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【やる&やら】最凶にして最愛のただ一人の君に捧ぐ


「…、………、そして、今では青鬼の子は、村の守り手となっているので、し、た…、と。

…はー!
書き上がったー!だろ!」

晩秋の夜遅く。

原稿の最後の一文を書き上げたやらない夫は、パタリと畳の上に大の字でた折れ込んだ。

やらない夫の文机の上には、今まさに書き上げた原稿の束が、万年筆と共にライトに照らされていた。
机の脇にはもう1束、まとめられた原稿が茶封筒に入っている。

鬼三部作の話が出てから約2週間。

やらない夫にしてみれば、驚異的な早さで、2本の作品が書き上がっていた。


鬼三部作の1作目は、『鬼と百合』。
乱暴者として、仲間の鬼からも畏怖され、ひとりぼっちだった赤鬼が、岩山に生えた百合の花を助けるため、巨石に挑むという話だ。

2作目は『弱虫の青鬼っ子』。
こちらは体が小さくて自信のない青鬼の子供が、初めて友達になってくれた人の子のために、勇気を出して自分より大きな相手と戦う。そんな話になった。

「ふぅ…、摸本(もほん)がいるっていうのは、こんなにも書きやすいものなのか…びっくりしただろ…。」

やらない夫の脳裏には、我らが鬼編集の顔がちらついた。

1作目は、真剣な顔つきになると、かなり迫力のあるやる夫を摸本に、一見恐ろしげに見える人物の優しさを表現した。

2作目は、以前、原稿をせっつきにきたやる夫の顔が恐ろしくて泣いてしまった子を、引っ込み思案の子が勇気を出してかばっていたのを摸本に、うちに秘めた勇気と力を表現した。

どちらも具体的な見本がいるというのは、幻想小説を主に書くやらない夫にはあまりないことなので、書きやすさに驚くことになった。

「ふぅ…。
しかし、2週間で2作か…。
今回は条件が良かったのもあるが…。
私もまだまだ書けるものだなぁ…。」

やらない夫は、少し自信がついたように笑いをこぼした。

「三部作の最後はどんな話にしようかだろ…。
あと、ちょっと余裕もできたから、仕事以外の小説も書いてみたくなってきたな…。
はは、私もなかなかの文学バカのようだなぁ。」

