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【やる&やら】最凶にして最愛のただ一人の君に捧ぐ

「黒鬼の子が、古びた太刀をその鞘から払った時、白々と光る刃から、見るまに黒い煙が沸き立った。

そして、黒鬼の子の眼前で、赤い目を爛々と光らせる、巨躯の龍へと姿を変えたのである。

物音に何事かと飛び込んできた天狗の子は、立ちすくむ友の頭へ食らい付かんとする龍を見た。

天狗の子は、大急ぎで黒鬼の子に後ろからとりついて引き倒すと、二人の頭の上で龍のあぎとが、がちんと閉じた…、と。」

暗い部屋のなか、ポツンと光る文机のライトを頼りに、やらない夫は執筆にいそしんでいた。

季節はもう師走となり、忍び来る寒さは恐ろしいほど。
やらない夫は火鉢を脇に置いて、炭火にかかるように五徳を設置し、鉄瓶をかけて暖をとりながら湯を沸かす。

さらさらと進んでいたやらない夫の万年筆が、いったん止まる。

そして、詰めていた息を吐きだした。

やらない夫は、一部と二部の原稿が驚異の早さで仕上がった後、年内にもう締め切りがないということで、師走を比較的ゆったりと過ごしていた。

子供たちと授業をしたり、大掃除をしたり、年始の支度をしたりと、もちろん師走の忙しさはあったが、締め切りにせっつかれることがなかったのは大きかった。

それでも、やらない夫は、夜毎(よごと)になにかしらの作品を必ず練っていた。長年の習慣でもあったので、作品を考えておらずには、いられないのだ。

三部目の原稿も、書きあがってはいないものの、そこそこ順調に進んでいるようだった。

「ふぅ、三部作目は冒険譚を、と書き始めたものの…。

書き慣れない部類の作品は楽しくとも、勝手が違って疲れるだろ~。

もうそろそろ、今日は寝るかだろ…。」

やらない夫はふぅとため息を吐きながら、こきこきと首をまわす。

やらない夫の背後には、すでに布団が伸べてあり、今日も湯タンポをいれていつでも寝られるように準備がされていた。

万年筆をかたりと置き、脇におかれた火鉢に手をかざし、冷え固まった指を暖める。。

ぱらりと原稿を捲って数えてから、黒鬼の子と封印の太刀と表に書かれた封筒に入れた。

それから、引き出しから別の封筒を取り出し、中身を机の上に。もともと出ていた封筒を中にしまった。

「ふふ。」

やらない夫は嬉しそうにその紙の束を眺める。

それは、やらない夫がここ最近の空いた時間で自分のために書き上げた、未公開の作品であった。
書き上げてからは、寝る前に読むのが習慣になっている。

すり、と、やらない夫の指が原稿の表を愛おしげに撫でた。

実はこの未公開作品の摸本は、何を隠そうやらない夫自身なのであった。

やらない夫は、いつからとは言えないが、前々より己の身の内に、人には言えぬ恋心を芽生ええさせていた。そして、その事にやらない夫は早々に気がついていた。

だが、それは叶わぬと胸の内に沈めた恋心でもあった。

しかし、押さえ込もうとすればするほど、気持ちというものは押さえが効かなくなるものだ。

やらない夫はその気持ちを自分が最も得意とするもの。文章に落としこんで消化しようと図った。

それがこの作品なのである。

やらない夫の叶わぬ恋は、身分差の恋に置き換えられて、若い軍人と深窓のご令嬢の恋物語に変換されて紙の上で具体化されていた。

やらない夫の心の分身とも言えるこの作品は、彼にとって、不思議な宝物なのである。

やらない夫は原稿を胸にだいて、ほう、とため息をつく。

己が女だったらば、或いは、とつい考えてしまい、首を振ってその考えを振り払う。
これもいつものことだった。

「寝る前に、厠(かわや)にいっておくかな…。」

やらない夫は、原稿を机の上に置くと、土手蘿(どてら)の前を合わせて立ち上がり、いそいそと縁側の突き当たりにある厠へと向かった。

やらない夫の足元に、重く感じるほどの冷気が絡み付く。

あまりに冷たいので、雨戸の覗き小窓から外を伺えば、いつの間にやら降りだしていた雪がだいぶ降り積もっていた。

