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背徳の雅荘

蝉と陽炎の季節が終わろうとしている。
しかし、その人達には、時間の流れなど関係が無かった。


背徳の雅荘
1.行平と薬研


扇風機の音で目が覚めた。
金白金の眼を動かすと、隣に居るはずの人が居ない。
行平は唸って起き上がる。充電器を繋いでいたスマホに手を伸ばした。
(今起きた。いつ帰ったの)
そう打つと、5秒でSEが鳴る。
(おはよう。今日朝練有ったから5時ちょっと前に帰った)
薬研が忙しい男なのは知っているが、せめて帰ると一言言ってほしかった。
朝練頑張ってね、の意味を込めたスタンプを送り、スマホを閉じる。
持っていた右腕を改めて見ると、昨晩に付けられなかった所にキスマークが有った。
それが謝罪だったのだろうと考え、許してやる事にした。
行平はベッドから降り、机に有ったペットボトルの蓋を開ける。
温くなってしまった水が体に染み渡った。
コンコン、とドアを叩く音がする。
「おはようございます、行平」
深く優しい声色に行平はドアを開いた。
「古今、おはよう」
黒と、行平と同じ金白金の眼とかち合う。
「もう、服くらい着なさい」
パンツだけの姿の行平を見て古今は溜息を吐いた。
「今起きたところだったから」
行平は床に脱ぎ捨ててあった黒いジャージとタンクトップを身につける。
「朝食できましたよ」
古今の言葉に頷くと、長銀髪の彼は踵を返しリビングへ帰った。

行平が食卓に着いたのは7時頃だった。
長いテーブルは共同スペースのシンボルだ。既に男が一人、朝食の食パンを齧っていた。
「おはよう、行平」
「うん、鶯丸おはよう」
枯草色の髪は右目を隠している。その下には複雑な模様が彫られていて、首にもハートのタトゥーが見えていた。
鶯丸という名のその男は、まだ寝間着だ。
「今日はいつもより遅起きなんだ」
「ああ、今日は休業だからな」
親指の筋に通るような刺青は赤い。
「膝丸もだっけ?」
「ああ。でも昨日はお楽しみだったからまだ寝てるんじゃないか」
「髭切は?」
「あいつはもう仕事に行った」
花屋って大変だなあ、と思いながら行平は焼いた食パンにバターを塗った。
「じゃあ今日はバーベキューをしよう」
行平の突然の思いつきに、鶯丸とキッチンに居た古今は、バーベキュー?と声を揃えて問い返す。
「昼飯は皆でバーベキュー」
行平がそう言い切ると、古今は溜息を吐く。
「じゃあ食材を買ってこなくてはいけませんね。炭は確か有った筈」
「機材は何処に仕舞ったんだったか…倉庫を見ないとな」
二人は乗り気である。
こういう行平の思い付きは、このシェアハウスでは一番に尊重された。
大家は古今だったが、最年少の行平が何故か発言権を持っている。
「丁度ビール切れるから一緒に買い出しに行こう」
行平が古今にそう言うと、彼はそうですね、と相槌を打った。
「あ、あと鶯丸」
行平は額の左側に有るあざを指で叩く。
「シール、新しいの頂戴」
「もう剥がしたのか。あれは結構高いんだぞ」
「薬研に舐め取られた」
「ほう、あいつも中々粋な趣味だな」
鶯丸は指に付いたジャムを舐め取り、席を立った。
「今持ってくる」
「刺青入れてくれてもいいんだが」
「駄目だ」
鶯丸は釘を刺し2階の自室へ戻る。
地蔵は牛乳で梅酒を割り、鶯丸が帰って来るまでちぴちぴと呑んだ。

行平は物思いに耽る。

薬研、昨日も泣いていたけど、大丈夫かな。

最後には笑って抱き締め合ったが、その心境が心配で仕方がなかった。

古今も行平と同じ物を作り、呑みながら彼を見守る。
沈んだ金白金の眼が恋人を想っているのを感じ取っていたが、その心境に立ち入らないようにしていた。
ただ、若い悩みだな、と思う。
古今も通った道だから分かった。