やらない夫は自虐的に小さくため息をついた。
そのままつい、うとうとと目蓋が落ちてくる。

「お…っと、いかんいかんだろ。
こんなところで寝たら、体が冷える…。」

やらない夫は、電気スタンドを消したあとヨタヨタと立ち上がり、すでに延べられた布団の中に体を潜り込ませた。

先に潜ませておいた湯タンポが布団内部を春のように暖めており、そこに身を沈めたやらない夫は安堵のため息をつく。

「新速出編集も…こんなに早く原稿が上がったとわかったら…きっと驚くだろ…。
ふふ…、ちょっと楽しみだな…。」

そう言って柔らかな笑顔を浮かべたやらない夫は、次の日を楽しみに、すぐに寝息をたて始めたのだった。


★★★


やらない夫が原稿を書き上げた次の日、さっそく待ち人がやってきた。

「はぁ~、わが社の雑誌の表紙は何度見ても美麗だお~。」

やる夫は、冬空の日差しで、手にした来月号の見本誌の表紙を照らし、うっとりと眺めながら美筆塾への道を歩いていた。

「色味の鮮やかさ、線の細やかさ、デザイン!
どれをとっても大手に負けない質だお~。」

確かに、やる夫の持つ見本誌は、はっきりとした色味と、細い線まできちんと印刷された精密さをあわせ持つ美しい表紙であった。

真っ白い鳩が、いままさに青い鳥かごから飛び立った。そんなイラストが画かれ、上部は【月刊青い鳥かご】の文字が品のいい字体で飾られている。

その雑誌の表紙を見ると、嬉しくて、何度も笑みを浮かべてしまうのであった。

あまりの出来の良さに、刷り上がってきた見本誌をすぐに見せたくて、やる夫は道を急いでいるのであった。

時刻は昼の少し前。
このまま行けば、昼休みのやらない夫に会えるのではないかという算段である。

やる夫は見慣れた辻をひょいと曲がると、目的地の美筆家が見えた。

「お?」

やる夫が見ていると、カラリと美筆家の玄関が開き、わっと子供たちが走り出してくるところであった。

ちょうど授業が終わったようだ。

玄関の奥には、子供たちに声をかけ、優しく手を振るやらない夫もチラリと見えた。

「美筆先生!」

やる夫がやらない夫を見つけて玄関の方へ駆け出すと、帰るために出てきた子供たちは、やる夫と真っ向から、鉢合わせすることになる。

「うわー!鬼だ!
鬼が来たぁ!」

「きゃあああ!」

「たすけてー!お母ちゃーん!」

正面から走ってきたやる夫を見て、子供たちは顔を真っ青にして、悲鳴を上げながら散り散りに逃げていく。

やる夫が玄関にたどり着いた時には、周りにいた子供はすっかり誰もいなくなっていた。

「い、いらっしゃいませ、新速出編集…。」

一人玄関から全てを見ていたやらない夫は、苦笑いを浮かべながらやる夫に声をかける。

やる夫はガックリと項垂れてしまっていた。

「うううう、自分、子供向けの雑誌の編集なのにお…。
子供に全力で逃げられたお…。
鬼て…鬼て…。」

やらない夫は、急いで下駄を突っ掛けると、やる夫に走りよった。

「ええと、新速出編集、お越しいただきありがとうございますだろ。
玄関先では何ですから、さぁ、中へ、ね?」

やらない夫は、しょんぼりしたやる夫の腕を引き、励ましながら中へ案内した。

居間の座布団のところまで連れていき座らせると、やらない夫は急いで2人分のお茶を用意した。

「ありがとうございますお~…。」

やる夫の前にお茶を置くと、やる夫は両手に茶碗を持ち、チビリチビリと飲み始める。

「新速出編集、そんなに気を落とさず…。」

やらない夫はそう言うが、やる夫はガックリと肩を落としていた。

「子供向けの雑誌の編集にも関わらず…、子供が全力疾走で逃げていくって…。
やる夫、そんなに怖いですかおね…。
鬼が来たって叫んで逃げられましたお…。」

やる夫が言うと、やらない夫は先ほどの玄関先の光景を思いだし、何とも言えない顔をした。

「あー…。
真剣なお顔をされてるときは、確かに新速出編集はかなり迫力がおありかと…。
私が悪いんですが、新速出編集が教室でお待ちの時はだいたい締め切り迫ってる時ですからね…。
私は新速出編集が優しい方だと存じ上げてますが、会う機会が限られている子供たちは勘違いしやすいのでしょう。」

やらない夫の言葉に、やる夫はギョッとしていた。

「ええ!?
自分、いつも顔そんな感じなんですかお!?
っえ~…衝撃の新事実だおぉ~。
知りませんでしたぉ~。」

「あ…、ご自覚はしてなかったのですか…。
鬼編集、なんて肩書きをお持ちなのでてっきりそれを武器にしてるのかと…。」

やる夫は否定のために思い切り首を振った。

「してねーですおー!
そんな!ヤクザじゃないんすからお!
鬼編集って呼ばれるのは、前々からありましたがお!
その、おこがましいですが、やり手とか、敏腕とか、厳格とか、そういう揶揄で鬼と呼ばれてるのかと!
単純に面が怖くてそう呼ばれてるとは思ってなかったんですお!
ううう顔の造形は単純な方だと思ってたんで、まさか面構えが顔面凶器で鬼のようなんて周りに思われてるなんて、自分では思いもしなかったんですお~。」

