背徳の雅荘
「ただいま」
地下のドアをガチャリと開け、仏頂面で膝丸は言った。
お帰りー、とその帰りを待っていた髭切、ソハヤ、鶯丸は言う。
しかし、膝丸の後ろに付いてきた光世は無言だった。
「遅いよ弟ー!もうおつまみ残ってないよ」
「すまん、兄者。そうだろうと思って買い足してきた」
さっすがー!と言って髭切はおつまみの入ったビニール袋を受け取る。
「やたら時間掛かったじゃねえか。何か有ったんか?」
スルメを齧ったソハヤに言われ、ああ、と控えた血の眼が答える。
「道でご老人が倒れててな…その手当てをしていたら遅くなってしまった」
膝丸の言葉に光世もこくと頷いた。
ああ〜〜、と三人は声を揃える。
「お前達が揃うとよく人が倒れているよな」
「やっぱ医師免許持ってる子ってそういう運あるのかね?」
「あんま嬉しくねえ運だけどな」
三者三様に言われ、医大が同期の膝丸と光世は溜息を吐く。
「けれど、今回は助けがあったから速い方だった」
膝丸の言葉に頷く光世も居て、ソハヤは缶ビールを開けつつ助け?と話を促した。
「看護師をしていた事が有ると言っていたが…いや、王族の様に美しい青年だった」
王族?と三人はまた声を揃える。髭切が全ての基準である膝丸が、人の見た目を褒めるのも珍しい。
「いやあ、見事な対処で感心した」
膝丸と光世がうんうんと頷いているのを見て、三人もどんな白衣の天使だろうかと想像した。
その白衣の天使だ王子だと思われた青年は、事務仕事の中でくしゃみをしていた。
背徳の雅荘
9.江の者達
その淡桃の彼の真っ白なドレスパンツ姿に、若草の眼は釘付けになった。
とても美しい花嫁姿。その隣に立つ薄紫も、とても幸せそうに笑っている。
その二人があまりにも眩しくて、男である篭手切も羨ましいと思った。
五月雨はふわりと村雲のヴェールを捲る。
啄むキスをする二人を見て、その神聖さに赤面すらしなかった。
「…な、何…?」
おどおどとしたピンクの眼を見つめていて、篭手切ははっとする。
「ご、ごめんなさい」
謝りその視線を落とした。両手いっぱいの白い毛並みを撫でる左薬指に有る控えめな白金が光る。
「…何かあったの?」
村雲に問われ、篭手切は首を横に振った。
江村雲は江篭手切の兄従兄弟であり、同じく従兄弟である江五月雨の正妻である。
しかし、二人はどちらも男であった。
その所為で色々とごたごたはしたが、無事小さな結婚式を挙げたのは一年前の話だ。
あの幸せで溢れた時間を篭手切が羨ましく思っているのを、意外と皆勘づいているのを篭手切本人は知らなかった。
夫婦でドッグブリーダーをしている村雲が犬と五月雨以外に心を開いているのは、数人しか居ない。
その中で、弟従兄弟である篭手切にその実かなり心戸を開いていた。
「何か悩んでるから、来たんでしょ?」
村雲が囁くと、篭手切はまた首を振る。
「本当に今日は相談に来たんじゃなくて…ただ、何となくもやもやしてしまって」
白い毛並みを撫でつつ、しゃがんだ若草は溜息を吐く。
まあ、きっと豊前についてなんだろうな、と心境がだだ漏れの篭手切の悩みを察した。
「あ、そういえば」
淡桃は唐突に思い出す。
「豊前、今週末帰って来るって」
村雲の何気ない報告に篭手切は素っ頓狂な悲鳴を上げる。
「ど、どうしよう!シールもう無い!!おかねもない…!!」
その様子に村雲は驚いて跳ねたが、お金貸そうか…?とは言えた。
「う…し、しかしそんな迷惑…」
「背に腹は変えられないでしょ…?そんな大金は貸せないけど、2000円くらいなら」
「うう、すみません…」
篭手切は涙目になりながら、シールが安くて良かったとその好意に甘えた。
そして、その翌日に鶯丸の店へ訪れたのである。
正直、鶯丸は後悔していた。
江篭手切は、どんな理由が有っても未成年に刺青を彫るものではない、と学んだ例である。
彼は、初めて会った時は泣いていた。
その様子に、どうしたんだ?と比較的優しく声を掛けると、彼は兎に角刺青を入れてくれと言ってきたのだ。
そのデザインを決める時も投げやりだったので、やめた方がいい、と提案したが、振り払われた。
鶯丸自身、よくないだろうと思ったが、篭手切は全財産を叩きつけてきて、その覚悟に根負けしたのだ。
いや、正直、その金額に目が眩んだのはある。
兎に角痛く、と注文され、希望通り骨盤にその墨を入れた。
入れている間、若草の眼はぼろぼろと泪を流していた。
篭手切はその痛みに時折唸ったが、結局彫りきるまで耐え切った。
何故そんな悲しんでいるのか尋ねたら、恋心を寄せた相手が、アメリカへ行ってしまったからだという。
自暴自棄になった篭手切の話は、甘酸っぱい青春の味がした。
だからといって自分を諌める為に刺青を彫るなど、かなり捻くれた考えだと思う。
しかし、鶯丸はどんな客だろうと応えるのが一流の彫師だと思っていたので、彼の望む物を与えた。
今となっては浅はかな考えだったと思う。
刺青は、一生付き合わなければならなくなるものだ。それを自暴自棄で入れるのは、人生の汚点にしかならないのに。
二人とも、その時はそれに気付かなかったのだ。
本当に、あの時は彫師として未熟だったと、今も思っていた。
その刺青は腰に入っており、流石に体育着に着替える時に見える。
篭手切は自暴自棄になっていたので、別にクラスメイトに見られて噂になっても構わないと思っていた。
