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背徳の雅荘

確かにその日、初めて鳴狐に声を掛けられた。
鳴狐の噂は聞いていたのでそれは大層驚いた。そして、その言葉の内容にも驚いた。
「源と水心子は友達なのか」
泉の底の様な声に、清麿は小さく笑った。

「違うよ」

確かに、清麿はそう言った。


背徳の雅荘
10.清麿と水心子


それは桜が綺麗な夜だった。
ちらちらと降り注ぐ花弁は、何所か妖艶で、儚くて。
カシャ、と音がして、顔を上げる。
そして、その状況に焦ってパニックになった。
その紫の彼は、スマホのレンズをこちらに向けていたのだ。
「こっこここっここれはぁ!!!!」
撮られたその手には、煙草の箱を持っていた。
その写真を見せたら誰だって、被写体が隠れて煙草を吸っているのだと勘違いをするだろう。
「弱み握っちゃった」
初対面の彼は、薄く微笑みそう言った。
「誤解だ!!ぼ、僕は煙草なんて吸っていない!!」
「じゃあなんで持ってるの」
「道に落ちてたから拾っただけだ!!!」
嘘みたいだがそれは事実だ。しかし、紫の彼は信じないだろう。
へえ、と言う優しい声は、からかいが含まれている。
「じゃあこの写真消すから、僕と友達になってくれない?」
その申し出に、へ?と声を漏らした。
「嫌ならこれ先生に送っちゃおうか
「なるなるなる!!!!!友達になる!!!!!!」
食い気味に叫ぶと、紫はクスクスと笑った。
「よし、じゃあこの写真は消す」
画面が見えるように操作し、確かに自分が煙草を持って佇む写真は消えた。
はあ〜〜〜!!!と盛大に溜息を吐くと、紫の彼はやっぱりまた小さく笑った。
「僕は源清麿。君は?」
「…す、水心子正秀…」
「そっか。水心子だね」
そう微笑む顔を改めて見て、綺麗な眼だと見惚れる。
フォスフォシデライト。斜燐鉄鉱という宝石に似ていると、後に調べて思った。
「それ寄越して。捨てとくから」
そう言って、紫は手を出す。平常心じゃない水心子は、その右手に箱を渡した。

それが、水心子と清麿の出会いだった。


その次の日、水心子はどぎまぎしながら寮を出た。
ぱらぱらと黒い学ランとセーラー服の生徒が居る通学路に出た時、後ろから肩を叩かれる。
ぴゃっ!?と驚いてから振り向くと、その斜燐鉄鉱の眼とかち合った。
「水心子、おはよう」
「お、おはよう…」
そのラフな格好から同じ学校の生徒だと気付くのに時間が掛かった。おまけに彼は片手にスケートボードを持っている。
清麿はにこにことして隣を歩くいるだけで、自分から会話をしてこない。
無言の空気に痺れを切らし、水心子は口を開いた。
「み、源君は、」
「清麿って呼んでよ」
「きよ、まろ君は、同じクラスじゃないよね…?」
紫は頷く。
「1−3。水心子は1−2だよね?」
「う、うん」
ほぼ初対面なのにクラスを把握されてて、少し、ん?とは思った。
でも何処か不思議な雰囲気の彼が言うと、それは何もおかしい事ではないような気もする。
「桜、綺麗だね」
不意にそう言ってきて、水心子は上を見た。
視界は桜色に染まっている。春の短い間だけ見れる光景だ。
ひらひらと散る桜吹雪は、昨日より勢いが減っている気がした。
「じゃ、また放課後」
彼はひらりと水心子に手を振ると、スケートボードに乗って先に行ってしまう。校門で制服でない事を教師に咎められていたが、まるで自分の事だと気付いていない様にガン無視して行ってしまった。

「彼は、何なんだ」
水心子はクラスメイトの源獅子王にそう訊いた。
片目しかない銀眼はきょとんとするが、清麿君の事だ、と言うと、ああ〜?と不思議な声を出した。
「水心子あいつと面識あるの?」
「獅子王君は無いのか?同じ苗字だから親戚なのかと思ったのだが」
獅子王はまた何とも言えない顔になる。
「まあ、親戚っちゃ親戚だけど、すげえ遠いぜ。最後に会ったの小学生の時だもん。同じ高校なのが不思議なくらいだよ」
そうなのか、と水心子は相槌を打つ。
「でも親の噂で中学の時から不良だったって聞いたな。かあちゃんからは友達になってあげて、って言われたけど、親父からは関わるなって言われた」
それを聞いて水心子は少しひやりとした。中学の時は平和に過ごしていた水心子にとって、不良とは遠い存在だ。
「まあ仲良くしてやってよ。悪い奴じゃないんだろうけど、絶対あいつ友達少ないからさ」
その一言に、水心子は遠慮がちに小さく頷いた。


