【やる&やら】最凶にして最愛のただ一人の君に捧ぐ
水路わきの公園で雪見をしている最中に倒れてしまったやらない夫を、やる夫はとにもかくにも家まで運ぼうと思い付いた。
やる夫は、自分の方に倒れかかっているやらない夫の体を調整し、腕をまわした。
「せ、センセ、ちょっと失礼いたしますお…って、うわ、か、軽い…!」
やる夫が考えていた数倍は軽かったやらない夫は、簡単にヒョイと持ち上げられてしまった。
やる夫は両腕でやらない夫を支え、頭を肩にもたせかけさせ、落とし物はないかと一度振り返ったあと、すぐに走り出した。
「センセ、すみません、揺れますお!
今、お家につきますからお!ちょっと辛抱してくださいお!」
やる夫はやらない夫を抱え、韋駄天のごとく雪路を駆けていった。
★★★★
「いやぁ、助かりましたのじゃ、強飯(こわいい)先生。
さすが腕がいいですのぉ。
しかし、わしは助かりましたが、申し訳なかったですのぉ。
こんな雪の日に往診を頼んでしもうて。」
囲炉裏ばたに敷かれた布団の上で横になった老人が、枕元の人物に深々と頭を下げた。
「いえいえ、これも医者の仕事ですから。
それでは湿布のための軟膏をいくらかお渡ししておきますから、夜にまた張り替えてください。
無理なことはせずに、正直にお孫さんを頼って三日は安静にしてくださいね。
それでは、私はこれで。
またなにかあったらご連絡ください。」
そう言いながら、強飯(こわいい)と呼ばれた、白衣姿の医師は、にこりとわらいかけた。
雪かきをしていて転び、腰を痛めたという老人、やる蔵の往診が、今さっき終わったところなのであった。
道具を鞄に収め、軟膏の入った小さな貝殻を枕元におく。
「強飯先生、御代はこちらで。きてくださりありがとうございましたのじゃ。」
布団の上に横になるやる蔵は医師に往診代を支払い、安心した顔で何度もお礼を述べた。
「それでは、やる蔵さんも、お大事に。」
医者は、荷物を抱えて頭を軽く下げてから、シャッポをかぶり玄関から外にでた。
外に出たとたんに風が冷たい。
医者は寒さに身をならすように、一度息を吸い込んだ。
「しまった。
まだ白衣を着たままだったなあ。」
黒い背広の上に着ていた白衣を脱いで、柳行李(やなぎごうり)の医者鞄にいれようとした時、あわただしく走り込んできた足音があった。
「す、すみませんおっ!
あ、あなたもしや、お医者様ではありませんかお!?
た、助けてほしいですおっ!」
こう呼ばれて、緊急事態でなかったという医者はいないだろう。
強飯医師は、条件反射でパッと顔を上げた。
「はい、私は医者です。
どうされましたか!?」
そのとたん、相手は一瞬怯んだ顔をした。
つい勢いで睨んでしまったかもしれないと医師は少し反省する。
「美筆セン…この人が、いきなり熱を出して倒れたんですお!」
見れば、走り込んできた人物は、腕の中にぐったりした背の高い男性を抱きかかえていた。
「!
それはいけない。
早く休めるところに行って診察しなくては…!」
男性を抱えた人物は、顎で医者がでてきた隣の家を指す。
「ここのお隣の人なんですお!