揶揄われたり、教師に告げ口され生徒会書記の立場を辞退させられたりするだろうと。
しかし、意外と誰もその事には触れなかった。篭手切のタトゥーを、教師は勿論、殆どの女子も知らない。
今思えば、その事をちゃかしたのは一部の不良だけだった。
それも、クラスメイトの圧ある目に直ぐに黙る。
今思えば、ありがたい環境だった。
私は、ずっと一緒に居られれば良いと思っていた。
紫の彼が同じ思いかはわからない。
その斜燐鉄鉱の眼に、本当に私は映っているのだろうか。
今日も何食わぬ顔で学校に来て、
放課後、一緒に寮に帰って。
そして彼の部屋で、新しく取り寄せた可愛いドレスを見ている。
彼の、憂いを孕んだ眼が輝くから、
私は、…恥ずかしいけど、そのゴスロリドレスに、身を通すのだ。
爪を水緑色に塗る手の動きは繊細だ。
そのポリッシュと同じ色の眼は、意味も無くそう見ていた。
外は木枯らしだが、この部屋の中は暖かい。
そろそろ寒さも和らぐ筈なのだが。
「今日はストーンを付けたいなんてどうしたの?」
視線は爪に落とすその朱眼に、松井は小さく笑う。
「週末に豊前が帰って来るんだ」
そう言うと、えっ!とその青年も驚く。
「えー!豊前が!?絶対写真撮ってね!」
豊前の純粋なファンである清光は眼を爛々とさせた。
「いいよ。何かしてほしいファンサ有る?」
「ファンサくれるの!?んー、じゃあ指ハートとウィンク!」
キャッキャとはしゃぐ清光に、松井もわかったと答える。
「それにしても良く飛び回るよねぇ、豊前は。ファンとしては芸能活動してくれないと寂しいんだけどな」
「まあそれに関しては僕も人の事言えないけどね」
待つ側としても、待たれる側としても、と松井は続けた。
そのアイドルグループは、「KIANG」という名前だった。
名前から分かる様に、江六人のアマチュアグループだ。
当時10代だった彼らのアイドル活動は、密かにだが人気の有るものだった。
しかし、何事にも終わりは有る。
彼らの同期ですら、そのグループが有った事すら知らないものだった。
そんな中で、リーダーだった豊前だけは細々と芸能活動を続けていた。
ただ最近は名ばかりで、バイクを乗り回し旅ばかりしている。
当時からファンだった加州清光は、それが少し寂しかった。
「それにしても、僕達も変わったよね」
松井はそう呟く。
「まあ、時の流れってそういうものだからね」
清光も溜息混じりに言った。
「あんなにやんちゃ坊主だった清光が今じゃネイリストなんてねぇ…しかも、こんなに可愛い、ね」
「小学校の時のクソガキはカウントしないでよ!てか松井も大概だったじゃん!あと俺が可愛いのは当たり前!」
軽く膨れる加州に松井は小さく笑う。
「本当、清光は頑張ってるよ」
少し翳る松井の眼に、清光もその複雑な感情を垣間見た。
「久しぶりに読んだな」
行平のベッドに寝転びスマホを眺めていた薬研は突然そう言う。
「何を?」
カチカチとペンタブを鳴らしディスプレイを睨んだまま行平は問うた。
「行平の祈る描写」
そう言われ、行平は振り返る。
「…そういえばそうか」
薬研が読んでいたのは、行平がさっき上げたばかりの小説だった。
薬研は行平の作品の祈る描写が好きだと、初めての感想で言ってくれていた。
後に、その描写で漫画も探し当てたとも。とても嬉しい事だが、それは正直意外だった。
「…最近、祈ってなかったから」
それは現実での話だったが、アメジストの眼を向けた薬研は初耳だったようだ。
「行平はそんなに信仰があったのか」
「別にそういうわけじゃない。無宗教だし、何に祈っていたかも定かじゃない」
ただ、薬研と恋仲になってから久しく手を合わせていなかった。
そう言うと、薬研は右口角を上げる。
「じゃあ俺は行平の信仰対象になれたのか」
「まあそんな感じだろうか。でもそれはお互い様だろう」
薬研は少し大声で笑い、わかってんじゃねえか、と言った。
持ちつ持たれつ。それは恋仲として正しい関係だと行平は思った。
「そういう関係…って言うか、信仰してるってなると、膝丸だよな」
行平の珍しく少し毒のある言い方に薬研はスマホを置く。
「ああ。あれは行き過ぎだと俺だってわかる。あれは破滅するな」
だからといってどうこう言うつもりは二人とも無かった。それが膝丸のマシンガン兄者トークに繋がる事を知っている。
あと、髭切の悪口と受け止められ殴られる可能性を感じていたからだ。髭切が絡むと恐い事を、この前の事件で身に染みている。
「肥前も大概だよな。あいつも、文字通り"依存してる"」
そうなのか?と金白金の眼を丸くされ、そういえばあの経緯を行平は知らなかった事を思い出した。
「まあ、"愛"ってのは宗教みたいなもんだよな、って話だ」
薬研がそう締めると、行平も相槌を打ってディスプレイに目を戻した。
その赤い眼の彼は、憧れだった。
何でもそつなくこなし、整った顔をし、人当たりも良い彼を、誰もが好きになった。
その彼を、「りぃだぁ」と呼び慕っていた。
現に彼は“リーダー”だった。
そんな豊前に恋をしていたのは、いつからだろう。
この気持ちは、ずっと、そしてどんどん大きくなっていって。
でも、彼は軽いフットワークで遠のいていったのだ。
この気持ちは伝えられない。いや、伝えてはいけなかった。
こんな、汚い感情に振り回されている自分は、愛される資格が無い。
