【やる&やら】最凶にして最愛のただ一人の君に捧ぐ
「お待たせいたしました。」
そういいながら、やらない夫はやる夫が待つ居間への襖を開けた。
「わ…!
美筆先生、凄くお似合いですおね!」
やらない夫の姿を見たやる夫は、思わずといったように歓声を上げる。
やらない夫は着物の上から黒いインバネスコートを着て、首もとに赤銅色の襟巻きを巻き、頭には黒いビロードのシャッポを被っていた。
「昔仕立てたものなのですが…。
変じゃないでしょうか?」
「着物に外国渡りのコートっていうのがまたモダンですお!
先生はなんでも着こなせてうらやましいですお~!」
やる夫は目を輝かせながら、やらない夫の服装のセンスに拍手を贈る。
やらない夫は少々照れながら頭をかいた。
「さて、じゃあ、先生のご用意が済んだなら、さっそく行きましょうかお!」
二人は玄関で外ばきを履く。
やる夫は少ししけった革靴。
やらない夫は素足に雪下駄であった。
「先生、素足に下駄は寒くないですかお?」
「そう言いましても、こうも雪では足袋など濡れてしまいますし、仕方ありません。
それに、上は着込んでいますから。」
心配するやる夫を余所に、やらない夫はカラリと玄関の戸を開けた。
外に出てみれば、抜けるような青空と、雪化粧した家々。それを照らす日光は雪に反射して、目をくらますほどにまぶしい。
ましてや、暗い室内から出たばかりのやらない夫は、玄関前で立ち尽くしてしまうほどだった。
「ひゃー、まぶしいですおねー!」
後から出てきたやる夫も、あまりの眩しさに目を眩ませたようだ。
少し目を慣らすように瞬きをしてから、やらない夫は、やる夫が雪かきをしたという道に歩み出た。
やらない夫は冷えた空気を深く肺に招き入れ、ガラスのような尖った冷たさを体で味わった。
「けほ…っ!」
やらない夫の口から咳がこぼれた。
「せ、先生!大丈夫ですかお?」
やる夫が心配して、やらない夫の近くに寄った。やらない夫は、少し集中して息をしてからやる夫に振り向く。
「…元来、あまり丈夫な方ではないので、冷たい空気に体が驚いたのでしょう。
大丈夫ですだろ。行きましょう、新速出編集。」
やる夫はまだ心配げな顔をしていたが、やらない夫に言われて頷いた。
戸締まりをすませ、二人は雪かきの済んでいる道を駅の方へとゆっくり歩きだした。
日の光で照らされた砂利道は、雪かきされているところはすでに乾き初めているほどだった。
やらない夫は、やる夫様々だと思いながら、雪下駄でゆっくり歩く。
やる夫も、やらない夫と並んでゆっくり歩いた。
どこもかしこも雪で化粧された街は、まるで別世界であった。
普段全く化粧しない女性が、結婚式のために白無垢をまとい、化粧を施せば、誰しも印象の変わりように驚くであろう。
見慣れないという物珍しさや、美しいというすなおな感想は、街の白無垢姿に対する称賛にもなりえるのだと、やらない夫は思った。
「しかし、こんな雪の日に、お店はやっているでしょうかだろ。
客がこないと割り切って、休みにしてませんかね…。」
「そこは、雪かきついでに調査済みですので、問題なしですお!
先生は、駅前の商店街に、洋食屋が出来たのご存知ですかお?
自分前から気になってて…!
今日はそこにしてみようかと。」
「洋食ですか!
久しぶりですねえ。
家がまだ勢いがあった時は、そこまで縁のないものではなかったのですが。
新速出編集は良くお食べに?」
「ま、まさかぁ!
でも、軍隊にいた時は、ちょっと変わった料理もいろいろ食べましたおね。
軍隊は体が資本ですからお。
外国の料理って、味が強くて、滋養がよくて、腹持ちもいいんで、意外とたくさん採用されてるんですお。
それに、軍隊式の料理なんてのもありましてお。
戦地で効率よく調理する方法とか、食べられる野草の見つけかた、動物の捕り方、なんて勉強もしましたお。」
「へぇ、兵隊さんは、そんなことまで勉強するんですねぇ。」
「いやまぁ、家族の多い百姓の出なもんで、多少なりとも炊事ができたんですお。
だから、小隊の飯炊きを命じられまして、勉強したんですお。
あとは、食いっぱぐれは辛いですからお!
知識はいくら持ってても、邪魔なものはないですお!」
「全くその通りですね!
