【やる&やら】最凶にして最愛のただ一人の君に捧ぐ
やらない夫が布団を取り落とし、唖然としなかわら見守っていると、やる夫はやらない夫に気がついたらしく、ハッと顔を上げた。
「あ!
先生!」
原稿を丁寧に文机に戻してから立ち上がったやる夫は、跳ねるような足取りでやらない夫の目の前までやってくると、やらない夫の手をとった。
「先生!
すみません、机の上にあった作品、仕上がった次の原稿かと思って、勝手によんでしまいましたお…。
でも、あの、あれ、素晴らしい作品ですおねっ!
身を切るような切ない描写!
互いに向かい合って見つめあいながらもすれ違う心情!
自分、この作品に心を奪われてしまいましたお!
そして、こんな素晴らしい作品を世に産み出して下さった先生に、心より感謝を…!
このような素晴らしい作品に巡りあえた興奮が、ふつふつと次から次へと!あ~!興奮が静まらないですおっ!」
目をキラキラと輝かせて、やる夫はやらない夫の手を握りしめたままブンブン振り回し、顔を紅潮させてまくし立てた。
やらない夫はやる夫の勢いに押されたように呆けてしまったが、おずおずと口を開いた。
「こ………、心、奪われましたか…?」
「はいですおっ!それはもう!
好きすぎて、愛してしまったといっても過言ではないですお!」
そんなことを言われてしまっては、やらない夫はもうどうしようもなかった。
心臓を拳銃で撃ち抜かれたような衝撃とともに、みるみるうちに自分の顔が赤く火照るのを、やらない夫は感じた。
先ほど芯まで冷えた心と体は、真っ赤に焼けた火かき棒でもつっこまれたかのように、瞬時に熱された。
これ以上に、どろりと熱く溶けた。
「そ、そ…、そうで、すか…。
それはー…、ありがとうございます…。」
ゴニョゴニョと口の中でやらない夫は感謝をのべる。
そこにすかさず、やる夫は手を離してから、素早くやらない夫の足元に座り込み両手をついた。
「美筆先生!
助けていただいた上で厚かましいお願いなのですが!
どうかっ!
どうかこの作品をっ!
わが社の雑誌に掲載させていただけないでしょうかおっ!
今までお話を伺ったことがなかったので、こちらはご自身のためにお書きになった作品であろうとは思うのですが、こんなに素晴らしい作品を世に送り出さないなんて、先生の文章を愛する編集としてはあるまじき諸行なんですお!
自分、この作品に、本当に心奪われたんですおっ!この作品を日本の宝として、日の目を見させてあげたいんですおっ!
もちろん、掲載が決まれば原稿料をお支払いたしますお!
ど、どうかご一考くださいお!」
頭を床にこすりつけ、やる夫はやらない夫に土下座で懇願した。
やらない夫は少々困ったような顔を見せる。
「し。しかし、あの作品は…。」
口ごもるやらない夫に、やる夫はさっと青ざめた。
「っ!
もしやっ!他の出版社への原稿、だとか…!?」
やらない夫は、あわてて否定のために手をふりながら弁解する。
「あ、いやいや、私は淡雪講社さんにしか所属してないですから、それはないです。」
それを聞いたやる夫は盛大に安堵のため息橋をつく。
「良かったぁ!
交渉すらできないお先真っ暗かとこわくなりましたお…!
なら、まだ希望ありますお?
お願いですお、先生!
このあわれな一読者にお恵みをっ!」
やる夫はさらに平べったくなりながら土下座しする。
やらない夫は、そんなやる夫の姿を見て、しばし目線を泳がせたあと、一つため息をつくと、すっとしゃがんだ。
「顔を上げてください。
新速出編集。
解りました。貴方がそんなにその作品を気に入って…、愛してくださっているというのなら…。
掲載を認めますだろ。」
「ありがとうございますおっっっっ!先生っ!