下地に白粉を塗り、霞青の鱗を模したシールを貼る。
それは古今のタトゥーと色違いだった。
異常に肌の白い行平は、下地を塗っただけで痣を隠せる。
それは、産まれた時から有った痣だ。
日が暑さを生み出し始める時間に、行平と古今は外に出た。
鶯丸はシェアハウスの裏に在る倉庫でバーベキューの機材を探してくれている。
行平と古今は食材を買いに商店街に向かった。

行平と古今は、細川家という由緒有る一族の出だ。
しかし、そうは言っても分家の家系だったので、その家を継ぐ立場では無い。
古今は後天性の謎の病で白目の色が黒に変わり、それを疎んでいた一族と縁を切り自立したのだ。
当時不登校だった行平は、同じく見た目の所為で疎まれていたが、細川家と縁を切る良い機会だと思いそれについて行った。
そんな古今が運営する雅荘は、何故か薄暗い人物が集まる。
そのシェアハウスは細川の土地と建設で、名前は次期頭領で有る歌仙が付けたものだ。
歌仙は小説家なのに、名前のセンスは壊滅的だなあと行平は思った。

その商店街は昔ながらの街並みで、だが賑わっている。
不良の様な見た目の行平と、その黒い白目と一見女性の様に見える古今はなかなかに注目を引くが、その商店街に来る者は慣れていた。
古今はその店々の店長に気軽に声を掛けられる。
弟君も手伝って偉いね、と良く言われた。
肉屋と八百屋と酒屋にだけ寄った二人が帰って来た時は、昼飯にするのに丁度いい時間帯だった。
雅荘の玄関に入ると、薄緑色の髪と至る所に付けたピアスが印象的な青年が待ち受けていた。
「お帰り」
「ただいま、膝丸」
膝丸は唇のピアスをしていない。食べる気満々のようだ。
「肉!!」
その後ろから、ひょっこりとクリーム色が顔を出す。
「髭切もそう言うと思って沢山買いましたよ、肉」
「やったー!!」
髭切が両手を上げると、その立派な胸がゆさりと揺れる。
「それにしても、花屋は大丈夫なんですか?」
古今が尋ねると、髭切は親指を立てる。
「仕事より肉優先!!」
その肉への執着はいっそ清々しい。
中庭に出るとバーベキューの機材は既にセットされていた。鶯丸が用意してくれたのだ。
「巴と静は今日も忙しいそうだ」
連絡が来ていた、と鶯丸が言ったので行平もグループLINEを確認する。
(悪い、今日は帰れない)
(同じく)
と書いてあったので、残念です、という意味のスタンプを送っておいた。

じゅうじゅう、という音と共に、もくもくと煙が立ち込めた。
肉の焼ける匂いは食欲をそそる。
網の上で拷問に遇う肉達を救助する様な気持ちで口に運んだ。
「兄者、野菜も食べてくれ」
「わかってるよー」
そう言いつつ髭切は串刺しの肉に齧り付く。
髭切が兄者、と呼ばれるのは未だに違和感が有った。
しかし、髭切は“男”だった。それは古今が“女”なのとは別の意味だ。
その女性らしい体型の腹の下に“男”が付いているのは、やはり違和感を感じる。
髭切は風呂場で隠さないタイプなので、非常に申し訳無いがその裸体を見るとギョッとしてしまう。
同じ男なのはわかっているが、その豊満な乳房は、女性を見慣れない行平には刺激が強かった。
そんな身体でも、髭切は特に気にしていなかった。逆に弟の膝丸の方が気にしている。
その膝丸も、なかなか見た目にインパクトの有る男だった。
至る所に付けたピアスは、真面目なその性格を表してはいない。
しかしピアッサーという職業柄、しっかり医師免許を持っている。
昔はどんな人間だったか気になる人物暫定一位だった。
「古今、茶が切れそうだ」
「自分でお取りなさい」
台所に緑茶のペットボトルを取りに行く鶯丸は、謎の多い人物だ。
その全身の刺青から、彫師である事は一目瞭然だった。
酒は呑まず茶を好み、煙草も吸わない。
ああ見えて行平より全然健康的な趣味だった。
しかし、過去も現在も語らないので、その実年齢すらわからない。
昔は不良だった、とか、ヤクザに刺青を掘っている、とか、仄暗い噂を耳にした。
でも麻薬はやってないんだよなあ、と染み染み思う事もある。
ただ、大包平という弟の話は口にする。
鶯丸の情報より、大包平の情報を認知させられた。
「最近どうなんだ」
膝丸は行平に声を掛ける。
「うん、特には変わらないな」
「執筆は?」
「上々かな」
膝丸は良く行平を気にかけてくれた。
もっと耳を開けたい、と言ってもお前は未成年だから駄目だと頑なに却下してくる。
鶯丸も同じ理由で刺青を彫ってくれない。
おかげで、行平の肉体改造は進んでいなかった。
「行平、食べてます?」
「うん。古今こそ食べてるか?」
「ええ、椎茸美味しいです」
「ちゃんと肉も食べてくれよ」
わかってます、と言う古今は、本当に女性に見えた。
その長い銀髪もそうなのだが、見せつけられる足は、その辺の女性より美しい。
行平はその体型が努力で作られている事を知っていた。
偶に「NAGI」という巴と静が経営しているブランドのモデルもやっているが、この雅荘の大家なので基本暇にしている。
中庭で優雅に句を詠んでいる姿は、絵画のように美しかった。

