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万雷の白虎

第30話


「国立生体研究所!?」

まさか今その名前をきくと思わなかったエドは、どう話がつながっているのか一瞬わからなかった。

だが、すぐに話がつながった。

「国立生体研究所で人体実験なんか聞いたことがない。

きっと裏の実験なんだ。

それが、あの研究所の暗部だとして・・・。

人体の改造実験、その、暴走?

あの国立生体研究所のもみ消された事故って・・・!

まさか、虎、おまえだったのか!?」

エドがほとんど当てずっぽうの、しかし、ほかに考えられない答えを叫んだ。

この虎の能力と残忍さを考えれば、研究所の人間を死滅させることなど簡単に違いない。

「くっはははははははははははははははは、ご名答ぉ!

なかなか頭のいいガキだ。

そう、俺のことを殺そうとしたんでなあぁ、俺の方がぶち殺してやったのよぉぉぉぉ。

くははははは、あははははは、それからは、復讐、復讐、復讐だぁぁぁぁ!

生まれてこの方俺に痛みしか与えなかった錬金術師に!

今度は俺が、痛みを与えてやる番ってものだろうがぁぁぁ!

あの研究所の生き残りが東方(こっち)にいるって聞いたんでなぁぁぁ、わざわぁざ、西から来たって訳だぁ!

残念ながら、まだ、殺せてねえのが、口惜しくてたまらんがなあああ!」

虎は、狂った目で笑い、鋭い牙の間から唾液をしたたらせた。

まさに、獲物を前にした獣である。

「俺はぁ、殺しと痛みしか知らんのよ。

人間らしく振る舞うのも金がかかるんでなぁ、それで殺し屋なんてやってたが、本当のところ、俺は人間が血祭りにできれば何だっていい!

とくに、錬金術師をな。

依頼があろうとなかろうと、俺は殺すだけ。

俺に関わって、未だに長生きしているのは、そこのダグラスの旦那くらいだ。

ダグラスの旦那は強い、だから、俺はお楽しみにとっておいたんだぁ、そう簡単にくたばってもらっちゃああああ、困るんだよなぁぁっぁぁ!」

虎は、着ていた上等なスーツを爪で思い切り引き裂いた。

その瞬間、上着に入っていたのだろう、強力な精神安定剤の薬瓶が落ちて、音をたてて転がっていってしまった。

薬瓶を見たダグラスは、それを知っていたのだろう、かすかにではあるが哀れみのような、悲しみのような表情を浮かべた。

「おしゃべりは終わりだ、ダグラスの旦那と鎧とガキんちょ!

おとなしく俺のえさにはなるなよ。

もっともっともっともっと!

狩りを楽しませてくれよぉぉぉぉぉ!」

虎が叫びながら三人に向かって突進した。

三人と虎の間には、先ほど錬成した柱が立ちふさがっていたが、突っ込んできた虎はその太い柱を意図もたやすく殴り倒した。

「錬成で作った即席の柱とはいえ、コンクリートだぞ!?

時間かせぎにもならんのかい!」」

エドが悲鳴を上げながら、両手で床をなでた。

するとそこから太い鎖が錬成され、虎の胴体に絡みつく!

「やああ!」

アルが気合いとともに錬成した壁が波を打つように突進して虎の体を叩いた。

「ぐ!」

さすがにどんなに強化されようと、たたかれれば痛いのだろう。

虎は腹に壁の一撃を受けてのけぞった。

だが、

「くははは、この虎に!

そんなちゃっちい攻撃が効くかよぉ!」

虎は高らかに、そして下品に笑うと、太い腕で鎖と壁をなぎ払った。

「なんてやつだ!」

エドは休まず錬成を続ける。

窓ガラスを錬成し、虎に刃の雨を降らせる。

そのすきに、アルは弱ったダグラスを後退させようとする。

だが、もともとダグラスと遊びたい虎はそれを許さない。

「逃げるな、ダグラスの旦那!」

全身にエドの降らせた雨を浴び、浅く切り裂かれて血まみれになりながらも、虎はエドとアルの頭を飛び越すほどの跳躍を見せた。

どっと音を立てながらダグラスの目の前に着地し、あっという間に距離を詰める。

「俺のナイフ、持ってきてくれたんだな!ありがとよう!」

虎は目をぎらぎらと輝かせてダグラスの腹に刺さったままだったナイフに瞬時に手を伸ばした。

「やめろ!」

ダグラスの背筋に冷たい汗がしたたる。

虎はナイフを一度中にぐっと刺してから、ひねって引き抜いた。

引き抜いた瞬間、ナイフという栓で止められていた血液が、ひねってに広げられた穴から勢いよく吹き出した。

「ぐおぉ!」

ダグラスは悲鳴を上げながらも、虎が次に使う前にナイフを払い、その手から凶器を紛失させた。

「っさすが、ダグラスの旦那だぁ!」

目を輝かせた虎に、ダグラスは2発目の拳をお見舞いした。

鋼鉄の拳は虎の左腕の上腕の骨を砕き割る。

「ぎゃああ!」

虎はまさか、そこまで手ひどい反撃に遭うとは思っていなかったのか、痛みに悲鳴を上げた。

「く、ぐぅぅぅ。」

だが、ダグラスもその一撃で力つきてしまったのか、血を滴らせながらゆっくりと体制を崩す。

「やっぱりさすが、旦那だ!」

怒りを燃え上がらせた虎が、ダグラスにとどめをさそうと爪を伸ばす。

「させねえ!」

エドが錬成した槍が、ダグラスの足下から虎に向かって突撃した。

一瞬、ダグラスを殺せると恍惚の表情を浮かべた虎の脇腹をその槍が通り過ぎる。

「ぐあああうううううぅぅぅ!」

深くはないが、それでも表面を貫通した。

虎はダグラスから飛び退き、エドをにらむ。

「そんなに殺してほしいか!