人生最大の幸福ですお!」
畳のもようが額にうつるくらい、やる夫は額を床に押し付けた。
「しかし、貴方が担当している青い鳥かごとは、対象年齢が合わないと思うのですが?」
やる夫は感涙さえ浮かべながら、がばっと顔を上げる。
「大丈夫ですおっ!
編集長に掛け合いますおっ!
それに、青い鳥かごがダメでも、わが社には幻想華ってのいう、青年向けの雑誌もありますからお!
そっちなら、絶対のせられますおっ!
だから、大丈夫ですおっ!
お蔵入りなんて、絶対させませんおっ!」
やる夫はこぶしを握り、熱い口調で力説したのだが、はたりと何かに気がついた。
「んあっ!?
せ、先生!
そ、そんなことより!
顔が真っ赤じゃないっすかお!
お体調子悪いですかお?!」
火照ったままの顔を指摘され、やらない夫は
はっとして頬に手をやる。
「あ、いえ、これは…。
貴方が、私の作品を認めて愛してくださったことが嬉しくて…。
本当に、嬉しくて。
私こそ、人生最大の幸福ですだろ。
ええ、ええ、私は、それだけで、もう…。」
そこまで言ったやらない夫の目から、ホロリと大粒の涙がこぼれた。
「あああああああああ!
涙っ!
先生、涙がっ!」
やる夫は、やらない夫の白い肌を濡らす雫に、これ以上なく慌てふためく。
「う、嬉し涙です、お、お気になさらないでくださいだろ…。」
「そ、そんなに切ないお顔なさってるのに…、嬉し涙なんですかお…?
本当に、大丈夫なんですかお?」
やる夫は心底心配そうにやらない夫の顔を覗きこむが、やらない夫はその視線から逃れようと顔を手で隠す。
「だ、大丈夫ですだろ!
あ、それよりも!
すみません、お布団を持ってまいりましたので、敷くのを手伝っていただけますか?!」
話をそらすために、やらない夫は必死になって言った。
「あっ!
ありがとうございますおっ!
もちろんですお!」
やる夫は、気づいたやいなや、床に落ちたままになっていた布団をもう一度まとめると、軽々ひょいと持ち上げた。
そして、やらない夫の布団の横まで担いでいって、手早く布団を伸べた。
それは本当にあっという間であり、その間、やらない夫はやる夫がきびきびと動くのを、ついぼんやりと眺めていた。
やらない夫が、はっと我に返った時には、もう何も手伝うことなく布団の支度は終わっていた。
「…あ、すみません。
手伝うどころか、やらせてしまって…。」
「いやいや、ご厄介になる身ですからお!
自分の寝床の支度ぐらい、自分でしますお!
それより…。
少し落ち着けましたかお?」
「ええ、はい。
すみません。
つい、感極まってしまいまして…。
もう、大丈夫です。」
やらない夫は困り顔で頭をかいた。
「や、やっぱり、その、自分の申し出が、ご負担でしたでしょうかお…?」
心配するやる夫に、やらない夫は一生懸命否定する。
「いえ!
あの、違い、まして。
…まさか…ええ、貴方にそんなに気に入っていただけるなんて、思わなかったもので…、本当に…。
誰にも見せることなく、朽ちゆくものとばかり思っていたので、驚いたのと、嬉しかったので、感極まって…。
正直、今、私は死んでもいいほどの心持ちなんです。」
「し、し!
しぃぃぃぃいしししし、死んじゃだめですおっっっっっ!
ダメダメダメですお!
お願いですお!そんな!駄目ですからおね!?」
「ふふふ、大丈夫ですよ。
死にはしませんだろ。
私だってもっともっと、作品をかきたいですから。
でもそれだけ、私は今、幸せになってしまった、そう言うことなのです。
でもちょっと、部屋の外の空気を吸ってきますだろ。」
やらない夫はそう言ってから立ち上がると、居間へ繋がる襖を開けて出ていき、比較的すぐに帰ってきた。
その手には黒塗りの盆を持っており、手拭いと、徳利と、湯呑みが2つ乗っていた。
「この手拭いは、お鞄の中身の整理にお使いください。」
「あっ!そうだおっ!
