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薬鳴

昼は暑くなってきたが、夜の風はまだ冷たい。


人妻


「お、アンタか」
鳴狐が近侍室の襖を開けて顔を見せると、薬研は机に貼り付いていた。
「悪いな、あと少しで終わるんだが」
眼鏡がきらりと光る。作業を楽しんでいる証拠だ。
「今日の健康診断の結果整理。本当あと少しだから待っててくれ」
カタカタ、とキーボードを叩く音がする。薬研の後頭部にあほ毛を発見した。
「出来る事有る?」
鳴狐が珍しく喋ると、薬研は闇色の目を丸くして振り返った。
「あーいや…そうだな、じゃあ何か飲むもん持ってきてくれ。ペットボトルでいい」
鳴狐は頷いて廊下へ出る。こういう時、喋るのをお供に任せられないのは不便だと思った。
夜更けた本丸は静かだ。呑んだくれた者達も寝静まり、逢瀬する恋人達が共に時間を過ごしている。
鳴狐が厨房に入ると、小さな影が食器棚に向かって背伸びをしていた。
鳴狐に気付き気まずそうにしているのは、わりと新顔の包丁藤四郎だった。
「な、鳴狐叔父さん…」
包丁が何をしているのかわからなかった鳴狐が首を傾げると、包丁は人差し指を口に当てる。
「お菓子取りに来たの、皆には内緒!」
ああ、成る程な、と鳴狐は思い、幼い行動に小さく笑った。
食器棚の上の戸を開ける。包丁に指示され、お目当ての菓子を手に入れた。
「わ~!!ありがとう!!」
チョコ掛けの芋菓子を頬張る姿は、正直可愛い。
鳴狐も目当てのペットボトルを冷蔵庫から拝借し立ち去ろうとしたが、寝間着の袖を摘ままれた。
「鳴狐叔父さんにも!」
包丁は菓子を鳴狐に差し出す。口止め料という事か。
鳴狐は有り難く頂戴して、口に入れる。
芋菓子は甘くてしょっぱかった。
「ねえねえ、たまにはお喋りしようよ!」
包丁は椅子に座って鳴狐も誘う。
これは困った。お供が居ない状況でそうせがまれたのは初めてだし、正直無理がある。
しかし包丁のきらきらした眼を無視するわけにもいかない。仕方なく、取敢えず隣に座った。
「鳴狐叔父さんって、人妻だよね!」
小声で元気に言われ、鳴狐は目を丸くする。
「今だって薬研兄さんのとこに飲み物届けに来たんでしょ?」
ぴたりと言い当てられ、鳴狐は驚いた。
「へっへ~ん、俺を侮るなかれ!甲斐甲斐しい人妻の行動には敏感なのだ!」
ドヤ顔をする包丁に、鳴狐も笑う。
「蜂須賀さんも長谷部さんも人妻ってガラじゃないじゃない?どっちかっていうと夫側が人妻っぽいし」
それは同意だったので頷いた。
「この本丸で一番人妻っぽいのは鳴狐叔父さんだよ!夫の3歩後ろを歩く姿勢!言葉にしなくても分かり合う関係!何より叔父さんは優しい!」
鼻息荒く語る包丁に気圧される。
そんな風に考えた事は無かったが、確かに結婚すればそういう関係なのだろう。自分が家事をして、薬研が仕事に出て。たまにすれ違ったりもするだろう。実際、なんだかんだで怒る時も有る。でも、結婚も良いものだろうな。と考えた。
「でもさ、なんで叔父さんは喋らないの?」
一番聞かれたくない事を聞かれた。遠慮が無いな、この子。
誤魔化そうと笑っていたが、包丁の目ははぐらかせなかった。
「そいつはな、喋るのがめんどくせえんだよ」
良く聴く低い声が降ってくる。二人が声の方を見ると、薬研が立っていた。
「遅いと思ったら良いもん食ってんじゃねえか」
薬研は包丁の菓子を盗み食いする。あーっ!!と包丁は叫んだ。
「これ俺のっ!!」
懐に菓子を庇う包丁に、薬研は笑い出した。
「めんどくさいって、どういうこと?」
包丁は菓子を食べながら話をする。
「そのまんまの意味さ。別に喋れない訳じゃないんだ」
薬研の言葉に鳴狐も頷いた。しかし包丁は不思議そうに首を傾げる。
「せっかく人の身になって、せっかく喋れるようになったのに、喋らないの?」
「まあそれは個人の自由ってやつさ」
「えー?」
「包丁にはまだ早いか?」
「そういう話じゃないだろ!!」
膨れっ面になる包丁に、鳴狐と薬研は笑う。
「じゃあ俺らはこの辺で退散だな」
「えー?もう行っちゃうの?」
「俺らも忙しいんだよ。イイコトしなきゃだから」
「イイコト?」
包丁はわからないと顔に書いてある。鳴狐は呆れの溜め息を吐いた。まあそうなのだが。
「じゃあな。いち兄に見つかる前に寝ろよ」
薬研は廊下を歩き出す。鳴狐も声に出さず「じゃあね」と言って後についていった。

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