ガキ!」

虎がエドに狙いを定める。

「殺されるのはおまえだこの、化け物やろう!」

勇ましく叫ばれた台詞、しかし叫んだのはエドではなかった。

虎の背後に飛び込んだのは、先ほどまでダグラスの脇腹を貫いていたナイフを両手に握りしめて、虎の首筋に突き刺そうとしているハルトだった。

興奮していて、ハルトの接近にまるで気がついていなかった虎は、はっとして目を見開く。

そして、笑った。




第31話

「探したぜぇぇぇ、ガキいいいいいい!」

虎は折れた左手を振り上げて、迫っていたナイフを受け止め、無事な右の爪でハルトの腹を一瞬にしてかっさばいた。

「か、はぁ!」

ハルトは、一瞬にして自分がどうなったのか理解できず、飛びかかった勢いのまま、カーペットの上を血で模様を描きながら転がった。

「ハルト!」

エドはなぜここにハルトがいるのかわからずに、悲鳴の代わりに名前を呼んだ。

ハルトが窓際まで転がって止まると、すぐにすさまじい出血でどす黒くカーペットが染まった。

虎が、転がっていったハルトのところまで歩いて行き、虫の息のハルトを足蹴にする。

「はははははははは、こいつの方から態々殺されに出てくるとは、痛み入るねえ。」

虎は腕に刺さったナイフを引き抜き、ハルトの頭の上でもてあそんだ。

「ははは、紹介しようか、ダグラスの旦那。

このガキと、もう一人弟がいただろう。

そいつらはな、あの研究所にいた研究員の子供だ。

俺に空気注射を打とうとした研究員の息子どもさ。

のこのこ探しにでも出たのが幸いして、仕留められずじまいでな。

探したぜええええ。

はははははは、殺された時の表情が、親にくりそつだ!

弟ともども、終わりだ、くっはははは、手間をかけてくれやがったな。」

ぐりぐりと、虎はハルトの体を踏む。

「てめえ、やめろ!」

エドが叫ぶが、飛びかかれるほどの隙がない。

エドとアルは情けなくも、動くことができなかった。

一瞬の時間の硬直、そこに飛び込んだのがフォートレスだった。

「そこの化け物!

ハルトから、その汚ねえ足を、どけやがれぇ!」

突進してくるフォートレスを見て、エドはぎょっとして叫んだ。

「来るなーっ!」

虎は向かってくるフォートレスを、興味がない目で見た。

「ああ、さっきのガキか。

手間かけた割に、役に立たなかったやつ。」

虎は、もてあそんでいたナイフを、フォートレスの方へ軽く投げた。

しかし、それは大変な殺気を伴った一撃で、フォートレスの肩を簡単に射貫く。

「うぎゃぁああ!」

もんどりうって床に転がったフォートレスに、虎はもう興味を失う。

その間に、いつの間にかハルトは息を引きとっていた。

「あ?ああ、死んだのか。

文句の一つでもいってやりたかったんだけどな。」

虎はいうと、やっとその足をハルトからどかした。

虎が踏みつけたところは、骨が折れておかしな方向に曲がっていた。

「なんて、なんてやつだ!」

エドはその様が信じられないように、呆然とつぶやいた。

虎はエドとアルを一瞥したが、ふっとダグラスの方に視線を向けた。

ダグラスは、腹からの出血のせいで、意識を保っているのがぎりぎりの状況である。

「ダグラスの旦那、旦那、旦那ぁ、もっと遊ぼうぜ!」

虎が勢いをつけて走り、ダグラスの体にタックルを仕掛ける。

その勢いはすさまじく、ダグラスの背後にあった壁さえたたき割り、なだれ込んだ部屋の調度品を一瞬にして破砕したほどだった。

「ダグラス中尉!」

「くそ!なんでダグラス中尉ばっかり・・・!」

エドはすぐにでもダグラスを助けに壁にできた穴に飛び込みたかったが、腕にナイフが深々と突き刺さったフォートレスをほおって置くわけにはいかない。

「アルは、ハルトを、俺はフォートレスの方を手当てする!」

「わかった!」

エドとアルはほとんど同時に行動に移した。

エドは自分のコートを破って、フォートレスの止血をする。

「フォートレス!せっかく助かったんだ、死ぬな!」

一方、ハルトのところに駆け寄ったアルは、彼が息を引き取っていることに気がつき、がっくりとうなだれた。

「まてぇぇ!今、なんつったぁぁぁぁぁぁ!」

絶叫がエドとアルの耳をつんざき、そちらの方向を見ると、息せき切って走ってきた男が見えた。

それはいつかエルダー邸を襲撃した犯人、灰ネズミであった。

「あ!おまえは!」

エドは身構えようとしたが、灰ネズミがかけてきてエドの肩を乱暴につかむ方が先だった。

「今、おまえはこいつになんて言った!?」

エドはあまりの勢いに、きょとんとしてしまった。

「はぁ?フォートレス、死ぬなって。」

灰ネズミは顔をゆがめる。

「畜生!虎か?