へにょんと項垂れたやる夫は、何か思い付いたようにハッとした顔つきになって、バネ仕掛けのように顔を上げた。

「あっっ!
もしや、この前の鬼三部作を思い付いた時のせんせの閃き!
自分と話してたから思い付いたって…。
まさか、自分の面構えからっすかお!?」

指摘されてしまい、やらない夫はギクリと肩を震わせて、目を泳がせる。

「え、いや、その、はは、そんなことは…。」

そんな顔をされれれば、誰しもわかってしまうだろうに。
案の定やる夫も頭を抱えた。

「美筆先生の顔、素直っすおぉ~。
もちろん、お力になれたことや、摸本になれたのは正直に嬉しいことではあるんですがお…っ!
くううう、こうなったら…、もう開き直って鬼らしくしてやりますおっ!
食べちゃうぞー!
がおー!」

やけくそ気味にやる夫が両手を広げて歯を剥いて叫ぶ。
やらない夫は真顔で、

「はははは、新速出編集、いつものままのほうがよほど鬼っぽいです。」

とバッサリ切り伏せたあと、

「今のそれ、凄い可愛いですよ。」

とついついニッコリしてしまっていた。

「んえ!?可愛い!?
か、可愛いかったですかお!?」

怖がられるかと思っていたらしいやる夫は
、正反対の意見にびっくりしたようだった。
言ったやらない夫も、ハッとしたようだ。

「…っ!は!
あ、いや、つい、すみません、失言でした。
大和男子に可愛いなんて、失礼いたしました。」

「あ、いや、それは、構わないんですがお…。
可愛いなんて、鬼よりよっぽど言われなれてないもんで、なんだかちょっとびっくりしましたお。
面が怖いって言われた直後に可愛い、だなんて…。
しかも、先生に可愛いなんて言われる日がこようとは思わなかったものですからおー…びっくりしちゃいましたお。」

どうした顔をすればいいのかと、困った挙げ句照れ笑いするやる夫は、少し気恥ずかしげに頭をかいた。

「その照れながら笑ってる顔も、すごい可愛いですよ。
私の感性で言わせていただけば、ですが。」

やる夫の笑顔に見惚れたやらない夫の口からは、素直な感想が漏れていた。

「!!?
せ、先生、強面が笑うのが好みなんですかお?
そんなわけ…。
あ!

や、止めてくださいお、そんなこといって調子づけるのはぁ~!
落ち込んでた自分を慰めてくださるのはありがたいですがお、女の子口説いてるみたいじゃないですかお~!
そういうのは、日傘のお嬢さんに言ってあげてくださいお~!」

「え、あ…、申し訳ありません。つい…、気が緩んでしまったようです………。失礼いたしました。」

失敗したという様な顔のやらない夫は、どうしたものかと口元を手で隠していた。

少し目線を泳がせたあと、やらない夫は話を変えようと別の話題を振ることにした。

「あ!
そうだ、新速出編集は、今日はどのようなご用件でお越しに?」

言われたやる夫は思い出したように、慌てて座卓の上に見本を置き、さらに鞄の中から風呂敷に包まれた四角いものを取り出した。

「そうでしたお。
今日は、見本誌と、あと先日のお礼に、仕事場近くの寿司屋の助六を持って来たんですお。
ここの助六、甘さと酢の塩梅が絶品でしてお!
是非先生に召し上がってもらおうと!」

やる夫が言いながら風呂敷を解くと、中から折箱が2つ現れた。
やる夫が折箱の1つに元禄箸(げんろくばし)(割りばしの一種)を恭しく(うやうやしく)差し出し、やらない夫はおずおずと受け取った。

「ありがとうございますだろ。
昼食の準備をまだしていなかったので、大変助かります。
しかし、先日は、あまりおもてなしらしい料理も出せませんでしたし、お気になさらずとも良かったのですが…。」

「いやいや!
やる夫の気が済まないんで、どーぞお召し上がりくださいお!
あの日のお握りには、本当、助けられたんですお!その気持ちなので!
それに、へへ、ちゃっかり自分の分もあるんで一緒に食べていいですかお?」

「あ、なるほど。
ええ。もちろんです。ぜひ一緒に。
では、遠慮なく、ありがたく頂戴させていたたきますだろ。」

やらない夫は、手を合わせてから折箱の蓋を開けた。

中には、俵型の艶々した稲荷寿司と、行儀良く整列した干瓢巻(かんぴょうまき)がみっちりと詰め込まれていた。

「わ、おいしそうだろ!」

「我が編集部御用達の逸品ですお!
どうぞ召し上がってくださいお!」

進められるがまま、やらない夫は割りばしを割る。
干瓢巻は、細巻き一本を数個に切り分けたものを立たせることで中身を見せていた。
1つとり、ひょいと口に入れるに、ちょうど良い大きさだった。

