万雷の白虎
第39話
デイラー・ダグラスという男は、南部の小さな村で生まれ育った男だった。
ダグラスがまだ十代の頃に両親は他界し、それを期に村を離れ、軍に入隊した。
訓練を終え、ダグラスが配属されたのは、第345部隊という特殊部隊で、その部隊は主に国立生体研究所の警備を行っていた。
「しかし、本当は、その部隊は架空のものだった。
天涯孤独な若い軍人を集め、日々人体実験を繰り返していたのです。
軍人として鍛えた体をより強化し、人間兵器として仕立て上げる、その実験を。
幾度となく薬を・・・、合法なものも、非合法なものも、投与され、何度も何度も、身を焼くような錬成を繰り返されたものです。
ワシとて、万雷の白虎、などという大層な名前で呼ばれておりましたがね、万雷、というのは実験の錬成光を万回浴びてもなお生き残った、白虎のキメラ、というだけにすぎないのです。
この鋼の両腕も、実験の繰り返しのせいで腐り落ちてしまった腕の代わり・・・。
どんな過酷な実験を繰り返されていたか、少しは伝わりますかな?」
ダグラスの同僚たちは、あるいは発狂し、あるいは実験の数々に命を削られ、あるいは失敗という凶事に襲われ、一人、また一人と減り、そして、減った分、補充されて被害者を増やしていったのであった。
「そんな気の狂うような日々の中、ワシと、もう一人がもっともの成功した例になりました。
ワシらにとっては何よりの不運でしたがな。
もう一人の成功例になったのは、女軍人をベースにした豹(ひょう)のキメラでした。
彼女は、強く、美しかった。
ワシの両腕は腐り落ちてしまったが、彼女はほとんど五体満足で、意識もしっかりしておりましたよ。
度重なる錬成でもっとも肉体の能力を高められたワシらに、悪魔のような研究者どもが仕掛けた実験は、
ワシと彼女の間に子供をもうけさせ、その子供がどれだけの能力が受け継ぐかという実験でした。
ワシらの実験は、遺伝子にまで及んでいましたからな。
ワシは・・・・・、奴らの前で彼女を・・・・・・・・。」
その実験は、ダグラスと『彼女』の自尊心をどれだけずたずたに引き裂いたことだろう。
いつまで続くかもしれぬ地獄の所行の果てに、『彼女』はついに一人の男の子を出産するに至る。
「それが、あの虎です。
ワシも彼女も、生まれてから虎には一目も触れさせてもらえませんでしたがな。
ただ、あの子が生まれてすぐから、ワシら以上の実験体にされているのだろうということは、容易に想像がつきました。
日々、腸(はらわた)が煮えくりかえる思いでしたよ。
あの子は、満足な名前も持たず、ただ番号しか振られていなかった。
名前も満足につけてやることができなかった!
親として、こんなに悔しいことはない。
それからも、ワシらはワシらで実験が続けられました。
ワシの体もそうとう危険な状態だったが、出産の後に急速に『彼女』は疲れ果て、見るも無惨な姿に変わっていきました。」
普段それぞれ隔離されている実験体であったが、ダグラスは奇跡的にも『彼女』のいまわの時に立ち会うことができた。
それはその後同じ実験がまっているというだけに過ぎなかったのだが、ダグラスにはそれが運命のように感じられた。
ダグラスの腕の中で息絶えた『彼女』は、そのあとに骨の一片までのこらず実験に使われ、最後はサンプルと廃棄物になった。
「ワシは、とうとう『彼女』の本当の名前さえ知らぬままに終わりました。
どん底に落とされましたねえ。
己から死を選ぶということでさえ、ワシには過ぎた自由でした。
この生き地獄は、体験しなければ分かりますまい。」
今が昼なのか夜なのか、生きているのか、死んでいるのかさえ朦朧(もうろう)としてきたダグラスの耳に、ついにその情報が飛び込む。
その日、ダグラスの実験を行っていた研究員が、別室でいままさに虎の標本を作るために彼が殺されるところだ、ということを漏らしたのである。
「そのとき、ワシは混濁としておりましたから、まさかその言葉がワシの意思に届くとは思いもよらなかったのでしょう。
だが、その言葉はワシを一瞬にして覚醒させた。
絶望のまま死んだ『彼女』のため、己の復讐のため、なによりも、親としてなにもできなかったふがいなさに、ワシは突き動かされ、拘束具を引きちぎっりました。
研究員の体を八つ裂きにし、警備やほかの研究員たちを血祭りにあげ、危機一髪、彼が殺されることを防ぎ、逃がすことができました。
だが、ワシの長年の怒りはそれでは収まりませんでした。
ワシはもはや歯止めのきかなくなった獣となり、研究所内を手当たり次第に荒らし回った。
研究員も、実験体にされていた他の軍人たちも、研究所のすぐ隣の寮に住んでいたその研究員の家族たちも皆殺しにさせていただきました。
例の研究所の大量死の真実はこの通りなのですよ。
あの虎は、助けた後ワシが死んだと勘違いし、名前をもたないのもあって、自分が虎であると己に思い込ませたのでしょう。
だが、ワシはこの通り、死んでいなかった。」
研究所内を荒らし回ったダグラスは、最後に自分も外に逃れようと外に出たが、その途中で力尽き、倒れてしまった。
その倒れる様子を、音楽家のエルダーは目撃していたのだ。
ダグラスは、軍の記録上では研究所の警備の軍人であったので、倒れていてもさほど怪しまれずに、あとから来た軍人たちに救出された。
取り調べでも怪しまれることもなく、体調がととのったダグラスはウェストシティー勤務となる。
「だが、裏の住人には、ワシが何者かわかったようでね。
ワシがウェストシティーに勤務するようになっていくらかたった後、ワシに万雷の白虎として錬金術師暗殺の裏の依頼が舞い込んでくるようになった。
ワシは恐怖したが、裏にもコネクションができれば、息子を探すのに有利になると考えた。
それからは、裏と表の仕事をこなす毎日。
ワシが犯人の事件を己が調べるというような滑稽なことも多少ありましたな。」
ダグラスの裏の名前も有名になってきたとき、表のダグラスは一人の殺し屋の捜査を担当することとなる。
それが、息子、『虎』であった。
「追っているものが、どうして息子だといえましょう。
ワシは息子がまっとうな道を歩いていると、淡い期待をもっていた。
しかし、事実は残酷なもので所詮、蛙の子は蛙だった。
ワシはなんとしても、あの子だけは。
錬金術師専門の殺し屋であっても、この手で粛正する、そう心に決めたのです。
そして今日、その願いを、ワシは叶えることができた。
・・・・・・・・・・・・・・・・あの子は、人間をやめさせられた両親の間から、無理な実験によって産まれ、度重なる実験を徹底的に施されていた。
鋼の錬金術師も見たでしょう、あの子の懐からこぼれでた薬瓶を。
あれはこれ以上のものがないといわれるほど強力な、精神安定剤です。
あの子はもう、とうに、壊れていた。
ワシができる最良の処置は、殺してやることだけだったのですよ。」
第40話
ダグラスは、これ以上話すことはないとばかりに口を閉じ、じっとエドを見て・・・、ほんの少したじろぐ。
エドのほほを流れる、一筋の涙に気がついたからだ。
「やっぱり、俺は戦えない。
戦うなんてできないよ!
ダグラス中尉、俺は、そんなあんたとは、戦うことができないよ!
虚しすぎる、虚しすぎるじゃないか!」
ダグラスは、少しばかりため息をつき、急に目をつり上げた。
「だが、それがワシのもう一つの仕事なのですよ、鋼の錬金術師。
あなたがワシと戦いたくないというのならば、結構。
ワシが勝手にあなたを殺すだけだ。
ワシも仕事が楽で助かります。」
エドも、涙をぬぐい、ダグラスを強い目線で見た。
「投降してくれ、ダグラス中尉!
悪いようにはしない!」
エドの言葉をダグラスが笑う。
「ワシはその程度ではぬぐいきれぬほど汚れておるのですよ。
甘っちょろい考えはお捨てになることだ。
さあ、昔話はこのくらいにしておきましょうか、そろそろ援軍がきてもおかしくない頃合い、殺し合いをするなら今のうちでしょう。」
ダグラスが椅子から立ち上がったのを見て、エドも残念そうに立ち上がった。
「俺たちは、虎を、あんたの息子を捜索している間、ほとんど一緒に行動していた。
あんたは、いつの間に俺たちの殺しの依頼を受けていたんだ?」
ダグラスが笑う。
「いつかの朝食の時、ワシが新聞を読んでいた、あのときに。
ワシへの依頼は、新聞の広告に特定のマークと連絡先を掲載して行うのです。
そのマークを認めて、ワシが先方に連絡を入れる。
そういう連絡方法をとっているのですよ。
そのときから、あなた方はワシの獲物になった。」
エドは唇を浅く噛む。
「なら、なんですぐに殺さなかったんだ。
チャンスはいっくらでもあっただろうに。」
ダグラスが肩をすくめる。
「あのときの、最優先事項は息子の探索でしたからな。
あなた方は、いわば2の次だったのです。
これぐらいで、疑問も晴れたでしょう。
覚悟するなら、今のうちですな。」
エドはふっと息を吐いてから、真剣な顔つきで拳を構えた。
「絶対、ダグラス中尉を大佐の目の前につきだして、きちんと裁判をかけさせてやるから、覚悟しやがれ!」
ダグラスも楽しそうに身構える。
「その覚悟、上等!参る!」
×××××
廃ビルにたどり着いたハボックたちは、陥没の下敷きになっている軍人を救出する班と、エドの救出にビルに踏み込む班に分かれた。
ハボックはアルをつれてビルに近づき、暗く不気味な建物を見上げた。
「まさかダグラス中尉が、目指す殺し屋だったとはね。
恐れ入るぜ。
かならず大将は助け出すから、道案内頼むぜ、アル!」
アルも、頷く。
「はい、お願いします。
兄さん、待っててね!今行くから!」
アルたちが踏み込もうとした瞬間、廃ビルの建物が揺れるほどの爆発と閃光がほとばしり、夜道を昼のごとく照らし出した。
×××××
爆風に吹き飛ばされたエドは、その勢いに逆らわずに風に乗って飛んだ。
ダグラスが隠し持っていた小型爆弾が爆発したのである。
地下通路を倒壊させた爆弾と同型だと思われたが、先ほどまで座っていた応接セットが盾になり、エド自身はさほどダメージを受けずにすんでいた。
だが、あたりは爆煙に包まれて視界が効かず、爆音のせいで耳もほとんど麻痺していた。
エドはとにかくダグラスと距離をとろうと、転がり出ることができた廊下を走った。
「逃がさん!」
ダグラスが煙を引き裂いて、エドの眼前に現れた。
「!」
ダグラスが繰り出した鋼の腕の一撃を、床に転がるようにして避け、全身のバネを総動員して瞬時に立ち上がると、今さっきまで頭があった場所にダグラスの拳が降ってきた
エドは床を殴りつけたダグラスの脇腹を狙って、オートメイルの手の甲に生み出した刃で切りつけるが、体毛を浅く切り裂いただけで、ダグラスの骨肉には到達しなかった。
「早い、上に、強い!」
エドはダグラスの動きの良さにただ感心してしまった。
ダグラスが体をひねって、エドから一瞬離れる。
「それはお互いですよ、鋼の錬金術師、いい動きだ!」
ダグラスは愉快そうにいい、着地した足を瞬間的に踏み切ってエドの方に突っ込んできた。
エドは迎え撃ち切れないと判断して、自ら爆煙に飛び込んで身を隠す。
だが、ダグラスには野生の勘と獣の能力が備わっている。
煙ごときでは、たいした時間稼ぎにはならない。
煙の向こうから、バチッという錬成光がはじける。
ダグラスはそれでも煙の中に飛び込む!