虎の仕業か?

死ぬのか?こいつは!?」

「とりあえず、応急処置はした!

すぐに手当すれば、助かると思う。

刺された場所は、即死するような場所じゃない!」

エドに言いかえされるようにいわれ、灰ネズミは一瞬、崩れ落ちそうになる。

だが、そうはならず、持ち直した灰ネズミはバンっとエドの肩をたたく。

「頼む、そいつを、フォートレスを殺さないでくれ!」

まさか灰ネズミにそんな風にいわれると思ってもみなかったし、なんでそんなことを頼まれるのかわからなかったが、フォートレスを見殺しにするつもりも毛頭ない。

「当たり前だ!」

エドが叫ぶのを聞いてか聞かずか、灰ネズミは勢いよく立ち上がり、ぱっと身を翻して壁の穴に飛び込んでいった。

「兄さん、東方司令部に連絡してだいぶたつし、もう近くに来てるんじゃないかな、無線機はつながらないの?」

アルにいわれ、エドはようやく無線の存在を思い出した。

「そうだな。

こんなに負傷者かかえてちゃどうにもならん!

大佐たちは何してるんだ!」

エドはコートのポケットに入りっぱなしになっていた無線機をつかんで引っ張り出した。


第32話

ざざざ・・・・ざざ・・・ざ・・・・

最初、すさまじいノイズしか無線機からは聞こえなかった。

「もしもし!もしもーし!くそ、建物の中にせいか?

全然聞こえない。

大佐!フュリー曹長!誰でもいい!返事してくれ!」

エドが手のひら大の無線機を、少しでも電波がよくなるようにこねくり回しているうちに、やがて何の作用なのか、急に聞こえがよくなった。

[こちら、ロイ・マスタング!

鋼の!鋼の!聞こえるか!]

エドは歓声を上げそうになったが、必死にその気持ちを押しとどめた。

「大佐、俺だ!聞こえる!

よかった、大変なんだ!

助けてくれ!」

[我々は今、秘密通路を進んでいる、点々と血痕が確認できるのだが、誰か負傷したのか?]

多少のノイズはまだ消えていなかったが、それでもつながらないよりはよっぽどましだ。

「その血痕はたぶんダグラス中尉のものだ。

負傷してるのは、ダグラス中尉と、フォートレスくん、あと、ハルトくんが-・・・」

エドがアルの方を振り向くと、アルは首を横に振った。

エドはその意味を知り、はっとする。

「ハルトくんが・・・死亡した。

グリフォンくんとマーリンくんが行方不明、あと、なんでかわからないけど灰ネズミっていうしょぼい泥棒のはずの男が、さっき虎をおいかけてすっとんでった。

今、ダグラス中尉が虎に襲われてる、早く来てくれ!

俺たちじゃ、どうしようもない!」

エドの悲鳴のような声に、無線機の向こうにいるロイは一刻の猶予もないと悟った。

[通信がつながったということは、かなり近くまで来ているのだろう。

もうすぐ地下の通路を抜けると思う。

もう少しだけ待ってくれ。

あと、国立生体研究所からとんでもない情報が届いた。]

「生体研究所から?

やっぱりか、こっちもさっきその話題がでたところだ。

事件を起こしたのは虎だってな。」

エドの言葉に、ロイは頷いたようだ。

[ああ、そうだ、だから一刻も早くダグラ・・・・・・・・・・!]

ロイがそこまで言いかけた時、エドがもっていた無線機から、耳をつんざくような爆音が聞こえた。

また、それと同時に建物全体が、突き上げれるように大きく揺れる。

「うわ!!」

「な、何!?地震!?」

ガタガタと建物全体が不気味に動き、そこら辺に立っている燭台が危なっかしげに揺れた。

エドとアルは、このビルが倒れないかと冷や冷やしながら、柱や床にしがみつく。

揺れはずいぶん長いように感じたが、時間としてはあまり長い時間ではなかった、

揺れが収まってから、エドはおそるおそる顔を上げ、あたりを見渡した。

とりあえず、身の回りでは崩れたり、火の手が上がっているところはない。

エドは、はっとして無線に呼びかけた。

「おい!大佐!大佐!そっちは大丈夫か!?

大佐!返事をしてくれ!」

だが、無線の向こうからはひどい雑音以外、何も聞こえない。

その雑音も、途切れて沈黙してしまった。

「くそ、今の地震のせいで、無線がきれちまった!」

エドがにがにがしくいいながら無線をきった時、このビルのすぐ近くで、何かが崩れるような音が響いた。

中庭の方ではなかったので、エドは廊下の先の外側が見える窓まで走って行って、あたりの様子を探る。

「なんじゃこりゃ!」

エドが見たものは、大きな地面の陥没だった。

昼間に来たときに、エドが扉を錬成した塀(へい)や、歩いた庭が、くぼんだ地下に落ち込むように崩壊している。

「まさか、今のただの地震じゃなくて・・・。

あの地下通路のトラップの爆弾でも爆発したんじゃ・・・。」

秘密通路を作るような建物である。

侵入者を撃退するトラップがあってもおかしくないことを、考えておくべきであった。

「くそ、もし、あの下に大佐たちがいたとしたら・・・!」

エドは再び無線を取り出して、沈黙したままの相手に必死に呼びかけた。

「おい!大佐!大佐!

フュリー曹長!ハボック少尉!誰でもいい!返事を、返事をしてくれ!

