【やる&やら】最凶にして最愛のただ一人の君に捧ぐ
「失礼いたしますお」
そう襖の向こうから声がした時、ついに来たかとやらない夫は一層かしこまり、畳の上で居住まいを正した。
私室と居間をつなぐ襖が開かれると、そこには自分が着替えにと用意した着物を着たやる夫が
緊張した顔で膝をつき、様子を伺っていた。
やらない夫は卓上のランプしか明かりをつけていなかったので、やる夫の姿は薄明かりの中におぼろげに見えるばかりであった。
「ようこそ、新速出編集」
やらない夫は、入ってきたやる夫に優しく笑いかける。
そんなやらない夫の姿に、やる夫は見惚れたように動きを止める。
やらない夫は、やる夫の視線を意識して、少しきはずかしく思ったものだったが、そこで照れていては話が始まらない。
「お入りください」
やらない夫はそう言って、動かないやる夫を部屋の中に促した。
やる夫はその言葉にハッとし、一つ頷くと意を決したように身を少し乗り出す。
「失礼いたします。
着替えとお湯、ありがとうございましたお。
おかげさまで、さっぱりいたしました。」
丁寧に頭を下げたやる夫に、やらない夫も少し安堵した。
やる夫の役に立てた、その事実だけでもやらない夫にはとても嬉しいことなのだ。
「新速出編集。少々お話をしたいのですが、よろしいでしょうか。」
「は、はい。なんでしょうかお。」
やる夫は、真向かい正座すると、ぴんと背筋を伸ばした。
一呼吸ぶん考えを巡らせたやらない夫は、静かな口調で言葉を空気のなかに溶かす。
「私は、昔から一人ぼっちも同然でした。」
やらない夫から静かに語られた言葉を、やる夫は聞き逃すまいとやや体を傾ける。
「ほんの一時だけ家は豊かでしたが、今は没落し、両親も大陸に言ったまま音沙汰がありません。
体が弱く、兵役にもつけない軟弱者。
淡雪講社で拾ってもらったものの、筆は遅く食べていけないのでこうして塾をしています。」
「わ、悪く言わないでくださいお!先生は素晴らしいヒトですお!
だからこそ、できない夫が惚れていたんでしょうし、襲撃をするほど先生のことを思う人が現れたんだと思いますお!」
「いいえ。」
やらない夫は首を振って否定する。
「私は、貴方に支えられていないと生きていけない人間なのです。
他の人は、貴方に支えられた私を見て、そういった判断をしています。
素の私はほんの脆弱な、何もできない物書きなのです。
新速出編集の励ましが、叱咤が、私を支えてくれたからこそ、今の私がいるのです。
私の全ては、貴方に支えられています。」
やる夫は過大評価だ、と口をついて出そうになる言葉を食い止める。
それは、やらない夫の否定になってしまうと解ったからだ。
やらない夫は、ふと視線を下げる。
「新速出編集。
貴方が見つけてくれたあの作品…金木犀は、貴方への恋心を込めた作品だったのです。
登場人物の立場や名前は変えたものの、作品の中に込めた気持ちは、あなたへの。
貴方だけへの、私の恋心だったのです。」
それを聞いたやる夫はギョッとして身を乗り出した。
「や、え、じゃあ、自分は貴方に送られた秘められた気持ちを世間に流しちゃったってことですかお?!
も、申し訳ございませんでしたお…」
「いえ、貴方は私の心の第一読者になってくださった。
そして、私の心を素晴らしい作品と認めて世に出すにふさわしいものだと言ってくださった。
物書きにこれ以上の賛美はありません。」
やらない夫の胸には、やる夫に初めて原稿を読まれた時の、焦燥、羞恥、興奮、歓喜が胸に押し寄せ、波のように走り去った。
満身の心をこめて、誰の目にもふれることがないもとして書いたものが、唯一人のために書いたものが、その人に認められること。
これ以上の喜びが此の世にあるものか
やらない夫にはわからない。
「実は…」
やる夫はおずおずと口を開く。
その頬はこころなしか赤く染まっているように、やらない夫には見えた。
「できない夫が乗り出してきてからの自覚にはなりますが…、自分も先生のこと…、か、か、片思い、しておりましたお。
あの作品を読む前から、ずっと気持ちはあった気がするんですお。
でも、あの作品…、金木犀を読んでから、完璧に貴方に心を射抜かれていた、そう思いますお。」
「…!」
「先生にご迷惑じゃないかとか、できない夫のこととか、いろいろわーっなっちゃって、きーくん…強飯医師に相談したこともありましたお。
それで、できない夫の告白で自分まで変わったら、先生の寄る辺がなくなってしまうから、変わらないほうがいいんじゃないかと言われて。」
やる夫は、顔を真っ赤にして、両手でそれを隠す。
「先生、自分は先生にご迷惑じゃないですかお?