自分が鍵を持ってますので、同行して診察をお願いできますでしょうかお!」
「もちろんです。
早く中へ!」
ぐったりした男をかかえた人物は、ポケットから鍵をとりだし、器用に鍵をあけた。
急いで中に入ると、居間に運びいれ、ぐったりした男性を座布団の上に寝かせる。
強飯医師は帽子も取らぬまま、すぐに診察に取り掛かり、男性を下ろした人物は奥の部屋へ布団を用意すると言ってすっとんでいった。
その間に、強飯医師はぐったりした男性の衣服をくつろがせ、呼吸を確認し、鞄から取り出した体温計で検温し、手をとって脈をとる。
呼吸を計り、体温を計り、脈を計り、それらを手帳に書き留めたところで、布団の用意ができたと言われたので、二人がかりで気を失っている男性を移動させた。
敷かれた布団の上に移してから、聴診器で強飯医師は心音や肺の音を確認して、また手帳に書き留める。
やることがなくなったらしく、運んできた人物は心配そうな顔で少し離れたところで正座していた。
強飯医師は、ふむとひとつ唸ってから、正座して座る人物の方に顔を向けた。
「最近あったことや、倒れた時のことを詳しくお伺いしても?
…新速出やる夫、さん?」
呼ばれた方のやる夫は、正座したまま固まって、びっくりした顔で目の前の強飯医師を見つめた。
「ど、どうして自分の名前を…?」
強飯医師はそこで帽子を取り忘れていることに気がつき、ゆっくり帽子を脱ぐ。
「ふふ、忘れちゃったかなぁ?
尋常小学校で六年間いっしょだったじゃない。
僕は久しぶりに会えて嬉しいんだけど…、強飯(こわいい)キル夫って言うんだけど、覚えてないかな?」
帽子を脱いだキル夫を見て、やる夫はあっ!と声を上げた。
「き、きーくん!
あ!
お、お医者様に、し、失礼しましたお…。」
「あはは、またそう呼んでくれるの?
やっくん。
思い出してくれて嬉しいよ。」
帽子のしたから現れたのは、牙をむくような強面の男の顔。
しかしその顔は、やる夫にとって知った顔だったのであった。
「いや~びっくりだお。
まさかこんなところで再開するなんて!
あ、これ、今のやる夫の名刺…って、いやいや、今はそんなゆっくりしてる場合じゃないんだお!
美筆先生…、えと、その、容態は…。」
一瞬明るくなったやる夫だったが、すぐにまた心配げな顔になる。
とりあえず名刺の受け渡しをしてから、キル夫も一つ頷く。
「そうだったね。
なんで美筆さんを担いできたのかとか、診断の参考のために、わかる範囲で最近の出来事を教えてもらえる?やっくん。」
キル夫が訪ねると、やる夫も頷く。
「お、おん。
もちろんだお。
やる夫は、今、出版の仕事していて、先生に原稿をお願いしてるんだお。
昨日は、あの大雪で汽車が三ノ巣で止まっちまってお、宿もいっぱいで、ここら辺の知り合いが先生しか思い付かなくて、藁にもすがる思いで夜分に伺って、一晩とめてもらったんだお。
それで、雪もやんだし、なかなか見れない景色だからと思って外に出て、一晩とめてもらったお礼に、円満亭で食事をして、そのあと角川上水ぞいの遊歩道に景色を見に行ったんだお。
川の雪景色を座って話しながら眺めていたら、先生が、急に倒れて…。
とにかく、休めるところにと思って、ご自宅まで運んできたんだお。」
やる夫が記憶を整理しながら言う。
それを聞いたキル夫もうなずいた。
「なるほど、それで僕といきあったんだね。」
「そうなんだお。
キル夫はなんでお隣さんに来てたんだお?」
やる夫の問いに、キル夫も応える。
「ああ、やる蔵さんというおじいちゃんが、雪かきしていたら転んで腰を痛めてしまったって、お孫さんから電話がきてね。
雪の中をかき分けかき分け、やっとたどり着いて、さっき診察が終わったところだったんだ。
三ノ巣町と境村で医者といえばうちぐらいしかないから、何かあったらうちに電話がくるんだ。
今日は兄のキラナイ夫が家で診察してるから、僕は外回りなんだよ。」
「あ、なるほどだおー。
お隣のおじいちゃん、お医者呼ぶほどだったんだおね。
おじいちゃんがすっころんだところに居合わせて、家に運んだのやる夫なんだお。
きーくんのおっきい兄ちゃんもお医者様になったんおね。
立派にお医者様してるおねぇ、きーくんちは。」
「まあね。
ふーむ。脈拍も、安定してきていたし、口のなかも荒れてなかったし。
足元は寒そうだけど、上はきっちり着込んでるからねぇ。
ちゃんと滋養があるものも、たべてるし。
珍しい雪と、寒さ、普段とは違う行動や食事がいっぺんにきて、体が驚いちゃったんじゃないかな。
特に大事ないと思うよ。
熱冷ましを処方してあげるから、目を覚ましたら、これを煎じて、すこしさましてから飲ませるといい。」
そう言いながら、キル夫は鞄の中から紙に包まれた薬を何包か取り出した。
「ありがとうだお!