鞄っ!忘れてましたお!
ひぇー、大丈夫かな。
手拭い、お借りしますおっ!」
「では、整理の間に白湯でもつくりますだろ。」
やる夫は手拭いを手に取ると、廊下に出したままだった鞄を開けて、中身を確かめながら手拭いで拭き、畳の上にならべていった。
一方のやらない夫は、ずっと火鉢にかかっていた鉄瓶から徳利へお湯を注ぎ、少し時間を置いて冷ましてから湯呑みへ注いだ。
湯気がふわりと舞い上がる。
「新速出編集、白湯ができましただろ。」
「先生、すみません助かりますお。
ありがとうございますお。
こっちもあらかた整理できましたお。
いやぁ、いろいろ滲みててまいりましたお~。」
「手拭いの上に広げて、朝まで乾かしてみたらどうでしょうだろ。」
「場所とってすみませんお。そうさせてくださいお…。」
やらない夫は、申し訳なさそうにしているやる夫に、湯呑みの片方を渡す。
受け取ったやる夫は、いただきますと丁寧に言ってから、ゆっくりと白湯を口にした。
「はぁ…、やっぱり体、冷えてたんですおねぇ。
体の芯が、じんわり暖まってくのがわかりますおー。」
ほーっとため息をつき、やる夫は穏やかな顔で言った。
「すみません、先に出せば良かったのですが、火鉢に鉄瓶をかけてるのをすっかり忘れてましただろ。」
「いえ!今でも大変助かりましたお。
興奮のあまり体の冷えなんてすっ飛んだ気になってたんですが、やっぱり慣れない雪道の冷えは段違いみたいですお。
じーんってあったまって、血が巡ってきて生き返った心地になりましたお。」
「それはよかった。」
やらない夫もそう言って白湯を一口すする。
飲めるほどに冷ました湯は、するりと体を温めながら落ちていく。
やらない夫も、ほうとため息をついた。
「はぁ…、温まる…。」
やらない夫も白湯で緊張が多少ほぐれたのだろう。
無意識のうちに、和んだ顔でやる夫に笑いかけていた。
その笑顔を見たやる夫は、春先でもまだまだ寒い雪山で、ふと見た足元に雪を割る花を見つけた時のようにドキリと胸が高鳴った。
「ほへぁ…。」
やる夫の口からは気の抜けた声が漏れる。
何かが目の中でパチリと弾けてコロリと外れ、曇りがあった世の中が少し明るくなった、そんな気がした。
動きが止まってしまったやる夫に、やらない夫は首を傾げる。
「新速出編集?
どうかなさいましたか?」
「あ、いや、そのぉ…。
すみませんお。
ちょっとボーッとなっちまいましてお。」
「慣れない大雪ですからね、体が温まって疲れが出てきたのかもしれませんだろ。
これを飲んだらもう今日は休みましょう。」
「そうですおね。
熱なんか出したら事ですからお。
そうしましょうだお。」
二人は湯呑みの白湯を飲んでしまうと、すぐに布団に入ることにした。
やる夫が布団に潜り込むのを見届けたあと、やらない夫は火鉢の中身を灰に埋めた後、スタンドの電気を消して、自分も布団に入り込んだ。
「おやすみなさいですお。
先生。」
「…おやすみなさい。
新速出編集。」
やる夫の柔らかい声に、やらない夫はえもいわれぬぬくもりを噛みしめながら、布団のなかで目を閉じた。
眠れないかと思ったが、体のほうが疲れていたのだろう。
二人はすぐに眠りに落ちたのだった。
★★★
次の日、やらない夫がはっと目を覚まして起き上がってみると、隣の布団にやる夫はいなかった。
使っていたはずの布団はきちんと畳まれてすみにまとめられており、てっぺんに枕が乗せられている。
見渡してみれば、乾かすために広げられていた荷物はなくなっており、吊り下げられていた背広やコートもないのだった。
やらない夫は青くなり、慌てて家の中を探したが、やる夫の姿はなかった。
ただ、居間の座卓の上に、やる夫の荷物が入った鞄と昨日貸した浴衣が畳まれて置かれていた。
やらない夫はやる夫が外に出たのかと、玄関に駆けていき、鍵を開けて戸を勢いよく開ける。
そのまま外に賭けだそうとするやらない夫だったが、戸のすぐ前には人が立っていたらしく、あっと思った時には、その人物の胸にぶつかってしまっていた。
「おっ…とぉ!