先生のお力になれますかお?
これまでも、お力になれてましたかお?」
「貴方でなくてはならないんです。
新速出編集…いえ、やる夫さん。」
「先生…」
「どうか、願わくば貴方も。
私を名前でおよびください。」
「や、やらない夫、せ、先生…」
やる夫はぎこちなく口を動かし、意識的にその名前を呼んだ。
だが、敬称を外すことはできず、むしろそれが、やる夫らしくもあるのであった。
やらない夫にはそれがまた、やる夫を感じられて嬉しく感じるのであった。
「やる夫さん、お渡ししたいものがあります」
やらない夫は立ち上がり、部屋の中にあるタンスに向かう。
一番上の引き出しから、小さな箱を取り出す。
その箱は桐の箱で、手のひらに乗るほどのものであった。
やらない夫はそれを一度良く見たあと、やる夫の方へ振り向いた。
「やる夫さん、こちらを」
「これは?」
「昔、母が私に大切な人ができたら渡しなさいと言って残してくれたものです。」
やらない夫は言いながら、そっとやる夫の手の中に箱を収めた。
やる夫の頬はますます赤くそまる。
本当に愛しい唯一人にしか贈ることができない大切なものであると、知識ではなく心で理解したから。
「開けてみていただけますか」
「し、失礼いたしますお」
開けてみるとそこには、美しい漆塗りの櫛が収めされていた。
「櫛は、江戸時代の頃から求婚の時の贈り物として使われて来ました。
くとしという音から、苦労と死を連想したそうです。」
「あ、あえてそんな悪い連想のものを渡していたんですかお。」
「ええ、人生をともにした時、幸せも多いですが、苦労も多いものです。
ですが、それでも共に死ぬまで寄り添いながらいきていこうという意味が込められているのです。
やる夫さん、私と一生を添い遂げてくださいますか?」
「もちろんですお。喜んで…!」
やる夫はその櫛を返す返す確かめたあと、ジャケットの胸ポケットへと滑り込ませ、上から大事そうに抑えた。
やる気の心臓の上で、やらない夫の櫛は温められる。
それからやる夫は、やらない夫の両手を握りしめて、顔を覗き込んだ。
「自分も、…やらない夫先生が、大好きですお。」
「は、い…!」
頷いたやらない夫を、やる夫は両手で力いっぱい抱きしめた。
「や、やる夫さん、痛いですよ…!」
「すみませんお!感極まって!」
やる夫は力強くしめていた腕の力をそっと抜く。
緩んだ腕の間から、やらない夫は自分の腕を差し入れて、やる夫の頬を両手でつつみ、引き寄せた。
やる夫が、あっと思う間もなく、2人の唇は柔らかく触れあった。
唇は互いに確かめるようについばまれたあと、どちらともなく深く重なりあう。
しばらく重ねられた唇が離れた時、2人は思わず見つめあい目が合うと笑ってしまった。
いつの間にか空には月がのぼり、庭には銀の光がさしこんできていた。
やらない夫はやる夫へ体を寄せながら、雪見障子越しの庭を眺める。
「月が上ってきたようですね。」
やる夫もそちらへと視線を向け、ふわりと顔をほころばせる。
やらない夫は期待を込めて口をひらいた。
「月が…、綺麗ですね」
しんでもいい、その言葉を期待したが、帰ってきたのは別の言葉。
「一緒に見たいですお」
やる夫の答えにやらない夫も破顔する。
「あぁ、確かに。私もそのほうがずっといい。」
明示(めいじ)の世が過ぎ、年号が大翔(たいしょう)となって早11年。
激動の世の中で、東京・小城野(こじろの)の地において小さく芽生えた恋心がありました。
しかしその恋は、一時は叶わぬと諦められた恋なのでした。
これは、そんな気持ちをかかえた男が。
男たちが。
その気持ちを結んだ物語。
最凶にして最愛の
ただ一人の君に捧ぐ
完
最高にして最愛の同志にして共犯者、
青藍先輩に捧ぐ
そう襖の向こうから声がした時、ついに来たかとやらない夫は一層かしこまり、畳の上で居住まいを正した。
私室と居間をつなぐ襖が開かれると、そこには自分が着替えにと用意した着物を着たやる夫が
緊張した顔で膝をつき、様子を伺っていた。
やらない夫は卓上のランプしか明かりをつけていなかったので、やる夫の姿は薄明かりの中におぼろげに見えるばかりであった。