「うわぁ、静かだとは思っていたけど、いつの間にやら雪が降ってたのかだろ。
寒いわけだ。
明日の朝は雪かきだな…。」

やらない夫は急いで厠で用を足すと、早く寒さから逃げようと、部屋へ戻ろうと小走りになる。

部屋の襖(ふすま)に手をかけた時、玄関の方から何やら戸を叩く音と声が聞こえてきた。

『ごめんくださ~い…いらっしゃいませんかぁ~…』

やらない夫は一瞬飛び上がるほど驚いたが、恐る恐る玄関の方まで廊下を進んだ。

「ど、どちら様ですかだろ…。」

やらない夫が警戒しながら声をかける。

『センセ…どうかお助けくださいお…新速出ですお…。
新速出、やる夫ですお…。』

「な!
新速出編集っ!
どうなさったんですかっ!?
今開けますっ!」

やらない夫はあわてて玄関の鍵を開けて、ガラガラと戸を開け放つ。

するとそこには、真っ白になった町並みを背景にして立つ、雪をかぶって震えるやる夫がいた。

はあ、と吐く息は雪に負けないほどに白く、粉雪をかぶりながら闇の中に流れていく。

「や、夜分に、申し訳ありませんお…。
実は…。」

「じ、事情は後でよいですから、早く中にお入りください!さぁ!」

「も、申し訳ない…。」

やる夫は項垂れるように頭を下げながら、申し訳なさそうに玄関の中に入った。
やらない夫は雪が吹き込んでこないよう、やる夫が中にはいるとすぐに玄関を閉じて鍵を閉めた。

「こんなに雪をかぶって…。
お寒かったでしょう。
玄関じゃ冷えますから、上がってくださいだろ。」

やらない夫は、雪まみれのやる夫の体をはたき、体に降り積もっていた雪をパラパラと落とす。
東京の雪は、北国の雪とは違い、水分があり重たく濡れる。
雪をはたいたあとのやる夫は、ぐっしょりと頭の先から足の先まで濡れていた。

「あ、いえ…。
自分、だいぶ濡れてますからお。
これ以上ご迷惑をお掛けする訳には…。」

「なら、なおさらです!
凍えてしまいますだろ!
肺炎にでもなったらどうするのですか!
さあ!早く靴を脱いで!こちらに!」

やらない夫は、やる夫を急かして靴を脱がせる。
黒い革靴の中にまで水が染みたらしく、靴下まで濡れているようだった。

やる夫が濡れた靴下を脱いで、鞄の中から取り出した湿気た手拭いで足をぬぐっている間に、やらない夫は乾いた手拭いを何枚か持ってきた。

足を拭き終わると、やらない夫は先に立って手招きした。

「こちらへどうぞ。
私室のほうですみませんが、温かくしてありますので。」

「申し訳ありませんお…。
失礼いたしますお。」

やる夫は何度も頭を下げながら、居間を横切って、やらない夫の私室に入る。

火鉢のお陰か、部屋は痛いほどの冷気には犯されていない。

やらない夫は、やる夫に濡れた服を脱ぐように進める。

「濡れた背広などは、衣紋掛けにかけておいてください。
着替えは、私のもので申し訳ないのですが、お使いくださいだろ。
下は大丈夫でしたか?」

「あ!褌まではしみてないかと想いますお!
大丈夫ですお。
浴衣、ありがとうございますお。
大変助かりますおぅ…。」

やらない夫が差し出した浴衣と帯をありがたそうにやる夫は受けとる。

やる夫は、濡れている鞄を一度廊下に出してから濡れた背広やシャツを脱ぎはじめた。

やらない夫はついドキッとしてしまい、顔を背ける。

「こ、この衣紋掛けをお使いください…。」

やらない夫はありったけの衣紋掛けを取り出してきて、やる夫にまとめて渡した。

「ありがとうございますお。
だいぶ濡れてしまって…乾くといいんですがお…。」

やらない夫に貸してもらった衣紋掛けに、やる夫は脱いだ背広とシャツとズボンとコートを引っかける。
衣服を脱いだやる夫の体は、なかなか筋肉がひきしまり、雄々しい。

「コート生地の中まで濡れてしまうなんて、大変でしたね。」

「えぇ、なかなかの災難でしたお。
師走にも関わらず、2日ほど休みがとれましてお。
せっかくだから、実家に顔を見せて、障子の一枚でも張り替えを手伝おうかと思って列車に飛び乗ったんですが、この大雪じゃないですかお。