「そこだ!」
ダグラスが吠えて、エドのにおいがする場所に拳をたたきつける。
が、そこにはエドはおらず、ダグラスの拳はエドの上着を貫いたに過ぎなかった。
そして、その足下には床がない。
「!?」
さすがのダグラスも、これには仰天したようだ。
3階から2階にダグラスの巨体が落下する。
「そこだ!」
先に下の階に降りて構えていたエドが、ダグラスに向けて大砲を発射した!
「く!」
空中ではさすがのダグラスも、意のままに体を動かすことは難しい。
エドが発射した大砲の弾が、先ほど『虎』に刺された傷口を直撃した。
「ぐぉ!」
ダグラスは苦々しく悲鳴を上げながら、ずんっと音を立てて、手をついて着地した。
弾が直撃したダグラスの傷口から、再び出血が始まった。
「さすが、鋼の錬金術師。
口で何といおうと、油断ならん。」
ダグラスは闇色に笑って、すぐに立ち上がる。
脇腹の出血は、筋肉の割れ目に沿ってたらたらと流れた。
「わざわざ暗闇に身を投じるなど、死に急ぐようなものですがな。
虎のワシには闇などなきがごとし。
あなたがどこにいるかも、手に取るようにわかりますよ。」
「承知の上だ、そんなん!」
エドは叫び、両手を床についた。
するととたんに激しい錬成光があたりを照らし出し、闇を追い払いながらエドが思い描いたものを形作る。
天井や壁が無数の錐のようにとがり、雨あられとダグラスに襲いかかった。
ダグラスは後ろに下がりながら、襲い来る錐の先端をへし折っていく。
エドはその隙に、自分の脇に3階へと続く階段を錬成して、いっきに駆け上がった。
ダグラスもエドを追って突進すると、たった2歩で階段を駆け上がる。
見れば、3階から4階に上がるための階段も錬成してあり、エドはそこを上っていた。
「げ、もうきた!」
エドは振り向いて毒つくいた。
ダグラスは無防備な背中をおそおうと、間を詰める。
だが、ダグラスの手が届く寸前にエドは階段を上りきり、床を転がって攻撃から逃れた。
「うは!間一髪!」
エドが振り向きながらぼやく。
「どこまで逃げられますかな?
鋼の錬金術師。」
ダグラスは、余裕のあるゆっくりとした足取りでエドが錬成した階段を上ってきた。
エドは慌てて身構える。
そこはエドたちがまんじりとしない気持ちでダグラスの帰りをまっていたあの廊下で、ろうそくの明かりが今もなお、ぼんやりと廊下を照らしていた。
脇には未だにハルトの遺体が寝かされたままである。
「なにか勝算があるのかと思えば、ただ単に明かりを求めてきただけですかな?」
エドはダグラスの言葉に反応を見せず、じっとダグラスの動きを注視しているばかりだ。
エドの背後には、さきほどアルを行かせるために廊下を分けた壁が立ちふさがり、排水の陣状態だ。
錬成すれば容易に抜けられるが、その隙をダグラスが与えてくれるとは思えない。
「もとの場所で死にたいと?
それとも、自分もここから下に飛び降りてみますかな?
ふふふふ、素直に飛び降りるだけならば、ワシのほうが有利ですな。
場合によっては、空中であなたを仕留められる。」
「そんなあぶねえ真似するかよ。」
エドがぱっと脇の部屋に入ろうと横に飛んだ。
ダグラスはさせじとエドの進行方向を狙う。
エドがとっさに壁に手をつき、頭を低くしたとたん、エドの背後から剣のような突起が出現し、ダグラスを襲う。
「ぬお!」
ダグラスはオートメイルでそのことごとくを打ち払う。
エドはその隙をついてダグラスの脇をすり抜け、『虎』とダグラスが開けた穴から室内に入り、すぐに穴をふさいだ。
ダグラスは体力と腕力にものをいわせて、エドが錬成したばかりの壁を打ち砕いて室内に踏み込む。
するとそこには、またもや上に上がる階段が出現していた。
エドのにおいと気配は、階段の上である。
「どこまでお逃げになるおつもりなのか。
逃げてばかりでは、ワシを捕まえることなど、夢また夢であるだろうに。」
ダグラスは誰に聞かせることもない言葉をつぶやいてから、エドの誘いに乗って階段を駆け上がる。
一方でエドは息を切らせながらさらに上に上がる階段を錬成して、それを上っていた。
上へ上へと上っていくのがエドの考えと理解したダグラスは、もう急ぐことはせず、歩みを緩くしてエドが錬成した階段を上った。
上への階段が終わったのは、屋上に出たときであった。
屋上は涼しい夜風が吹き抜け、夜空には太りかけの月が輝いている。
真っ暗な室内に比べると、驚くほど明るく、そして神秘的でさえあった。
もともと人が上ってくることを考えた作りでない屋上は、周りをぐるりと人の腰の高さほどの縁が申し訳程度にあるだけで、身を乗り出せば落ちてしまいそうである。
ビルの中心には、吹き抜けの穴があいており、上から見るとビル全体が四角いバームクーヘンのようであった。
ダグラスがゆっくりと階段を上りきると、少し離れた場所にエドがたっていた。
「鬼ごっこはこれで終わりですかな、鋼の錬金術師。
もう逃げるところもありますまい。」
ダグラスが夜風に吹かれながらエドに言う。
エドは、緊張した顔で、ふてぶてしく笑った。
「そうだな、ここまで来るのに上りつかれちまったよ。
もう階段はこりごりだな。」
エドは呼吸を整えるかのように、大きく深呼吸をしてから、身構える。
「ここなら広いからな、存分に戦える。
決着をつけようぜ。」
ダグラスも、身構える。
その様子はエドよりもダグラスの方が慎重だった。
エドがわざわざ危険を押してまでここまで上ってきた理由があるはずだと警戒しているのだ。
今回はエドの方が先に攻め込んだ。
屋上の床に手を当てて、ダグラスの周りを取り囲む檻を錬成する。
ダグラスは足下に錬成光が現れた時点で大きく後退し、立ち上がった檻の中には収まらない。
逆に、ダグラスは立ち上がる檻の天井に足をかけ、その勢いを利用して大きく跳躍した。
背後に月を背負い、獲物を狙って笑う白虎の姿は、迫力のある絵画のようで、美しくさえある。
エドは飛び込んでくるダグラスに向かって、巨大なこぶしをいくつも錬成した。
突っ込んでくるタイミングを見計らい、ダグラスの体めがけて一斉に殴りつける。
ダグラスは空中で一回転しながらの強力な蹴りで拳を向かい撃ち、そのことごとくを破砕して着地した。
「まだまだ!」
エドはダグラスの周りの床を、鋭い棘をもつ茨のように錬成した。
そのコンクリートでできた茨の鞭は、重たげに、しかし、しなやかにうねり、ダグラスをたたきつぶそうとぶつかっていく。
ダグラスは突進してきた茨の鞭を両手でつかむと、筋肉を隆起させて勢いよく途中で真っ二つに折った。
錬成され形を保っていた先端部の方は、エネルギー供給が途絶え、ダグラスの足下で粉々に砕け散る。
力を入れたせいか、ダグラスの脇腹の出血が増えたように見えたが、本人はそれで怯みはしなかった。
「ぐははははは、鋼の錬金術師、ワシを殺す気でかかってこないと、かすり傷一つつけることはできませぬぞ。」
ダグラスはエドが次の錬成をする前に、エドの至近距離まで一気に間を詰めた。
エドはいきなり眼前に迫ったダグラスの巨体に顔を引きつらせながら、ダグラスがつきだしてきた拳をぎりぎりでよける。
ダグラスの拳圧だけで、エドの頬の皮が浅く裂けたほどの威力のある一撃であった。
「く!」
エドは体を回転させてダグラスの背後をとる。
すかさず拳を繰り出したが、一瞬目の前をよぎったダグラスの傷口を見て勢いが緩み、いまいち会心の一撃ではない。
体を回しながら放たれたダグラスの拳が、エドの脇腹を突いた。
「っ!!」
エドは苦痛に顔をゆがめながら横様に引き飛ばされ、屋上の床を盛大に転がった。
十メートルほど床にたたきつけられ、ようやく回転が止まる。
あと三メートルほど余計に転がれば、中央の吹き抜けに落ちるところだったので、危機一髪であった。
「ぐ、くそ。」
エドが慌てて体を起こすと、目の前にダグラスが立っていた。
エドの眼前に、ダグラスの手が迫る。
エドはとっさに両手を合わせ、床に音が鳴るほど打ち付けた。
ごっ!