「ようこそ、新速出編集」
やらない夫は、入ってきたやる夫に優しく笑いかける。
そんなやらない夫の姿に、やる夫は見惚れたように動きを止める。
やらない夫は、やる夫の視線を意識して、少しきはずかしく思ったものだったが、そこで照れていては話が始まらない。
「お入りください」
やらない夫はそう言って、動かないやる夫を部屋の中に促した。
やる夫はその言葉にハッとし、一つ頷くと意を決したように身を少し乗り出す。
「失礼いたします。
着替えとお湯、ありがとうございましたお。
おかげさまで、さっぱりいたしました。」
丁寧に頭を下げたやる夫に、やらない夫も少し安堵した。
やる夫の役に立てた、その事実だけでもやらない夫にはとても嬉しいことなのだ。
「新速出編集。少々お話をしたいのですが、よろしいでしょうか。」
「は、はい。なんでしょうかお。」
やる夫は、真向かい正座すると、ぴんと背筋を伸ばした。
一呼吸ぶん考えを巡らせたやらない夫は、静かな口調で言葉を空気のなかに溶かす。
「私は、昔から一人ぼっちも同然でした。」
やらない夫から静かに語られた言葉を、やる夫は聞き逃すまいとやや体を傾ける。
「ほんの一時だけ家は豊かでしたが、今は没落し、両親も大陸に言ったまま音沙汰がありません。
体が弱く、兵役にもつけない軟弱者。
淡雪講社で拾ってもらったものの、筆は遅く食べていけないのでこうして塾をしています。」
「わ、悪く言わないでくださいお!先生は素晴らしいヒトですお!
だからこそ、できない夫が惚れていたんでしょうし、襲撃をするほど先生のことを思う人が現れたんだと思いますお!」
「いいえ。」
やらない夫は首を振って否定する。
「私は、貴方に支えられていないと生きていけない人間なのです。
他の人は、貴方に支えられた私を見て、そういった判断をしています。
素の私はほんの脆弱な、何もできない物書きなのです。
新速出編集の励ましが、叱咤が、私を支えてくれたからこそ、今の私がいるのです。
私の全ては、貴方に支えられています。」
やる夫は過大評価だ、と口をついて出そうになる言葉を食い止める。
それは、やらない夫の否定になってしまうと解ったからだ。
やらない夫は、ふと視線を下げる。
「新速出編集。
貴方が見つけてくれたあの作品…金木犀は、貴方への恋心を込めた作品だったのです。
登場人物の立場や名前は変えたものの、作品の中に込めた気持ちは、あなたへの。
貴方だけへの、私の恋心だったのです。」
それを聞いたやる夫はギョッとして身を乗り出した。
「や、え、じゃあ、自分は貴方に送られた秘められた気持ちを世間に流しちゃったってことですかお?!
も、申し訳ございませんでしたお…」
「いえ、貴方は私の心の第一読者になってくださった。
そして、私の心を素晴らしい作品と認めて世に出すにふさわしいものだと言ってくださった。
物書きにこれ以上の賛美はありません。」
やらない夫の胸には、やる夫に初めて原稿を読まれた時の、焦燥、羞恥、興奮、歓喜が胸に押し寄せ、波のように走り去った。
満身の心をこめて、誰の目にもふれることがないもとして書いたものが、唯一人のために書いたものが、その人に認められること。
これ以上の喜びが此の世にあるものか
やらない夫にはわからない。
「実は…」
やる夫はおずおずと口を開く。
その頬はこころなしか赤く染まっているように、やらない夫には見えた。
「できない夫が乗り出してきてからの自覚にはなりますが…、自分も先生のこと…、か、か、片思い、しておりましたお。
あの作品を読む前から、ずっと気持ちはあった気がするんですお。
でも、あの作品…、金木犀を読んでから、完璧に貴方に心を射抜かれていた、そう思いますお。」
「…!」
「先生にご迷惑じゃないかとか、できない夫のこととか、いろいろわーっなっちゃって、きーくん…強飯医師に相談したこともありましたお。
それで、できない夫の告白で自分まで変わったら、先生の寄る辺がなくなってしまうから、変わらないほうがいいんじゃないかと言われて。」
やる夫は、顔を真っ赤にして、両手でそれを隠す。
「先生、自分は先生にご迷惑じゃないですかお?