篭手切は、そう思っていた。
そう思っていたけど、この気持ちを無くす事も出来なかったのだ。
「こんにちわあ〜」
間伸びした男の声に村雲は返事をし、玄関の鍵を開けた。
入ってきたメカクレの青年とターコイズを、篭手切の家の中に居た雨と雲の夫婦と若草色は迎え入れる。
「皆久しぶり」
「野菜だよお〜」
「ふふ、桑名さんは相変わらずですね!」
一句詠めそうです、と筆を探しに行こうとする五月雨を村雲は捕まえた。
桑名が抱えてきた野菜の詰まった段ボールを5人で覗き込む。
寒いし鍋がいいかな?と松井が提案すると、いいね〜!と全員同意した。
台所に立つ松井と村雲がテキパキと指示をして、宴会の用意は進んでいく。
豊前が来る予定にはまだ時間が有るが、あのスピード狂の行動時間が読めないのはいつもの事だった。
桑名と松井は、共同で農家をしている。
共同と言っても、自由に野菜の世話をする桑名を松井が世話している様な関係だった。
もう早く結婚しなよ、と加州が突っつくくらい、なんだかんだ仲は良い。
実際、桑名はそのつもりなのだが、松井は経費を気にしていた。
農業が軌道に乗ってから、というのが松井の建前だった。
今年の白菜は特に良くてさあ、と桑名の恒例野菜トークを遠く聞きつつ、村雲は包丁を使う松井のネイルを褒めた。
「そのストーン見た事ない!加州のとこの新作?」
「うん。ちょっと奮発しちゃった」
「豊前、気づいてくれるといいね」
松井の心理を良く知っている村雲の発言に、ターコイズははにかむ。
「村雲もそれ新作?」
「良くわかったね!俺もちょっと奮発しちゃった」
雨さんも新しいの、と付け足す村雲は本当に良い笑顔だった。
リビングの長机が料理で埋め尽くされた頃、バイクのエンジン音が響き渡る。
その後に活きの良い声が聞こえ、5人は競う様に玄関へ出た。
ただいまあ〜〜〜〜!!!!と豊前が言うと、声を揃えてそれを迎え入れる。
少し予定より早い宴会が始まった。
何せ皆豊前に会うのは夏振りだ。積もる話に花が咲く。
今回は北海道まで行った、と豊前が話すと、北海道のとうもろこしは美味しいよねえ、と桑名が野菜に直結させた。
そんな話を聞きつつ、松井と篭手切はそれぞれ密かに熱を豊前のルビーの眼に向ける。
その秘めた想いが全員に知られている事に気づいていないのは、本人達だけだった。
前にこっそり、それについてはどう思っているのだ、と五月雨が桑名に訊いた事がある。
「でも僕の側にいてくれるのが、松井の本音でしょ?」
と、なかなかに大物な答えに面食らったものだ。
まあ、松井と豊前は学生時代に破局しているから、心配する方が野暮なのかもしれない、と五月雨は思っている。
本人達が幸せならそれでいい。それが実体験からの結論だった。
料理をつまみながらの談話をしていると、時間はあっという間に過ぎる。
冬の夜は寒い。白い息を吐きながら。6人は並んで銭湯へ向かった。
こうやって集まった時、その流れは自然と決まりになっている。
「いやー!!やっぱ此処の湯が一番だぜー!」
ばしゃりと縁に寄りかかりそう話す豊前に篭手切は笑った。
ちゃんと隠れてるよね、とぼやける裸眼で腰を気にしつつ。
「別に特別な効能とかは無いですよ?」
「皆で入る風呂、ってのがい良いんだよ」
小さい頃の五月雨と村雲が此処で犬かきを競ってたな、と豊前が昔語りをして、そうでしたっけ?と更に幼かった頃の記憶を篭手切は手繰り寄せた。
銭湯から出て家へ帰る道の空気は、体から湯気が出ているのが見える気がする程冷えていた。
6人で歩くのは流石に道幅を奪り、目立つ。
「おっ!!篭手切じゃ〜ん!」
だから、篭手切はその不躾な視線にも気付かれてしまった。
その3人の少年は、篭手切のクラスメイトだ。
片手に缶ビールを持っている、べろべろに酔ったその様子に危機感を感じた。
しかし、もう手遅れだった。
「風呂で刺青見せびらかしてんのかあ〜?やっぱみいんないれてんだろ?かあっけえな〜!!」
そうゲラゲラと笑われ、篭手切は顔に血が上るのを感じる。
怒りが拳になった時、その手を豊前の大きな手が包んだ。
はっ、として、皆の顔を見る。
冷ややかな五月雨の眼、嫌悪と殺意が篭もった村雲と松井の表情、その視線が隠れているのが有難いくらい、桑名の眼光も鋭いだろう。
そして、豊前の顔は、最も恐ろしい、"無"だった。
不良達はその江の者達に怯み、そそくさと避けていく。
その後の道が静かな事しか、篭手切は覚えていなかった。
家に入り、暖房付けていって良かったね、と松井が呟いてやっと空気が和む。
握られた拳が温かいのに気付いたのは、その大きな手が離れたからだった。
寝間着に着替えて、篭手切はそのシールを貼った腰を摩る。
知られてしまった。
絶対に知られてはいけない秘密を、あんな形で知られてしまった。
篭手切は眼鏡を外し潤んだ目を擦る。ばさりと豊前が布団に入ったのを感じて、電灯の紐を引っ張り部屋を暗くした。
豊前と篭手切が同室で寝るのは、五月雨村雲、桑名松井、と組むための消去法だ。
いつもなら嬉しくて飛び跳ねるのだが、今夜は地獄だと思った。
豊前の隣にひいた布団に入る。
まっさらなシーツで全身が冷えて、眠れなかった。
「いつも思ってたけど、そのシール濡れても剥げねえの凄えな」
豊前の何気ない様な一言に、篭手切は答えられなかった。
今、"いつも"って言った?
