背徳の雅荘
聞き慣れない着信音に、セールスかと思いつつスマートフォンを見る。
表示された名前は良く知ったものだったので、安心して受話器マークをタップした。
背徳の雅荘
-.触れられない心臓
「もしもし」
我ながら落ち着いた声で電話に出る。
「青江さん、おはよう。朝からごめん」
「ううん、大丈夫だよ、行平君」
ほっとしたような溜息が聞こえた。
「それにしても、こんな朝早くにどうしたんだい?」
「うん、ちょっと薬研の事で相談が有って…」
「LINEじゃなく電話で、って事は、重要な事かい?」
「うん。吾には、どうすればいいか分からなくて…」
行平は気落ちした声になったので、ゆっくりでいいからね、と優しい声で言った。
「今日、珍しく薬研が吾の部屋に居なかったんだ。だから薬研の部屋に行って入っていいか訊いたら、LINEで「ごめん、一人にさせてくれ」って来て…吾はそういう気持ちが分からないから、どうすればいいか…」
成程ね、と青江は相槌を打った。
細川行平は、何か抱え込んでいるかの様な見た目をしているが、その実とても健康的な精神をしている。
それは、悲しみという感情が欠如してるからかもしれない。
その羨ましいメンタルには分からないのも納得出来た。
しかしそんな陽キャ精神であっても、分からない事を素直に分からないと言える良い人間である。
大抵の健全者は自分の物差しで鬱に偽善の鞭を打った。
「そういう時は一人にしてあげてね。でもたまに生きているか確認する事。まあ薬研なら大丈夫だと思うけど、人はそういう時軽い思いつきで自殺しようとするから、それだけはやめてくれ、と念押しはして」
「…匙加減が難しいな」
「「どんな時も愛している」って事が伝わればいいんだよ。依存は最も人を生かすから」
そうなのか、と呟いていたが、心当たりはあるだろう。
「そういう時は明るく話かけるのも逆効果だからね。自分でも知らない内に気を遣って更に精神を疲れさせてしまうんだ」
うん、と行平は電話越しに頷いた。
「でもまあ、そろそろ気落ちするだろうな、とは思っていたよ。寧ろ精神状態の良い時期、思いの外長かったくらい」
開け放ったベランダから入ってくる風は冷たい。朝の日差しは眩しいが、温かくはなかった。
「心配する事は大事だけど、そんな思い悩まなくていいよ。そういうのって大抵一日寝れば戻るから。薬研はちゃんと治療もしてるしね」
そういう、ものなのか。と行平は納得したようだ。
「あ、ちゃんと水分を摂るようにだけは言って。食欲は無いだろうけど、水は身体に最も必要だからね。後は自由に一人にしてあげて。LINEとかで弱音を吐いてきたら、「うん」と「そうだね」って返せばいいから。色々言いたくなると思うけど、そういうのは意見を聞きたくて言うわけじゃないから、余計な事は言わない事」
うん、わかった。と行平は言った。
「アドバイスありがとう。ほっとした」
「色々言ったけど、要するに"見守れ"って事だよ」
「うん、ありがとう。見守るね」
じゃあ、健闘を祈るよ。と言って、行平が通話を切ってから青江もバツボタンをタップした。
青江はベランダに出て煙草に火を付ける。煙を吐いて、自分の時の事を思い出した。
石切丸は不器用過ぎる人間で、ずっとオロオロとしていた。
その姿が可愛かったから、鬱陶しいと思いつつも愛おしく感じていた。だから今言ったアドバイスが全てでは無い事も分かっていた。
ちょっと熱弁し過ぎたかな、と珍しく反省する。
毒煙と共に緑のポニーテールが風に遊ばれた。
その空気の冷たさに、ジェラードピケのポケットに左手を入れる。
そろそろベランダの観葉植物をしまわないとな、と思った。
その日一日、行平は邪魔されずパソコンに向かえた訳だが、手は進まなかった。
指を置いたが、薬研の事しか考えられずキーボードは鳴らない。
諦めた行平はベッドに飛び乗り唸った。
2時間に一回、補水しろとLINEを送ったが、返事はいつも淡白だった。