先生のお力になれますかお?
これまでも、お力になれてましたかお?」
「貴方でなくてはならないんです。
新速出編集…いえ、やる夫さん。」
「先生…」
「どうか、願わくば貴方も。
私を名前でおよびください。」
「や、やらない夫、せ、先生…」
やる夫はぎこちなく口を動かし、意識的にその名前を呼んだ。
だが、敬称を外すことはできず、むしろそれが、やる夫らしくもあるのであった。
やらない夫にはそれがまた、やる夫を感じられて嬉しく感じるのであった。
「やる夫さん、お渡ししたいものがあります」
やらない夫は立ち上がり、部屋の中にあるタンスに向かう。
一番上の引き出しから、小さな箱を取り出す。
その箱は桐の箱で、手のひらに乗るほどのものであった。
やらない夫はそれを一度良く見たあと、やる夫の方へ振り向いた。
「やる夫さん、こちらを」
「これは?」
「昔、母が私に大切な人ができたら渡しなさいと言って残してくれたものです。」
やらない夫は言いながら、そっとやる夫の手の中に箱を収めた。
やる夫の頬はますます赤くそまる。
本当に愛しい唯一人にしか贈ることができない大切なものであると、知識ではなく心で理解したから。
「開けてみていただけますか」
「し、失礼いたしますお」
開けてみるとそこには、美しい漆塗りの櫛が収めされていた。
「櫛は、江戸時代の頃から求婚の時の贈り物として使われて来ました。
くとしという音から、苦労と死を連想したそうです。」
「あ、あえてそんな悪い連想のものを渡していたんですかお。」
「ええ、人生をともにした時、幸せも多いですが、苦労も多いものです。
ですが、それでも共に死ぬまで寄り添いながらいきていこうという意味が込められているのです。
やる夫さん、私と一生を添い遂げてくださいますか?」
「もちろんですお。喜んで…!」
やる夫はその櫛を返す返す確かめたあと、ジャケットの胸ポケットへと滑り込ませ、上から大事そうに抑えた。
やる気の心臓の上で、やらない夫の櫛は温められる。
それからやる夫は、やらない夫の両手を握りしめて、顔を覗き込んだ。
「自分も、…やらない夫先生が、大好きですお。」
「は、い…!」
頷いたやらない夫を、やる夫は両手で力いっぱい抱きしめた。
「や、やる夫さん、痛いですよ…!」
「すみませんお!感極まって!」
やる夫は力強くしめていた腕の力をそっと抜く。
緩んだ腕の間から、やらない夫は自分の腕を差し入れて、やる夫の頬を両手でつつみ、引き寄せた。
やる夫が、あっと思う間もなく、2人の唇は柔らかく触れあった。
唇は互いに確かめるようについばまれたあと、どちらともなく深く重なりあう。
しばらく重ねられた唇が離れた時、2人は思わず見つめあい目が合うと笑ってしまった。
いつの間にか空には月がのぼり、庭には銀の光がさしこんできていた。
やらない夫はやる夫へ体を寄せながら、雪見障子越しの庭を眺める。
「月が上ってきたようですね。」
やる夫もそちらへと視線を向け、ふわりと顔をほころばせる。
やらない夫は期待を込めて口をひらいた。
「月が…、綺麗ですね」
しんでもいい、その言葉を期待したが、帰ってきたのは別の言葉。
「一緒に見たいですお」
やる夫の答えにやらない夫も破顔する。
「あぁ、確かに。私もそのほうがずっといい。」
明示(めいじ)の世が過ぎ、年号が大翔(たいしょう)となって早11年。
激動の世の中で、東京・小城野(こじろの)の地において小さく芽生えた恋心がありました。
しかしその恋は、一時は叶わぬと諦められた恋なのでした。
これは、そんな気持ちをかかえた男が。
男たちが。
その気持ちを結んだ物語。
最凶にして最愛の
ただ一人の君に捧ぐ
完
最高にして最愛の同志にして共犯者、
青藍先輩に捧ぐ