流石、新速出編集は頼もしい。」
「と言っても、自分は三年間、内地勤務のまま戦争が終結したので、戦地には行かずじまいで兵役は終わったんですがおね。」
「そうだったのですね。
ですが、お役目ご苦労様でしただろ。」
二人は、そんな談笑しながら歩いていると、あっという間に駅前に到着した。
北口駅前広場を挟んで三ノ巣駅を見ると、その平屋の駅舎の屋根と、ホームをつなぐ陸橋の屋根が真っ白になっていた。
三ノ巣の駅前には交通の要所になっている広場があり、普段ならば相乗り馬車やボンネットバス、人力車がいつもたくさん行き交っているのだが、今日ばかりは雪のせいか閑散としていた。
鉄道も動いていないので、静かなものだ。
駅前広場を誰かが横切った足跡が残る程度には、雪もつもったままでいる。
駅舎から見て左側には、広場から伸びる商店街通りがあり、いろいろな商店が軒を連ねているのだが、その並びにやる夫が言う洋食屋があるらしい。
ちなみにやる夫が言っていた雪の並木道は駅舎から見て左側に延びていて、遠目から見ても銀細工が立ち並んでいるようであった。
「先生、まず腹ごしらえして、温まりましょうだお。
所々、まだ雪がありますお。
危ないですから、お手をどうぞですお。」
やる夫が一歩先に立ち、やらない夫に手をさしのべる。そんなやる夫を見て、やらない夫ははにかむ。
「エスコートは嬉しいですが、新速出編集の革靴のほうが転びやすいのでは?」
やらない夫に指摘され、やる夫は、たはと笑って頭を掻いた。
「たしかに。こりゃ一本とられましたお。」
「ですが…、せっかく、ですので。」
手を繋いだ二人は、駅舎から見て広場の正面側の道からやってきて、右手側の商店街の通りに入っていった。
商店街の通りはちゃんと雪かきがされているので、また歩きやすくなったが、やらない夫はやる夫が何も言わないのを良いことに、手をつないだまま、目的地まで歩いた。
「センセ!
到着ですお!
ここが話してた洋食屋の円満亭ですお!」
やる夫が笑いながら紹介した洋食屋は、レンガ造りの、小さめながら小綺麗な建物であった。
入り口であろう硝子戸の斜め上の壁には、付き出した鉄棒に店名のプレートがかけられているのだが、円満亭の満の字の囲われた山のところが、ニッコリ笑う顔になっていて、ずいぶんしゃれた字体の看板なのであった。
「なるほど、これはコジャレてますだろ。」
「東京のほうにだって、こんな洒落た店、数えられるほどしかないですお。
さ、さ、入ってみましょうだお!」
「そ、それは良いのですが、洋食は高いですよ?新速出編集にご馳走になるわけには…。」
「心配ご無用ですお。
今日はたまたま財布が厚いんですお。
ほら、実家に行くつもりでいましたからお。
小遣いやらなんやらせびられても、多少は出せるようにある程度いれといたんですお。
甥やら姪やらがたくさんいるんでお。」
「そんな、ご家族のためのお金じゃないですか!」
「いや、ご安心を!今年の年末はもう帰らない事にしたんで!
なので、実家に持ってく雑費が浮くってことですお。
その浮いたお金で、恩人に食事を奢ったってバチは当たらないと思いますお。」
「えぇ…。
ま、まぁ、結局、新速出編集のお金なので、私がどうこう言える立場ではないのですが、あの、ご無理はなさらないでくださいね。
元気な姿を見せてあげるのも、親孝行ですよ…。」
「ま、ま、もう店先に来てるんだから、いいっこなしですお!
さ、入りましょうお!」
やる夫は、ちょっと渋るやらない夫の背中を押しながら、片手で引き戸になっている硝子戸を開けた。
中は、こじんまりとしていながら、立派な内装であった。
寄せ木細工のような木製タイルが床にあしらわれており、壁は蔓草の模様が入った赤茶色の壁紙、窓には海外から輸入でもしたのか、たっぷりレースを使っている上等なカーテン、天井からは、花の模様のついた照明が吊り下げられていた。
四人がけの席が並べられたテーブルは、左右の壁に沿うように二テーブルずつ設置されていた。
それぞれのテーブルには、刺繍で赤い花が描かれたテーブルクロスがかけられ、テーブルの上には、花をもして折られたナプキンと、一輪挿しまでもが飾られている。
部屋の奥には、だるまストーブが据えられ、チラチラと温かな炎が燃えていた。
一番奥には、厨房につながる出入り口がある。
二人が店内に入ったとたん、ちりんちりんと戸にぶら下がっている鈴がなり、白衣をきた人物がひょいと顔を覗かせた。
「いらっしゃいませ。
足元がおぼつかないところ、ようこそお越しくださいました。
どうぞこちらの温かな席におかけください。」
ニコニコしながら奥から現れ、席に案内してくれたのは、どうやらこの店のコックらしい。
白衣を着て、頭の上に白くて長い帽子を乗せている姿が、いかにも洋食の作り手といった感じである。
「上着はあちらの上着かけをお使いください。」
部屋のすみにある、一本の幹に枝が伸びているような形の上着かけ(コートハンガー)を教えてもらい、二人は上着をかけさせてもらってから、案内された席に着いた。
だるまストーブの暖気が二人をつつみ、ホッと息をつく。
そこへコックがやってきて、丁寧に頭を下げた。
「ようこそ円満亭へ。
私は当食堂の料理人、寒河江(さがえ)ダディと申します。
本日は雪のために食材が届かず、いくつかの料理がいつものままにお出しすることができません。
せっかくお越しいただきましたところ、大変申し訳ありません。」
やる夫はギョッとした顔をしたが、やらない夫は案外冷静であった。
「この雪ですから、しかたありませんね。
では、その限られた食材で仕立てられるオススメを教えていただいてもよろしいですか?」
やらない夫の言葉に、ダディは品書きを広げて見せてくれた。
「はい。
もちろんです。
やはり、洋食というと肉料理を思い浮かべる方もたくさんいらっしゃいますよね。当食堂もご期待にそうべく肉料理には力をいれております。
今日も牛肉に関してはご用意ができておりますので、ご安心ください。
あまり牛肉など食べなれないようでしたら、こちらのお料理などは、挽いた牛肉をよくよく捏ねまして、小判がたにまるめたものを焼いてございますので、いくぶん食べやすくなっております。」
「ああ、ジャーマンステーキですね!」
「あ、ハンパクステーキですおね!」
同時に思い当たった名前を出したものの、まるで違う言葉が相手からきこえ、やる夫とやらない夫は顔を見合せてしまった。
「はっはっは。
お二方とも、よくご存知ですね。
失礼ですが、あなた様は軍隊経験がおありなのではないですか?」
コックのダディは、やる夫を見て言い当てた。
「え!