返事をしてくれよぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉお!」




第33話

壁をぶち破るほどの虎のタックルは、部屋の中の調度品どころか、勢い余って床までぶち抜いた。

下の三階の部屋に、虎はダグラスを下にして着地する。

「ぐうう!」

床とがれきにたたきつけられ、ダグラスはうめき声を上げた。

「まだまだ!」

虎はたたきつけれてバウンドしたダグラスの体めがけて、右の拳をたたきつけた。

ダグラスの体の奥深くから、鈍い手応えが伝わり、虎は余計に興奮する。

殴り飛ばされたダグラスの体は、今度は横様に吹っ飛び、隣の部屋へと続く扉をぶち抜いた。

「ぐ、ぐはぁ!」

もはや立ち上がることができないダグラスを踏みつけて、虎は自分の爪についた自分の血と、ダグラスの血と、ハルトの血が混ざったものをなめた。

「旦那もしぶといねえ。

殺しがいがあって、楽しくて仕方がないぜ。」

虎は、にやりと笑う。

ダグラスはぜいぜいと息をしながら、自分を踏みつける虎の足をつかんだ。

「ど、どうして、おまえは・・・。」

虎はダグラスが言わんとしていることを察した。

「ん?事情徴収か?

ははははははは、確かに、長い間殺し屋してきたが、事情徴収はされたことがないなぁ。

俺が、どうして生きているのかでも、知りたいのか?

まあ、ずっと、俺のこと追いかけてきたもんなぁ。

最後の頼みだ、話してやるよ。

俺の生涯を子守歌に、死んでいきなぁ。」

虎はダグラスに捕まれたままの足に、ぐっと体重をかける。

「俺はなあ、国立生体研究所ってところで、生まれたぁ。

親ってもんがいるかどうかは知らんなぁ。

どういう経緯なのかは俺もよくわからないが、生まれて逃げ出すまでの間、人体実験をしなかった日はなかったんじゃないか?

そのころの俺には、一日っていう感覚はなかったけどな。

俺は、どうやら体を怪物にして、強くさせるっていう実験をされていたらしいぃ。

名前は知らんがなぁ。

そのころ、まだガキだった俺の体はぁ、限界まで実験に使われたらしいぃ。

これ以上実験できなくなって、その研究所のやつらぁ、俺を標本にすると抜かしやがったぁ。

はははははははは、やつらが俺を殺そうとしたんでなぁ!

俺が先にそいつらを殺してやたのよぉぉぉぉ!

はははははは、あとは、一人一人、研究所の中にいた人間を殺すだけだった!

全員、一人残らず!周りの建物の中身も、目についたかぎり!

楽しかったぜ、ふくははははははははははははは!

まぁ、運のあるやつが何人か逃げちまって、手を焼いたがなぁ。

俺は獲物を探してとっとと研究所をおさらばした。

その途中でぇ、俺の腕を見込んだ組織に拾われて、殺し屋のやり方を教えてもらったってところだぁ。

そんなこんなで、もう十年かぁ?

いまじゃ、名うての殺し屋、虎といやぁ、俺様のことよぉぉぉぉ!」

虎は、けたたましく笑った。

それを静かに聞いていたダグラスが、自分を踏みつける虎を、目を細めて見上げる。

「おまえは、記憶を違えているようだな。

なんのためか、わからんが。」

虎が、片方の眉をはねさせた。

「何だと・・・?」

虎は鋭い牙を打ち合わせ、いらだちを表した。

「ダグラスの旦那に、何がわかるうううう!

おまえが何を知ってるというんだぁぁ!?

いってみろぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!」

ダグラスは何も言わなかった、だがその目は虎を一瞬たじろがせるほど迫力があった。

そしてたじろいだその瞬間、虎は背後から何者かに襲われた。

「ぐおおおおお!?」

背筋を焼く衝撃に悲鳴を上げた虎の背後には、血をしたたらせる鋭利なナイフを構えた灰ネズミがいた。

そのナイフは今まで一緒にいた虎が一度も見たことがないもので、幅が厚い刃の背には鋭利なギザギザがついている、古い型だが軍用のナイフだった。

「ぐ、ううう、灰、ネズミ!

貴様!何しやがる!」

虎は灰ネズミに飛びかかろうとしたが、ダグラスに足を捕まれていて身動きがとれなかった。

無理矢理体をひねって爪を翻すが、ひらりとよけられてしまう。

その動きはいままでの灰ネズミとは別人のような俊敏な動きで、ナイフを構える姿も隙がない。

虎もその変貌ぶりに驚いたようだ。

「おまえ、本当に灰ネズミか?」

灰ネズミは真剣な目で、笑う。

「ああ、おいらは本物の灰ネズミさ、虎の旦那。

昔取った杵柄ってやつでね。

ちょいと追っ手がかかるんで、こっちのおいらは隠してたんだが、今回ばかりは本気でいかせてもらうぜ。

子供に手ぇあげられて本気にならない親なんて、親じゃないんでな。」

虎はいぶかしげな顔をした。

「何言ってやがる。

おまえは一人ものだっていってただろうが。」

灰ネズミは逆手にナイフを構え直した。

「ああ、結婚したことはねえ。

そんな上等なもん、どぶ川の灰ネズミには、お恐れ多いぜ。

だが、いっただろう、そんときに。

一時はカタギになろうとしたってな。」

灰ネズミは油断なく虎をにらみつけながらも言葉を続ける。

「納得しないなら聞かせてやらぁ。

イシュヴァールのころだ。

軍人が激減して、体力さえあればどんな経歴のやつでも軍に入れた時期があったんだ。

おいらはその頃に、本当に一からやりなおそうってんで軍に入った。

イシュヴァールの武僧と渡り合えるだけの暗殺術と格闘術をしこまれる訓練に放り込まれた。

その間に知り合った女とできたのが、お前がさっき殺しかけたフォートレスってガキなんだよ。

礼を言うぜ、虎ぁ。

おいらはもともと、ガキが生きてるって噂を聞いて、是が非でも東にガキを探しに行きたかった。

そんときに声をかけたのがお前さんよ。

感謝しても、したりねえ!