キ、と自転車が停まる音が聞こえ。チャイムも鳴る。
行平が急いで玄関に出ると、二人の少年が立っていた。
「よお、昨日振り」
「チッす!行平久しぶり!」
一人は良く知ったアメジストの眼だ。もう一人のオレンジ色も、良く知っている。
「薬研。後藤もどうしたんだ?」
「そろそろ髪伸びてんじゃねーかなーって思って」
「あんまり後藤が言うから連れて来た」
LINEしてくれれば良かったのに、と言うと、いてもたってもいれなくてー、と後藤ははにかむ。
行平は、普通に考えたら接点の無い二人の少年と仲が良かった。
まあ、薬研は仲が良いどころの話ではないが。
「あ!やっぱだいぶ髪伸びてんじゃん!切っていいだろ?」
「うん。いいけど今バーベキュー中なんだ。二人も食べる?」
「えっ!?マジで!?食う食う!」
行平は小さなその少年達を中庭に案内する。集まっていた雅荘の大人達は久しぶり、と二人に挨拶した。
こんな怪しい人間達にも中学生の二人は動じなかった。
「貴方達、学校はどうしたんです?」
「今夏休み中〜」
後藤がそう言い、古今は、ああ、そうでしたね、と返す。
「あー僕の肉取らないでよね」
対抗意識を燃やす髭切をまあまあと膝丸は宥めた。
育ち盛りの少年達が加わった事で、食材はすぐ終わる。
わいわいとバーベキューを楽しんだ後は、共同のリビングでデザートのアイスを食べた。
小さなアイスは、バニラ、抹茶、苺、チョコ味とバラエティに富んでいる。行平は苺味を食べた。
「で、二人は何しに来たんだ?」
抹茶味のアイスを食べながら鶯丸が問う。
「行平の髪を切りにな。俺は付き添いだ」
「確か後藤は巴と静の弟子だったよな?」
バニラ味を食べながら膝丸も訊いた。
「はい!スタイリスト志望なんで!」
「ほう…というか、それであの二人の弟子になるとはな」
「いやーそれほどでもー」
「「別に誉めてはいない」」
鶯丸と膝丸が声を揃えて言うので行平は笑った。