「美味しいだろ…!
甘口に煮しめられた干瓢と酢飯が合いますね!
食べごたえがありつつも、一方で歯切れもいい。
これは旨いですだろー!」

「でっすおー!
ほーんと美味しいんですお、この店の寿司!」

そう言いながらやる夫も折箱の蓋を開けて、稲荷寿司を頬張る。
艶のあるほどに仕上げられた俵型の稲荷寿司の中には、ごまのはいった酢飯が固すぎず少な過ぎずの塩梅でぎゅっと詰まっている。

「うーん、旨いおー!
ここのお稲荷さん、酢飯に胡麻が入ってましてお、香りと食感がまた楽しいんですお~。
しかし、なんで、細巻き寿司とお稲荷さんで助六って言うんですかおね?
寿司弁当とか、寿司折や稲荷折じゃだめなんですかおね?」

「助六寿司の由来ですか…。
噂程度の話ですが、歌舞伎の演目が由来というのを聞いたことがありますだろ。

助六という男の話なのですが、その助六には揚巻という恋人がいて、その名前にちなんだもの、という話があるそうですだろ。

揚巻の”揚”を、油揚げに包まれた稲荷寿司に、”巻”を巻物になぞらえて、この2つを詰め合わせたのですね。

揚巻と呼ばず、恋仲であった”助六”の方の名前で呼ぶのが、江戸っ子の粋、といったところなんでしょうだろ。」

「なるほどですお~。
流石、美筆先生、博識ですおね~!
お見それいたしましたお。」

「いや、私などたかが知れておりますから。」

やらない夫は謙遜しながら、困ったように笑う。

それからもしばし雑談を挟みながら2人は助六を食べすすめ、次にお茶でひと息ついたときにはすでに折箱は空になっていた。

「ああ、ご馳走になりましただろ。
久しぶりに大変美味でした。」

「お気に召したようで何よりでしたお。
あ、忘れてましたお。
見本誌、どうぞご確認くださいお。」

「ありがとうございます。
拝見します。
今回の見本誌も、繊細で美しい絵柄ですね。」

「えへへ、わが社の印刷機は何を隠そう最新式の印刷機で、日本で初の実用型オフセット印刷機を使用しておりますからお!
印刷の精度でなら、大手の出版社にも引けをとらないですお!」

「お、おふせっと?
すみません、不勉強なものでご教示願いたいのですが、おふせっと、とは?」

「あは、今度は自分がおしえる方になっちゃいましたおね!
オフセットは、印刷の方法の1つですお。
活版印刷と違って、印刷する紙と印刷する版が直接ふれ合わない印刷方法なんですお。