…



その終わった世界の中で君と居る。
赤い空と赫い海と、鉄に似た匂い。
でも、隣に君が居ればいい。
そう思っていたのに。
君はもう、息をしていなかった。





学校が終わり、校門を出た。
その瞬間に呼び止められ、水心子はびくっと肩を窄める。
紫は校門に寄り掛かり、水心子を待っていた。
「そんなに驚く?」
「だ、だって」
ごにょる水心子を清麿は気にせず、その隣を歩く。
水心子はこういう無言の空気が耐えられない性格だった。必死に頭を働かせ、口を動かす。
「清麿君は、部活決めた?」
「うん。帰宅部。水心子は?」
「まだ…悩んでる…」
「そう」
自ら話が広がらない話題にしてしまい、水心子は後悔した。
斜燐鉄鉱の眼はじっと水心子を見る。その視線に耐えられず、下を向いてしまった。
桜の花弁で半分ほど埋まった道は、灰色のアスファルトとピンクの絨毯になっている。
それを見ながら歩いていると、ちょんと肩を触られた。
「僕の寮、此処」
紫の視線に釣られ左を向くと、通う高校が提供している寮が在る。
その寮は4棟に展開しているものの一つで、水心子が住んでいる建物とは違う棟だった。
「じゃあまた明日」
そう言って清麿は手を振る。水心子が振り返すと、満足そうに笑って木造建築の中に入っていった。





二人で乗った電車は、オレンジ色の夕日が影を伸ばしている。
君が僕の肩に頭を預け、眠っていた。
線路を行く音と振動だけが満ちている。
ずっとこの"けしき"が続けば良いのに、と、願ってしまった。
しかし、それは永遠ではない。
降りなければならない駅が、
降りなければならない場所が目前になって、僕は彼の肩を揺らした。





それから一週間、登下校の時だけ二人で居た。
ぽつぽつとした会話の中で、清麿は街のCDショップでバイトをしているのがわかった。
もう働いているなんて、純粋に凄いと思う。
「ふうん、写真部」
水心子がその部活に入る予定だと言うと、彼は興味の色を持った目をした。
「じゃあ僕のカメラあげるよ」
「えっ、わ、悪いよ」
「別にいいよ。今使ってないし」
あげるから、と何故か寮に上げられた。
寮は基本一人暮らしだ。その部屋に引っ張り込まれ、おずおずと見渡した。
少し広い空間に簡単な台所とベッドが有り、襖の向こうを物置にしているのが、少しだけ見える隙間からわかる。
壁に貼られたポスターの人物がギターを持っているので、音楽に詳しくない水心子でもその人がバンドマンである事がわかった。
無地柄のベッドの隣に大きなコンポが有るのもあり、清麿が音楽好きである事を予想する。
四角いローテーブルに茶色のマグカップを置きつつ、清麿は麦茶、と言った。
「これ」
ことん、と水心子の目の前に、隣の部屋から出した小さなカメラを置く。
水心子にもそれが旧式であるとわかった。
「本当にいいの」
「うん。古過ぎて使えなかったらごめんね」
おずおずとそれを手にする。まだカメラの事などわからない水心子は、ボタンが思ったより少ないな、くらいしか思えなかった。
ふと視線を動かし、水心子は固まる。

さっきより開いた襖の向こうに、フリルの付いたドレスが有るのを見てしまった。

きっと彼女の物だろう、と咄嗟に思ったが、水心子は自らの過去がフラッシュバックして壁に掛かったドレスを凝視してしまっていた。
「興味有るの?」
男子高校生の部屋にそれが有るのが至って普通、みたいな声で言われ、水心子はびくりと跳ねる。
「いっ、いや!着る物の趣味なんて人それぞれだし、今時そういうのもおかしいわけじゃないし、!」
泳ぐ視線の弁解をしようとした水心子を、清麿はクスクスと笑った。
「これ、水心子に似合うと思って」
その一言に水心子は一旦言葉を切ってから、盛大に狼狽する。
「なっなななななな」
言葉が言葉にならない水心子を見て、揶揄う様に笑われた。
「ねえ、着てみてよ」
え“っ、とひしゃげた蛙の様な声を出す。
「カメラのお代」
水心子は翡翠の眼をきょろきょろさせたが、か、カメラのお礼だからね!!と意を決した様に立ち上がり、隣の部屋へ消えた。
冗談、と言う前の行動の早さに、清麿はぽかんとした。