なぜそれを?」
「ハンパクステーキ、という名前で軍隊の料理教本に記載があると聞いたことがありましたので。」
「あ、なるほど。
たしかに教本にあった名前ですお!」
「ジャーマンステーキ、という呼び名は伝来してきた国が由来ですね。
独逸(ドイツ)からきた料理、というわけです。
ほかにも、ミンチボール、ハンブルクステーキ、ハンバグステーキ、ハンバーグステーキ、など、もともと我が国にはなかった料理ですので、いろいろな呼び名があるのです。
ですので、お二方とも間違っているわけではござませんよ。
当店では、ハンバグステーキと表記させていたただいておりますが、お二方が思い浮かべている料理とさほど変わりはないと思います。」
コックがそう言いながら笑ったので、やる夫もやらない夫も、なんだかホッとしたような顔をした。
「それでは、ハンバグステーキをメインに、サラドと汁物とご飯でお願いします。
飲み物は、ミルク紅茶で。
新速出編集も、同じものでよろしいでしょうか?」
「は、はいですお!
お願いしますお!」
やらない夫が尋ねると、やる夫はこくこくと頷いた。
コックは一礼してから厨房のほうへ歩いていった。
「先生は、なんというか、こなれてますおね。
自分なんか、店に入ったら、なんかあがっちゃいましてお…。」
「昔、一応ひととおりテーブルマナーはやらされたので、多少洋食の雰囲気になれているだけですだろ。
今はもっぱら米と味噌汁ばかりですから、こなれてはないですね。」
やらない夫は苦笑しながらも、皿の上のナプキンをほどき、膝の上に乗せた。それが様になっていて、やる夫は終始尊敬の眼差しを向けていた。
やる夫とやらない夫は、しばらく気品と温もりのある店内で、とりとめのない雑談の花を咲かせた。
窓の外を行く人は少なく、他に店を訪れる人もなく。
二人はニコニコ笑う相手の顔を眺めながら、いろいろな方向に飛ぶ話をじっくりと楽しんだのであった。
「お待たせいたしました。」
時間の流れを忘れるほどに談笑していた二人のところに、ダディが料理をトレーに乗せてやってきた。
話を止めた二人は、邪魔にならないように行儀よく座り直す。
「こちら、当店自慢のハンバグステーキでございます。
それと、ご飯と、里芋のポタージュ、かぼちゃの温かいサラドでございます。」
ダディは、手慣れたようすで二人のまえに皿を並べて行く。
白い皿の上には、トマトソースがかけられた分厚くて食べごたえのありそうなハンバグステーキと、添えものとしてのジャガタラ芋(じゃがいも)のマッシュ(マッシュポテト)と、ニンジンの照り煮(ニンジンのグラッセ)が品よく澄まして座っていた。
照りのあるご飯は、白い皿の上に柔らかく盛り付けられ、椀じゃないだけでずいぶん洋食めいて洒落ている。
里芋のポタージュというものは、真っ白い深皿の中にはいっている汁物(スープ)料理で、白濁としてとろみがある。
かぼちゃの温かいサラドは、火を通したカボチャを賽の目に切り、オランデールソース(マヨネーズに似た味わいのソース)をかけたものであった。
「お、おいしそうだお…!」
「これは豪勢だろ。
新速出編集、冷めないうちに、いただきましょう!」
「そうしましょうお!
いただきまぁす!」
二人は皿のよこに並べられたカトラリーを手に取り、さっそく食べはじめた。
やる夫はナイフとフォークでもたつきながらもハンバグステーキを切り、苦労して切り出したひとかけを眺めてから、ぱくりとほおばった。
「ほひゃーーーー!
うんまぁーいだお!
中から肉汁がじゅわーってでてきて、肉は柔らかいけど食べごたえがあって、肉の味は強いけどトマトのソースがさっぱりしてて…。
ご飯とも合いますおー!
あ!ご飯もなんか普通とは違う気がしますお!
なんだろう、味がついてるって感じじゃないのに、こくがあるとゆーか…。
とにかく肉と合いますお!
いくらでも食べられちゃいますおー、こんなん!」
やる夫は、目をキラキラさせながら、ハンバグとライスを噛みしめた。
一方で、やらない夫は、落ち着いた所作で里芋のポタージュスープをスプーンで掬いとり、口に運んでいた。
「里芋のポタージュスープ、なんとくちどけの良い料理なんでしょう!