昼食が終わった後、行平、薬研、後藤は一階に有る行平の部屋へ上がった。
後藤は慣れた手つきで行平の髪型を整える。
行平はいつになってもバリカンの音に緊張した。
片側を刈り上げ三つ編みを施すその髪型は、元々後藤の作だ。
なかなかに奇抜だが、初めてそうセットされた時は、人生をリセット出来た様な気がしてスッキリした。
行平が外へ出れるようになったのはこの髪型のおかげなので、後藤は恩人だ。
「よし、できた!」
鏡を渡されチェックし、それがいつも通りであることを確認し行平は頷いた。
「ありがとう、後藤」
「いいや、こっちこそいつもじらせてくれてサンキューな!」
オレンジの髪がふわふわと笑う。そういえば、紫のメッシュが少し増えていた。
薬研はそんな二人を見て微笑んでいる。
「俺もそろそろ切ってもらうか」
「そうだな、ついでだから切るぜ!」
薬研は行平と場所を入れ替え、後藤の前に座った。
後藤はささっと薬研の髪を切る。30分もしないうちに、薬研も前の髪型になった。
なかなかに腕の達つ後藤は、NAGIの二人の一番弟子だった。
由緒ある粟田口家の者であるにも関わらず、スタイリストを目指して日々修行をしている。
一見チャラついたその夢は一部の人間しか知らない。薬研と同じ進学校に通いながらも、その夢を追いかけていた。
スマホが鳴り、行平は反射で確認したが特に何も無い。
「あ、師匠からだ」
それは後藤のスマホの着信音だった。
電話に出た後藤は、はい、なんですか、とスマホに話し掛ける。
はい、わかりました、すぐ行きます、と言い、電話を切った。
「悪い二人とも、師匠達にお使い頼まれた」
「そうか。頑張って」
行平は散髪代のペットボトルととっておきの菓子を詰め合わせたビニール袋を渡す。
その時に、後藤はぼそりと言った。
「薬研、最近様子おかしいんだ。何か有ったら頼むぜ」
薬研に聞こえない小声に、行平も頷く。
じゃあな!と言って後藤は部屋を出て行った。
南向きの窓から外を眺めると、後藤の自転車が雅荘から離れて行くのが見える。
見送ってから白のカーテンを閉めると、薬研が後ろから抱きついてきた。
「何話してたんだ?」
耳元に低音で囁かれ、どきりと心臓が高鳴る。
「別に」
笑い声を含んで言うと、そうかよ、とその腕の力を入れられる。
ざらりと首元を舐められ、感じながらもその気な薬研を少し疎ましく思う。
「昼間から?」
「嫌か?」
「嫌っていうか、いいのか?」
「今日は“仲良し”の家で勉強会するから遅くなる、って言ってある」
確かに“仲良し”どころの仲ではないので、それは義弁だが嘘では無かった。

行平は、精神を病んではいない。
少し変わっているだけで、人と接する事も、周囲に合わせる事も出来た。
不登校になった理由は、学校に行くより家にいる方が好きなだけだったからだ。
周りの人間達は、虐めにあった為人が恐くなったのだろう、と勝手に勘違いをし、そんな行平を放っておいてくれていた。
そんな世間の中で、古今だけは行平を構った。
実の“兄”だからか、自分もそうだからか、古今は行平の事を良く分かっていた。
有難い事だ、と行平はずっと古今に感謝している。
その優しい“愛の形”は少し歪だったけれど、それを拒否はしなかった。
その“愛”のおかげで、薬研と初めて“した”時も彼が初めてではないと勘づいた。
まあそれは特に重要な事でも無いので、指摘した事は無い。
ただその辺りの経歴は謎だなあと思ったりしたはした。

行平と薬研が知り合ったきっかけは、一年前投稿サイトに置いた行平の小説だった。
その処女作は多く評価されたわけではなかったが、薬研は最後まで読んで、感想までくれた。
その後も作品を上げればいいねと感想をくれ、行平もその度に感謝をのべ、軽く文章で会話もした。
凄いな、と思ったのが、並行して他のサイトに投稿していた漫画も同じ作者だと気付いた事だ。
話の作りと雰囲気が同じだった、と薬研は言った。
余程分析と深追いをしないと分からないだろう。それは、運命を感じるのに十分な理由だった。
行平が一度だけ作った紙媒体も、薬研は買ってくれた。
それで住所がばれ、意外と近くに住んでいるという事が分かったので、やはり運命を感じる。
それで会い、意気投合したのが半年前の事だった。
薬研は少し変わっていて、会って二回目で告白してきた。
行平も恋愛感情が少し変わっていたので、それを喜んで了諾した。
そして二度目のデートでキスをし、三度目のデートで行平の部屋に招いた。
正しく、電撃と運命の様な恋愛だった。