キーくん!」
「お役にたててよかった。
呼吸も安定してるし、大丈夫だから、もう少し寝かせてあげなよ。
美筆さんは、もともと体があんまりつよい方じゃないし。
きっと疲れが出たんだと思うんだ。」
「お?もともと?」
「うん。
我が家はもともと、美筆さんのところの主治医をしていてね。
うちの父は、美筆さんのお父さんの主治医でもあったし。
最近はお会いしていなかったけれど、小さい頃は良く、やらない夫さんは熱を出していて、父が診察にきていたんだよ。
僕は歳が近いからって、たまにお手伝いとしてきていたからね。何回かお会いしてたんだよ。」
「そうだったんだおね。
知らんかったお。」
「大人になってからは大分体は安定したみたいで、最近はお呼びはかからなかったんだけど。まぁ、こうやってお力になれてよかったよ。やっくん。」
そうして話していると、布団のほうでもぞりと動く気配がし、二人が視線をそちらにむけると、やらない夫がゆっくり瞼を開けたところであった。
「せ、先生ぇ!」
やる夫がパッと飛び出して、やらない夫を覗きこむ。
「あ、新速出編集…?」
ぼんやりした顔で、やらない夫はやる夫を呼ぶ。
「んはぁ!良かったぁ!
先生覚えてますかお?
角川上水の公園で倒れてっ!
ここはご自宅ですからお!
まだ寝ていてくださいお!」
「す…、すみません。
運んでいただいてしまったのですね。ご迷惑を…。」
「何言ってんですかおっ!迷惑だなんて!
とにかく、意識が戻って良かったですおぉ!」
やる夫はとにかく嬉しげで、心が跳ねる様が見えるようであった。
キル夫は、少しばかり、おや、と思う。
「あっ!
お久しぶりです、強飯医師。
わざわざ往診していただいたのでしょうか?
雪のなか、ご足労をお願いしてしまいまして。」
やらない夫は、キル夫に気がつき、すぐに居ずまいを正してキル夫へ頭を下げる。
「あ、まだ意識が戻ってすぐなんですから、安静に。
それに、今回はお隣のやる蔵さんの診察もありましたから。お気になさらず。」
キル夫はそう言ったが、少し遅かった。
やらない夫は、頭を下げた拍子にくらりときて、隣にいたやる夫が慌てて支えていた。
おやおや?と、キル夫は思った。
キル夫はひとつ笑うと、診察道具を片付けにとりかかる。
「さて、美筆さんの意識も戻ったし、やっくんがついてくれてるなら、僕は帰ってまた別の往診にいかないとね。」
「あ、そうだおね!
お医者さんは忙しいんだお!
これ、お代金だお!納めてほしいお。」
「ありがとう。
しっかりうけとりました。」
やる夫が差し出した封筒を受け取ったキル夫は、そのままこっそりとやる夫に耳打ちした。
『今度また一緒に飲みに行こう。君たちの関係についてじっくり聞かせてね!』
「はお?」
言われた方のやる夫は、きょとんとした顔になってしまったが。
(ありゃ、これは無自覚か)
キル夫は少し残念な気持ちになりながら顔を上げる。
すると、そこには、やる夫のほうに穏やかな視線を向けるやらない夫が見えた。
「!」
キル夫は何かに気がついたように、ハッとする。
「キーくん、どーしたんだお?」
「ううん、べっつにー?