一足さきにきた春風が口のなかを撫でていくみたいに、なめらかで、温かくて、軽いですだろ。
里芋のとろみのなかに、玉ねぎとミルクの風味があって、胃の腑が癒されますだろ~。
カボチャのサラドも、色味も良いですし、カボチャの甘味と白いソースがまた合いますねぇ。
至福ですだろ。」
やる夫とやらない夫が、あまりににこやかに食べるので、厨房から様子を伺っていたダディも嬉しそうに笑った。
他に客もいないのもあり、二人のテーブルのところまでやってきたほどだ。
「ご飯は、バタ(バター)で軽く炒めてありますので、こくがあります。
お気に召されましたか?」
「もちろんですお!
幸せをそのまま食べてるみたいですお!」
「素晴らしいお料理ですだろ。
大変美味しいです。」
二人の称賛に、ダディは照れたようにはにかんでいた。
二人たっぷりとダディの料理を堪能して、ダディも交えて少し談笑したあと、二人はすっかり満足して会計をすませて店を後にしたのだった。
チリンチリンと、戸のベルをならしながら外に出た二人は、満足げなため息をついた。
「はぁー。
幸せですおー。」
「素晴らしいお料理でした…。
しかし、やはりそれに見合うお値段でしたが、本当によろしいのですか?ご馳走になってしまって…。」
「昨夜のお礼なんですから、もちろんいいんですお!
さ、さ、腹ごなしがてら、ちょっと取材しに散歩しましょだお!」
そう言いながら、ちょっと申し訳ないような顔のやらない夫の背中を押して、やる夫は次の目的地である並木道の方に進んだ。
並木道は駅前広場から西に伸びる道沿いにあるので、一端二人は、広場に出ることにする。
まだまだ雪が残る駅前広場を、今度は駅から見て左側、商店街から見て広場を挟んで反対の方に向かう。
三ノ巣の駅の西側には、東京へと水を供給している角川(かどかわ)上水の水路が通っており、その水路にそって両岸が公園になっている。
遊歩道が整備され、土手には桜並木が立ち並び、桜通りと呼ばれて地域に親しまれていた。
雪の後の水路は、まるで墨が流れるように黒く、岸辺の枝葉に乗り掛かる雪は煌めくように白かった。
遊歩道の入り口から公園を覗きこんだやる夫とやらない夫は、水墨画の世界に迷いこんでしまったような気分になった。
「ほあー。
綺麗な景色ですおねえ。
まるで水墨画ですお。」
「本当に!
幻想的ですだろ。」
雪をかぶった桜の枝は、銀細工のように美しく、青空を背景にして風に微かに揺れる。
枝から落ちた雪が、とそりと音を立てるのが聞こえるくらい静かであった。
二人は、この景色を遊歩道に見にきた人の足によりできたのであろう一本の轍(わだち)を、縦に並んでゆっくりと歩いた。
しばらく行くと、椅子に使われているらしい横倒しの短く太い丸太があった。
先客がいたらしく、丸太には雪がなかったため、二人はそこに腰掛けて景色を眺めることにする。
「ガラス細工物の美術館にいる気分ですおー。」
周囲を見渡しながら、やる夫が感想を述べる。
「銀世界とはよく言ったものです。
春の桜並木も見事ですが、雪の並木道もまたオツですね。」
やらない夫も同じように雪化粧した並木道を、ゆっくり見上げていた。
「そう言えばここ、春先は桜の名所になるんでしたおね。」
やる夫がそう言ったので、やらない夫は視線をやる夫に向けた。
「ええ。
それは見事ですよ。
近くの商店が出店をだしたりして賑やかになります。」
「自分、遠目に視るばっかりで、満開の並木を歩いたことないんですお。
あ、そうだ、また来ましょうお!
今度はお花見の取材に!」
「ふふ、いいですね。
そういたしましょう。新速出編集。」
目を輝かせながら言うやる夫に目を細めながら、やらない夫も頷いた。
そんな二人の座る周囲を、すーっと冷たい北風が吹き抜けた。
枝葉が揺れて、雪がきらめきながら落ちていく。
「ひょあ、ちょっと風が出てきましたかおね。
先生、寒くはないですかお?」
「そうですね…。
ちょっと寒…。」
やらない夫は、寒さにつられて体を擦る。
そして、そこではじめて自分の体がずっと小刻みに震えていることに気がついた。
やらない夫は、はっとしたが、気がついてしまうともうだめだった。
ぞくぞくぞくぞくっと気色悪い寒さが、やらない夫の背骨を這い上がる。
これはいったいどうしたことかと、やらない夫が思った時、くらんと世界が揺れた。
「先生、寒いなら自分、けっこう体温高い方なんで、使ってくれていいですお!」
そう言いながらやる夫がやらない夫の手をとる。
だが、それを嬉しく思う体力は、もはややらない夫には残っていなかったらしい。
腕をとられたことで平行を失った体は、やる夫の方へ倒れかかってしまったのだ。
「うわっ!?
せ、せ、先生!
どうしたんですかお!?
美筆先生っ!
しっ、しっかりしてくださいおっ!」
とっさに怪しくぐらりと傾いだ(かしいだ)やらない夫をやる夫は抱き止めたが、声をかけてもやらない夫は倒れかかったまま、ぐったりしていた。
「先生っ!
う、うわ!
熱が…!体がこんなに…熱いお…!?
そんな、いきなり、し、しっかり、しっかりしてくださいお!
先生、先生ぇー!」
やる夫がやらない夫の額に手を当てて、じりりと熱いことに気がつき真っ青になる。
どんなにやる夫が呼び掛けようと、答えないやらない夫の腕が、ふらりふらりと揺れるだけであった。
つづく
そういいながら、やらない夫はやる夫が待つ居間への襖を開けた。
「わ…!