センセ、どうしたんですお!?
そんなに慌てて!」
「え…」
やらない夫が体当たりしてもびくともしなかった胸板は、やる夫のものであった。
やる夫は少しシワがよってしまったワイシャツの上に、少し生乾きのコートをはおっている。
やらない夫はやる夫の顔を惚けたように見上げた。
「あ、の…。
起きたら…、いらっしゃらなかったので、外かと思いまして、だろ…。」
「あ、すみませんお。
ちょっといても立ってもいられなくて、雪かきついでに駅まで列車の様子を見に行ってきたんですお。
でもありゃだめですおね。
今日1日、上りも下りも終日運休だそうですお。
すみませんが、お手伝いでもなんでもしますので、今日1日ここに置いてくださいませんかお?」
「え、あ、もちろん、です。」
「あの、センセ優しいから、無理してないですおね?
邪魔だったら、蹴りだしてくださいお!?
自力でなんとか生き延びますからお…!」
「だ、ダメですだろ!
そんなことしたら、またびしょびしょになってしまいますだろ!
さっきだって、私、心配して…。
とにかく!今日はここにいてくださいだろ!」
「あ!
もしかして、自分のこと、探してくれてましたかお?
すみませんお。
書き置きのひとつでも残しておくべきでしたおね。
ご心配お掛け致しましたお。」
やる夫はやらない夫に笑いかけながら、朗らかに言う。
「大丈夫ですお!やる夫はここにいますお!
新速出やる夫、ただいま戻りましたお!」
つづく
「あ!
先生!」
原稿を丁寧に文机に戻してから立ち上がったやる夫は、跳ねるような足取りでやらない夫の目の前までやってくると、やらない夫の手をとった。
「先生!
すみません、机の上にあった作品、仕上がった次の原稿かと思って、勝手によんでしまいましたお…。
でも、あの、あれ、素晴らしい作品ですおねっ!
身を切るような切ない描写!
互いに向かい合って見つめあいながらもすれ違う心情!
自分、この作品に心を奪われてしまいましたお!
そして、こんな素晴らしい作品を世に産み出して下さった先生に、心より感謝を…!
このような素晴らしい作品に巡りあえた興奮が、ふつふつと次から次へと!あ~!興奮が静まらないですおっ!」
目をキラキラと輝かせて、やる夫はやらない夫の手を握りしめたままブンブン振り回し、顔を紅潮させてまくし立てた。
やらない夫はやる夫の勢いに押されたように呆けてしまったが、おずおずと口を開いた。
「こ………、心、奪われましたか…?」
「はいですおっ!それはもう!
好きすぎて、愛してしまったといっても過言ではないですお!」
そんなことを言われてしまっては、やらない夫はもうどうしようもなかった。
心臓を拳銃で撃ち抜かれたような衝撃とともに、みるみるうちに自分の顔が赤く火照るのを、やらない夫は感じた。
先ほど芯まで冷えた心と体は、真っ赤に焼けた火かき棒でもつっこまれたかのように、瞬時に熱された。
これ以上に、どろりと熱く溶けた。
「そ、そ…、そうで、すか…。
それはー…、ありがとうございます…。」
ゴニョゴニョと口の中でやらない夫は感謝をのべる。
そこにすかさず、やる夫は手を離してから、素早くやらない夫の足元に座り込み両手をついた。
「美筆先生!
助けていただいた上で厚かましいお願いなのですが!