カーテン越しの空は黒い。流石に寒いので、腕だけ動かして雨戸を閉めた。
ガチャ、とドアを開ける音がする。
不審に思った瞬間、ベッドがぎしりと鳴った。
何事か、と思って振り向こうとしたら、布手袋の感触が腹にまとわりつく。
「薬研」
「今はこうさせてくれ」
背中に張り付いた薬研はそう言い、行平の髪を吸った。
寝間着のパーカーを脱がされるかな、と思ったが、薬研はそのままで居る。
行平は振り向けなかった。何かを言う事も出来ない。
暫く、薬研と行平はそうしていた。
「…ごめんな」
薬研が呟き、行平はやっと動けた。
「気にしなくていい」
行平は薬研を抱き締め返し、その額にキスをする。
顔を上げた薬研の白目は赤く、少し鼻を啜った。
泣いていたんだな、と思い、深く口付けをする。
その心境が分からない行平は、ただそうする事しか術を知らなかった。
「今日は此処で寝ていいか」
今日"も"だろう、と思ったが、そうは言わず頷いて丸い頭を撫でる。
薬研は眼を閉じると、直ぐに寝息を立てた。
何が薬研をそんなに追い詰めたんだろう。
もしかして、自分の所為だろうか。
そうだとしたら、こうする事も、薬研への負担になってしまっているのか。
行平は、珍しくそんな不安に駆られた。
がらら、と雨戸が開く音がして、強烈な眩しさに顔を顰めた。
薄らと目を開けると、アメジストとかち合う。
「おはよう、行平」
「…おはよう」
いつもの儚くも頼もしい顔で、薬研は微笑んでいた。
目を擦り起き上がると、薬研は啄むキスをしてくる。
「昨日は悪かったな。もう大丈夫だから」
そう言われ行平は首を横に振った。
「いつだって吾を頼ってくれ」
「ああ、そうするよ」
薬研の眩しい笑顔に、行平も笑う。
その心境を測る事は、行平には到底出来ない。
だから、本当は教えてほしかった。
いつか語ってくれる時が来るだろうか。
それは遠い未来な気がした。
でも、いつまでも待っていられた。
その黒手袋の右手を握る。
冬の薬研は、冷たかった。
表示された名前は良く知ったものだったので、安心して受話器マークをタップした。
背徳の雅荘
-.触れられない心臓
「もしもし」
我ながら落ち着いた声で電話に出る。
「青江さん、おはよう。朝からごめん」
「ううん、大丈夫だよ、行平君」
ほっとしたような溜息が聞こえた。
「それにしても、こんな朝早くにどうしたんだい?」
「うん、ちょっと薬研の事で相談が有って…」
「LINEじゃなく電話で、って事は、重要な事かい?」
「うん。吾には、どうすればいいか分からなくて…」
行平は気落ちした声になったので、ゆっくりでいいからね、と優しい声で言った。
「今日、珍しく薬研が吾の部屋に居なかったんだ。だから薬研の部屋に行って入っていいか訊いたら、LINEで「ごめん、一人にさせてくれ」って来て…吾はそういう気持ちが分からないから、どうすればいいか…」
成程ね、と青江は相槌を打った。
細川行平は、何か抱え込んでいるかの様な見た目をしているが、その実とても健康的な精神をしている。
それは、悲しみという感情が欠如してるからかもしれない。
その羨ましいメンタルには分からないのも納得出来た。
しかしそんな陽キャ精神であっても、分からない事を素直に分からないと言える良い人間である。
大抵の健全者は自分の物差しで鬱に偽善の鞭を打った。
「そういう時は一人にしてあげてね。でもたまに生きているか確認する事。まあ薬研なら大丈夫だと思うけど、人はそういう時軽い思いつきで自殺しようとするから、それだけはやめてくれ、と念押しはして」
「…匙加減が難しいな」
「「どんな時も愛している」って事が伝わればいいんだよ。依存は最も人を生かすから」
そうなのか、と呟いていたが、心当たりはあるだろう。
「そういう時は明るく話かけるのも逆効果だからね。自分でも知らない内に気を遣って更に精神を疲れさせてしまうんだ」
うん、と行平は電話越しに頷いた。