外気温が一番高い時間帯は過ぎていた。
冷房の音が煩い。
部屋は涼しかったが、二人の身体は熱かった。
ぽたぽた、とアメジストの中から溢れる水滴が青白い頬に落ちる。
行平の指が何度拭っても、薬研の涙は枯れなかった。
キスをすれば、少し珈琲の味がする。
宥めるようにその背中を撫でた。
「何かあったのか」
「いや、別に何も」
そうは言うが何もなければ泣きなどしない。その理由が言えないのなら、問い詰める資格は行平には無かった。
でも、本当は何があったのか知りたかった。
本当に何も無いなら、と思ってそうは言えなかったが。
その心がわからないのは、仕方がない事だけど、淋しかった。
中からずるりと引き抜き、行平の隣に雪崩れ込む。
行平の身体に紅い痕を降らせた時には、もう涙は流していなかった。
行平はその汗で張り付いた薬研の前髪をよける。
薬研は首元にも赤い花弁を付けた。
「なあ、薬研」
行平はその華奢な身体を抱き締める。

「海へ行こう」

「海?」
「うん、バスで。まだバス有ったと思う」
突然の思い付きは得意だった。
「良いな、海。行こう」
薬研は乗り気だ。
「確かあのバス停が近かったよね。一番近い海は…うん、便有る」
行平は裸のままスマホでバスを調べた。
薬研は既にズボンを履いている。
「シャワー浴びる暇も有るな」
行平と薬研は最低限の衣類を着て、共同の浴場へ向かった。