「ぬ!?」
瞬く間に足下に走った錬成光のあと、床が大きくひび割れた。
五メートル四方ほどのコンクリートの塊は、エドとダグラスを乗せたまま吹き抜け側に大きくかしぎ、ぎりぎりの縁で危なっかしげに揺れ動く。
「このままでは貴方も一緒に落ちますよ、鋼の錬金術師。」
ダグラスはさほどの慌てぶりも見せずにエドに言った。
「アルフォンス君や灰ネズミが落下した高さより高い。
ここから落ちれば、下にクッションがあっても無事では済まされないでしょうな。」
ダグラスと同じコンクリートの塊の上、緊張した面持ちではあるものの、エドは挑戦する笑顔を浮かべていた。
「それは、ダグラス中尉も同じことだ。
たとえ頑丈なキメラとはいえ、生き物。
高いところから転落すれば、それ相当なダメージを受ける。」
ダグラスはやれやれと首を振る。
「落ちるのはあなただけだ、鋼の錬金術師!」
ダグラスが、不安定なコンクリートの塊を思い切り踏み切って飛び上がった。
吹き抜けを飛び越せるほどの大跳躍である。
とたん、塊がバランスを崩し、エドを乗せたままぐらりと揺れる。
「うりゃあああああああ!」
だが、それを見越していたエドが再び激しい錬成光を瞬かせた。
床を駆け抜けた光は、吹き抜けの反対側まで到達し、そこから蛇のようにのたうつコンクリートの柱を錬成した。
ダグラスの背後に当たる場所からである。
「な!?」
まさか背後から錬成物が襲いかかってくるとは思わなかったダグラスは、空中で体制を整えることができない。
ダグラスめがけて伸びたコンクリートの先端が左右に大きく分かれ、ダグラスの両方の足首をとらえた。
「ぐお!?」
空中でバランスを崩したダグラスが、そのまま真っ逆さまに吹き抜けの中に落ちそうになる。
エドは続けて錬成光を三方向から発生させ、吹き抜けの中央目指して、人一人分の幅しかない橋を伸ばした。
伸びた細い床は中央部で合体し、そこへダグラスの巨体が落ちてきた。
「だは、うまくいった!」
エドは内心成功するか冷や冷やしていたようで、ダグラスが無事に橋の上に落ちたとき、思わずあごに流れた汗をぬぐった。
「ぬ、う。」
細い橋の中央部にたたきつけられたダグラスの右の足首にはしつこいまでに足かせがまとわりつき、衝撃で飛びちったダグラスの血が深い底を目指して落ちていく。
さすがのダグラスも少し苦しそうである。
エドが錬成した三方向から伸びている橋には欄干がなく、足を踏み外せば真っ逆さまに落ちてしまう。
ダグラスはそれでも何とか立ち上がろうと、狭い足場でもがく。
「はぁ、はぁ、チェックメイトだ、ダグラス中尉!
もう、やめにしよう。
俺がこの橋を落とせば中尉の命はない。
俺はそんなことしたくないけどな。
おとなしく投降してくれ!」
エドが橋の根元に立ち、ダグラスに呼びかける。
だが、ダグラスの獣の瞳は、爛々と輝くばかりであった。
「は、なんの、これしき!」
ダグラスが体に力を入れ、ぐっと体を起こす。
「ごふ!」
そのとたん、ダグラスがむせて、血を吐いた。
オートメイルの接続部や、浮き出た血管からも出血しており、それは一目でエドの攻撃のせいだけではないことが見て取れた。
「え!?
ダグラス中尉!?」
エドが慌てて叫んだ。
「ぐ、ううううむ、はぁ、はぁ、に言ったでしょう、鋼の錬金術師。
ワシらのような者・・・、キメラは不安定な生物であるぶん寿命が短いのですよ。
ワシは今年でもう38になる。
体が崩壊を始めてるのですな。
し、死ぬ前に息子の決着をつけたいとおもうのも、自然なことです。」
ダグラスから、血液が流れ、橋の表面を汚し、流れとなって下へ下へと流れ落ちていく。
「はぁ、はぁ、はぁ、だが、まだ、ワシは死ぬものか。
降参も、投降も。
獣のワシには似合わない。」
ダグラスは拳で足かせを砕き、巨体を細い橋の上に立ち上がらせた。
「この程度で、ワシを追い詰めたと?
ワシは万雷の実験を生き抜いた白虎、侮ってもらっては困る!」
ダグラスが月明かりに照らされながら、朗々と言い放った。
エドもダグラスの次の攻撃に備えて、身構える。
ダグラスの口元から流れる赤い筋が、月明かりの下で生々しい。
ダグラスがエドに向かって踏み出した時、不意にダグラスの歩みが止まった。
エドがいったい何事かと顔を上げたとたん、鋭い発砲音が鼓膜をたたいた。
ダグラスが驚きの表情で下をのぞき込む。
が、相手を確認するまもなく、次弾が次々とダグラスの体を貫いた。
「ぐ あぁ ぁ ぁ!」
ダグラスが驚きながら、体を貫通した弾から与えられた激痛に悲鳴を上げる。
ダグラスの体が大きく揺らぎ、体を支えていた足が橋を踏み外した。
「だ、ダグラス中尉!」
エドが吹き抜けの中に落下していくダグラスを追いかけるように、吹き抜けの縁に身を乗り出した。
「!」
見れば、二階ほど下の階にライフルを構えた見知った顔が見えた。
ところどころ血を滴らせながらも、ライフルを構えていたのは、リザ・ホークアイであった。
いっぽう、真っ逆さまに落下していたダグラスの体は、不意に途中の階のあたりで受け止められていた。
「!」
ダグラスが驚いて見渡せば、三階のあたりにネットが錬成されており、中庭に面した廊下にずらりと並んだ軍人が銃を突きつけているのが見えた。
そのなかには、アルと、ハボックの姿もある。
「動くな。
動けば、即、射殺する。」
ハボックが怒りをにじませながら冷たく言い放つ。
ダグラスは頭上を見上げ、自分をのぞき込んでいるエドを認めた。
「なるほど・・・・だから屋上に。
完全にワシの負け、ということですな。」
第41話
東方軍病院の高官用の病室には、何人かの人間が集まっていた。
集まっているのは、エド、アル、ハボック、ヒューズの四人、この部屋に入院しているロイは、ベッドに横になっている状態である。
ロイは各所の骨折、打撲、裂傷で、しばらく入院だという。
また、ロイと同じように地下通路の陥没に巻き込まれた軍人たちも、同じように入院していた。
手術が終わって一息ついたロイのところに、報告に来たところである。
一通りの報告を受けてから、ロイはエドに謝った。
「すまなかったな、鋼の。
まさか犯人がダグラス中尉だとは思いもよらなかった。」
エドは首を振る。
「誰がダグラス中尉が犯人だって予測できたよ?
大佐のせいじゃないさ。」
エドもそこかしこに絆創膏やら包帯を巻いていたが、ロイよりはよほど軽傷だ。
「兄さんが無事で本当によかったよ。
一時はもう会えないかと思ったもん。」
エドは悪い悪いとアルに謝る。
「それにしても、特に打ち合わせもせずによくダグラスを捕まえられたものだ。
私は一時射殺も考えたのだが。」
「そこのところは、アルとハボック少尉が気を利かせてくれてな。
俺がダグラス中尉と中庭の吹き抜けの縁で戦っているのを見て、ネットを張って待機してくれてたんだ。
救出されてすぐの中尉が来てくれなかったら、捕まえることは難しかったと思う。」
なるほど、とロイは納得したように頷いた。
「ところで、そのダグラスは今後どうなるのだ?」
「今のところ、ダグラス中尉は司令部でおとなしくしている。
このまま、軍法会議所が引き取ってセントラルに護送するそうだ。
世に名だたる殺し屋だからな。
おそらく銃殺刑になるだろう。」
ヒューズがいうと、エドとアルがうつむいた。
「どうにかならないのか?