「そういうのって高いんじゃないか?わっかんねーけど、でもそういうのが有って良かったぜ」
急過ぎて停止した思考を待たずに、豊前は続ける。
「銭湯に行くの、篭手切と一緒だから楽しいからよ」
その言葉を脳が噛み締めて、篭手切の涙腺は耐えきれなかった。
篭手切のぐずりを、豊前は聞いている。
ほっ、と、張り詰めていた心が解けた。
嬉しかった。
その感情が、一番大きい。
知られる事を恐れていたが、期待もしていた事に気付く。
豊前なら、受け入れてくれる。
りぃだぁは優しいから、こんな事どうとも思わない筈だと、思ってもいた。
でも、否定される可能性が、怖かった。
豊前の言葉に罪悪感が消えて、涙が止まらない。
遂には大声で泣きじゃくる篭手切の頭を、大きく温かい手が撫でた。
「アメリカだと刺青って別に普通でよ、それこそ先住民は絶対挿れるとか有るじゃん」
確かにアフリカのイメージはそれだ。そう考えると、日本人の感覚の方が珍しいのかもしれない。
「俺も挿れよっかなー!かっけえもんな!」
「ぜ、絶対止めてください!!本当に良い事なんて一個も無いんですから!!!!」
焦る篭手切を豊前は笑った。
「篭手切がそこまで言うならやめとこっかな」
その一言に篭手切は安堵の溜息を吐く。本当にやめてほしい。
「なぁ、その刺青、見せてくれよ」
さ、と布ずれの音がし、暗闇でも豊前が近づいたのがわかった。
「で、でも、」
「だめか?」
豊前の甘える様な声に、どきりとする。
その懇願を突っぱねる事が出来ないのが惚れた弱みだった。
カチリ、と電灯が鳴り明るくなる。
篭手切はズボンと下着を少しずり下ろし、皮膚に同化したシールを剥がした。
「へぇ…カーン、不動菩薩か…」
豊前にまじまじと見られ、顔が茹る。
「うん、すっげえかっこいいじゃん!」
にかりと笑われ、篭手切は何も言えなかった。
「やっぱ梵字って良いよな!字体っていうかデザインっていうかさぁ、
そう言いつつ不意に触られ、篭手切は息を詰まらせてしまう。
「あっ!悪い、嫌だったか?」
「い、いや、嫌ってわけでは、」
触られる事により一瞬期待してしまったのが恥ずかしくて、動いてしまった。
直後若草色がルビーの眼とかち合ってしまい、二人は黙る。
その時、何故か同じ事を考えてる気がした。
それは同じ血が流れているからだと、後に篭手切はロマンチックに考えた。
本当は、篭手切の不埒な気持ちを読み取ってしまったからだと豊前は思う。
ただ、豊前に押し倒され篭手切が嬉しかったという事が、事実として有った。
「っ!悪りぃっ!」
豊前は起き上がる。
「い、いえ、別に」
篭手切も姿勢を正し、布団の上で正座になった。
そして5秒ほど言葉が無かったが、直後お互いふき出す。
「…寝るか」
「はい。明日も早いですし」
改めて電気を消し、二人はそれぞれ布団に入った。
直ぐに豊前の寝息が聞こえ、篭手切は安心して目を閉じる。
なんだか、こうやって安堵して眠りにつくのは久しぶりな気がした。
隣に豊前が居る事が、本当に嬉しい。
彼はまた旅立つが、それでも今までの様な遠離感は無かった。
それが、刺青という秘密が繋いでくれた絆だとしたら。
篭手切は初めて、刺青を入れて良かったと思えた。
昨日の残りを中心にした朝食を食べ、江の会は解散になった。
先に豊前が旅立つ。次は南に行くらしかった。
「あっ!待って豊前」
松井はスマホを手にバイクに寄る。
「清光に写真送る約束してたんだった」
「ああ、加州!あいつも元気なんだな!」
松井はスマホを構え豊前にポーズを指示した。
「ねえ豊前、篭手切に何かした?」
あの子やたら機嫌良いんだけど、と小声で訊く。
「ああ、危うく襲うところだった」
笑顔でそう呟く豊前に対して溜息を吐いた。
「わかってんよ、未成年に手ぇ出す気は無えって。…待っててやる、って、後で言っといてくれ」
「自分で言え」
松井は少し膨れる。冷たい松井に豊前は苦笑した。
盛大に鳴きながら、豊前のバイクは去っていった。
5人はその姿が見えなくなるまで手を振る。
特に篭手切は、その風を若草色の眼に焼き付けんばかりだった。
「じゃあ、僕達も帰るね」
桑名と松井を乗せた軽トラックも郊外へ帰る。五月雨と村雲も家を出ていった。
二日ぶりに家で一人になった篭手切は、寂しさを感じる。
でも、別に二度と会えないわけじゃない。
皆そうであると思うと、寂しくても悲しくはなかった。
こっそり松井に送ってもらった豊前の画像を見る。
アイドルの顔の彼に積もる感情は、刺青に溜まる気がした。
地下のドアをガチャリと開け、仏頂面で膝丸は言った。
お帰りー、とその帰りを待っていた髭切、ソハヤ、鶯丸は言う。
しかし、膝丸の後ろに付いてきた光世は無言だった。
「遅いよ弟ー!もうおつまみ残ってないよ」
「すまん、兄者。そうだろうと思って買い足してきた」
さっすがー!と言って髭切はおつまみの入ったビニール袋を受け取る。
「やたら時間掛かったじゃねえか。何か有ったんか?」
スルメを齧ったソハヤに言われ、ああ、と控えた血の眼が答える。
「道でご老人が倒れててな…その手当てをしていたら遅くなってしまった」