それより、お大事にね!
それじゃ、またね!」
荷物をすぐに持ってたちあがっていた。
「おん!急に無理いって悪かったお。たすかったお!送るお!」
「いや大丈夫。君は先生についててあげなよ。で、また具合が悪くなったりしたらいつでもよんで!」
「お、おん。わかったお。持つべきものは友だお。ありがとうおー!」
「どういたしまして。では、…美筆さんも、お大事に。じゃあね、やっくん!」
そう、笑顔で晴れやかにいうと、キル夫は爽やかに去っていった。
玄関の戸を出て、キル夫はつい鼻唄まじりで足取り軽く道をゆく。
(馬に蹴られて死にたくはないもんねー!)
キル夫医師の顔は満面の笑みであった。
★★★★
「はぁ…すみません、新速出編集。
夕餉の支度までしていただいて。」
「いえいえ!
たいした腕もないもので、ごはんたいただけで…。
なんかオカズ買ってくるべきでしたかおね」
二人は、炊いたご飯に梅干しを乗せてお茶をかけた、お茶漬けで夕餉をすませようとしていた。
「よかったら、もう一晩泊まっていきませんか、新速出編集。」
「え、ええ!?いいんですかお!?」
「明日の出社に困らなければ、ですが。」
「ありがたいですお!
やっぱり倒れてしまった先生を、お一人にしておくのは、あまりにも心配だったのでお!
すみませんが、今晩もよろしくお願いしますお!」
「はい、では、こちらこそ!」
そうして、二人はこの晩も、枕を並べてねむりについたのだった。
そして、明くる日の早朝、やる夫はまだ薄暗いころに、書き置きを残して飛び出した。
息を白く吐きながら、道を走る。
胸に抱いた鞄の中には、あの原稿が大事にしまわれていた。
早くこの話を淡雪講社に運ぶのだと、彼は熱く使命感に燃え、駅への道をいそぐのであった。
つづく
やる夫は、自分の方に倒れかかっているやらない夫の体を調整し、腕をまわした。
「せ、センセ、ちょっと失礼いたしますお…って、うわ、か、軽い…!」
やる夫が考えていた数倍は軽かったやらない夫は、簡単にヒョイと持ち上げられてしまった。
やる夫は両腕でやらない夫を支え、頭を肩にもたせかけさせ、落とし物はないかと一度振り返ったあと、すぐに走り出した。
「センセ、すみません、揺れますお!
今、お家につきますからお!ちょっと辛抱してくださいお!」
やる夫はやらない夫を抱え、韋駄天のごとく雪路を駆けていった。
★★★★
「いやぁ、助かりましたのじゃ、強飯(こわいい)先生。
さすが腕がいいですのぉ。
しかし、わしは助かりましたが、申し訳なかったですのぉ。
こんな雪の日に往診を頼んでしもうて。」
囲炉裏ばたに敷かれた布団の上で横になった老人が、枕元の人物に深々と頭を下げた。
「いえいえ、これも医者の仕事ですから。
それでは湿布のための軟膏をいくらかお渡ししておきますから、夜にまた張り替えてください。
無理なことはせずに、正直にお孫さんを頼って三日は安静にしてくださいね。
それでは、私はこれで。
またなにかあったらご連絡ください。」
そう言いながら、強飯(こわいい)と呼ばれた、白衣姿の医師は、にこりとわらいかけた。
雪かきをしていて転び、腰を痛めたという老人、やる蔵の往診が、今さっき終わったところなのであった。
道具を鞄に収め、軟膏の入った小さな貝殻を枕元におく。
「強飯先生、御代はこちらで。きてくださりありがとうございましたのじゃ。」
布団の上に横になるやる蔵は医師に往診代を支払い、安心した顔で何度もお礼を述べた。
「それでは、やる蔵さんも、お大事に。」
医者は、荷物を抱えて頭を軽く下げてから、シャッポをかぶり玄関から外にでた。
外に出たとたんに風が冷たい。
医者は寒さに身をならすように、一度息を吸い込んだ。
「しまった。
まだ白衣を着たままだったなあ。」
黒い背広の上に着ていた白衣を脱いで、柳行李(やなぎごうり)の医者鞄にいれようとした時、あわただしく走り込んできた足音があった。
「す、すみませんおっ!