ヒューズ中佐。
ダグラス中尉にも、中尉なりの理由があるんだ。」
エドはヒューズに頼み込んだが、ヒューズは残念そうに首を振る。
「申し訳ないが、エド。
ダグラス中尉は罪を犯しすぎた。
まだ会議にかけられてはいないが、ほぼ決定とみて間違いないだろう。
ここ何日か一緒に過ごしたおまえたちにはつらいかもしれないが、俺の一存じゃどうしようもないんだよ。」
「そうか・・・。」
エドはため息をつきそうな声で言いながらうつむく。
「とにかく、これでもう、君たちが旅に出ることを引き留める理由はなくなった。
貴重な時間を費やせてしまって悪かったね。
気分転換もかねて、また方々を当たってみたらどうかね。」
ロイがベッドの上からいうと、エドは少し考えてから頷く。
「もとから、俺たちはそのつもりだ。
ダグラス中尉の件が解決したってんなら、俺たちは旅にでるよ。」
エドとアルは、それからしばらく二言三言ロイたちと話してから、先に部屋を辞していった。
本来の彼らの生活である、体を取り戻すための旅に戻るために。
部屋に残された大人たちは、元気のない背中を見送って、申し訳ないような表情になる。
「やるせねえなあ。
今回、エドたちに無理させて、重荷を乗せちまった。
大人として情けないぜ。」
ヒューズは言い、傍らの椅子を引き寄せて座った。
「私が使いに出した子供たちと、灰ネズミはどうなったんだ?」
ロイはふと疑問に思ったことをハボックに訪ねた。
「ああ、あの子たちが俺たちに声をかけてくれなきゃ、手遅れになるところでしたよ。
あの双子と怪我した兄ちゃんは入院してます。
灰ネズミって男は、いつの間にか姿くらましたんで、捜索中です。」
ロイはそうか、と興味をなくしたようなため息をついた。
「灰ネズミという男には、私がだいぶ世話になった。
もし、おまえがもう一度見かけたなら、一度だけ見逃してやってくれ。」
ハボックは少し驚いたが、深くは訪ねず、頷くだけにとどめた。
「それよりも、ヒューズ。」
話しかけられてヒューズはロイを見た。
「なによ?」
「私の思い過ごしならよいのだが・・・・。
この事件、まだ裏がある気がする。
セントラルまでの道中、くれぐれも頼んだぞ。」
ヒューズはロイの真剣なまなざしを、はっきりと見つめ返した。
「俺も、そんな気がしてならねえ。
何もないと、いいんだがな・・・。」
第42話
視察が終わった軍法会議所の一団と一緒に、ダグラスはセントラルに護送されることとなった。
軍法会議所のトラックの一台を護送用に回し、目隠しと足枷がつけられたダグラスが荷台に乗せられる。
ダグラスのオートメイルは外されてしまったので、手枷はない。
護送用にまわしたトラックには、警護が二人、運転手が一人、ダグラスのほかに乗っていた。
セントラルからイーストシティの間は、基本的にとても整備された道が続くのだが、その途中山道を進まなければならない場所がある。
ガタゴトと車に揺られながら、ダグラスはあまりの揺れのひどさに文句を言いたくなった。
『セントラルで軍法会議にかけられた後には、きっと銃殺刑が待っているにちがいない。』
だが、ダグラスにはもう一つ考えがあった。
軍法会議にかけられた時、生体研究所で行われていた非人道的な実験を暴露してやるのだ。
これは、少なからず軍内に波紋を呼ぶと、ダグラスは踏んでいた。
ガタガタと揺れていた車体が、一際大きく揺れた。
「ぬお!?」
揺れた、と思った瞬間、ダグラスの体は座っていた座席から浮き上がり、荷台の壁に体が打ち付けられた。
枷と目隠しのせいで、何がおこっているのかよくわからなかったが、とにかくトラックの車体は激しく揺れ動き、上下が何度も逆さまになりながら、ダグラスの体をシェイクした。
「じ、事故でも起こしたのか!?」
ようやく揺れが収まった時、ダグラスは体を引きずるようにして体制をなんとか立て直した。
いたるところに打ち付けて、頭も混乱している。
衝撃のせいか目隠しが半分ほどずれたので、周りを見渡してみると、ダグラスは天井の方に倒れていた。
どうやら乗っていたトラックが横転したようである。
「ぬ、うう。
いまいましい足枷だわい。
せめて腕があれば逃げられるものを。」
ダグラスは苦々しくぼやく。
体を強く打ち付けたせいで、体のあちこちからまた出血が始まったようだ。
ぬるりとぬれた感触がする。
動くことも、どうすることもできないダグラスが荷台で仕方なく大人しくしていると、どこからか静かなバイオリンの調べが聞こえてきた。
「ぬ!?」
ダグラスの体がビクッと反応した。
そのバイオリンの調べは、さわやかな旋律で、まるで初夏の風を思わせた。
しかし、それを耳にしたダグラスにとって、その旋律はまるで毒であった。
その音を耳にしたとたん吐き気がこみ上げ、吐いたものには血が含まれていた。
「ぐ、ぐああぁ!この、この音は!!」
バイオリンの旋律は、だんだんと近づいてくる。
そしてその音が近づくにつれ、ダグラスの苦しみは増していった。
ガンガンと打ち付けるような頭痛、こみ上げてくる吐き気。
胃の腑がひっくり返り、失った腕が痛んだ。
いつか東方司令部でも似たような症状が出たことがある。
しかし、今回はその何倍も強力な力で、ダグラスを犯した。
「やめろ!ぐううう!
その音を、やめろ!!!」
ダグラスが叫んだ瞬間、たしかにバイオリンの旋律は、はたっと止んだ。
ダグラスが苦しみから急に解放されて驚いていると、荷台の扉がゆっくりと開かれ、外からの明かりが荷台の中に差し込んだ。
そして、荷台を開けた人物が、中をのぞき込んでいた。
その姿を見た瞬間、ダグラスは目を見開いた。
「び、ビクター・エルガー・・・。」
そこにたっていたのは、一人の音楽家だった。
その手にはバイオリンと弓を持っている。
そして、その目は、その顔は。
狂喜を宿していた。
「やあ、また会えましたね。
ダグラス中尉。」
怖いほどに、満面の笑みを浮かべる。
「あなたにあいたくてここまできてしまいましたよ。」
ビクターが言った言葉に、抑揚はない。
ダグラスの野生の勘が、危険信号をひっきりなしに発していた。
誰と真向かっても起こらなかった恐怖が、はじめてダグラスを支配する。
「なぜ、おまえが、ここに?」
ダグラスが、震える声で訪ねた。
ビクターは笑う。
「復讐、です。」
ビクターは、つかつかとダグラスに歩み寄る。
「さがし、ましたよ。
生体研究所を荒らし回った犯人をね。
キメラのせいだとは思っていましたが、まさかあなただとは。
音楽家の情報網はたかがしれていますね。
私の愛しい妻を殺した犯人に、復讐したくてしたくてしたくて。
私はいままで生きてきたんです。
はははははは。」
ビクターは、笑いながらバイオリンをつま弾いた。
その美しい音が一つ奏でられるごとに、ダグラスの心臓は締め付けられるように痛んだ。
「ぐああぁ!」
ビクターがすっと弓を離すと、ダグラスは息をつくことができる。
「ふふふ、私と妻にはね、子供なんかいなかったんですよ。
あのロミーとかいう子供は、ただの私の小道具に過ぎなかった。
まあ、おかげで命拾いしたのも滑稽な話ですがね。
こうして、自然な事故に見せかけるためだけに飼っていたのですが、なかなか役立つペットでしたね。」
そうなのだ。
山道を走っていたさなかに突如飛び出したロミーを避けるため、軍法会議所の車列は大きくハンドルを切らざる得なくなった。
そして、そのさなかに手を加えられていたトラックのタイヤがパンクし、ダグラスを乗せた車だけが、谷底に転落したのである。
「東方司令部内におりましたから、手を加えるのはたいへんたやすい仕事でしたね。」
くすくすとビクターは笑う。
「さて、あんまり長いしていると救助が来てしまいますからね、時間は有効的に使わなければ。
私はできるだけ長く、あなたの悲鳴を聞いていたい。
始めまていきましょうか。」
ビクターは言い、バイオリンを構えた。
「やめろ!それを弾くな!」
ダグラスが叫ぶが、無情にもバイオリンは優雅な旋律を奏でだした。
「がああああああああああああああああああああああああああああああ!」
ダグラスが、音をかき消そうとでもするかのように、頭を振り乱して絶叫するが、バイオリンの透明な音はびくともしない。
また、金属製のトラックの荷台であるため、反響した音がよけいにダグラスを傷つける。
半狂乱のようにもだえ苦しむダグラスを見て、ビクターはこの上なく笑った。
「はははははははは、苦しむがいい。ダグラス!
いや、低俗な合成獣よ!
あの研究所で作られたキメラにはすべて、制御のために組み込んだ旋律があるんですよ。
おまえたちが暴走した時に制御するための、毒の旋律として、私の曲がね。
あのとき!私が研究所にいさえすれば!
おまえはこの旋律で死んでいた!
彼女は助かった!
なのに!
おまえは、よりによって!
私が研究所にいないという最悪の時に暴走した!
この罪が!この気持ちが、おまえにわかるか!