膝丸の言葉に光世もこくと頷いた。
ああ〜〜、と三人は声を揃える。
「お前達が揃うとよく人が倒れているよな」
「やっぱ医師免許持ってる子ってそういう運あるのかね?」
「あんま嬉しくねえ運だけどな」
三者三様に言われ、医大が同期の膝丸と光世は溜息を吐く。
「けれど、今回は助けがあったから速い方だった」
膝丸の言葉に頷く光世も居て、ソハヤは缶ビールを開けつつ助け?と話を促した。
「看護師をしていた事が有ると言っていたが…いや、王族の様に美しい青年だった」
王族?と三人はまた声を揃える。髭切が全ての基準である膝丸が、人の見た目を褒めるのも珍しい。
「いやあ、見事な対処で感心した」
膝丸と光世がうんうんと頷いているのを見て、三人もどんな白衣の天使だろうかと想像した。
その白衣の天使だ王子だと思われた青年は、事務仕事の中でくしゃみをしていた。
背徳の雅荘
9.江の者達
その淡桃の彼の真っ白なドレスパンツ姿に、若草の眼は釘付けになった。
とても美しい花嫁姿。その隣に立つ薄紫も、とても幸せそうに笑っている。
その二人があまりにも眩しくて、男である篭手切も羨ましいと思った。
五月雨はふわりと村雲のヴェールを捲る。
啄むキスをする二人を見て、その神聖さに赤面すらしなかった。
「…な、何…?」
おどおどとしたピンクの眼を見つめていて、篭手切ははっとする。
「ご、ごめんなさい」
謝りその視線を落とした。両手いっぱいの白い毛並みを撫でる左薬指に有る控えめな白金が光る。
「…何かあったの?」
村雲に問われ、篭手切は首を横に振った。
江村雲は江篭手切の兄従兄弟であり、同じく従兄弟である江五月雨の正妻である。
しかし、二人はどちらも男であった。
その所為で色々とごたごたはしたが、無事小さな結婚式を挙げたのは一年前の話だ。
あの幸せで溢れた時間を篭手切が羨ましく思っているのを、意外と皆勘づいているのを篭手切本人は知らなかった。
夫婦でドッグブリーダーをしている村雲が犬と五月雨以外に心を開いているのは、数人しか居ない。
その中で、弟従兄弟である篭手切にその実かなり心戸を開いていた。
「何か悩んでるから、来たんでしょ?」
村雲が囁くと、篭手切はまた首を振る。
「本当に今日は相談に来たんじゃなくて…ただ、何となくもやもやしてしまって」
白い毛並みを撫でつつ、しゃがんだ若草は溜息を吐く。
まあ、きっと豊前についてなんだろうな、と心境がだだ漏れの篭手切の悩みを察した。
「あ、そういえば」
淡桃は唐突に思い出す。
「豊前、今週末帰って来るって」
村雲の何気ない報告に篭手切は素っ頓狂な悲鳴を上げる。
「ど、どうしよう!シールもう無い!!おかねもない…!!」
その様子に村雲は驚いて跳ねたが、お金貸そうか…?とは言えた。
「う…し、しかしそんな迷惑…」
「背に腹は変えられないでしょ…?そんな大金は貸せないけど、2000円くらいなら」
「うう、すみません…」
篭手切は涙目になりながら、シールが安くて良かったとその好意に甘えた。
そして、その翌日に鶯丸の店へ訪れたのである。
正直、鶯丸は後悔していた。
江篭手切は、どんな理由が有っても未成年に刺青を彫るものではない、と学んだ例である。
彼は、初めて会った時は泣いていた。
その様子に、どうしたんだ?と比較的優しく声を掛けると、彼は兎に角刺青を入れてくれと言ってきたのだ。
そのデザインを決める時も投げやりだったので、やめた方がいい、と提案したが、振り払われた。
鶯丸自身、よくないだろうと思ったが、篭手切は全財産を叩きつけてきて、その覚悟に根負けしたのだ。
いや、正直、その金額に目が眩んだのはある。
兎に角痛く、と注文され、希望通り骨盤にその墨を入れた。
入れている間、若草の眼はぼろぼろと泪を流していた。
篭手切はその痛みに時折唸ったが、結局彫りきるまで耐え切った。
何故そんな悲しんでいるのか尋ねたら、恋心を寄せた相手が、アメリカへ行ってしまったからだという。
自暴自棄になった篭手切の話は、甘酸っぱい青春の味がした。
だからといって自分を諌める為に刺青を彫るなど、かなり捻くれた考えだと思う。
しかし、鶯丸はどんな客だろうと応えるのが一流の彫師だと思っていたので、彼の望む物を与えた。
今となっては浅はかな考えだったと思う。
刺青は、一生付き合わなければならなくなるものだ。それを自暴自棄で入れるのは、人生の汚点にしかならないのに。
二人とも、その時はそれに気付かなかったのだ。
本当に、あの時は彫師として未熟だったと、今も思っていた。
その刺青は腰に入っており、流石に体育着に着替える時に見える。
篭手切は自暴自棄になっていたので、別にクラスメイトに見られて噂になっても構わないと思っていた。
揶揄われたり、教師に告げ口され生徒会書記の立場を辞退させられたりするだろうと。
しかし、意外と誰もその事には触れなかった。篭手切のタトゥーを、教師は勿論、殆どの女子も知らない。
今思えば、その事をちゃかしたのは一部の不良だけだった。
それも、クラスメイトの圧ある目に直ぐに黙る。
今思えば、ありがたい環境だった。
私は、ずっと一緒に居られれば良いと思っていた。