暫くして、水心子は襖から顔を出す。
その赤面と泳ぐ視線に、本当にあのドレスを着ている事がわかった。
「見せて」
清麿が正面で正座をすると、水心子はおずおずと襖を開ける。
フリルの沢山付いたドレスは、水心子にぴったりだった。
「凄い似合ってるよ!」
斜燐鉄鉱の眼をきらきらさせて、清麿はじっくりとゴシックドレスの水心子を見る。
水心子は耳まで真っ赤にしているが、その視線を浴びるままだった。
「も、もういいだろうか…」
流石に恥ずかしくて堪らなくなったのでそう問う。清麿が、いいよ、と許可すると、物凄いスピードで元の学生服に着替えてきた。


元々、水心子正秀は平凡な家庭だった。
だが正秀は人一倍真面目な性格に育ち、家族に楽をさせる為に良い職業に就こうと、がむしゃらに勉強をしてきた。
ただ、どこか抜けているところもあり、肝心な場面でミスをする所も多かった。
今回もそうだ。
水心子は入試に失敗し、それで第二志望のこの高等学校に進学してきたのだ。


「ゔぅ〜〜〜〜!!」
桜の木は青々とした葉を揺らしていた。
流石に上着を着ず過ごすような陽気の中で、水心子は紙を掴んで唸る。
そのテストの答案を返され、第二志望とはいえこの高校も進学校である事をまざまざと突きつけられた。
意気沮喪したまま帰路につくと、隣を歩いていた清麿は斜燐鉄鉱の眼を丸くする。
「何か有ったの?」
「…い、いや…」
その落胆している様子を見て、清麿は思い当たった。
「テスト、だめだったの?」
そう訊かれ、水心子はゔっ、と唸る。
「意外だなぁ、水心子勉強だめなんだ」
「勉強はしてる!!…が、いつも結果に繋がらなくて…」
少し涙ぐみさえしている水心子を見て、ならさ、と清麿は提案した。
「勉強会やろっか」
その発言に水心子は驚く。失礼だが、勉強なんてしない人だと思っていたからだ。
「きっと一人で勉強するより楽しいよ」
水心子は勉強に楽しみを求めていなかったが、清麿の優しい笑みに絆されてしまった。
なんだか、水心子は清麿の言う事に逆らえない。
まだ出会って1ヶ月しか経っていないのに、ずっと昔から一緒だった気すらした。
その心に疑問と不気味さを感じつつも、水心子はその手をとってしまう。

意外にも、清麿の授業はとてもわかりやすかった。
少し言われるだけで、するすると頭に入ってくる。
それは清麿の教え方の上手さもあるのだが、心地良いその声が体に染みていく様だったからだ。
教科書の文字をなぞる清麿の指は美しい。
その日から、学校が終わったら清麿の部屋で勉強会をする様になった。


いつもより暑いような気がする。
清麿が廊下で外の空を見ていたら、元気な声に呼ばれた。
アホ毛をぴょこりと立たせた水心子が手を振っている。
清麿が返事をすると、水心子は一枚の紙を見せてつけてきた。
「やったよ清麿!!!!」
そのプリントは期末試験のテスト用紙だ。右上の欄に、赤字で90と書いてあった。
「凄いよ水心子!」
清麿も自分の事の様に笑顔になる。
「清麿が張ってくれた所が出たんだ!!勉強見てくれて本当にありがとう!!」
二人はハイタッチをした。喜び合っていたが、不意に水心子は辺りの様子を見てから咳払いをし、テスト用紙を折り畳んでズボンのポケットに入れる。
「それで…一つ提案が有って」
いつもの冷静さがある様な声で言った。
「提案?」
「何か、勉強を見てくれたお礼がしたくて」
おれい?と清麿は首を傾げる。
「そんなに持ち合わせは無いが…私の出来る範囲であれば」
そう水心子が言うなら…と、清麿は考え、じゃあ、と水心子に耳打ちした。
その提案に水心子の顔が、ぼっ、と赤くなる。清麿が冗談だよ、と言う前に、水心子は頷いた。
「確かに…それなら手持ちの心配は無いから…」
清麿はきょとんとしたが、その下心と、恥ずかしそうだが決意した水心子を無碍に出来ない気持ちで、じゃあ今日にでも、と微笑んだ。