「でもまあ、そろそろ気落ちするだろうな、とは思っていたよ。寧ろ精神状態の良い時期、思いの外長かったくらい」
開け放ったベランダから入ってくる風は冷たい。朝の日差しは眩しいが、温かくはなかった。
「心配する事は大事だけど、そんな思い悩まなくていいよ。そういうのって大抵一日寝れば戻るから。薬研はちゃんと治療もしてるしね」
そういう、ものなのか。と行平は納得したようだ。
「あ、ちゃんと水分を摂るようにだけは言って。食欲は無いだろうけど、水は身体に最も必要だからね。後は自由に一人にしてあげて。LINEとかで弱音を吐いてきたら、「うん」と「そうだね」って返せばいいから。色々言いたくなると思うけど、そういうのは意見を聞きたくて言うわけじゃないから、余計な事は言わない事」
うん、わかった。と行平は言った。
「アドバイスありがとう。ほっとした」
「色々言ったけど、要するに"見守れ"って事だよ」
「うん、ありがとう。見守るね」
じゃあ、健闘を祈るよ。と言って、行平が通話を切ってから青江もバツボタンをタップした。
青江はベランダに出て煙草に火を付ける。煙を吐いて、自分の時の事を思い出した。
石切丸は不器用過ぎる人間で、ずっとオロオロとしていた。
その姿が可愛かったから、鬱陶しいと思いつつも愛おしく感じていた。だから今言ったアドバイスが全てでは無い事も分かっていた。
ちょっと熱弁し過ぎたかな、と珍しく反省する。
毒煙と共に緑のポニーテールが風に遊ばれた。
その空気の冷たさに、ジェラードピケのポケットに左手を入れる。
そろそろベランダの観葉植物をしまわないとな、と思った。
その日一日、行平は邪魔されずパソコンに向かえた訳だが、手は進まなかった。
指を置いたが、薬研の事しか考えられずキーボードは鳴らない。
諦めた行平はベッドに飛び乗り唸った。
2時間に一回、補水しろとLINEを送ったが、返事はいつも淡白だった。
カーテン越しの空は黒い。流石に寒いので、腕だけ動かして雨戸を閉めた。
ガチャ、とドアを開ける音がする。
不審に思った瞬間、ベッドがぎしりと鳴った。
何事か、と思って振り向こうとしたら、布手袋の感触が腹にまとわりつく。
「薬研」
「今はこうさせてくれ」
背中に張り付いた薬研はそう言い、行平の髪を吸った。
寝間着のパーカーを脱がされるかな、と思ったが、薬研はそのままで居る。
行平は振り向けなかった。何かを言う事も出来ない。
暫く、薬研と行平はそうしていた。
「…ごめんな」
薬研が呟き、行平はやっと動けた。
「気にしなくていい」
行平は薬研を抱き締め返し、その額にキスをする。
顔を上げた薬研の白目は赤く、少し鼻を啜った。
泣いていたんだな、と思い、深く口付けをする。
その心境が分からない行平は、ただそうする事しか術を知らなかった。
「今日は此処で寝ていいか」
今日"も"だろう、と思ったが、そうは言わず頷いて丸い頭を撫でる。
薬研は眼を閉じると、直ぐに寝息を立てた。
何が薬研をそんなに追い詰めたんだろう。
もしかして、自分の所為だろうか。
そうだとしたら、こうする事も、薬研への負担になってしまっているのか。
行平は、珍しくそんな不安に駆られた。
がらら、と雨戸が開く音がして、強烈な眩しさに顔を顰めた。
薄らと目を開けると、アメジストとかち合う。
「おはよう、行平」
「…おはよう」
いつもの儚くも頼もしい顔で、薬研は微笑んでいた。
目を擦り起き上がると、薬研は啄むキスをしてくる。
「昨日は悪かったな。もう大丈夫だから」
そう言われ行平は首を横に振った。
「いつだって吾を頼ってくれ」
「ああ、そうするよ」
薬研の眩しい笑顔に、行平も笑う。
その心境を測る事は、行平には到底出来ない。
だから、本当は教えてほしかった。
いつか語ってくれる時が来るだろうか。
それは遠い未来な気がした。
でも、いつまでも待っていられた。
その黒手袋の右手を握る。
冬の薬研は、冷たかった。