紫の彼が同じ思いかはわからない。
その斜燐鉄鉱の眼に、本当に私は映っているのだろうか。
今日も何食わぬ顔で学校に来て、
放課後、一緒に寮に帰って。
そして彼の部屋で、新しく取り寄せた可愛いドレスを見ている。
彼の、憂いを孕んだ眼が輝くから、
私は、…恥ずかしいけど、そのゴスロリドレスに、身を通すのだ。
爪を水緑色に塗る手の動きは繊細だ。
そのポリッシュと同じ色の眼は、意味も無くそう見ていた。
外は木枯らしだが、この部屋の中は暖かい。
そろそろ寒さも和らぐ筈なのだが。
「今日はストーンを付けたいなんてどうしたの?」
視線は爪に落とすその朱眼に、松井は小さく笑う。
「週末に豊前が帰って来るんだ」
そう言うと、えっ!とその青年も驚く。
「えー!豊前が!?絶対写真撮ってね!」
豊前の純粋なファンである清光は眼を爛々とさせた。
「いいよ。何かしてほしいファンサ有る?」
「ファンサくれるの!?んー、じゃあ指ハートとウィンク!」
キャッキャとはしゃぐ清光に、松井もわかったと答える。
「それにしても良く飛び回るよねぇ、豊前は。ファンとしては芸能活動してくれないと寂しいんだけどな」
「まあそれに関しては僕も人の事言えないけどね」
待つ側としても、待たれる側としても、と松井は続けた。
そのアイドルグループは、「KIANG」という名前だった。
名前から分かる様に、江六人のアマチュアグループだ。
当時10代だった彼らのアイドル活動は、密かにだが人気の有るものだった。
しかし、何事にも終わりは有る。
彼らの同期ですら、そのグループが有った事すら知らないものだった。
そんな中で、リーダーだった豊前だけは細々と芸能活動を続けていた。
ただ最近は名ばかりで、バイクを乗り回し旅ばかりしている。
当時からファンだった加州清光は、それが少し寂しかった。
「それにしても、僕達も変わったよね」
松井はそう呟く。
「まあ、時の流れってそういうものだからね」
清光も溜息混じりに言った。
「あんなにやんちゃ坊主だった清光が今じゃネイリストなんてねぇ…しかも、こんなに可愛い、ね」
「小学校の時のクソガキはカウントしないでよ!てか松井も大概だったじゃん!あと俺が可愛いのは当たり前!」
軽く膨れる加州に松井は小さく笑う。
「本当、清光は頑張ってるよ」
少し翳る松井の眼に、清光もその複雑な感情を垣間見た。
「久しぶりに読んだな」
行平のベッドに寝転びスマホを眺めていた薬研は突然そう言う。
「何を?」
カチカチとペンタブを鳴らしディスプレイを睨んだまま行平は問うた。
「行平の祈る描写」
そう言われ、行平は振り返る。
「…そういえばそうか」
薬研が読んでいたのは、行平がさっき上げたばかりの小説だった。
薬研は行平の作品の祈る描写が好きだと、初めての感想で言ってくれていた。
後に、その描写で漫画も探し当てたとも。とても嬉しい事だが、それは正直意外だった。
「…最近、祈ってなかったから」
それは現実での話だったが、アメジストの眼を向けた薬研は初耳だったようだ。
「行平はそんなに信仰があったのか」
「別にそういうわけじゃない。無宗教だし、何に祈っていたかも定かじゃない」
ただ、薬研と恋仲になってから久しく手を合わせていなかった。
そう言うと、薬研は右口角を上げる。
「じゃあ俺は行平の信仰対象になれたのか」
「まあそんな感じだろうか。でもそれはお互い様だろう」
薬研は少し大声で笑い、わかってんじゃねえか、と言った。
持ちつ持たれつ。それは恋仲として正しい関係だと行平は思った。
「そういう関係…って言うか、信仰してるってなると、膝丸だよな」
行平の珍しく少し毒のある言い方に薬研はスマホを置く。
「ああ。あれは行き過ぎだと俺だってわかる。あれは破滅するな」
だからといってどうこう言うつもりは二人とも無かった。それが膝丸のマシンガン兄者トークに繋がる事を知っている。
あと、髭切の悪口と受け止められ殴られる可能性を感じていたからだ。髭切が絡むと恐い事を、この前の事件で身に染みている。
「肥前も大概だよな。あいつも、文字通り"依存してる"」
そうなのか?と金白金の眼を丸くされ、そういえばあの経緯を行平は知らなかった事を思い出した。
「まあ、"愛"ってのは宗教みたいなもんだよな、って話だ」
薬研がそう締めると、行平も相槌を打ってディスプレイに目を戻した。
その赤い眼の彼は、憧れだった。
何でもそつなくこなし、整った顔をし、人当たりも良い彼を、誰もが好きになった。
その彼を、「りぃだぁ」と呼び慕っていた。
現に彼は“リーダー”だった。
そんな豊前に恋をしていたのは、いつからだろう。
この気持ちは、ずっと、そしてどんどん大きくなっていって。
でも、彼は軽いフットワークで遠のいていったのだ。
この気持ちは伝えられない。いや、伝えてはいけなかった。
こんな、汚い感情に振り回されている自分は、愛される資格が無い。
篭手切は、そう思っていた。
そう思っていたけど、この気持ちを無くす事も出来なかったのだ。
「こんにちわあ〜」
間伸びした男の声に村雲は返事をし、玄関の鍵を開けた。