美筆先生、凄くお似合いですおね!」
やらない夫の姿を見たやる夫は、思わずといったように歓声を上げる。
やらない夫は着物の上から黒いインバネスコートを着て、首もとに赤銅色の襟巻きを巻き、頭には黒いビロードのシャッポを被っていた。
「昔仕立てたものなのですが…。
変じゃないでしょうか?」
「着物に外国渡りのコートっていうのがまたモダンですお!
先生はなんでも着こなせてうらやましいですお~!」
やる夫は目を輝かせながら、やらない夫の服装のセンスに拍手を贈る。
やらない夫は少々照れながら頭をかいた。
「さて、じゃあ、先生のご用意が済んだなら、さっそく行きましょうかお!」
二人は玄関で外ばきを履く。
やる夫は少ししけった革靴。
やらない夫は素足に雪下駄であった。
「先生、素足に下駄は寒くないですかお?」
「そう言いましても、こうも雪では足袋など濡れてしまいますし、仕方ありません。
それに、上は着込んでいますから。」
心配するやる夫を余所に、やらない夫はカラリと玄関の戸を開けた。
外に出てみれば、抜けるような青空と、雪化粧した家々。それを照らす日光は雪に反射して、目をくらますほどにまぶしい。
ましてや、暗い室内から出たばかりのやらない夫は、玄関前で立ち尽くしてしまうほどだった。
「ひゃー、まぶしいですおねー!」
後から出てきたやる夫も、あまりの眩しさに目を眩ませたようだ。
少し目を慣らすように瞬きをしてから、やらない夫は、やる夫が雪かきをしたという道に歩み出た。
やらない夫は冷えた空気を深く肺に招き入れ、ガラスのような尖った冷たさを体で味わった。
「けほ…っ!」
やらない夫の口から咳がこぼれた。
「せ、先生!大丈夫ですかお?」
やる夫が心配して、やらない夫の近くに寄った。やらない夫は、少し集中して息をしてからやる夫に振り向く。
「…元来、あまり丈夫な方ではないので、冷たい空気に体が驚いたのでしょう。
大丈夫ですだろ。行きましょう、新速出編集。」
やる夫はまだ心配げな顔をしていたが、やらない夫に言われて頷いた。
戸締まりをすませ、二人は雪かきの済んでいる道を駅の方へとゆっくり歩きだした。
日の光で照らされた砂利道は、雪かきされているところはすでに乾き初めているほどだった。
やらない夫は、やる夫様々だと思いながら、雪下駄でゆっくり歩く。
やる夫も、やらない夫と並んでゆっくり歩いた。
どこもかしこも雪で化粧された街は、まるで別世界であった。
普段全く化粧しない女性が、結婚式のために白無垢をまとい、化粧を施せば、誰しも印象の変わりように驚くであろう。
見慣れないという物珍しさや、美しいというすなおな感想は、街の白無垢姿に対する称賛にもなりえるのだと、やらない夫は思った。
「しかし、こんな雪の日に、お店はやっているでしょうかだろ。
客がこないと割り切って、休みにしてませんかね…。」
「そこは、雪かきついでに調査済みですので、問題なしですお!
先生は、駅前の商店街に、洋食屋が出来たのご存知ですかお?
自分前から気になってて…!
今日はそこにしてみようかと。」
「洋食ですか!
久しぶりですねえ。
家がまだ勢いがあった時は、そこまで縁のないものではなかったのですが。
新速出編集は良くお食べに?」
「ま、まさかぁ!
でも、軍隊にいた時は、ちょっと変わった料理もいろいろ食べましたおね。
軍隊は体が資本ですからお。
外国の料理って、味が強くて、滋養がよくて、腹持ちもいいんで、意外とたくさん採用されてるんですお。
それに、軍隊式の料理なんてのもありましてお。
戦地で効率よく調理する方法とか、食べられる野草の見つけかた、動物の捕り方、なんて勉強もしましたお。」
「へぇ、兵隊さんは、そんなことまで勉強するんですねぇ。」
「いやまぁ、家族の多い百姓の出なもんで、多少なりとも炊事ができたんですお。
だから、小隊の飯炊きを命じられまして、勉強したんですお。
あとは、食いっぱぐれは辛いですからお!
知識はいくら持ってても、邪魔なものはないですお!」
「全くその通りですね!