そして、そのガキを殺そうとしやがったてめえを、おいらは殺さねえと、気がすまねぇ!」

灰ネズミが虎めがけて体を倒した。

その勢いで虎をしとめるつもりだ。

「はぁん、てめえが俺を利用していたとはな、驚きだぜ!

だがなぁ!」

虎は一瞬の隙を突いてダグラスから足を引きはがし、その勢いのまま、灰ネズミの体を蹴り上げた。

「ぐあ!」

灰ネズミは、まともに蹴りをうけて体制を崩す。

「ははははは、たとえ昔軍人だったとしても、それは昔の花だぜ。

その骨と皮だけの体で、この虎に立ち向かおうなんざ、一千年はえぇ!

おまえの動き、遅すぎるんだよ!」

虎は、灰ネズミが構え直す前に、もう一発けりを加え、そのまま床に押し倒した。

「ぐっ!

くそ、虎ぁ!」

灰ネズミは虎に床に押しつけられ、動けない。

「くはははははははは!

なさけねえなオトーサンよ!

息子の仇はとれず終いか!

おまえは結局灰ネズミ!

なさけねえどぶ川の灰ネズミよ!

人の役に立たないで一生を終える、情けない小動物だ!」

くははははははは、と虎は高らかに灰ネズミの上で笑った。

「だが、少しばっかり興味がわいた。

この俺を使ってやがったわけだからなぁ。

なんでお前さんは、そのまま軍人にならなかったんだ。

そのまま、まっとうな道を歩いていれば、こんなところでくたばらずにすんだだろうによ。」

灰ネズミは悲しそうな目になって、自分を押し倒す虎をにらむ。

「へ、どこにいっても、おいらはどぶ川の灰ネズミ。

おまえが言った通りなんだよ。

訓練所の中で、ちょっとした盗みがあったとき、真っ先に疑われたのがおいらさ。

昔のおいらのことを調べたやつがいたらしくてな。

おいらは、本当にやりなそうとしていた。

だから、疑われたのが本当に悔しくてな。

そんなに疑いたきゃあ、疑いやがれってんで、訓練所の金をちょろまかして脱走したわけだ。

ははははは、ざまぁねえだろう?」

泣きそうな顔で笑った灰ネズミを、虎はつまらなそうに眺めた。

「ほんと、救いようのない最低なやつだな。」

虎が灰ネズミにトドメを刺そうと指に力を込めたとき、いきなり足の下から突き上げるような衝撃が建物全体を揺るがした。

ぐらっと体が傾き、揺れが崩れた床や壁をおそう。

「!??」

さすがの虎も驚いて隙ができた。

その隙を逃す灰ネズミではない。

渾身の気迫と殺気と気合いと腕力と瞬発力を総動員して、軍用ナイフを翻す。

「くたばるぇ!虎ぁ!」

迫り来る凶刃に体を反らせてよけようとする虎だが、激しい揺れの中、目測を誤った。

灰ネズミのナイフは、虎の命を体からそぎ落とすことはできなかったが、その代わり、その両目の眼球を貫いていた。

「ぐぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!!!」

顔面から血をほとばしらせた虎が、激痛にもだえ、体をのけぞらせた。

もう一撃食らわせようと灰ネズミは動いたが、虎がめちゃくちゃに振り回した腕の方が早い。

虎の豪腕が灰ネズミの体をとらえ、その皮と骨ばかりの体を切り裂きながら、中庭向きの窓ガラスの方へ投げ飛ばした。

「あああああああがぁぁぁぁぁぁ!」

灰ネズミは悲鳴を上げながら、背中から窓ガラスに突っ込み、盛大な音を立てながらぶち破って落下した。

「く、がぁ、灰ネズミごときにしてやられるとは、くぉぉぉぉ、思わなかったぜえええ。」

悔しそうにうめく虎が、顔面を押さえながら立ち上がった。

「はぁ、はぁ、ダグラスの旦那、またせたなぁ、

終わりにしよう。

あんたがくたばれば、俺は後の奴らを殺すぐらい分けない。

もうすぐ、終わらせられる!」

虎が、やけを起こしたような銅鑼声で叫んだ。

がれきの中で倒れたダグラスはその様子を、哀れんだ瞳で眺める。

「ああ、終わりにしようか。」


×××××


窓ガラスを背中でたたき割る感触を感じた。

そして、落下する浮遊感。

体中に激痛が走る。

これでもう、終わりか、と灰ネズミは思った。

ろくな人生ではなかった。

だが、最後の最後、子供が大きくなった姿を見ることができた。

あとはその子たちが生き残ってくれさえすれば、何も文句はない。

もう、十年以上昔のことだ。

彼女は訓練所の近くの酒場で、たまたま出会った娼婦の女だった。

何度か会ううちに、いつの間にか本当の恋仲になっていた。

だが、彼女は娼婦、たとえ今は本気でもいつかは分かれる時がくる。

灰ネズミはそう思っていた。

だから、子供ができて、それを堕ろさないと彼女から聞いたとき、心底驚いたものだった。

「何言ってるんだ、おまえの商売は子供を抱えちゃできないだろう。