あ、あなたもしや、お医者様ではありませんかお!?
た、助けてほしいですおっ!」
こう呼ばれて、緊急事態でなかったという医者はいないだろう。
強飯医師は、条件反射でパッと顔を上げた。
「はい、私は医者です。
どうされましたか!?」
そのとたん、相手は一瞬怯んだ顔をした。
つい勢いで睨んでしまったかもしれないと医師は少し反省する。
「美筆セン…この人が、いきなり熱を出して倒れたんですお!」
見れば、走り込んできた人物は、腕の中にぐったりした背の高い男性を抱きかかえていた。
「!
それはいけない。
早く休めるところに行って診察しなくては…!」
男性を抱えた人物は、顎で医者がでてきた隣の家を指す。
「ここのお隣の人なんですお!
自分が鍵を持ってますので、同行して診察をお願いできますでしょうかお!」
「もちろんです。
早く中へ!」
ぐったりした男をかかえた人物は、ポケットから鍵をとりだし、器用に鍵をあけた。
急いで中に入ると、居間に運びいれ、ぐったりした男性を座布団の上に寝かせる。
強飯医師は帽子も取らぬまま、すぐに診察に取り掛かり、男性を下ろした人物は奥の部屋へ布団を用意すると言ってすっとんでいった。
その間に、強飯医師はぐったりした男性の衣服をくつろがせ、呼吸を確認し、鞄から取り出した体温計で検温し、手をとって脈をとる。
呼吸を計り、体温を計り、脈を計り、それらを手帳に書き留めたところで、布団の用意ができたと言われたので、二人がかりで気を失っている男性を移動させた。
敷かれた布団の上に移してから、聴診器で強飯医師は心音や肺の音を確認して、また手帳に書き留める。
やることがなくなったらしく、運んできた人物は心配そうな顔で少し離れたところで正座していた。
強飯医師は、ふむとひとつ唸ってから、正座して座る人物の方に顔を向けた。
「最近あったことや、倒れた時のことを詳しくお伺いしても?
…新速出やる夫、さん?」
呼ばれた方のやる夫は、正座したまま固まって、びっくりした顔で目の前の強飯医師を見つめた。
「ど、どうして自分の名前を…?」
強飯医師はそこで帽子を取り忘れていることに気がつき、ゆっくり帽子を脱ぐ。
「ふふ、忘れちゃったかなぁ?
尋常小学校で六年間いっしょだったじゃない。
僕は久しぶりに会えて嬉しいんだけど…、強飯(こわいい)キル夫って言うんだけど、覚えてないかな?」
帽子を脱いだキル夫を見て、やる夫はあっ!と声を上げた。
「き、きーくん!
あ!
お、お医者様に、し、失礼しましたお…。」
「あはは、またそう呼んでくれるの?
やっくん。
思い出してくれて嬉しいよ。」
帽子のしたから現れたのは、牙をむくような強面の男の顔。
しかしその顔は、やる夫にとって知った顔だったのであった。
「いや~びっくりだお。
まさかこんなところで再開するなんて!
あ、これ、今のやる夫の名刺…って、いやいや、今はそんなゆっくりしてる場合じゃないんだお!