流石、新速出編集は頼もしい。」
「と言っても、自分は三年間、内地勤務のまま戦争が終結したので、戦地には行かずじまいで兵役は終わったんですがおね。」
「そうだったのですね。
ですが、お役目ご苦労様でしただろ。」
二人は、そんな談笑しながら歩いていると、あっという間に駅前に到着した。
北口駅前広場を挟んで三ノ巣駅を見ると、その平屋の駅舎の屋根と、ホームをつなぐ陸橋の屋根が真っ白になっていた。
三ノ巣の駅前には交通の要所になっている広場があり、普段ならば相乗り馬車やボンネットバス、人力車がいつもたくさん行き交っているのだが、今日ばかりは雪のせいか閑散としていた。
鉄道も動いていないので、静かなものだ。
駅前広場を誰かが横切った足跡が残る程度には、雪もつもったままでいる。
駅舎から見て左側には、広場から伸びる商店街通りがあり、いろいろな商店が軒を連ねているのだが、その並びにやる夫が言う洋食屋があるらしい。
ちなみにやる夫が言っていた雪の並木道は駅舎から見て左側に延びていて、遠目から見ても銀細工が立ち並んでいるようであった。
「先生、まず腹ごしらえして、温まりましょうだお。
所々、まだ雪がありますお。
危ないですから、お手をどうぞですお。」
やる夫が一歩先に立ち、やらない夫に手をさしのべる。そんなやる夫を見て、やらない夫ははにかむ。
「エスコートは嬉しいですが、新速出編集の革靴のほうが転びやすいのでは?」
やらない夫に指摘され、やる夫は、たはと笑って頭を掻いた。
「たしかに。こりゃ一本とられましたお。」
「ですが…、せっかく、ですので。」
手を繋いだ二人は、駅舎から見て広場の正面側の道からやってきて、右手側の商店街の通りに入っていった。
商店街の通りはちゃんと雪かきがされているので、また歩きやすくなったが、やらない夫はやる夫が何も言わないのを良いことに、手をつないだまま、目的地まで歩いた。
「センセ!
到着ですお!
ここが話してた洋食屋の円満亭ですお!」
やる夫が笑いながら紹介した洋食屋は、レンガ造りの、小さめながら小綺麗な建物であった。
入り口であろう硝子戸の斜め上の壁には、付き出した鉄棒に店名のプレートがかけられているのだが、円満亭の満の字の囲われた山のところが、ニッコリ笑う顔になっていて、ずいぶんしゃれた字体の看板なのであった。
「なるほど、これはコジャレてますだろ。」
「東京のほうにだって、こんな洒落た店、数えられるほどしかないですお。
さ、さ、入ってみましょうだお!」
「そ、それは良いのですが、洋食は高いですよ?新速出編集にご馳走になるわけには…。」
「心配ご無用ですお。
今日はたまたま財布が厚いんですお。
ほら、実家に行くつもりでいましたからお。
小遣いやらなんやらせびられても、多少は出せるようにある程度いれといたんですお。
甥やら姪やらがたくさんいるんでお。」
「そんな、ご家族のためのお金じゃないですか!」
「いや、ご安心を!今年の年末はもう帰らない事にしたんで!
なので、実家に持ってく雑費が浮くってことですお。
その浮いたお金で、恩人に食事を奢ったってバチは当たらないと思いますお。」
「えぇ…。
ま、まぁ、結局、新速出編集のお金なので、私がどうこう言える立場ではないのですが、あの、ご無理はなさらないでくださいね。
元気な姿を見せてあげるのも、親孝行ですよ…。」
「ま、ま、もう店先に来てるんだから、いいっこなしですお!
さ、入りましょうお!」
やる夫は、ちょっと渋るやらない夫の背中を押しながら、片手で引き戸になっている硝子戸を開けた。
中は、こじんまりとしていながら、立派な内装であった。
寄せ木細工のような木製タイルが床にあしらわれており、壁は蔓草の模様が入った赤茶色の壁紙、窓には海外から輸入でもしたのか、たっぷりレースを使っている上等なカーテン、天井からは、花の模様のついた照明が吊り下げられていた。
四人がけの席が並べられたテーブルは、左右の壁に沿うように二テーブルずつ設置されていた。
それぞれのテーブルには、刺繍で赤い花が描かれたテーブルクロスがかけられ、テーブルの上には、花をもして折られたナプキンと、一輪挿しまでもが飾られている。
部屋の奥には、だるまストーブが据えられ、チラチラと温かな炎が燃えていた。
一番奥には、厨房につながる出入り口がある。
二人が店内に入ったとたん、ちりんちりんと戸にぶら下がっている鈴がなり、白衣をきた人物がひょいと顔を覗かせた。
「いらっしゃいませ。
足元がおぼつかないところ、ようこそお越しくださいました。
どうぞこちらの温かな席におかけください。」
ニコニコしながら奥から現れ、席に案内してくれたのは、どうやらこの店のコックらしい。
白衣を着て、頭の上に白くて長い帽子を乗せている姿が、いかにも洋食の作り手といった感じである。
「上着はあちらの上着かけをお使いください。」
部屋のすみにある、一本の幹に枝が伸びているような形の上着かけ(コートハンガー)を教えてもらい、二人は上着をかけさせてもらってから、案内された席に着いた。
だるまストーブの暖気が二人をつつみ、ホッと息をつく。
そこへコックがやってきて、丁寧に頭を下げた。
「ようこそ円満亭へ。
私は当食堂の料理人、寒河江(さがえ)ダディと申します。
本日は雪のために食材が届かず、いくつかの料理がいつものままにお出しすることができません。
せっかくお越しいただきましたところ、大変申し訳ありません。」
やる夫はギョッとした顔をしたが、やらない夫は案外冷静であった。
「この雪ですから、しかたありませんね。
では、その限られた食材で仕立てられるオススメを教えていただいてもよろしいですか?」
やらない夫の言葉に、ダディは品書きを広げて見せてくれた。
「はい。
もちろんです。
やはり、洋食というと肉料理を思い浮かべる方もたくさんいらっしゃいますよね。当食堂もご期待にそうべく肉料理には力をいれております。
今日も牛肉に関してはご用意ができておりますので、ご安心ください。
あまり牛肉など食べなれないようでしたら、こちらのお料理などは、挽いた牛肉をよくよく捏ねまして、小判がたにまるめたものを焼いてございますので、いくぶん食べやすくなっております。」
「ああ、ジャーマンステーキですね!」
「あ、ハンパクステーキですおね!」
同時に思い当たった名前を出したものの、まるで違う言葉が相手からきこえ、やる夫とやらない夫は顔を見合せてしまった。
「はっはっは。
お二方とも、よくご存知ですね。
失礼ですが、あなた様は軍隊経験がおありなのではないですか?」
コックのダディは、やる夫を見て言い当てた。
「え!