この卑しい獣があああああああああああああああああああああ!」
より激しく、より優美に奏でられる、ダグラスにとっての最悪の毒が、ダグラスの体の崩壊を助長する。
体の至る所から滝のようにダグラスは出血し、その両目からは血の涙を流した。
骨は始終砕け、絶叫は咆哮である。
「ぐがあああああああ!」
ダグラスが仰け反って一際すさまじい叫び声を上げる。
そして、その絶叫が不意に途切れ、ダグラスは口から泡を吹き、ついに仰向けに音を立てながら倒れた。
倒れた場所にはすぐに血の池が広がり、ビクターの足下にまで広がる。
「は、ははははははははは、やってやった。
あああああ、ついに仇がとれた、長年の夢が!」
ビクターは歓喜のあまり涙を流して叫んだ。
ビクターとしては、いつまでもここにいてダグラスの死体をもてあそびたかったが、救助にくる軍人に目撃されては都合が悪い。
ここはそうそうに退散すべきであろう。
「はははは、護衛も運転手も死んで誰も生存者がいないのに、軍人もご苦労なことだ。」
ビクターが高笑いをあげながら、トラックの荷台から降りる。
「はははははははははは!今日は最高の日だ!」
ビクターの肩が後ろからつかまれた。
強引に引き倒され、背中がぶつかる。
驚いたビクターの見開かれた目に写ったのは。
白目をむいたダグラスが、自分ののどに食らいつこうとする姿だった。
ダグラスの牙がビクターの喉に深々と食い込む。
「げぼっ!」
噴水のように吹き出した血液が、辺りを容赦なく汚す。
ビクター何か言いたげに口を開閉したが、結局何も叫ぶこともなく死んだ。
ダグラスの顎からも、少しずつ、力が抜けていき。
そして。
万雷の白虎
完
デイラー・ダグラスという男は、南部の小さな村で生まれ育った男だった。
ダグラスがまだ十代の頃に両親は他界し、それを期に村を離れ、軍に入隊した。
訓練を終え、ダグラスが配属されたのは、第345部隊という特殊部隊で、その部隊は主に国立生体研究所の警備を行っていた。
「しかし、本当は、その部隊は架空のものだった。
天涯孤独な若い軍人を集め、日々人体実験を繰り返していたのです。
軍人として鍛えた体をより強化し、人間兵器として仕立て上げる、その実験を。
幾度となく薬を・・・、合法なものも、非合法なものも、投与され、何度も何度も、身を焼くような錬成を繰り返されたものです。
ワシとて、万雷の白虎、などという大層な名前で呼ばれておりましたがね、万雷、というのは実験の錬成光を万回浴びてもなお生き残った、白虎のキメラ、というだけにすぎないのです。
この鋼の両腕も、実験の繰り返しのせいで腐り落ちてしまった腕の代わり・・・。
どんな過酷な実験を繰り返されていたか、少しは伝わりますかな?」
ダグラスの同僚たちは、あるいは発狂し、あるいは実験の数々に命を削られ、あるいは失敗という凶事に襲われ、一人、また一人と減り、そして、減った分、補充されて被害者を増やしていったのであった。
「そんな気の狂うような日々の中、ワシと、もう一人がもっともの成功した例になりました。
ワシらにとっては何よりの不運でしたがな。
もう一人の成功例になったのは、女軍人をベースにした豹(ひょう)のキメラでした。
彼女は、強く、美しかった。
ワシの両腕は腐り落ちてしまったが、彼女はほとんど五体満足で、意識もしっかりしておりましたよ。
度重なる錬成でもっとも肉体の能力を高められたワシらに、悪魔のような研究者どもが仕掛けた実験は、
ワシと彼女の間に子供をもうけさせ、その子供がどれだけの能力が受け継ぐかという実験でした。
ワシらの実験は、遺伝子にまで及んでいましたからな。
ワシは・・・・・、奴らの前で彼女を・・・・・・・・。」
その実験は、ダグラスと『彼女』の自尊心をどれだけずたずたに引き裂いたことだろう。
いつまで続くかもしれぬ地獄の所行の果てに、『彼女』はついに一人の男の子を出産するに至る。
「それが、あの虎です。
ワシも彼女も、生まれてから虎には一目も触れさせてもらえませんでしたがな。
ただ、あの子が生まれてすぐから、ワシら以上の実験体にされているのだろうということは、容易に想像がつきました。
日々、腸(はらわた)が煮えくりかえる思いでしたよ。
あの子は、満足な名前も持たず、ただ番号しか振られていなかった。
名前も満足につけてやることができなかった!
親として、こんなに悔しいことはない。
それからも、ワシらはワシらで実験が続けられました。
ワシの体もそうとう危険な状態だったが、出産の後に急速に『彼女』は疲れ果て、見るも無惨な姿に変わっていきました。」
普段それぞれ隔離されている実験体であったが、ダグラスは奇跡的にも『彼女』のいまわの時に立ち会うことができた。
それはその後同じ実験がまっているというだけに過ぎなかったのだが、ダグラスにはそれが運命のように感じられた。
ダグラスの腕の中で息絶えた『彼女』は、そのあとに骨の一片までのこらず実験に使われ、最後はサンプルと廃棄物になった。
「ワシは、とうとう『彼女』の本当の名前さえ知らぬままに終わりました。
どん底に落とされましたねえ。
己から死を選ぶということでさえ、ワシには過ぎた自由でした。
この生き地獄は、体験しなければ分かりますまい。」
今が昼なのか夜なのか、生きているのか、死んでいるのかさえ朦朧(もうろう)としてきたダグラスの耳に、ついにその情報が飛び込む。
その日、ダグラスの実験を行っていた研究員が、別室でいままさに虎の標本を作るために彼が殺されるところだ、ということを漏らしたのである。
「そのとき、ワシは混濁としておりましたから、まさかその言葉がワシの意思に届くとは思いもよらなかったのでしょう。
だが、その言葉はワシを一瞬にして覚醒させた。
絶望のまま死んだ『彼女』のため、己の復讐のため、なによりも、親としてなにもできなかったふがいなさに、ワシは突き動かされ、拘束具を引きちぎっりました。
研究員の体を八つ裂きにし、警備やほかの研究員たちを血祭りにあげ、危機一髪、彼が殺されることを防ぎ、逃がすことができました。
だが、ワシの長年の怒りはそれでは収まりませんでした。
ワシはもはや歯止めのきかなくなった獣となり、研究所内を手当たり次第に荒らし回った。
研究員も、実験体にされていた他の軍人たちも、研究所のすぐ隣の寮に住んでいたその研究員の家族たちも皆殺しにさせていただきました。
例の研究所の大量死の真実はこの通りなのですよ。
あの虎は、助けた後ワシが死んだと勘違いし、名前をもたないのもあって、自分が虎であると己に思い込ませたのでしょう。
だが、ワシはこの通り、死んでいなかった。」
研究所内を荒らし回ったダグラスは、最後に自分も外に逃れようと外に出たが、その途中で力尽き、倒れてしまった。
その倒れる様子を、音楽家のエルダーは目撃していたのだ。
ダグラスは、軍の記録上では研究所の警備の軍人であったので、倒れていてもさほど怪しまれずに、あとから来た軍人たちに救出された。
取り調べでも怪しまれることもなく、体調がととのったダグラスはウェストシティー勤務となる。
「だが、裏の住人には、ワシが何者かわかったようでね。
ワシがウェストシティーに勤務するようになっていくらかたった後、ワシに万雷の白虎として錬金術師暗殺の裏の依頼が舞い込んでくるようになった。
ワシは恐怖したが、裏にもコネクションができれば、息子を探すのに有利になると考えた。
それからは、裏と表の仕事をこなす毎日。
ワシが犯人の事件を己が調べるというような滑稽なことも多少ありましたな。」
ダグラスの裏の名前も有名になってきたとき、表のダグラスは一人の殺し屋の捜査を担当することとなる。
それが、息子、『虎』であった。
「追っているものが、どうして息子だといえましょう。
ワシは息子がまっとうな道を歩いていると、淡い期待をもっていた。
しかし、事実は残酷なもので所詮、蛙の子は蛙だった。
ワシはなんとしても、あの子だけは。
錬金術師専門の殺し屋であっても、この手で粛正する、そう心に決めたのです。
そして今日、その願いを、ワシは叶えることができた。
・・・・・・・・・・・・・・・・あの子は、人間をやめさせられた両親の間から、無理な実験によって産まれ、度重なる実験を徹底的に施されていた。
鋼の錬金術師も見たでしょう、あの子の懐からこぼれでた薬瓶を。
あれはこれ以上のものがないといわれるほど強力な、精神安定剤です。
あの子はもう、とうに、壊れていた。
ワシができる最良の処置は、殺してやることだけだったのですよ。」
第40話
ダグラスは、これ以上話すことはないとばかりに口を閉じ、じっとエドを見て・・・、ほんの少したじろぐ。
エドのほほを流れる、一筋の涙に気がついたからだ。
「やっぱり、俺は戦えない。
戦うなんてできないよ!
ダグラス中尉、俺は、そんなあんたとは、戦うことができないよ!
虚しすぎる、虚しすぎるじゃないか!」
ダグラスは、少しばかりため息をつき、急に目をつり上げた。
「だが、それがワシのもう一つの仕事なのですよ、鋼の錬金術師。
あなたがワシと戦いたくないというのならば、結構。
ワシが勝手にあなたを殺すだけだ。
ワシも仕事が楽で助かります。」
エドも、涙をぬぐい、ダグラスを強い目線で見た。
「投降してくれ、ダグラス中尉!
悪いようにはしない!」
エドの言葉をダグラスが笑う。
「ワシはその程度ではぬぐいきれぬほど汚れておるのですよ。
甘っちょろい考えはお捨てになることだ。
さあ、昔話はこのくらいにしておきましょうか、そろそろ援軍がきてもおかしくない頃合い、殺し合いをするなら今のうちでしょう。」
ダグラスが椅子から立ち上がったのを見て、エドも残念そうに立ち上がった。
「俺たちは、虎を、あんたの息子を捜索している間、ほとんど一緒に行動していた。
あんたは、いつの間に俺たちの殺しの依頼を受けていたんだ?」
ダグラスが笑う。
「いつかの朝食の時、ワシが新聞を読んでいた、あのときに。
ワシへの依頼は、新聞の広告に特定のマークと連絡先を掲載して行うのです。
そのマークを認めて、ワシが先方に連絡を入れる。
そういう連絡方法をとっているのですよ。
そのときから、あなた方はワシの獲物になった。」
エドは唇を浅く噛む。
「なら、なんですぐに殺さなかったんだ。
チャンスはいっくらでもあっただろうに。」
ダグラスが肩をすくめる。
「あのときの、最優先事項は息子の探索でしたからな。
あなた方は、いわば2の次だったのです。
これぐらいで、疑問も晴れたでしょう。
覚悟するなら、今のうちですな。」
エドはふっと息を吐いてから、真剣な顔つきで拳を構えた。
「絶対、ダグラス中尉を大佐の目の前につきだして、きちんと裁判をかけさせてやるから、覚悟しやがれ!」
ダグラスも楽しそうに身構える。
「その覚悟、上等!参る!」
×××××
廃ビルにたどり着いたハボックたちは、陥没の下敷きになっている軍人を救出する班と、エドの救出にビルに踏み込む班に分かれた。
ハボックはアルをつれてビルに近づき、暗く不気味な建物を見上げた。
「まさかダグラス中尉が、目指す殺し屋だったとはね。
恐れ入るぜ。
かならず大将は助け出すから、道案内頼むぜ、アル!」
アルも、頷く。
「はい、お願いします。
兄さん、待っててね!今行くから!」
アルたちが踏み込もうとした瞬間、廃ビルの建物が揺れるほどの爆発と閃光がほとばしり、夜道を昼のごとく照らし出した。
×××××
爆風に吹き飛ばされたエドは、その勢いに逆らわずに風に乗って飛んだ。
ダグラスが隠し持っていた小型爆弾が爆発したのである。
地下通路を倒壊させた爆弾と同型だと思われたが、先ほどまで座っていた応接セットが盾になり、エド自身はさほどダメージを受けずにすんでいた。
だが、あたりは爆煙に包まれて視界が効かず、爆音のせいで耳もほとんど麻痺していた。
エドはとにかくダグラスと距離をとろうと、転がり出ることができた廊下を走った。
「逃がさん!」
ダグラスが煙を引き裂いて、エドの眼前に現れた。
「!」
ダグラスが繰り出した鋼の腕の一撃を、床に転がるようにして避け、全身のバネを総動員して瞬時に立ち上がると、今さっきまで頭があった場所にダグラスの拳が降ってきた
エドは床を殴りつけたダグラスの脇腹を狙って、オートメイルの手の甲に生み出した刃で切りつけるが、体毛を浅く切り裂いただけで、ダグラスの骨肉には到達しなかった。
「早い、上に、強い!」
エドはダグラスの動きの良さにただ感心してしまった。
ダグラスが体をひねって、エドから一瞬離れる。
「それはお互いですよ、鋼の錬金術師、いい動きだ!」
ダグラスは愉快そうにいい、着地した足を瞬間的に踏み切ってエドの方に突っ込んできた。
エドは迎え撃ち切れないと判断して、自ら爆煙に飛び込んで身を隠す。
だが、ダグラスには野生の勘と獣の能力が備わっている。
煙ごときでは、たいした時間稼ぎにはならない。
煙の向こうから、バチッという錬成光がはじける。
ダグラスはそれでも煙の中に飛び込む!