版にインクを乗せたら、一度ゴムの板にインクを移して、そのゴムの板からさらに紙へインクを移すことで印刷するんですお。

このゴムへインクを乗せるのが、オフ。
ゴムの板から紙へ印刷するのが、セット、というらしいですお。

活版印刷より版が痛みにくいから、たくさんの枚数を綺麗に素早く印刷できるんですお。
だから、うちの雑誌は印刷が綺麗な仕上がりなんですお!」

「なるほど、素晴らしい印刷機なんですね。」

「そうなんですお!
特にうちの会社にある印刷機は、輪転機っていう大部数を印刷できる大きな機械でカッコいいんですお!」

やる夫は、少年のように目を輝かせながら力説する。

「うちの会社ビルの裏に印刷所があるんですお。
今度、打ち合わせかなにかで会社に来る用事があったら、見学してってくださいお!」

「はい、そのときはぜひ!」

やる夫はすっかり気分も変わったようだった。

「さて、では午後の授業のお邪魔にならないように、ここら辺でおいとまいたしますお。」

「あ、新速出編集、お待ちくださいだろ。
私も、お渡ししたいものが。」

やらない夫はそう言いながら隣の部屋に駆け込み、封筒を2つ持ってきた。

「こちら、話していた鬼三部作のうちの一部と二部の原稿です。
どうぞお持ちください。」

やる夫の前に差し出した封筒の表には、美筆やらない夫の名前とそれぞれの題名が書かれていた。

「ええええ!?
もう仕上がったんですかおっ!?
まえ!前きてから、二週間ぐらいじゃないですかお?二作品できたんですかお!?
新記録じゃないですかお!
えーーー、早いですお…、びっくり仰天…。
…はっ!
し、失礼いたしましたお!
まさか、こんなに早く原稿が上がってくるなんて思いもよらずですお!
決して、美筆先生の実力を侮っていたわけではなく…!」

あわてふためくやる夫に、やらない夫は苦笑いしながら頷いた。

「承知しておりますだろ。
私自身、書き上げられたことに驚きましたから。
いつも、書き上がるのが締め切り日になってしまうことを考えたら、新速出編集もきっと驚くだろうなと思っておりましたし。
でも、ちゃんと書き上げられましたから、受けとっていただけますよね?」

「もちろんですおっ!
ありがたく持ち帰らせていただきますお!」

やる夫は、やらない夫から差し出された原稿を、両手で丁重に受け取った。

「原稿は、会社で確認させていただきますおね!何かあったら、またおうかがいしますお。」

「はい。こちらこそよろしくお願いいたします。」

そろそろ午後の授業のために、子供たちが来てもおかしくない時間になってきた。

やる夫は、大事に原稿の入った封筒を胸に抱き、浮き足立ちながら美筆塾を出る。

子供たちにまた泣かれる前にと道を急いで、三ノ巣の駅に飛び込んだ。

やる夫はちょうどよく来た汽車に乗り、二駅ばかり先の駅である大野で降りると、小走りになりながら自社ビルへ向かった。

やる夫の務める淡雪講社は、駅から歩いて10分ほどのところに居を構えた出版社で、表通りに面した5階建ての立派なビルである。

ビルの裏にも敷地があり、ある程度の広さの庭と印刷所をかねた倉庫も持っていた。

やる夫が表通りに面した正面玄関から中にはいろうと、硝子ドアの取っ手に手を伸ばしたが、中から出ようとしてきた人物がぬっと現れ、先にドアを開けられてしまった。

「おぅ?
やる夫じゃないか。」

「むぐ、で、できない夫…。」

出てきた男は、少しばかり驚いた顔でやる夫を見下ろしていた。

白いワイシャツに朱色の蝶ネクタイに焦げ茶色のベストとスラックス。
肩にひょいと焦げ茶色の上着を片手で担ぐように引っかけ、もう片方の腕には鞄をぶら下げていて、その手でドアを押し開いていた。
口に咥えたタバコからは、煙が少したなびいている。

やる夫にできない夫と呼ばれたこの男は、本名を比布出(ひふで)できない夫という。

やる夫と同じくこの淡雪講社に務め、青年誌の『幻想華』の編集員の一人だ。

ちなみにやる夫と同期であるのだが、やる夫としてはあまり得意な相手ではない。

「外回りから帰ってきた所か?」

「えー、見本を届けに行った帰りだお。
そう言うできない夫はこれからかお?」

「おう。
担当の先生のところに、幻想華の見本をな。
後生大事に持ってるのは…原稿か?」

「そうなんだお!
美筆やらない夫先生がもう原稿あげてくださってお!」

やる夫は自分の事のように、腕の中の原稿を自慢した。

「美筆先生の原稿か!
俺、あのセンセのファンなんだよ。
読ませてくれよ。」

「なっ!
だ、ダメだお!
まだ未公開の原稿を!
同じ出版社の社員といえど、別の雑誌の担当には見せられんお!」

やる夫は原稿を腕の中に庇い、できない夫を押し退けて硝子ドアからビルの中に急いで駆け込んでいった。

「ちぇー、残念。」

できない夫はその後ろ姿を、唇を尖らせて見送ったのであった。



続く






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