なぜそれを?」
「ハンパクステーキ、という名前で軍隊の料理教本に記載があると聞いたことがありましたので。」
「あ、なるほど。
たしかに教本にあった名前ですお!」
「ジャーマンステーキ、という呼び名は伝来してきた国が由来ですね。
独逸(ドイツ)からきた料理、というわけです。
ほかにも、ミンチボール、ハンブルクステーキ、ハンバグステーキ、ハンバーグステーキ、など、もともと我が国にはなかった料理ですので、いろいろな呼び名があるのです。
ですので、お二方とも間違っているわけではござませんよ。
当店では、ハンバグステーキと表記させていたただいておりますが、お二方が思い浮かべている料理とさほど変わりはないと思います。」
コックがそう言いながら笑ったので、やる夫もやらない夫も、なんだかホッとしたような顔をした。
「それでは、ハンバグステーキをメインに、サラドと汁物とご飯でお願いします。
飲み物は、ミルク紅茶で。
新速出編集も、同じものでよろしいでしょうか?」
「は、はいですお!
お願いしますお!」
やらない夫が尋ねると、やる夫はこくこくと頷いた。
コックは一礼してから厨房のほうへ歩いていった。
「先生は、なんというか、こなれてますおね。
自分なんか、店に入ったら、なんかあがっちゃいましてお…。」
「昔、一応ひととおりテーブルマナーはやらされたので、多少洋食の雰囲気になれているだけですだろ。
今はもっぱら米と味噌汁ばかりですから、こなれてはないですね。」
やらない夫は苦笑しながらも、皿の上のナプキンをほどき、膝の上に乗せた。それが様になっていて、やる夫は終始尊敬の眼差しを向けていた。
やる夫とやらない夫は、しばらく気品と温もりのある店内で、とりとめのない雑談の花を咲かせた。
窓の外を行く人は少なく、他に店を訪れる人もなく。
二人はニコニコ笑う相手の顔を眺めながら、いろいろな方向に飛ぶ話をじっくりと楽しんだのであった。
「お待たせいたしました。」
時間の流れを忘れるほどに談笑していた二人のところに、ダディが料理をトレーに乗せてやってきた。
話を止めた二人は、邪魔にならないように行儀よく座り直す。
「こちら、当店自慢のハンバグステーキでございます。
それと、ご飯と、里芋のポタージュ、かぼちゃの温かいサラドでございます。」
ダディは、手慣れたようすで二人のまえに皿を並べて行く。
白い皿の上には、トマトソースがかけられた分厚くて食べごたえのありそうなハンバグステーキと、添えものとしてのジャガタラ芋(じゃがいも)のマッシュ(マッシュポテト)と、ニンジンの照り煮(ニンジンのグラッセ)が品よく澄まして座っていた。
照りのあるご飯は、白い皿の上に柔らかく盛り付けられ、椀じゃないだけでずいぶん洋食めいて洒落ている。
里芋のポタージュというものは、真っ白い深皿の中にはいっている汁物(スープ)料理で、白濁としてとろみがある。
かぼちゃの温かいサラドは、火を通したカボチャを賽の目に切り、オランデールソース(マヨネーズに似た味わいのソース)をかけたものであった。
「お、おいしそうだお…!」
「これは豪勢だろ。
新速出編集、冷めないうちに、いただきましょう!」
「そうしましょうお!
いただきまぁす!」
二人は皿のよこに並べられたカトラリーを手に取り、さっそく食べはじめた。
やる夫はナイフとフォークでもたつきながらもハンバグステーキを切り、苦労して切り出したひとかけを眺めてから、ぱくりとほおばった。
「ほひゃーーーー!
うんまぁーいだお!
中から肉汁がじゅわーってでてきて、肉は柔らかいけど食べごたえがあって、肉の味は強いけどトマトのソースがさっぱりしてて…。
ご飯とも合いますおー!
あ!ご飯もなんか普通とは違う気がしますお!
なんだろう、味がついてるって感じじゃないのに、こくがあるとゆーか…。
とにかく肉と合いますお!
いくらでも食べられちゃいますおー、こんなん!」
やる夫は、目をキラキラさせながら、ハンバグとライスを噛みしめた。
一方で、やらない夫は、落ち着いた所作で里芋のポタージュスープをスプーンで掬いとり、口に運んでいた。
「里芋のポタージュスープ、なんとくちどけの良い料理なんでしょう!
一足さきにきた春風が口のなかを撫でていくみたいに、なめらかで、温かくて、軽いですだろ。
里芋のとろみのなかに、玉ねぎとミルクの風味があって、胃の腑が癒されますだろ~。
カボチャのサラドも、色味も良いですし、カボチャの甘味と白いソースがまた合いますねぇ。
至福ですだろ。」
やる夫とやらない夫が、あまりににこやかに食べるので、厨房から様子を伺っていたダディも嬉しそうに笑った。
他に客もいないのもあり、二人のテーブルのところまでやってきたほどだ。
「ご飯は、バタ(バター)で軽く炒めてありますので、こくがあります。
お気に召されましたか?」
「もちろんですお!