美筆先生…、えと、その、容態は…。」
一瞬明るくなったやる夫だったが、すぐにまた心配げな顔になる。
とりあえず名刺の受け渡しをしてから、キル夫も一つ頷く。
「そうだったね。
なんで美筆さんを担いできたのかとか、診断の参考のために、わかる範囲で最近の出来事を教えてもらえる?やっくん。」
キル夫が訪ねると、やる夫も頷く。
「お、おん。
もちろんだお。
やる夫は、今、出版の仕事していて、先生に原稿をお願いしてるんだお。
昨日は、あの大雪で汽車が三ノ巣で止まっちまってお、宿もいっぱいで、ここら辺の知り合いが先生しか思い付かなくて、藁にもすがる思いで夜分に伺って、一晩とめてもらったんだお。
それで、雪もやんだし、なかなか見れない景色だからと思って外に出て、一晩とめてもらったお礼に、円満亭で食事をして、そのあと角川上水ぞいの遊歩道に景色を見に行ったんだお。
川の雪景色を座って話しながら眺めていたら、先生が、急に倒れて…。
とにかく、休めるところにと思って、ご自宅まで運んできたんだお。」
やる夫が記憶を整理しながら言う。
それを聞いたキル夫もうなずいた。
「なるほど、それで僕といきあったんだね。」
「そうなんだお。
キル夫はなんでお隣さんに来てたんだお?」
やる夫の問いに、キル夫も応える。
「ああ、やる蔵さんというおじいちゃんが、雪かきしていたら転んで腰を痛めてしまったって、お孫さんから電話がきてね。
雪の中をかき分けかき分け、やっとたどり着いて、さっき診察が終わったところだったんだ。
三ノ巣町と境村で医者といえばうちぐらいしかないから、何かあったらうちに電話がくるんだ。
今日は兄のキラナイ夫が家で診察してるから、僕は外回りなんだよ。」
「あ、なるほどだおー。
お隣のおじいちゃん、お医者呼ぶほどだったんだおね。
おじいちゃんがすっころんだところに居合わせて、家に運んだのやる夫なんだお。
きーくんのおっきい兄ちゃんもお医者様になったんおね。
立派にお医者様してるおねぇ、きーくんちは。」
「まあね。
ふーむ。脈拍も、安定してきていたし、口のなかも荒れてなかったし。
足元は寒そうだけど、上はきっちり着込んでるからねぇ。
ちゃんと滋養があるものも、たべてるし。
珍しい雪と、寒さ、普段とは違う行動や食事がいっぺんにきて、体が驚いちゃったんじゃないかな。
特に大事ないと思うよ。
熱冷ましを処方してあげるから、目を覚ましたら、これを煎じて、すこしさましてから飲ませるといい。」
そう言いながら、キル夫は鞄の中から紙に包まれた薬を何包か取り出した。
「ありがとうだお!
キーくん!」
「お役にたててよかった。
呼吸も安定してるし、大丈夫だから、もう少し寝かせてあげなよ。
美筆さんは、もともと体があんまりつよい方じゃないし。
きっと疲れが出たんだと思うんだ。」
「お?もともと?」
「うん。
我が家はもともと、美筆さんのところの主治医をしていてね。
うちの父は、美筆さんのお父さんの主治医でもあったし。
最近はお会いしていなかったけれど、小さい頃は良く、やらない夫さんは熱を出していて、父が診察にきていたんだよ。
僕は歳が近いからって、たまにお手伝いとしてきていたからね。何回かお会いしてたんだよ。」
「そうだったんだおね。
知らんかったお。」
「大人になってからは大分体は安定したみたいで、最近はお呼びはかからなかったんだけど。まぁ、こうやってお力になれてよかったよ。やっくん。」
そうして話していると、布団のほうでもぞりと動く気配がし、二人が視線をそちらにむけると、やらない夫がゆっくり瞼を開けたところであった。
「せ、先生ぇ!」
やる夫がパッと飛び出して、やらない夫を覗きこむ。
「あ、新速出編集…?」
ぼんやりした顔で、やらない夫はやる夫を呼ぶ。
「んはぁ!良かったぁ!
先生覚えてますかお?
角川上水の公園で倒れてっ!