「そこだ!」
ダグラスが吠えて、エドのにおいがする場所に拳をたたきつける。
が、そこにはエドはおらず、ダグラスの拳はエドの上着を貫いたに過ぎなかった。
そして、その足下には床がない。
「!?」
さすがのダグラスも、これには仰天したようだ。
3階から2階にダグラスの巨体が落下する。
「そこだ!」
先に下の階に降りて構えていたエドが、ダグラスに向けて大砲を発射した!
「く!」
空中ではさすがのダグラスも、意のままに体を動かすことは難しい。
エドが発射した大砲の弾が、先ほど『虎』に刺された傷口を直撃した。
「ぐぉ!」
ダグラスは苦々しく悲鳴を上げながら、ずんっと音を立てて、手をついて着地した。
弾が直撃したダグラスの傷口から、再び出血が始まった。
「さすが、鋼の錬金術師。
口で何といおうと、油断ならん。」
ダグラスは闇色に笑って、すぐに立ち上がる。
脇腹の出血は、筋肉の割れ目に沿ってたらたらと流れた。
「わざわざ暗闇に身を投じるなど、死に急ぐようなものですがな。
虎のワシには闇などなきがごとし。
あなたがどこにいるかも、手に取るようにわかりますよ。」
「承知の上だ、そんなん!」
エドは叫び、両手を床についた。
するととたんに激しい錬成光があたりを照らし出し、闇を追い払いながらエドが思い描いたものを形作る。
天井や壁が無数の錐のようにとがり、雨あられとダグラスに襲いかかった。
ダグラスは後ろに下がりながら、襲い来る錐の先端をへし折っていく。
エドはその隙に、自分の脇に3階へと続く階段を錬成して、いっきに駆け上がった。
ダグラスもエドを追って突進すると、たった2歩で階段を駆け上がる。
見れば、3階から4階に上がるための階段も錬成してあり、エドはそこを上っていた。
「げ、もうきた!」
エドは振り向いて毒つくいた。
ダグラスは無防備な背中をおそおうと、間を詰める。
だが、ダグラスの手が届く寸前にエドは階段を上りきり、床を転がって攻撃から逃れた。
「うは!間一髪!」
エドが振り向きながらぼやく。
「どこまで逃げられますかな?
鋼の錬金術師。」
ダグラスは、余裕のあるゆっくりとした足取りでエドが錬成した階段を上ってきた。
エドは慌てて身構える。
そこはエドたちがまんじりとしない気持ちでダグラスの帰りをまっていたあの廊下で、ろうそくの明かりが今もなお、ぼんやりと廊下を照らしていた。
脇には未だにハルトの遺体が寝かされたままである。
「なにか勝算があるのかと思えば、ただ単に明かりを求めてきただけですかな?」
エドはダグラスの言葉に反応を見せず、じっとダグラスの動きを注視しているばかりだ。
エドの背後には、さきほどアルを行かせるために廊下を分けた壁が立ちふさがり、排水の陣状態だ。
錬成すれば容易に抜けられるが、その隙をダグラスが与えてくれるとは思えない。
「もとの場所で死にたいと?
それとも、自分もここから下に飛び降りてみますかな?
ふふふふ、素直に飛び降りるだけならば、ワシのほうが有利ですな。
場合によっては、空中であなたを仕留められる。」
「そんなあぶねえ真似するかよ。」
エドがぱっと脇の部屋に入ろうと横に飛んだ。
ダグラスはさせじとエドの進行方向を狙う。
エドがとっさに壁に手をつき、頭を低くしたとたん、エドの背後から剣のような突起が出現し、ダグラスを襲う。
「ぬお!」
ダグラスはオートメイルでそのことごとくを打ち払う。
エドはその隙をついてダグラスの脇をすり抜け、『虎』とダグラスが開けた穴から室内に入り、すぐに穴をふさいだ。
ダグラスは体力と腕力にものをいわせて、エドが錬成したばかりの壁を打ち砕いて室内に踏み込む。
するとそこには、またもや上に上がる階段が出現していた。
エドのにおいと気配は、階段の上である。
「どこまでお逃げになるおつもりなのか。
逃げてばかりでは、ワシを捕まえることなど、夢また夢であるだろうに。」
ダグラスは誰に聞かせることもない言葉をつぶやいてから、エドの誘いに乗って階段を駆け上がる。
一方でエドは息を切らせながらさらに上に上がる階段を錬成して、それを上っていた。
上へ上へと上っていくのがエドの考えと理解したダグラスは、もう急ぐことはせず、歩みを緩くしてエドが錬成した階段を上った。
上への階段が終わったのは、屋上に出たときであった。
屋上は涼しい夜風が吹き抜け、夜空には太りかけの月が輝いている。
真っ暗な室内に比べると、驚くほど明るく、そして神秘的でさえあった。
もともと人が上ってくることを考えた作りでない屋上は、周りをぐるりと人の腰の高さほどの縁が申し訳程度にあるだけで、身を乗り出せば落ちてしまいそうである。
ビルの中心には、吹き抜けの穴があいており、上から見るとビル全体が四角いバームクーヘンのようであった。
ダグラスがゆっくりと階段を上りきると、少し離れた場所にエドがたっていた。
「鬼ごっこはこれで終わりですかな、鋼の錬金術師。
もう逃げるところもありますまい。」
ダグラスが夜風に吹かれながらエドに言う。
エドは、緊張した顔で、ふてぶてしく笑った。
「そうだな、ここまで来るのに上りつかれちまったよ。
もう階段はこりごりだな。」
エドは呼吸を整えるかのように、大きく深呼吸をしてから、身構える。
「ここなら広いからな、存分に戦える。
決着をつけようぜ。」
ダグラスも、身構える。
その様子はエドよりもダグラスの方が慎重だった。
エドがわざわざ危険を押してまでここまで上ってきた理由があるはずだと警戒しているのだ。
今回はエドの方が先に攻め込んだ。
屋上の床に手を当てて、ダグラスの周りを取り囲む檻を錬成する。
ダグラスは足下に錬成光が現れた時点で大きく後退し、立ち上がった檻の中には収まらない。
逆に、ダグラスは立ち上がる檻の天井に足をかけ、その勢いを利用して大きく跳躍した。
背後に月を背負い、獲物を狙って笑う白虎の姿は、迫力のある絵画のようで、美しくさえある。
エドは飛び込んでくるダグラスに向かって、巨大なこぶしをいくつも錬成した。
突っ込んでくるタイミングを見計らい、ダグラスの体めがけて一斉に殴りつける。
ダグラスは空中で一回転しながらの強力な蹴りで拳を向かい撃ち、そのことごとくを破砕して着地した。
「まだまだ!」
エドはダグラスの周りの床を、鋭い棘をもつ茨のように錬成した。
そのコンクリートでできた茨の鞭は、重たげに、しかし、しなやかにうねり、ダグラスをたたきつぶそうとぶつかっていく。
ダグラスは突進してきた茨の鞭を両手でつかむと、筋肉を隆起させて勢いよく途中で真っ二つに折った。
錬成され形を保っていた先端部の方は、エネルギー供給が途絶え、ダグラスの足下で粉々に砕け散る。
力を入れたせいか、ダグラスの脇腹の出血が増えたように見えたが、本人はそれで怯みはしなかった。
「ぐははははは、鋼の錬金術師、ワシを殺す気でかかってこないと、かすり傷一つつけることはできませぬぞ。」
ダグラスはエドが次の錬成をする前に、エドの至近距離まで一気に間を詰めた。
エドはいきなり眼前に迫ったダグラスの巨体に顔を引きつらせながら、ダグラスがつきだしてきた拳をぎりぎりでよける。
ダグラスの拳圧だけで、エドの頬の皮が浅く裂けたほどの威力のある一撃であった。
「く!」
エドは体を回転させてダグラスの背後をとる。
すかさず拳を繰り出したが、一瞬目の前をよぎったダグラスの傷口を見て勢いが緩み、いまいち会心の一撃ではない。
体を回しながら放たれたダグラスの拳が、エドの脇腹を突いた。
「っ!!」
エドは苦痛に顔をゆがめながら横様に引き飛ばされ、屋上の床を盛大に転がった。
十メートルほど床にたたきつけられ、ようやく回転が止まる。
あと三メートルほど余計に転がれば、中央の吹き抜けに落ちるところだったので、危機一髪であった。
「ぐ、くそ。」
エドが慌てて体を起こすと、目の前にダグラスが立っていた。
エドの眼前に、ダグラスの手が迫る。
エドはとっさに両手を合わせ、床に音が鳴るほど打ち付けた。
ごっ!