入ってきたメカクレの青年とターコイズを、篭手切の家の中に居た雨と雲の夫婦と若草色は迎え入れる。
「皆久しぶり」
「野菜だよお〜」
「ふふ、桑名さんは相変わらずですね!」
一句詠めそうです、と筆を探しに行こうとする五月雨を村雲は捕まえた。
桑名が抱えてきた野菜の詰まった段ボールを5人で覗き込む。
寒いし鍋がいいかな?と松井が提案すると、いいね〜!と全員同意した。
台所に立つ松井と村雲がテキパキと指示をして、宴会の用意は進んでいく。
豊前が来る予定にはまだ時間が有るが、あのスピード狂の行動時間が読めないのはいつもの事だった。
桑名と松井は、共同で農家をしている。
共同と言っても、自由に野菜の世話をする桑名を松井が世話している様な関係だった。
もう早く結婚しなよ、と加州が突っつくくらい、なんだかんだ仲は良い。
実際、桑名はそのつもりなのだが、松井は経費を気にしていた。
農業が軌道に乗ってから、というのが松井の建前だった。
今年の白菜は特に良くてさあ、と桑名の恒例野菜トークを遠く聞きつつ、村雲は包丁を使う松井のネイルを褒めた。
「そのストーン見た事ない!加州のとこの新作?」
「うん。ちょっと奮発しちゃった」
「豊前、気づいてくれるといいね」
松井の心理を良く知っている村雲の発言に、ターコイズははにかむ。
「村雲もそれ新作?」
「良くわかったね!俺もちょっと奮発しちゃった」
雨さんも新しいの、と付け足す村雲は本当に良い笑顔だった。
リビングの長机が料理で埋め尽くされた頃、バイクのエンジン音が響き渡る。
その後に活きの良い声が聞こえ、5人は競う様に玄関へ出た。
ただいまあ〜〜〜〜!!!!と豊前が言うと、声を揃えてそれを迎え入れる。
少し予定より早い宴会が始まった。
何せ皆豊前に会うのは夏振りだ。積もる話に花が咲く。
今回は北海道まで行った、と豊前が話すと、北海道のとうもろこしは美味しいよねえ、と桑名が野菜に直結させた。
そんな話を聞きつつ、松井と篭手切はそれぞれ密かに熱を豊前のルビーの眼に向ける。
その秘めた想いが全員に知られている事に気づいていないのは、本人達だけだった。
前にこっそり、それについてはどう思っているのだ、と五月雨が桑名に訊いた事がある。
「でも僕の側にいてくれるのが、松井の本音でしょ?」
と、なかなかに大物な答えに面食らったものだ。
まあ、松井と豊前は学生時代に破局しているから、心配する方が野暮なのかもしれない、と五月雨は思っている。
本人達が幸せならそれでいい。それが実体験からの結論だった。
料理をつまみながらの談話をしていると、時間はあっという間に過ぎる。
冬の夜は寒い。白い息を吐きながら。6人は並んで銭湯へ向かった。
こうやって集まった時、その流れは自然と決まりになっている。
「いやー!!やっぱ此処の湯が一番だぜー!」
ばしゃりと縁に寄りかかりそう話す豊前に篭手切は笑った。
ちゃんと隠れてるよね、とぼやける裸眼で腰を気にしつつ。
「別に特別な効能とかは無いですよ?」
「皆で入る風呂、ってのがい良いんだよ」
小さい頃の五月雨と村雲が此処で犬かきを競ってたな、と豊前が昔語りをして、そうでしたっけ?と更に幼かった頃の記憶を篭手切は手繰り寄せた。
銭湯から出て家へ帰る道の空気は、体から湯気が出ているのが見える気がする程冷えていた。
6人で歩くのは流石に道幅を奪り、目立つ。
「おっ!!篭手切じゃ〜ん!」
だから、篭手切はその不躾な視線にも気付かれてしまった。
その3人の少年は、篭手切のクラスメイトだ。
片手に缶ビールを持っている、べろべろに酔ったその様子に危機感を感じた。
しかし、もう手遅れだった。
「風呂で刺青見せびらかしてんのかあ〜?やっぱみいんないれてんだろ?かあっけえな〜!!」
そうゲラゲラと笑われ、篭手切は顔に血が上るのを感じる。
怒りが拳になった時、その手を豊前の大きな手が包んだ。
はっ、として、皆の顔を見る。
冷ややかな五月雨の眼、嫌悪と殺意が篭もった村雲と松井の表情、その視線が隠れているのが有難いくらい、桑名の眼光も鋭いだろう。
そして、豊前の顔は、最も恐ろしい、"無"だった。
不良達はその江の者達に怯み、そそくさと避けていく。
その後の道が静かな事しか、篭手切は覚えていなかった。
家に入り、暖房付けていって良かったね、と松井が呟いてやっと空気が和む。
握られた拳が温かいのに気付いたのは、その大きな手が離れたからだった。
寝間着に着替えて、篭手切はそのシールを貼った腰を摩る。
知られてしまった。
絶対に知られてはいけない秘密を、あんな形で知られてしまった。
篭手切は眼鏡を外し潤んだ目を擦る。ばさりと豊前が布団に入ったのを感じて、電灯の紐を引っ張り部屋を暗くした。
豊前と篭手切が同室で寝るのは、五月雨村雲、桑名松井、と組むための消去法だ。
いつもなら嬉しくて飛び跳ねるのだが、今夜は地獄だと思った。
豊前の隣にひいた布団に入る。
まっさらなシーツで全身が冷えて、眠れなかった。
「いつも思ってたけど、そのシール濡れても剥げねえの凄えな」
豊前の何気ない様な一言に、篭手切は答えられなかった。
今、"いつも"って言った?