三の巣の駅で列車が終わっちまいましてお。

店屋はもうしまっちまってるし、宿も一杯。
さんざん歩き回って、最後の手段と、先生を頼らせていただいた次第なんですお。

ほんともう、災難でしたお。」

やる夫は話ながら、布ずれの音をさせて、あっという間に浴衣を着付けていく。
その仕草がどこか色っぽくて、やらない夫は顔を背けた。

「なるほど…。
新速出編集が雪の中で倒れなくてなによりでした。

ところで、あの、私、その…布団を、このままお泊まりになって、明日出立なさった方がいいと想いますので、予備の布団を出して参ります。
その…客間がないので、この部屋に布団を並べて延べることになるのですが…。
お着替えが終わったら火鉢で温まっていてください。」

「何から何まで、ありがとうございますお。
申し訳ありませんが、お言葉、甘えさせていただきますお。
本当に面目ない…。」

やらない夫は、照れた顔を見られないように顔を伏せながら、隣の書斎に駆け込んだ。

やる夫は、慌てたように隣の部屋の襖を開けて出ていったやらない夫の背中を見送りながら、
かもいに衣紋掛けを引っかける。

「うう…。
夜半に押し掛けて、ご迷惑おかけして…、我ながら情けないお…。」

項垂れたやる夫は言われた通り、文机の脇の火鉢の側にいき、手をかざした。

「暖まるお~。生き返る…。」

やる夫がふと机の上を見れば、そこには封筒があった。

「三部作の最終部の原稿…!?
あの厚み…もう書き上げたのかお…!?」

やる夫は、かなり驚いた顔をし、封筒をつい手に取った。

「前の締め切りも、かなり早く書き上げてたし…。
最近の先生、ほんとすごいおね…。」

やる夫は、封筒の中身を取り出し、火鉢で背中を暖めながら、紙面に記された文字に視線を落とす。

「……!
これは……」



一方で、隣の書斎の襖の中を引っ掻き回し、やらない夫は、ようやく、予備の敷き布団とかいまきを取り出すことに成功した。

「はぁ、はぁ…。
まさか、襖を開けるために、手前の本やら荷物やらを片付けることになるとは…。

長い道のりだっただろ…。

時間がかかってしまったけど、新速出編集は大丈夫だろうか…。」

やらない夫は、敷き布団とかいまきをたたみ直してから、一度に抱き上げて、書斎から私室へ戻る。

抱え込んだ布団は、あまり重くはないものの、やらない夫の視界は布団しか見えない。

「すみません、新速出編集。
お待たせいたしました…。」

両手に布団を抱いて運んできたやらない夫は、少々苦労しながら襖を通り抜け、そこにいるであろうやる夫に手伝っでもらおうと声をかけた。


しかし、期待に反してやる夫からの返事はなかった。

やらない夫はおや?と不思議に思い、布団を顎で掻き分けて、隙間から視界を確保した。

やる夫は、火鉢に背中を向け、あぐらを描いてたたみに座り込み、何かを熱心に読んでいるようだった。

やる夫は、布団を運んできたやらない夫には全然気がつかない様子で、前のめりになりながら、紙に視界を走らせている。

それはそれは熱心に、夢中で読み更けっていた。

その目は、まるで星でも宿したかのにきらめき、また、渓流の雫を浴びる小石のように濡れている。

やらない夫は腕に抱え込んでいた布団を、ぼそりと落としてしまった。

血の気が引くような、さぁっと冷たくなる感覚と、燃えるような激しい羞恥心が、やらない夫を支配してかきみだした。

その作品は、世界中ただ一人以外、その他の誰かになら読まれても構わなかったのだ。

ただ、貴方にだけは。
貴方にだけは読まれては、いけなかったのに!
なんたる迂闊(うかつ)だろう!

やらない夫の想い人。
胸に秘めたるその心。
最凶にして最愛のただ一人、新速出やる夫。

どうか、お願いいたします。
後生ですから…、気づかないで。



つづく

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