「ぬ!?」
瞬く間に足下に走った錬成光のあと、床が大きくひび割れた。
五メートル四方ほどのコンクリートの塊は、エドとダグラスを乗せたまま吹き抜け側に大きくかしぎ、ぎりぎりの縁で危なっかしげに揺れ動く。
「このままでは貴方も一緒に落ちますよ、鋼の錬金術師。」
ダグラスはさほどの慌てぶりも見せずにエドに言った。
「アルフォンス君や灰ネズミが落下した高さより高い。
ここから落ちれば、下にクッションがあっても無事では済まされないでしょうな。」
ダグラスと同じコンクリートの塊の上、緊張した面持ちではあるものの、エドは挑戦する笑顔を浮かべていた。
「それは、ダグラス中尉も同じことだ。
たとえ頑丈なキメラとはいえ、生き物。
高いところから転落すれば、それ相当なダメージを受ける。」
ダグラスはやれやれと首を振る。
「落ちるのはあなただけだ、鋼の錬金術師!」
ダグラスが、不安定なコンクリートの塊を思い切り踏み切って飛び上がった。
吹き抜けを飛び越せるほどの大跳躍である。
とたん、塊がバランスを崩し、エドを乗せたままぐらりと揺れる。
「うりゃあああああああ!」
だが、それを見越していたエドが再び激しい錬成光を瞬かせた。
床を駆け抜けた光は、吹き抜けの反対側まで到達し、そこから蛇のようにのたうつコンクリートの柱を錬成した。
ダグラスの背後に当たる場所からである。
「な!?」
まさか背後から錬成物が襲いかかってくるとは思わなかったダグラスは、空中で体制を整えることができない。
ダグラスめがけて伸びたコンクリートの先端が左右に大きく分かれ、ダグラスの両方の足首をとらえた。
「ぐお!?」
空中でバランスを崩したダグラスが、そのまま真っ逆さまに吹き抜けの中に落ちそうになる。
エドは続けて錬成光を三方向から発生させ、吹き抜けの中央目指して、人一人分の幅しかない橋を伸ばした。
伸びた細い床は中央部で合体し、そこへダグラスの巨体が落ちてきた。
「だは、うまくいった!」
エドは内心成功するか冷や冷やしていたようで、ダグラスが無事に橋の上に落ちたとき、思わずあごに流れた汗をぬぐった。
「ぬ、う。」
細い橋の中央部にたたきつけられたダグラスの右の足首にはしつこいまでに足かせがまとわりつき、衝撃で飛びちったダグラスの血が深い底を目指して落ちていく。
さすがのダグラスも少し苦しそうである。
エドが錬成した三方向から伸びている橋には欄干がなく、足を踏み外せば真っ逆さまに落ちてしまう。
ダグラスはそれでも何とか立ち上がろうと、狭い足場でもがく。
「はぁ、はぁ、チェックメイトだ、ダグラス中尉!
もう、やめにしよう。
俺がこの橋を落とせば中尉の命はない。
俺はそんなことしたくないけどな。
おとなしく投降してくれ!」
エドが橋の根元に立ち、ダグラスに呼びかける。
だが、ダグラスの獣の瞳は、爛々と輝くばかりであった。
「は、なんの、これしき!」
ダグラスが体に力を入れ、ぐっと体を起こす。
「ごふ!」
そのとたん、ダグラスがむせて、血を吐いた。
オートメイルの接続部や、浮き出た血管からも出血しており、それは一目でエドの攻撃のせいだけではないことが見て取れた。
「え!?
ダグラス中尉!?」
エドが慌てて叫んだ。
「ぐ、ううううむ、はぁ、はぁ、に言ったでしょう、鋼の錬金術師。
ワシらのような者・・・、キメラは不安定な生物であるぶん寿命が短いのですよ。
ワシは今年でもう38になる。
体が崩壊を始めてるのですな。
し、死ぬ前に息子の決着をつけたいとおもうのも、自然なことです。」
ダグラスから、血液が流れ、橋の表面を汚し、流れとなって下へ下へと流れ落ちていく。
「はぁ、はぁ、はぁ、だが、まだ、ワシは死ぬものか。
降参も、投降も。
獣のワシには似合わない。」
ダグラスは拳で足かせを砕き、巨体を細い橋の上に立ち上がらせた。
「この程度で、ワシを追い詰めたと?
ワシは万雷の実験を生き抜いた白虎、侮ってもらっては困る!」
ダグラスが月明かりに照らされながら、朗々と言い放った。
エドもダグラスの次の攻撃に備えて、身構える。
ダグラスの口元から流れる赤い筋が、月明かりの下で生々しい。
ダグラスがエドに向かって踏み出した時、不意にダグラスの歩みが止まった。
エドがいったい何事かと顔を上げたとたん、鋭い発砲音が鼓膜をたたいた。
ダグラスが驚きの表情で下をのぞき込む。
が、相手を確認するまもなく、次弾が次々とダグラスの体を貫いた。
「ぐ あぁ ぁ ぁ!」
ダグラスが驚きながら、体を貫通した弾から与えられた激痛に悲鳴を上げる。
ダグラスの体が大きく揺らぎ、体を支えていた足が橋を踏み外した。
「だ、ダグラス中尉!」
エドが吹き抜けの中に落下していくダグラスを追いかけるように、吹き抜けの縁に身を乗り出した。
「!」
見れば、二階ほど下の階にライフルを構えた見知った顔が見えた。
ところどころ血を滴らせながらも、ライフルを構えていたのは、リザ・ホークアイであった。
いっぽう、真っ逆さまに落下していたダグラスの体は、不意に途中の階のあたりで受け止められていた。
「!」
ダグラスが驚いて見渡せば、三階のあたりにネットが錬成されており、中庭に面した廊下にずらりと並んだ軍人が銃を突きつけているのが見えた。
そのなかには、アルと、ハボックの姿もある。
「動くな。
動けば、即、射殺する。」
ハボックが怒りをにじませながら冷たく言い放つ。
ダグラスは頭上を見上げ、自分をのぞき込んでいるエドを認めた。
「なるほど・・・・だから屋上に。
完全にワシの負け、ということですな。」
第41話
東方軍病院の高官用の病室には、何人かの人間が集まっていた。
集まっているのは、エド、アル、ハボック、ヒューズの四人、この部屋に入院しているロイは、ベッドに横になっている状態である。
ロイは各所の骨折、打撲、裂傷で、しばらく入院だという。
また、ロイと同じように地下通路の陥没に巻き込まれた軍人たちも、同じように入院していた。
手術が終わって一息ついたロイのところに、報告に来たところである。
一通りの報告を受けてから、ロイはエドに謝った。
「すまなかったな、鋼の。
まさか犯人がダグラス中尉だとは思いもよらなかった。」
エドは首を振る。
「誰がダグラス中尉が犯人だって予測できたよ?
大佐のせいじゃないさ。」
エドもそこかしこに絆創膏やら包帯を巻いていたが、ロイよりはよほど軽傷だ。
「兄さんが無事で本当によかったよ。
一時はもう会えないかと思ったもん。」
エドは悪い悪いとアルに謝る。
「それにしても、特に打ち合わせもせずによくダグラスを捕まえられたものだ。
私は一時射殺も考えたのだが。」
「そこのところは、アルとハボック少尉が気を利かせてくれてな。
俺がダグラス中尉と中庭の吹き抜けの縁で戦っているのを見て、ネットを張って待機してくれてたんだ。
救出されてすぐの中尉が来てくれなかったら、捕まえることは難しかったと思う。」
なるほど、とロイは納得したように頷いた。
「ところで、そのダグラスは今後どうなるのだ?」
「今のところ、ダグラス中尉は司令部でおとなしくしている。
このまま、軍法会議所が引き取ってセントラルに護送するそうだ。
世に名だたる殺し屋だからな。
おそらく銃殺刑になるだろう。」
ヒューズがいうと、エドとアルがうつむいた。
「どうにかならないのか?