どうかっ!
どうかこの作品をっ!
わが社の雑誌に掲載させていただけないでしょうかおっ!
今までお話を伺ったことがなかったので、こちらはご自身のためにお書きになった作品であろうとは思うのですが、こんなに素晴らしい作品を世に送り出さないなんて、先生の文章を愛する編集としてはあるまじき諸行なんですお!
自分、この作品に、本当に心奪われたんですおっ!この作品を日本の宝として、日の目を見させてあげたいんですおっ!
もちろん、掲載が決まれば原稿料をお支払いたしますお!
ど、どうかご一考くださいお!」
頭を床にこすりつけ、やる夫はやらない夫に土下座で懇願した。
やらない夫は少々困ったような顔を見せる。
「し。しかし、あの作品は…。」
口ごもるやらない夫に、やる夫はさっと青ざめた。
「っ!
もしやっ!他の出版社への原稿、だとか…!?」
やらない夫は、あわてて否定のために手をふりながら弁解する。
「あ、いやいや、私は淡雪講社さんにしか所属してないですから、それはないです。」
それを聞いたやる夫は盛大に安堵のため息橋をつく。
「良かったぁ!
交渉すらできないお先真っ暗かとこわくなりましたお…!
なら、まだ希望ありますお?
お願いですお、先生!
このあわれな一読者にお恵みをっ!」
やる夫はさらに平べったくなりながら土下座しする。
やらない夫は、そんなやる夫の姿を見て、しばし目線を泳がせたあと、一つため息をつくと、すっとしゃがんだ。
「顔を上げてください。
新速出編集。
解りました。貴方がそんなにその作品を気に入って…、愛してくださっているというのなら…。
掲載を認めますだろ。」
「ありがとうございますおっっっっ!先生っ!
人生最大の幸福ですお!」
畳のもようが額にうつるくらい、やる夫は額を床に押し付けた。
「しかし、貴方が担当している青い鳥かごとは、対象年齢が合わないと思うのですが?」
やる夫は感涙さえ浮かべながら、がばっと顔を上げる。
「大丈夫ですおっ!
編集長に掛け合いますおっ!
それに、青い鳥かごがダメでも、わが社には幻想華ってのいう、青年向けの雑誌もありますからお!
そっちなら、絶対のせられますおっ!
だから、大丈夫ですおっ!
お蔵入りなんて、絶対させませんおっ!」
やる夫はこぶしを握り、熱い口調で力説したのだが、はたりと何かに気がついた。
「んあっ!?
せ、先生!
そ、そんなことより!
顔が真っ赤じゃないっすかお!
お体調子悪いですかお?!」
火照ったままの顔を指摘され、やらない夫は
はっとして頬に手をやる。
「あ、いえ、これは…。
貴方が、私の作品を認めて愛してくださったことが嬉しくて…。
本当に、嬉しくて。
私こそ、人生最大の幸福ですだろ。
ええ、ええ、私は、それだけで、もう…。」
そこまで言ったやらない夫の目から、ホロリと大粒の涙がこぼれた。
「あああああああああ!
涙っ!
先生、涙がっ!」
やる夫は、やらない夫の白い肌を濡らす雫に、これ以上なく慌てふためく。
「う、嬉し涙です、お、お気になさらないでくださいだろ…。」
「そ、そんなに切ないお顔なさってるのに…、嬉し涙なんですかお…?
本当に、大丈夫なんですかお?」
やる夫は心底心配そうにやらない夫の顔を覗きこむが、やらない夫はその視線から逃れようと顔を手で隠す。
「だ、大丈夫ですだろ!
あ、それよりも!
すみません、お布団を持ってまいりましたので、敷くのを手伝っていただけますか?!」
話をそらすために、やらない夫は必死になって言った。
「あっ!
ありがとうございますおっ!