がたがた、とバスは鳴る。
出発が遅く長い事乗っていたので、外はもう赤い夕陽が沈もうとしていた。
バスが海に着いた時には、乗客は行平と薬研だけだった。
ICカードを翳し、バスを降りる。
目の前に広がる海は、波の満ち引きを繰り返していた。
行平と薬研は恋人繋ぎをしながら砂浜を歩く。
二人は無言で海を眺めていた。
ざざん、と波は静かに迫る。
夕日すら沈んだ海は、穏やかな顔をしていた。
潮風は生物の死んだ匂いがする。
行平と薬研は砂の上に座った。
暫くその風景を見ていたが、薬研は不意に俯く。
雫が溢れた。
ただ静かに、ほろほろと泣く。
行平はその小さく華奢な肩を抱き、頬にキスをした。
「何で泣くんだ」
何度も言った問い。何でだろうな、と薬研は曖昧に答えた。
「どうしても、教えてくれないのか」
アメシストの眼は、只々涙を流した。
「吾は泣く事が出来ない。悲しみがわからない。でもわかろうと思っている」
「俺にだってなんでこんな悲しいかわからねえんだ。行平にわかる訳無いだろ」
悲しい。
悲しいって、何だろう。
「死にたい訳じゃない。笑えない訳じゃない。ただ言い様の無い悲しみが、ずっと心に有る」
そう、なんだ。と行平は言った。
それは、とてもいけない事なのではないだろうか。
泣いたことの無い行平には気持ちが分からなかったが、それは分かった。
ふと沈む宝石は、最近よく見る色をしている。
行平はその顎を持ち、深く舌を入れた。
波の音と、柔らかい感触。
薬研の涙はやっと止まった。
「いつも悪りいな」
「全然気にしていないよ」
嘘だ。行平はいつも薬研の事を気にかけていた。
行平は薬研の両腕を掴み、意を決して言う。
「薬研、やっぱり病院へ行こう」
え、と薬研は呟く。
「吾が付いて行くから」
「いや、大丈夫だ」
「大丈夫じゃない。いつだって悲しいのは、全然大丈夫じゃない」
そうかな、と薬研はやっと考え始めた。
「でも医者志望が医者に掛かるなんてなぁ」
「そんなのよくある事だろう」
でもなぁ、と薬研は溜息を吐く。
「そんなんなったら、行平に会えなくなるかもしれないだろ。それは避けたいんだ」
「入院したら毎日お見舞いに行くよ」
そしてさ、と行平は続ける。
「毎日キスする。なんならこっそりフェラもする」
行平は真剣なのに、薬研は笑った。
「そうか、それなら淋しく無いな」
その豪快かつ儚い笑顔に、全て杞憂なんじゃないかと思う。
でもすぐにまた真顔になったので、やはりその心が壊れているような気がした。
短いクラクションの音がする。
その方を見ると、黒い軽自動車が停まっていた。
窓から黒と金白金が顔を出す。
「古今」
「もう遅いから帰りましょう」
古今が迎えに来てくれたのだ。
行平と薬研はその車の後部席に乗車し、シートベルトをした。
「海、楽しかったですか?」
「ああ、とってもな」
薬研がわかりやすい嘘を言うと、古今は微笑んだ。
軽自動車にしては景色の流れが速い。外を眺める薬研の後頭部を行平は見ていた。
「なあ、古今」
何です、と古今は答える。
「吾のスーツ、何処仕舞ったっけ」
その一言に薬研がこちらを振り向いた。
「ちゃんとわたくしの部屋に保管してますよ」
古今は微笑む。行平のその言葉の意味を察した。
ひゅんひゅんと街頭が流れていく。
夜の道に対向車はほぼ居なかった。
古今の軽自動車は最近の車なので中が広い。
薬研の自転車を積んでも隣に行平は座れた。
行平は後部席に、薬研は助手席に座る。
薬研の指示に従い古今が車を運転すると、割と直ぐ目的地に着いた。
喪服では無いが黒いスーツに身を包んだ行平は車から降りる。
逆に古今はNAGIの良い喪服ドレスだった。
今日雅荘を訪れた時の服装の薬研も降りると、古今は駐車場を求めて車を動かして行く。
その屋敷は、細川家の物件より大きかった。
行平は緊張したが、薬研が背中を支えてくれたで少し冷静になる。
一緒にその門をくぐった。
「薬研!こんな遅くまで何処に行って…」
玄関に入ると、水色の髪の青年が出迎え、行平の存在に驚いた顔をする。
「悪いいち兄。門限を破ったのは謝る」
いち兄、という呼び名に、その青年が前薬研が話した長男だと認識した。
彼は、粟田口家の次期頭領だ。
「お話が有って参りました」
行平は頭を下げた。
「…分かりました、取り敢えず上がってください」
家に上がる事を許されて、一先ず安心する。
その水色に案内され、広い廊下を渡り応接間に入った。
中には向かい合った皮張りのソファが有り、その周りに色々な観葉植物が飾られていた。
壁に掛かった絵画は、昔何処かで観たような気がする。
「私は粟田口一期。薬研の兄です」
「僕は細川行平と言います」
行平は普段使わない他所行きの言葉遣いをした。
「貴方は、薬研とはどんな関係なんですか?」
「僕は、薬研君の「友達」です」
そう言った瞬間、隣に居た薬研は行平を見る。
行平は、ごめん、と言う眼を一瞬送った。
「細川ですか…。行平君は、何処の学校に通っているんですか?」
「今、学校には行っていません」
行平は迷いの無い眼を一期に向ける。
薬研との仲以外に、嘘を吐くつもりは無かった。
この薬研が愛してくれた"細川行平"を偽るのは、薬研への冒涜だ。
「では、何か仕事を?」
「していません。強いて言うなら、作家をしています」
それは金になった試しは無いが、オブラートに包んだ真実だ。
一期は目を細めた。
「話になりませんね」
いち兄、と立とうとする薬研を制する。
「貴方に薬研の友を名乗る資格は有りません」
一期は手を組んだ。
「確かにそうです。でも、どうしてもこれだけは言わせてください」

「薬研君を、心療内科にかからせてください」

一期も、薬研も、眼を丸くした。
一期は顎に手をやり、薬研は一期の様子を窺う。
「…薬研、貴方は何処か悪いのですか?」
「い、いや、」
行平は薬研に視線を送り、首を横に振る。
「薬研君は、よく泣くんです」
泣く…?と一期は驚いた眼をした。
「薬研がなく所なんて、園児の頃から見てませんが」
「僕の前では泣きます」
一期はひそりと眉間に少し皺を寄せる。
「…細川さん、今日は帰って頂けますか」
いち兄!と声を出す薬研を行平はまた制する。
「これは、粟田口の問題です」
「…はい。突然の訪問、失礼しました」
行平は頭を下げ、応接間を出て行った。
玄関で靴を履く行平に薬研は声を掛ける。
「ちゃんと話し合うんだよ」
行平は微笑んで言った。
「でも…」
「大丈夫。吾は死ぬまで…いや、死んでも薬研の味方だから」
行平は薬研に背を向け粟田口の屋敷を出て行った。