そんな事があり、水心子は今フリルの沢山付いたあのドレスを着て清麿の前に立っていた。
やっぱり良く似合う!と清麿が微笑むと、水心子の真っ赤な顔が更に赤くなる。
翡翠の眼は恥ずかしさ故の涙で潤んでいて、もじもじとした仕草も可愛らしい。
「も、もういいだろうか…」
そんな水心子の姿を見て、勿体無いなあ、と清麿は思った。
「ねえ水心子、これからもうちに来たらそれ着てよ」
清麿の提案に水心子はどう表現したらいいかわからない悲鳴を上げる。
「勉強会の時は可愛い格好してよ。それなら毎回お礼考えなくて済むでしょ?」
正直、嫌われるだろうと思って言った事だった。それでも冗談だと笑えば許してくれるだろう。そこまで考えていたのに、
水心子は、スカートを握って小さく頷いたのだ。


正直、こんなに人生が楽しくなるとは思わなかった。
だって、好きな子と毎日顔を合わせ、会話し、更に可愛い姿になってくれるのだ。
この今世に期待をしていなかったから、本当、わからないものだなぁと思う。
翡翠は今日も笑ってくれる。
日を重ねるにつれ、お互いに好意が寄り添っていくのを感じられた。


空が青い。
やっと外気が涼しくなってきた。
寒暖差で調子が崩れそうなのは季節の変わり目の常なのだが、今年はいつもより酷い気がする。
目の前の水心子は真剣な目で文字を追っていた。
シャーペンを走らせ、時々頷く。
その真面目な様子と、可愛らしいゴシックロリータのドレス姿はなんだか相性が良くないようで合っている気がした。
「そろそろ秋服が欲しいよね」
「また新しいのを買うのか…?」
「だって夏物はもう寒いじゃない?」
「いや、清麿がいいならいいんだが…」
そこで会話は途切れる。
いつ頃からか水心子は女装を恥ずかしがらなくなった。
最初の頃の様にもじもじしているのも可愛らしかったが、そう普通の事の様に振る舞う顔もクるものがある。
そう、清麿はドレス姿の水心子に欲情していた。
当たり前と言えば当たり前の話だ。女装をさせると言う行為は、ちょっとよろしくない漫画で定番のシュチュエーションだった。
しかし、その下心を顔には出さない。ポーカーフェイスには自信があった。


太陽が空に居る時間がが短くなる。
その日、水心子は外が暗くなるまで清麿の部屋に現れなかった。
水心子のぴりぴりとした気配を感じつつ、彼はいつもの様にドレス姿になり勉強会をする。
「…清麿は、」
だから、険しい顔の水心子のその言葉が、意外だった。
「私が気持ち悪くはないのか」
清麿は無言で首を傾げる。それは無意識の反応だったのだが、水心子は突然立ち上がり、フリルのスカートを握り締めて鬼の様な表情で翡翠の眼を向けてきた。
「本当は、僕を嘲笑っているんだろう」
清麿は斜燐鉄鉱の眼を丸くする。いきなりの事にどう答えればいいかわからなかった。
水心子は、その沈黙を肯定だと勘違いしたのだろう。顔を怒りで赤らめ、泪を溜めた状態で清麿の部屋を出て行った。
彼の名を叫ぶが、水心子はガチャリと大きな音を立てドアを開け、出ていく。清麿はその後を追った。
「水心子!!!!」
それでも、一緒に居た時間は短くはない。
直ぐにその可愛らしい姿を発見した。
薄暗い道の、一つだけ点いた朧げな電灯の下で、水心子はすんすんと泣いている。
奇しくもそれは初めて会った場所だった。
清麿は彼を抱き締める。
よろける水心子を、咄嗟に腕の中に収めていた。
「なんで、なんでそんな事」
どんな時でも冷静でいる事が長所の清麿は、狼狽していた。
水心子は大声で泣く。清麿も、何故か泪が溢れた。
落ち着いて、と落ち着かない自分に言い聞かせるように呟くと、水心子はしゃがみ込んだ。
鼻は啜るが泪は止まる。清麿も服の袖で自らの涙を拭き、その隣に座った。
「水心子、僕は君を気持ち悪いなんて思った事は一度も無いよ」
なるべく優しい声で言ったつもりだが、感情が乗ってしまう。
しかし、それは本心だったからだ。
「ほんとう…?」
やっとこちらを向いた翡翠を伝う水滴を、親指で拭ってやった。
「なんでそんな風に思ったの」
言ってからきつい言い方になってしまったと反省する。どうもいつもの様に言葉を選べない。
「だって、清麿は、僕を、何とも思ってないのだろう?」
話が見えないよ、と正直に言った。
「だって、鳴狐君に、そう言ったのだろう?」
その言葉で合点がいった。そして、鳴狐に殺意を覚えた。
あれを聞いてしまったのだと、水心子は吐露した。
清麿はとても大きな溜息を吐く。
「…その続きの会話は、聞かなかったのかい?」
水心子は頷いた。ショック過ぎて、その場から立ち去ってしまったのだと言う。
「じゃあ何だって問われて、僕はね、“親友だよ”って、続けたんだ」
翡翠はきょとんとした。
「僕は友達以下の人間に女装させるくらい不躾じゃないよ」
清麿は苦笑いになる。
「水心子の事が凄く好きだから、可愛くなって欲しかったんだよ」
フォローのつもりでそう言ってから、3秒沈黙が流れた。
そしてお互い、はっとする。
「いっ、いや!好きって言っても恋愛感情の好きでは…なくはないんだけど!!でもほら、卑下してるとか嫌いって意味じゃないってだけで
「僕も清麿が好きだ」
翡翠と斜燐鉄鉱はかち合った。
ああ、この人はこんなに綺麗な眼をしているのか。
何故か、そんな事をお互いに思った。