俺は、申し訳ないが女子供を養えるだけの収入もないし、それに、いつ戦死するかわからないんだぜ?」

灰ネズミがそういったとき、彼女は笑ったのだった。

「あっはっは、大丈夫だよ。

子供一人ぐらい養ってみせるさ。

それに、これであんたが戦死していなくなっても、あたしには心底愛した男がいたって胸をはれるじゃないか。

あたしは堕ろさないよ。

もう、名前も決めてるんだ。」

灰ネズミは、気丈な彼女にたじろぐ。

「な、名前って。もう決めてるのか?

女か男かさえ、わからないのに?」

「ははは、そうだね、男でも、女でも、同じ名前をつけちまえばいい。

あのね、この子が生まれてきたら、フォートレスって名前をつけるんだ。

女のくせに名前が堅いっていわれるんなら、芸名でもあだ名でも偽名でも、なんでも名乗っちまえばいいのさ。

それでも、この子の本当の名前はフォートレスだよ。」

灰ネズミは、よくわからなくて頭をかく。

「フォートレス、ねえ。

要塞って意味か?

なんでそんな名前を。

まさか俺が軍人だからじゃあるまいな。

俺はそんな立派なもんじゃない。俺は昔・・・。」

言いかけた時、彼女は灰ネズミの唇に人差し指を当て、言葉を止めた。

「わかってるよ。

あたしも、なんでこんな男に惚れちまったかねえ。

ふふふふ、いいかい?

あんたが軍人だろうが、お百姓さんだろうが、あたしはこの子にフォートレスって名前をつけるよ。

要塞、いいじゃないか。

子供はかすがいっていうだろ?

夫婦の間を取り持つかすがいだってね。

あたしは、この子にあたしたちの絆を守る要塞になってほしいんだよ。

たとえ、あんたがいなくなったって。

たとえ、あたしがいなくなったって。

この子は、その先を生きてくれる。

あたしたちが、生きて、愛し合った証拠が、生きていてくれる。

そんなうれしいこと、ほかにあるかい?」

俺が脱走兵になって、真っ先に調べられたのは、彼女だった。

彼女は子供を守るために、奮闘してくれた。

だが、抵抗はかなわず、フォートレスは保護という名目で彼女から引きはなされちまった。

隠れながら生きていた俺が、たまらなくなって脱走後に最後に一度だけ彼女に会いに行ったとき、泣きながら謝られたっけ。

その最後にあったときの種が、双子となって芽吹いていたことには驚きだったが、それは彼女の執念だったかもしれない。

「くだらねえ一生だったが、やっと、あいにいけそうだぜ。」

俺が渡した、一生で最初で最後の贈り物が、彼女に形見として息子たちが持っていてくれる。

「たしかに、こんなうれしいこと、ほかには、ねぇなぁー・・・・。」

すぐそこは地面だが、もう少しだけこの浮遊感に身を任せていよう。

それだけの短い間なら、誰にもこの幸せは、邪魔できないだろう?


第34話

虎は、満身創痍だった。

ダグラスに折られた左腕、エドの錬成によって傷つけられた表皮と脇腹、アルに打たれた腹、灰ネズミによって切られた背中と目。

しかし、それでも人間を手に掛けたいという願望は彼を突き動かす。

「哀れ、な。」

ダグラスはそうかすかに、小さく言って、ゆっくりと立ち上がった。

「はぁ、はぁ、はぁ、目が見えなくなろうと!

俺には、においも、気配も感じることができる!ダグラスの旦那!

あんたを血祭りに上げるくらい、簡単な仕事だ!」

ぜいぜいと荒い息をしながら、虎はダグラスを指さした。

ダグラスは、何も言わずに虎の目のまえまで進んだ。

虎にはそれが、気配でわかる。

「はははは、よく立てたな、ダグラスの旦那。

だけど、わかるぜ、あんたはもうフラッフラだ。

あと一撃食らわせれば、あんたは死ぬ。」

だが、虎が挑発しても、ダグラスは何も言わない。

「ダグラスの旦那?

どうした?怖くて声も出ないのか?」

それでも、何も言わない。

いぶかしがった虎が首をかしげた。

ダグラスの気配が倒れていた先ほどとは、なにか違う気がする。

「旦那?

はははは、もっと楽しもうぜ。」

虎がにやりと笑いながらいった瞬間、ダグラスの拳が空間を切り裂くように打ち込まれた。

「!」

虎はその拳を勘と気配でとっさに身を低くして避けた。

なまじっか、その拳は目に頼っていたら避けきれなかっただろう。

それほどまでに、高速の一撃であった。

「な!?」

虎は次々に繰り出される拳に戸惑った。

すべての拳に強烈な殺気がはらまれており、すべてにおいて一撃必殺の破壊力が秘められている。

虎でさえ、余裕をもって避けることができない。

拳を繰り出す速度にしても、強烈な破壊力にしてみても、虎が今まで体験したことがないほどのレベルだった。

「そんなっ!馬鹿なぁぁ!