ヒューズ中佐。
ダグラス中尉にも、中尉なりの理由があるんだ。」
エドはヒューズに頼み込んだが、ヒューズは残念そうに首を振る。
「申し訳ないが、エド。
ダグラス中尉は罪を犯しすぎた。
まだ会議にかけられてはいないが、ほぼ決定とみて間違いないだろう。
ここ何日か一緒に過ごしたおまえたちにはつらいかもしれないが、俺の一存じゃどうしようもないんだよ。」
「そうか・・・。」
エドはため息をつきそうな声で言いながらうつむく。
「とにかく、これでもう、君たちが旅に出ることを引き留める理由はなくなった。
貴重な時間を費やせてしまって悪かったね。
気分転換もかねて、また方々を当たってみたらどうかね。」
ロイがベッドの上からいうと、エドは少し考えてから頷く。
「もとから、俺たちはそのつもりだ。
ダグラス中尉の件が解決したってんなら、俺たちは旅にでるよ。」
エドとアルは、それからしばらく二言三言ロイたちと話してから、先に部屋を辞していった。
本来の彼らの生活である、体を取り戻すための旅に戻るために。
部屋に残された大人たちは、元気のない背中を見送って、申し訳ないような表情になる。
「やるせねえなあ。
今回、エドたちに無理させて、重荷を乗せちまった。
大人として情けないぜ。」
ヒューズは言い、傍らの椅子を引き寄せて座った。
「私が使いに出した子供たちと、灰ネズミはどうなったんだ?」
ロイはふと疑問に思ったことをハボックに訪ねた。
「ああ、あの子たちが俺たちに声をかけてくれなきゃ、手遅れになるところでしたよ。
あの双子と怪我した兄ちゃんは入院してます。
灰ネズミって男は、いつの間にか姿くらましたんで、捜索中です。」
ロイはそうか、と興味をなくしたようなため息をついた。
「灰ネズミという男には、私がだいぶ世話になった。
もし、おまえがもう一度見かけたなら、一度だけ見逃してやってくれ。」
ハボックは少し驚いたが、深くは訪ねず、頷くだけにとどめた。
「それよりも、ヒューズ。」
話しかけられてヒューズはロイを見た。
「なによ?」
「私の思い過ごしならよいのだが・・・・。
この事件、まだ裏がある気がする。
セントラルまでの道中、くれぐれも頼んだぞ。」
ヒューズはロイの真剣なまなざしを、はっきりと見つめ返した。
「俺も、そんな気がしてならねえ。
何もないと、いいんだがな・・・。」
第42話
視察が終わった軍法会議所の一団と一緒に、ダグラスはセントラルに護送されることとなった。
軍法会議所のトラックの一台を護送用に回し、目隠しと足枷がつけられたダグラスが荷台に乗せられる。
ダグラスのオートメイルは外されてしまったので、手枷はない。
護送用にまわしたトラックには、警護が二人、運転手が一人、ダグラスのほかに乗っていた。
セントラルからイーストシティの間は、基本的にとても整備された道が続くのだが、その途中山道を進まなければならない場所がある。
ガタゴトと車に揺られながら、ダグラスはあまりの揺れのひどさに文句を言いたくなった。
『セントラルで軍法会議にかけられた後には、きっと銃殺刑が待っているにちがいない。』
だが、ダグラスにはもう一つ考えがあった。
軍法会議にかけられた時、生体研究所で行われていた非人道的な実験を暴露してやるのだ。
これは、少なからず軍内に波紋を呼ぶと、ダグラスは踏んでいた。
ガタガタと揺れていた車体が、一際大きく揺れた。
「ぬお!?」
揺れた、と思った瞬間、ダグラスの体は座っていた座席から浮き上がり、荷台の壁に体が打ち付けられた。
枷と目隠しのせいで、何がおこっているのかよくわからなかったが、とにかくトラックの車体は激しく揺れ動き、上下が何度も逆さまになりながら、ダグラスの体をシェイクした。
「じ、事故でも起こしたのか!?」
ようやく揺れが収まった時、ダグラスは体を引きずるようにして体制をなんとか立て直した。
いたるところに打ち付けて、頭も混乱している。
衝撃のせいか目隠しが半分ほどずれたので、周りを見渡してみると、ダグラスは天井の方に倒れていた。
どうやら乗っていたトラックが横転したようである。
「ぬ、うう。
いまいましい足枷だわい。
せめて腕があれば逃げられるものを。」
ダグラスは苦々しくぼやく。
体を強く打ち付けたせいで、体のあちこちからまた出血が始まったようだ。
ぬるりとぬれた感触がする。
動くことも、どうすることもできないダグラスが荷台で仕方なく大人しくしていると、どこからか静かなバイオリンの調べが聞こえてきた。
「ぬ!?」
ダグラスの体がビクッと反応した。
そのバイオリンの調べは、さわやかな旋律で、まるで初夏の風を思わせた。
しかし、それを耳にしたダグラスにとって、その旋律はまるで毒であった。
その音を耳にしたとたん吐き気がこみ上げ、吐いたものには血が含まれていた。
「ぐ、ぐああぁ!この、この音は!!」
バイオリンの旋律は、だんだんと近づいてくる。
そしてその音が近づくにつれ、ダグラスの苦しみは増していった。
ガンガンと打ち付けるような頭痛、こみ上げてくる吐き気。
胃の腑がひっくり返り、失った腕が痛んだ。
いつか東方司令部でも似たような症状が出たことがある。
しかし、今回はその何倍も強力な力で、ダグラスを犯した。
「やめろ!ぐううう!
その音を、やめろ!!!」
ダグラスが叫んだ瞬間、たしかにバイオリンの旋律は、はたっと止んだ。
ダグラスが苦しみから急に解放されて驚いていると、荷台の扉がゆっくりと開かれ、外からの明かりが荷台の中に差し込んだ。
そして、荷台を開けた人物が、中をのぞき込んでいた。
その姿を見た瞬間、ダグラスは目を見開いた。
「び、ビクター・エルガー・・・。」
そこにたっていたのは、一人の音楽家だった。
その手にはバイオリンと弓を持っている。
そして、その目は、その顔は。
狂喜を宿していた。
「やあ、また会えましたね。
ダグラス中尉。」
怖いほどに、満面の笑みを浮かべる。
「あなたにあいたくてここまできてしまいましたよ。」
ビクターが言った言葉に、抑揚はない。
ダグラスの野生の勘が、危険信号をひっきりなしに発していた。
誰と真向かっても起こらなかった恐怖が、はじめてダグラスを支配する。
「なぜ、おまえが、ここに?」
ダグラスが、震える声で訪ねた。
ビクターは笑う。
「復讐、です。」
ビクターは、つかつかとダグラスに歩み寄る。
「さがし、ましたよ。
生体研究所を荒らし回った犯人をね。
キメラのせいだとは思っていましたが、まさかあなただとは。
音楽家の情報網はたかがしれていますね。
私の愛しい妻を殺した犯人に、復讐したくてしたくてしたくて。
私はいままで生きてきたんです。
はははははは。」
ビクターは、笑いながらバイオリンをつま弾いた。
その美しい音が一つ奏でられるごとに、ダグラスの心臓は締め付けられるように痛んだ。
「ぐああぁ!」
ビクターがすっと弓を離すと、ダグラスは息をつくことができる。
「ふふふ、私と妻にはね、子供なんかいなかったんですよ。
あのロミーとかいう子供は、ただの私の小道具に過ぎなかった。
まあ、おかげで命拾いしたのも滑稽な話ですがね。
こうして、自然な事故に見せかけるためだけに飼っていたのですが、なかなか役立つペットでしたね。」
そうなのだ。
山道を走っていたさなかに突如飛び出したロミーを避けるため、軍法会議所の車列は大きくハンドルを切らざる得なくなった。
そして、そのさなかに手を加えられていたトラックのタイヤがパンクし、ダグラスを乗せた車だけが、谷底に転落したのである。
「東方司令部内におりましたから、手を加えるのはたいへんたやすい仕事でしたね。」
くすくすとビクターは笑う。
「さて、あんまり長いしていると救助が来てしまいますからね、時間は有効的に使わなければ。
私はできるだけ長く、あなたの悲鳴を聞いていたい。
始めまていきましょうか。」
ビクターは言い、バイオリンを構えた。
「やめろ!それを弾くな!」
ダグラスが叫ぶが、無情にもバイオリンは優雅な旋律を奏でだした。
「がああああああああああああああああああああああああああああああ!」
ダグラスが、音をかき消そうとでもするかのように、頭を振り乱して絶叫するが、バイオリンの透明な音はびくともしない。
また、金属製のトラックの荷台であるため、反響した音がよけいにダグラスを傷つける。
半狂乱のようにもだえ苦しむダグラスを見て、ビクターはこの上なく笑った。
「はははははははは、苦しむがいい。ダグラス!
いや、低俗な合成獣よ!
あの研究所で作られたキメラにはすべて、制御のために組み込んだ旋律があるんですよ。
おまえたちが暴走した時に制御するための、毒の旋律として、私の曲がね。
あのとき!私が研究所にいさえすれば!
おまえはこの旋律で死んでいた!
彼女は助かった!
なのに!
おまえは、よりによって!
私が研究所にいないという最悪の時に暴走した!
この罪が!この気持ちが、おまえにわかるか!
この卑しい獣があああああああああああああああああああああ!」
より激しく、より優美に奏でられる、ダグラスにとっての最悪の毒が、ダグラスの体の崩壊を助長する。
体の至る所から滝のようにダグラスは出血し、その両目からは血の涙を流した。
骨は始終砕け、絶叫は咆哮である。
「ぐがあああああああ!」
ダグラスが仰け反って一際すさまじい叫び声を上げる。
そして、その絶叫が不意に途切れ、ダグラスは口から泡を吹き、ついに仰向けに音を立てながら倒れた。
倒れた場所にはすぐに血の池が広がり、ビクターの足下にまで広がる。
「は、ははははははははは、やってやった。
あああああ、ついに仇がとれた、長年の夢が!」
ビクターは歓喜のあまり涙を流して叫んだ。
ビクターとしては、いつまでもここにいてダグラスの死体をもてあそびたかったが、救助にくる軍人に目撃されては都合が悪い。
ここはそうそうに退散すべきであろう。
「はははは、護衛も運転手も死んで誰も生存者がいないのに、軍人もご苦労なことだ。」
ビクターが高笑いをあげながら、トラックの荷台から降りる。
「はははははははははは!今日は最高の日だ!」
ビクターの肩が後ろからつかまれた。
強引に引き倒され、背中がぶつかる。
驚いたビクターの見開かれた目に写ったのは。
白目をむいたダグラスが、自分ののどに食らいつこうとする姿だった。
ダグラスの牙がビクターの喉に深々と食い込む。
「げぼっ!」
噴水のように吹き出した血液が、辺りを容赦なく汚す。
ビクター何か言いたげに口を開閉したが、結局何も叫ぶこともなく死んだ。
ダグラスの顎からも、少しずつ、力が抜けていき。
そして。
万雷の白虎
完