幸せをそのまま食べてるみたいですお!」
「素晴らしいお料理ですだろ。
大変美味しいです。」
二人の称賛に、ダディは照れたようにはにかんでいた。
二人たっぷりとダディの料理を堪能して、ダディも交えて少し談笑したあと、二人はすっかり満足して会計をすませて店を後にしたのだった。
チリンチリンと、戸のベルをならしながら外に出た二人は、満足げなため息をついた。
「はぁー。
幸せですおー。」
「素晴らしいお料理でした…。
しかし、やはりそれに見合うお値段でしたが、本当によろしいのですか?ご馳走になってしまって…。」
「昨夜のお礼なんですから、もちろんいいんですお!
さ、さ、腹ごなしがてら、ちょっと取材しに散歩しましょだお!」
そう言いながら、ちょっと申し訳ないような顔のやらない夫の背中を押して、やる夫は次の目的地である並木道の方に進んだ。
並木道は駅前広場から西に伸びる道沿いにあるので、一端二人は、広場に出ることにする。
まだまだ雪が残る駅前広場を、今度は駅から見て左側、商店街から見て広場を挟んで反対の方に向かう。
三ノ巣の駅の西側には、東京へと水を供給している角川(かどかわ)上水の水路が通っており、その水路にそって両岸が公園になっている。
遊歩道が整備され、土手には桜並木が立ち並び、桜通りと呼ばれて地域に親しまれていた。
雪の後の水路は、まるで墨が流れるように黒く、岸辺の枝葉に乗り掛かる雪は煌めくように白かった。
遊歩道の入り口から公園を覗きこんだやる夫とやらない夫は、水墨画の世界に迷いこんでしまったような気分になった。
「ほあー。
綺麗な景色ですおねえ。
まるで水墨画ですお。」
「本当に!
幻想的ですだろ。」
雪をかぶった桜の枝は、銀細工のように美しく、青空を背景にして風に微かに揺れる。
枝から落ちた雪が、とそりと音を立てるのが聞こえるくらい静かであった。
二人は、この景色を遊歩道に見にきた人の足によりできたのであろう一本の轍(わだち)を、縦に並んでゆっくりと歩いた。
しばらく行くと、椅子に使われているらしい横倒しの短く太い丸太があった。
先客がいたらしく、丸太には雪がなかったため、二人はそこに腰掛けて景色を眺めることにする。
「ガラス細工物の美術館にいる気分ですおー。」
周囲を見渡しながら、やる夫が感想を述べる。
「銀世界とはよく言ったものです。
春の桜並木も見事ですが、雪の並木道もまたオツですね。」
やらない夫も同じように雪化粧した並木道を、ゆっくり見上げていた。
「そう言えばここ、春先は桜の名所になるんでしたおね。」
やる夫がそう言ったので、やらない夫は視線をやる夫に向けた。
「ええ。
それは見事ですよ。
近くの商店が出店をだしたりして賑やかになります。」
「自分、遠目に視るばっかりで、満開の並木を歩いたことないんですお。
あ、そうだ、また来ましょうお!
今度はお花見の取材に!」
「ふふ、いいですね。
そういたしましょう。新速出編集。」
目を輝かせながら言うやる夫に目を細めながら、やらない夫も頷いた。
そんな二人の座る周囲を、すーっと冷たい北風が吹き抜けた。
枝葉が揺れて、雪がきらめきながら落ちていく。
「ひょあ、ちょっと風が出てきましたかおね。
先生、寒くはないですかお?」
「そうですね…。
ちょっと寒…。」
やらない夫は、寒さにつられて体を擦る。
そして、そこではじめて自分の体がずっと小刻みに震えていることに気がついた。
やらない夫は、はっとしたが、気がついてしまうともうだめだった。
ぞくぞくぞくぞくっと気色悪い寒さが、やらない夫の背骨を這い上がる。
これはいったいどうしたことかと、やらない夫が思った時、くらんと世界が揺れた。
「先生、寒いなら自分、けっこう体温高い方なんで、使ってくれていいですお!」
そう言いながらやる夫がやらない夫の手をとる。
だが、それを嬉しく思う体力は、もはややらない夫には残っていなかったらしい。
腕をとられたことで平行を失った体は、やる夫の方へ倒れかかってしまったのだ。
「うわっ!?
せ、せ、先生!
どうしたんですかお!?
美筆先生っ!
しっ、しっかりしてくださいおっ!」
とっさに怪しくぐらりと傾いだ(かしいだ)やらない夫をやる夫は抱き止めたが、声をかけてもやらない夫は倒れかかったまま、ぐったりしていた。
「先生っ!
う、うわ!
熱が…!体がこんなに…熱いお…!?
そんな、いきなり、し、しっかり、しっかりしてくださいお!
先生、先生ぇー!」
やる夫がやらない夫の額に手を当てて、じりりと熱いことに気がつき真っ青になる。
どんなにやる夫が呼び掛けようと、答えないやらない夫の腕が、ふらりふらりと揺れるだけであった。
つづく