ダグラスの旦那、なんであんた、動けるんだ!?

さっきまで、足下もおぼつかなかったあんたが、なんでぇぇ!?」

見えない目が恨めしい。

目の前に立つダグラスが、本当にダグラスなのか、虎にはわからなくなってしまうほどの変化だったのだ。

しかも、息を詰めているのかなんなのか、息づかいさえ違う。

「く、くっそう!」

虎は左腕をフェイントとして犠牲にして、右手で攻撃を繰り出す。

目が見えていなくても、それは完璧なタイミングであったはずだった。

しかし、ダグラスの体を貫くはずの右手は、誰もいない虚空を捕らえ、何者かに横から捕まれたと思えば、ひねりあげられて筋肉と骨を粉砕されていた。

「ぐぎゃああああああああああ!」

両手の自由がきかなくなった虎は、ダグラスから距離をとろうととっさに後退した。

だが、それはダグラスに読まれていた。

虎が一歩引いた瞬間、ダグラスもまた、同じタイミングで踏み出してきたのだ。

「そんな!?」

虎は驚愕の悲鳴を上げた。

虎の背中が壁に触れたと感じた時、虎の頭は鋼鉄の手のひらで正面からつかまれていた。

「ば、ばか、な・・・・!」

虎は何が何だか理解できず、強力な握力で自分の頭を握るオートメイルを引きはがそうともがく。

しかし、どこを殴ろうとビクともしなかった。

「どういうことなんだ!?

おい、ダグラスの旦那!」

虎が混乱して叫ぶ。

「・・・・・虎・・・・・・。」

ダグラスがやっと再び声を発した。

しかし、その声は低く、深く、重圧で堂々としていて、今までのダグラスのどの声よりも、迫力があり、それは遠くから駆け抜ける雷鳴のようでもあった。

虎がその声に反応して、びくっと体を震わせる。

「なぜ、おまえは虎と名乗っている?」

虎はその声に聞き覚えがあるような気がした。

そして、その声に思い当たり、体を震えが走った。

目が無事ならば、目を見開いて驚いたことだろう。

「そんな、馬鹿な、そんな、なんで、なんで、なんで・・・・・・・・・・・・・・・・・!」

虎の目から、何の涙であるかはわからないが、涙が一筋だけ流れた。

「あんたは、死んだはずだ、死んだ、死んだはずなのに!」

「耳はまだよく聞こえるだろう。

この声を聞け。

なぜ、おまえは虎と名乗る。」

みしっと、虎の頭蓋がきしんだ。


×××××


虎は、まだ子供だった。

天井には、無影灯。

自分は仰向け。

見下げる2人分の目。

泣き叫ぼうが、暴れようとしようが、動かない体。

ゴム手袋に包まれた手が、鋭い針のついた注射器をちらつかせる。

その注射器の中には、空間が入っている。

空気注射。

どんな劇薬よりも、確実に死に至らしめる、回避方法のない恐怖の殺害方法。

「もう、お前は、痛みを感じることはない。

よかったな。

いくら我々でも、死んだものには、それ以上の実験は行えない。

バラバラにして、ホルマリンの中につけてやることはできるがな。」

子供だった虎は、自分が殺されることを直感した。

死にたくなかった。

自分というものが、なくなってしまうのがいやだった。

唯一自分に許された、自分だけのものを、手放したくなかった。

たとえ自分というものがどんなものかわからなくても。

生きていることを許されたかった。

虎はついに利き腕の皮を犠牲にしながら、拘束具を引きちぎることに成功した。

雄叫びを上げながら、虎は注射器を持った人物を襲う。

注射器は床に落ちて割れ、人物は倒れた。

「この検体風情が!」

もう一人の人物が、虎の頭をつかんで、虎を激しく寝ていた台にたたきつけた。

「うあああ!」

堅い寝台にたたきつけられた虎の額からは血が噴き出し、真っ白い実験台を汚す。

勢いよく流れ出た生暖かい血が視界を埋め、虎の目はふさがれてしまった。何も見えない。

いつ、次の注射器が現れて、皮膚の下に潜り込み、血管の中に空気を送り込んでくるか、わかったものではない。

虎の目からは絶望の涙が流れた。

殺される。

涙でも、次々流れてくる血を洗い流すことはできない。

ひるんだ瞬間、虎の細い手首が捕まれて、体を実験台に押しつけられた。

「手間取らせやがって。」

腕が露わにされ、その真上で殺気が狙いを定めているのを、虎は目が見えていなくてもはっきり感じ取ることができた。

「とっととくたばれ、お前は只の、実験動物なんだよ。」

それは死刑宣告。

何かが風を切る音が、聴力のすぐれた耳にいたいほど鳴る。

凄まじい衝撃が体を撃つ。

「あぎゃああぁぁぁあああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあああああ!!」

しかし、死刑宣告により刑を処されたのは、虎に狙いを定めていた男の方であった。

目が見えていない虎の頬に、生暖かいものがかかった。

虎はそれが自分からこぼれたものしか知らなかったが、それは血液だと感覚でわかった。

自分は、頬はけがをしていないのに、どうして。

虎は訳がわからず、きょとんとした。

「貴様!なぜ、ここに!」

もう一人の大人が、驚きのあまり声を裏返しながら叫んだ。

何者かが侵入してきたことは、虎にもわかった。

ただ、目が見えないため、何が来たのか、何が起ころうとしているのか、よくわからなかった。

いや、なにが起ころうとしているのかは、何となく理解できた。

先ほど、自分に注射を刺そうとしていた白衣の大人は、たぶんあの悲鳴を上げた時に殺されたのだ。

きっと、もう一人も殺されるだろう。

ならば、なぜ自分だけ助かる可能性がある?