もちろんですお!」
やる夫は、気づいたやいなや、床に落ちたままになっていた布団をもう一度まとめると、軽々ひょいと持ち上げた。
そして、やらない夫の布団の横まで担いでいって、手早く布団を伸べた。
それは本当にあっという間であり、その間、やらない夫はやる夫がきびきびと動くのを、ついぼんやりと眺めていた。
やらない夫が、はっと我に返った時には、もう何も手伝うことなく布団の支度は終わっていた。
「…あ、すみません。
手伝うどころか、やらせてしまって…。」
「いやいや、ご厄介になる身ですからお!
自分の寝床の支度ぐらい、自分でしますお!
それより…。
少し落ち着けましたかお?」
「ええ、はい。
すみません。
つい、感極まってしまいまして…。
もう、大丈夫です。」
やらない夫は困り顔で頭をかいた。
「や、やっぱり、その、自分の申し出が、ご負担でしたでしょうかお…?」
心配するやる夫に、やらない夫は一生懸命否定する。
「いえ!
あの、違い、まして。
…まさか…ええ、貴方にそんなに気に入っていただけるなんて、思わなかったもので…、本当に…。
誰にも見せることなく、朽ちゆくものとばかり思っていたので、驚いたのと、嬉しかったので、感極まって…。
正直、今、私は死んでもいいほどの心持ちなんです。」
「し、し!
しぃぃぃぃいしししし、死んじゃだめですおっっっっっ!
ダメダメダメですお!
お願いですお!そんな!駄目ですからおね!?」
「ふふふ、大丈夫ですよ。
死にはしませんだろ。
私だってもっともっと、作品をかきたいですから。
でもそれだけ、私は今、幸せになってしまった、そう言うことなのです。
でもちょっと、部屋の外の空気を吸ってきますだろ。」
やらない夫はそう言ってから立ち上がると、居間へ繋がる襖を開けて出ていき、比較的すぐに帰ってきた。
その手には黒塗りの盆を持っており、手拭いと、徳利と、湯呑みが2つ乗っていた。
「この手拭いは、お鞄の中身の整理にお使いください。」
「あっ!そうだおっ!
鞄っ!忘れてましたお!
ひぇー、大丈夫かな。
手拭い、お借りしますおっ!」
「では、整理の間に白湯でもつくりますだろ。」
やる夫は手拭いを手に取ると、廊下に出したままだった鞄を開けて、中身を確かめながら手拭いで拭き、畳の上にならべていった。
一方のやらない夫は、ずっと火鉢にかかっていた鉄瓶から徳利へお湯を注ぎ、少し時間を置いて冷ましてから湯呑みへ注いだ。
湯気がふわりと舞い上がる。
「新速出編集、白湯ができましただろ。」
「先生、すみません助かりますお。
ありがとうございますお。
こっちもあらかた整理できましたお。
いやぁ、いろいろ滲みててまいりましたお~。」
「手拭いの上に広げて、朝まで乾かしてみたらどうでしょうだろ。」
「場所とってすみませんお。そうさせてくださいお…。」
やらない夫は、申し訳なさそうにしているやる夫に、湯呑みの片方を渡す。
受け取ったやる夫は、いただきますと丁寧に言ってから、ゆっくりと白湯を口にした。
「はぁ…、やっぱり体、冷えてたんですおねぇ。
体の芯が、じんわり暖まってくのがわかりますおー。」
ほーっとため息をつき、やる夫は穏やかな顔で言った。
「すみません、先に出せば良かったのですが、火鉢に鉄瓶をかけてるのをすっかり忘れてましただろ。」
「いえ!今でも大変助かりましたお。
興奮のあまり体の冷えなんてすっ飛んだ気になってたんですが、やっぱり慣れない雪道の冷えは段違いみたいですお。
じーんってあったまって、血が巡ってきて生き返った心地になりましたお。」
「それはよかった。」
やらない夫もそう言って白湯を一口すする。
飲めるほどに冷ました湯は、するりと体を温めながら落ちていく。
やらない夫も、ほうとため息をついた。
「はぁ…、温まる…。」
やらない夫も白湯で緊張が多少ほぐれたのだろう。
無意識のうちに、和んだ顔でやる夫に笑いかけていた。
その笑顔を見たやる夫は、春先でもまだまだ寒い雪山で、ふと見た足元に雪を割る花を見つけた時のようにドキリと胸が高鳴った。
「ほへぁ…。」
やる夫の口からは気の抜けた声が漏れる。
何かが目の中でパチリと弾けてコロリと外れ、曇りがあった世の中が少し明るくなった、そんな気がした。
動きが止まってしまったやる夫に、やらない夫は首を傾げる。
「新速出編集?