「そういうのって高いんじゃないか?わっかんねーけど、でもそういうのが有って良かったぜ」
急過ぎて停止した思考を待たずに、豊前は続ける。
「銭湯に行くの、篭手切と一緒だから楽しいからよ」
その言葉を脳が噛み締めて、篭手切の涙腺は耐えきれなかった。
篭手切のぐずりを、豊前は聞いている。
ほっ、と、張り詰めていた心が解けた。
嬉しかった。
その感情が、一番大きい。
知られる事を恐れていたが、期待もしていた事に気付く。
豊前なら、受け入れてくれる。
りぃだぁは優しいから、こんな事どうとも思わない筈だと、思ってもいた。
でも、否定される可能性が、怖かった。
豊前の言葉に罪悪感が消えて、涙が止まらない。
遂には大声で泣きじゃくる篭手切の頭を、大きく温かい手が撫でた。
「アメリカだと刺青って別に普通でよ、それこそ先住民は絶対挿れるとか有るじゃん」
確かにアフリカのイメージはそれだ。そう考えると、日本人の感覚の方が珍しいのかもしれない。
「俺も挿れよっかなー!かっけえもんな!」
「ぜ、絶対止めてください!!本当に良い事なんて一個も無いんですから!!!!」
焦る篭手切を豊前は笑った。
「篭手切がそこまで言うならやめとこっかな」
その一言に篭手切は安堵の溜息を吐く。本当にやめてほしい。
「なぁ、その刺青、見せてくれよ」
さ、と布ずれの音がし、暗闇でも豊前が近づいたのがわかった。
「で、でも、」
「だめか?」
豊前の甘える様な声に、どきりとする。
その懇願を突っぱねる事が出来ないのが惚れた弱みだった。
カチリ、と電灯が鳴り明るくなる。
篭手切はズボンと下着を少しずり下ろし、皮膚に同化したシールを剥がした。
「へぇ…カーン、不動菩薩か…」
豊前にまじまじと見られ、顔が茹る。
「うん、すっげえかっこいいじゃん!」
にかりと笑われ、篭手切は何も言えなかった。
「やっぱ梵字って良いよな!字体っていうかデザインっていうかさぁ、
そう言いつつ不意に触られ、篭手切は息を詰まらせてしまう。
「あっ!悪い、嫌だったか?」
「い、いや、嫌ってわけでは、」
触られる事により一瞬期待してしまったのが恥ずかしくて、動いてしまった。
直後若草色がルビーの眼とかち合ってしまい、二人は黙る。
その時、何故か同じ事を考えてる気がした。
それは同じ血が流れているからだと、後に篭手切はロマンチックに考えた。
本当は、篭手切の不埒な気持ちを読み取ってしまったからだと豊前は思う。
ただ、豊前に押し倒され篭手切が嬉しかったという事が、事実として有った。
「っ!悪りぃっ!」
豊前は起き上がる。
「い、いえ、別に」
篭手切も姿勢を正し、布団の上で正座になった。
そして5秒ほど言葉が無かったが、直後お互いふき出す。
「…寝るか」
「はい。明日も早いですし」
改めて電気を消し、二人はそれぞれ布団に入った。
直ぐに豊前の寝息が聞こえ、篭手切は安心して目を閉じる。
なんだか、こうやって安堵して眠りにつくのは久しぶりな気がした。
隣に豊前が居る事が、本当に嬉しい。
彼はまた旅立つが、それでも今までの様な遠離感は無かった。
それが、刺青という秘密が繋いでくれた絆だとしたら。
篭手切は初めて、刺青を入れて良かったと思えた。
昨日の残りを中心にした朝食を食べ、江の会は解散になった。
先に豊前が旅立つ。次は南に行くらしかった。
「あっ!待って豊前」
松井はスマホを手にバイクに寄る。
「清光に写真送る約束してたんだった」
「ああ、加州!あいつも元気なんだな!」
松井はスマホを構え豊前にポーズを指示した。
「ねえ豊前、篭手切に何かした?」
あの子やたら機嫌良いんだけど、と小声で訊く。
「ああ、危うく襲うところだった」
笑顔でそう呟く豊前に対して溜息を吐いた。
「わかってんよ、未成年に手ぇ出す気は無えって。…待っててやる、って、後で言っといてくれ」
「自分で言え」
松井は少し膨れる。冷たい松井に豊前は苦笑した。
盛大に鳴きながら、豊前のバイクは去っていった。
5人はその姿が見えなくなるまで手を振る。
特に篭手切は、その風を若草色の眼に焼き付けんばかりだった。
「じゃあ、僕達も帰るね」
桑名と松井を乗せた軽トラックも郊外へ帰る。五月雨と村雲も家を出ていった。
二日ぶりに家で一人になった篭手切は、寂しさを感じる。
でも、別に二度と会えないわけじゃない。
皆そうであると思うと、寂しくても悲しくはなかった。
こっそり松井に送ってもらった豊前の画像を見る。
アイドルの顔の彼に積もる感情は、刺青に溜まる気がした。