虎は、もうだめだ、と、あきらめてしまった。

どんなに抗っても無駄なのだと。

殺す人物が変わるかもしれないが、自分の死は免れないのだと。

虎は、呆然として、もう体を動かすこともできなかった。

死にたくなかった。もっといきたかったのに。

「くるな、来るな、来るなぁ!」

パンパン!と乾いた音がした。

何発も音がした。撃てるだけ撃ったのだろう。

虎は何度も聞いたことがある音だと、わかった。

自分と一緒に飼われていた実験体が逃げたり、反抗的になったときに、白衣の大人が使う、殺す道具だ。

これで、入ってきた何かも終わりだと思った。

一回あの音が聞こえただけでも、生き物は死ぬ。

あんなに何回も音がしたのだ。

無事では済まされないだろう。

だが、虎の考えは外れた。

「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」

悲鳴を上げたのは、白衣の大人の方だった。

また、虎の頬に生ぬるいものが降りかかった。

虎は、きょとんとした。

あの音は、生き物を殺す音ではないのか?

虎が状況が把握できずに動かないでいると、突然、自分が寝ていた台に、どんっという衝撃が走った。

「うわぁ!」

思い切り揺れたので、虎は思わず悲鳴を上げていた。

その声に、返事があった。

「すまん、驚かせた。」

その声は低く、深く、重圧で堂々としていて、迫力があり、それは遠くから駆け抜ける雷鳴のようでもあった。

その声は、ゼイゼイと苦しそうな息をしていた。

あの音を何回もあびたのだから、仕方がないかもしれないが。

「次は、俺の番?」

虎は、思わず訪ねた。

声は、一瞬だけ、息を積まらせた。

そして、虎は、その声の持ち主に何事かわからないことをされた。

その後に一度として体験する機会のなかったので、このとき、虎は本当に何をされたのか未だに理解していない。

ただ、暖かかったことは確かだ。

声の持ち主は、虎の手錠と足かせを、力任せに引きちぎり、なにやら柔らかいもので、目をふさいだ血を丁寧にぬぐってくれた。

それでは完全はにとれなかったが、薄目をほんの少し開くことができるようになっていた。

虎の目の前には、大きな陰がいた。

肩で息をして、足下には血だまりがある。

「逃げろ。

ここから、生きて出ろ。

おまえは、自由だ。」

声は、力強く虎にいった。

虎は、そんなこといわれたのも、優しくされたのも、初めてだった。

本当に、初めてだったのだ。

バタバタと、ほかの場所から音が近づいてくる。

虎にもわかったのだから、声の主にもわかったのだろう。

虎は台から下ろされて、床にたたされた。

「はやく、逃げろ。

ここは食い止める。

目が見えなくても、おまえの耳と感覚なら、逃げられる。

さあ、いけ、生きろ。

俺たちの分も、生きてくれ。」

虎が、押された方に数歩進んだとき、ついに足音が部屋まで到達した。

「きたか!」

声は咆吼を上げ、実験器具が乗ったワゴンを足音の方にたたきつけた。

いろいろなものが爆ぜる音がする。

「あ、あんたは・・・?」

虎は、もう一つの入り口から出るときに振り向いて、とっさに訪ねた。

声が、もう一度だけ、答えてくれた。

「俺か?

俺は・・・・・虎・・・・・・。

・・・・・・・・・・虎だ・・・・・・・・・・」

答えを聞いた次の瞬間、あの死を招く音が何回も何回も響いた。

「ぐぁああああああああああああああああ!」

その声の断末魔が、虎の耳に届く。

虎はもう振り返らなかった。

目が見えていないのだから、振り返ろうともなにも見えないのだが、それでも、振り返りたい気持ちを抑えて、走った、走った。

どこを回って、走って、建物から脱出したのかわからなかったが、その間、虎は

一度も的にされなかった。



×××××


ダグラスに頭を捕まれて、虎は呆然とした。

「あんたは、その声は、なんで、あんたが・・・・・」

心と思考の整理がいかず、ただただ、打ち震えるだけであった。

「俺は、あんたが、死んだと、思って、あんたの、代わりに・・・・・・・・。」

「虎と名乗ったと?

馬鹿なやつだ。

本当に。

おまえは。」

ダグラスの声は、低く、深く、重圧で堂々としていて、迫力があり、それは遠くから駆け抜ける雷鳴のようである。

そして、深い深い悲しみの色を帯びていた。

ダグラスの鋼の腕に、一層の力が込められた。

「あ、あがぁ!」

もう、虎は抵抗しない。

苦しそうな悲鳴を上げ、びくびくと、のたうつのみである。

みしみしみしみし、と、堅いものが圧力に耐えきれなくなっていく音が、室内に小さく、しかしはっきりと聞こえた。

「さらば。」

ダグラスが小さく言った瞬間、虎の頭が破砕された。

外皮と中身が入り交じったものがあたりに飛び散って、盛大に周りを汚す。

そして最後に、支えがなくなったその体が、ぼとりとダグラスの足下に崩れ落ちる。

ダグラスが腕を下ろし、手を開くと、虎の独特な色の髪が一房、落ちた。


つづく
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