先に動いたのは、意外にも水心子だった。

唇に柔らかい感触が乗る。
一瞬の出来事だったけれど、その感覚はじりじりと残った。
清麿は顔に血が昇るのを実感する。
何も言えないでいると、水心子は清麿に抱きついてきた。
「これだけして、縁を切られるつもりだった」
水心子は羞恥を乗せない声で言う。
きっと水心子の事だ。1000回くらい練習して、それで覚悟を決めて来たのだろう。
でも、それにしても冷静なその態度に、真剣さを感じた。
「…そんな事、する訳無いじゃないか」
清麿も水心子の背中に腕を回す。

ああ、水心子って温かいな。

清麿は、何故かそう思った。


そう、僕は、清麿が好きだ。
「そうじゃなかったら、言われるまま女装なんてしない」
清麿は頷く。
少し考えればわかる事だ。
清麿の喜ぶ顔が見たいと、思ったから。
だから、安易にその案を飲んだのだ。
思えば一目惚れだった。
その宝石の眼に、心が吸い込まれた。
「僕もそうだよ」
斜燐鉄鉱は翡翠を見つめる。
「なんだか、運命みたいだね」
そんな事を感じたのは生まれて初めてだったと清麿は言った。
「運命、という言葉は、なんだかわからないね」
水心子はスカートを掴む。
「でも、私は語彙が無いからそんな言葉でしか表せない」
紫の眼はじっと見つめている。
「水心子は、自分を卑下し過ぎだよ」
そうかな、と呟く。
「水心子は凄いやつなんだよ」
清麿の優しい声は、耳から入ってきて体の隅々まで浸透する。
その声が、好きだった。
「…そう思ってくれるなら、嬉しいな」
今更照れて、笑ってしまう。
その長くて綺麗な手が、黒い髪を撫でた。
「ねえ清麿。一つ、わがままを聞いてくれないか」
向けてきた真剣な目に、清麿はその意志を汲み取る。
「うん。僕も同じ事を言おうとしてた」
それだけで、お互いの思考を読み取った。
だから、また唇が重なり合ったのは、その言葉を舌として絡め合ったのは、自然な事だった。


職員室の前で獅子王を待っていたら、誰かに頭を殴られた。
その主は予測がつく。頭を摩って振り向いたら、やはり紫が居た。
「昨日、大変だったんだからね」
だろうな。と思うのを視線に乗せる。
「でも、鳴狐とあの会話が出来たから距離が縮まったのは、認める」
じとりとした目でそう言ってきた。
「もう一回訊いてみてよ」
むす、とした顔の清麿は、珍しい。
「…源と水心子は、友達なのか」
ぽつり、と黒マスクの下で問うた。
「違うよ」
清麿は勝ち誇った様に笑う。
「恋人同士」
そう言って紫は通り過ぎた。
その姿を見送って、まあ、そうだよな。と鳴狐は意外でも何でもなく思う。
そして、そのタイミングで職員室の扉を開けて出てきた獅子王に手を振った。

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