どうかなさいましたか?」
「あ、いや、そのぉ…。
すみませんお。
ちょっとボーッとなっちまいましてお。」
「慣れない大雪ですからね、体が温まって疲れが出てきたのかもしれませんだろ。
これを飲んだらもう今日は休みましょう。」
「そうですおね。
熱なんか出したら事ですからお。
そうしましょうだお。」
二人は湯呑みの白湯を飲んでしまうと、すぐに布団に入ることにした。
やる夫が布団に潜り込むのを見届けたあと、やらない夫は火鉢の中身を灰に埋めた後、スタンドの電気を消して、自分も布団に入り込んだ。
「おやすみなさいですお。
先生。」
「…おやすみなさい。
新速出編集。」
やる夫の柔らかい声に、やらない夫はえもいわれぬぬくもりを噛みしめながら、布団のなかで目を閉じた。
眠れないかと思ったが、体のほうが疲れていたのだろう。
二人はすぐに眠りに落ちたのだった。
★★★
次の日、やらない夫がはっと目を覚まして起き上がってみると、隣の布団にやる夫はいなかった。
使っていたはずの布団はきちんと畳まれてすみにまとめられており、てっぺんに枕が乗せられている。
見渡してみれば、乾かすために広げられていた荷物はなくなっており、吊り下げられていた背広やコートもないのだった。
やらない夫は青くなり、慌てて家の中を探したが、やる夫の姿はなかった。
ただ、居間の座卓の上に、やる夫の荷物が入った鞄と昨日貸した浴衣が畳まれて置かれていた。
やらない夫はやる夫が外に出たのかと、玄関に駆けていき、鍵を開けて戸を勢いよく開ける。
そのまま外に賭けだそうとするやらない夫だったが、戸のすぐ前には人が立っていたらしく、あっと思った時には、その人物の胸にぶつかってしまっていた。
「おっ…とぉ!
センセ、どうしたんですお!?
そんなに慌てて!」
「え…」
やらない夫が体当たりしてもびくともしなかった胸板は、やる夫のものであった。
やる夫は少しシワがよってしまったワイシャツの上に、少し生乾きのコートをはおっている。
やらない夫はやる夫の顔を惚けたように見上げた。
「あ、の…。
起きたら…、いらっしゃらなかったので、外かと思いまして、だろ…。」
「あ、すみませんお。
ちょっといても立ってもいられなくて、雪かきついでに駅まで列車の様子を見に行ってきたんですお。
でもありゃだめですおね。
今日1日、上りも下りも終日運休だそうですお。
すみませんが、お手伝いでもなんでもしますので、今日1日ここに置いてくださいませんかお?」
「え、あ、もちろん、です。」
「あの、センセ優しいから、無理してないですおね?
邪魔だったら、蹴りだしてくださいお!?
自力でなんとか生き延びますからお…!」
「だ、ダメですだろ!
そんなことしたら、またびしょびしょになってしまいますだろ!
さっきだって、私、心配して…。
とにかく!今日はここにいてくださいだろ!」
「あ!
もしかして、自分のこと、探してくれてましたかお?
すみませんお。
書き置きのひとつでも残しておくべきでしたおね。
ご心配お掛け致しましたお。」
やる夫はやらない夫に笑いかけながら、朗らかに言う。
「大丈夫ですお!やる夫はここにいますお!
新速出やる夫、ただいま戻りましたお!」
つづく