もう、薬研には会えなくなるな。
覚悟をしていたつもりだが、そう思うと、気が狂いそうだった。

いつの間にか、長袖が手放せなくなっていた。
中庭の桜の葉が変わり始めている。
散り始めたら掃き掃除の日々になるな、と思った。
あの海を見に行った日から、1ヶ月が経とうとしていた。
ちらちらと見てしまうLINEに新着は無い。
勿論、電話も無かった。
淋しいと思ったが、それは覚悟していた事だ。
だが、悲しみが分からなくても、淋しさは分かるので、その気持ちに満たされていた。
あれから筆が止まっている。
パソコンに向かうと、薬研の為にかいていた事を思い出してしまうのだ。
日に日に膨らむ薬研への思いは、もう破裂しそうだった。
でも、もう踏ん切りをつけなければならない。
そう思い、昨日は夜に古今の部屋へ行った。
暫くぶりにそのストリップタンに舌を絡めて、でも、そこから先は制止された。
古今に拒否されるなんて思わなかったから、それは結構ショックだった。
そんな色々と傷心の行平は、イヤホンで音楽を聴きながらぼうっとしていた。
「何聴いてるんだ?」
「平沢さん」
「ああ、この間の新譜か。そういやCD返すの忘れてたな」
「別に今度でいい」
また今度、ゆっくり会える時で。

………ん?

行平はイヤホンを外し勢い良く振り向く。
アメジストの眼はかち合うと、よっ、と軽く右手を上げた。
「…や、げ」
行平は絶句した。そんな行平を、薬研は抱き締める。
「ただいま」
「おかえ、って、おい!!!!」
珍しく行平は怒鳴ってしまった。
「何時此処に!?」
「ついさっきだ」
「病院は!?」
「ああ、ちゃんと通ってるぜ」
「なんで連絡くれなかったんだ!?」
「いやあ意外と色々バタバタしてな」
「おま、ほんとそういう…、!!!!
薬研はキスをしてきた。久しぶりのその味は、腰が砕けそうな程美味しい。
「もう、本当に、うぅ、」
行平はしゃくりあげて泣いた。
それは人生で初めての事だった。
「お、おい泣くなよ」
「だっでぇ“!!!!!」
それは、嬉しさから来る涙だった。
袖で拭いながら、大声を上げて泣いた。
薬研は笑いなだらそんな行平の背を叩く。
「いやあ、また行平に会えて良かった」
「本当だよ!!吾が、どれだけだったか、分からないだろう!!!」
しゃくり上げながら怒る行平に薬研はあはは、と笑った。
「そんな事ないぜ?俺だって死ぬほど寂しかったんだからな」
一通り泣き晴らした行平は、力一杯薬研を抱き締める。
苦しい苦しい、と離れた薬研は、また触れるだけのキスをしてきた。
「まあ、これから暫くは寂しくないから安心しな」
薬研の言い様に、行平は首を傾ける。
「俺、暫く此処に住むから」
その一言に、行平は金白金の眼を丸くした。
「…っえ?雅荘に、住むと…?」
「ああ。療病に暫く粟田口と距離を取れって言われてな。もう部屋に荷物も置いてきた」
「…ほ、本当…?」
「ああ、202号室だ」
その報告に、行平は笑った。
久方ぶりに、笑った。
「なん、そん、もう言ってよ古今んんん!!!!!!」
行平は崩れ落ちる。薬研はそれを支えながら爆笑した。

その様子を見ていた雅荘の面々は、こっそり拍手を贈る。
入居を知らなかったのは行平だけだった。
「いやあ、良かった良かった」
膝丸は目頭を押さえる。
髭切はくつくつと笑い、鶯丸も頷いていた。
「しかし古今も人が悪いなあ。サプライズって言ってこれは酷くない?」
「そうですかね?劣情に耐え抜いた事を褒めてほしいくらいですけど?」
「そう言うところだよぉ」
和やかな空気が広がる。
それは、まだ温かい日の光が降り注いでいるからかもしれない。

そうして、雅荘に新たな仲間が増えた。

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