ここはご自宅ですからお!
まだ寝ていてくださいお!」
「す…、すみません。
運んでいただいてしまったのですね。ご迷惑を…。」
「何言ってんですかおっ!迷惑だなんて!
とにかく、意識が戻って良かったですおぉ!」
やる夫はとにかく嬉しげで、心が跳ねる様が見えるようであった。
キル夫は、少しばかり、おや、と思う。
「あっ!
お久しぶりです、強飯医師。
わざわざ往診していただいたのでしょうか?
雪のなか、ご足労をお願いしてしまいまして。」
やらない夫は、キル夫に気がつき、すぐに居ずまいを正してキル夫へ頭を下げる。
「あ、まだ意識が戻ってすぐなんですから、安静に。
それに、今回はお隣のやる蔵さんの診察もありましたから。お気になさらず。」
キル夫はそう言ったが、少し遅かった。
やらない夫は、頭を下げた拍子にくらりときて、隣にいたやる夫が慌てて支えていた。
おやおや?と、キル夫は思った。
キル夫はひとつ笑うと、診察道具を片付けにとりかかる。
「さて、美筆さんの意識も戻ったし、やっくんがついてくれてるなら、僕は帰ってまた別の往診にいかないとね。」
「あ、そうだおね!
お医者さんは忙しいんだお!
これ、お代金だお!納めてほしいお。」
「ありがとう。
しっかりうけとりました。」
やる夫が差し出した封筒を受け取ったキル夫は、そのままこっそりとやる夫に耳打ちした。
『今度また一緒に飲みに行こう。君たちの関係についてじっくり聞かせてね!』
「はお?」
言われた方のやる夫は、きょとんとした顔になってしまったが。
(ありゃ、これは無自覚か)
キル夫は少し残念な気持ちになりながら顔を上げる。
すると、そこには、やる夫のほうに穏やかな視線を向けるやらない夫が見えた。
「!」
キル夫は何かに気がついたように、ハッとする。
「キーくん、どーしたんだお?」
「ううん、べっつにー?
それより、お大事にね!
それじゃ、またね!」
荷物をすぐに持ってたちあがっていた。
「おん!急に無理いって悪かったお。たすかったお!送るお!」
「いや大丈夫。君は先生についててあげなよ。で、また具合が悪くなったりしたらいつでもよんで!」
「お、おん。わかったお。持つべきものは友だお。ありがとうおー!」
「どういたしまして。では、…美筆さんも、お大事に。じゃあね、やっくん!」
そう、笑顔で晴れやかにいうと、キル夫は爽やかに去っていった。
玄関の戸を出て、キル夫はつい鼻唄まじりで足取り軽く道をゆく。
(馬に蹴られて死にたくはないもんねー!)
キル夫医師の顔は満面の笑みであった。
★★★★
「はぁ…すみません、新速出編集。
夕餉の支度までしていただいて。」
「いえいえ!
たいした腕もないもので、ごはんたいただけで…。
なんかオカズ買ってくるべきでしたかおね」
二人は、炊いたご飯に梅干しを乗せてお茶をかけた、お茶漬けで夕餉をすませようとしていた。
「よかったら、もう一晩泊まっていきませんか、新速出編集。」
「え、ええ!?いいんですかお!?」
「明日の出社に困らなければ、ですが。」
「ありがたいですお!
やっぱり倒れてしまった先生を、お一人にしておくのは、あまりにも心配だったのでお!
すみませんが、今晩もよろしくお願いしますお!」
「はい、では、こちらこそ!」
そうして、二人はこの晩も、枕を並べてねむりについたのだった。
そして、明くる日の早朝、やる夫はまだ薄暗いころに、書き置きを残して飛び出した。
息を白く吐きながら、道を走る。
胸に抱いた鞄の中には、あの原稿が大事にしまわれていた。
早くこの話を淡雪講社に運ぶのだと、彼は熱く使命感に燃え、駅への道をいそぐのであった。
つづく