。
「せんせい、せんせ、い」
「ん、大丈夫、だよ」
僕は此処に居るよ。
翼の様に、肥前の背中を抱きしめた。
血の臭いが、性の香りで上書きされる。
汗だらけの身体で、二人は抱きしめ合っていた。
「なあ、先生」
肥前は呟く。
「俺は、いつまで生きればいい」
血の様な眼は、ほとほとと涙を落としていた。
「いつになったら殺してくれるんだ」
朝尊は答えず、その背中をあやしている。
やがて、肥前は疲れから目を閉じた。
この現実が夢なら、どれだけ善いだろう。
でも、夢の中なら、僕達は出会えなかったかもしれないね。
猫の君は、とても小さくて、か弱くて、
でも、気高く美しかったんだよ。
カラスほ羽は七色に輝く。
猫は、その輝きを知っていた。