【やる&やら】最凶にして最愛のただ一人の君に捧ぐ
ちゅん、ちゅんちゅん…。
次の日、やらない夫は久しぶりに晴れやかな朝を迎えていた。
やらない夫は、まず枕元の眼鏡をかけると伸びをしてから、布団を上げた。
それから台所に行くと、慣れた手さばきで釜で飯を炊き、大根の味噌汁を作り、あっさりと朝餉(あさげ)を済ませる。
その後、自室で身支度を手早く整える。
本日の着物は秋らしく、僅かな柄として紅葉があしらわれているものだ。羽織(はおり)は昨日と同じものを羽織る。
柱時計の時刻を確認したやらない夫は、箒を手にとり、門前の掃き掃除を始める。
秋も本番になり、舞い散る木葉は雨のように降ってきている。
それを少しずつ集めながら、秋の空を眺めた。
朝の空気に、しゃかしゃかという竹箒の音が心地よい。
「昨日は久しぶりに締め切りに焦らずゆっくり寝られて、すっきりしただろー。
はー、善きかな善きかな…。」
朝日を浴びながら、落ち葉をかき集めていたやらない夫の耳に、聞きなれた足音が届く。
複数の軽い足音。
やらない夫は、音の方へと顔を向けた。
「美筆先生ー!
おはようございまーす!」
「せんせー、おはよー!」
数名の子供たちが、手を振りながら路地をかけてきていた。
やらない夫は、優しく微笑み返す。
「はい、みんな今日も元気ですね。
おはようございますだろ。」
やらない夫に返事をもらった子供たちは、嬉しそうな顔をする。
子供たちは、やらない夫の脇を通り、勝手知ったる様子で玄関を開けて家の中へと駆け込んでいく。
しかも、何人も何人も。
やらない夫は、淡雪講社という出版社で、児童向け小説を発表する小説家であるわけだが、作家だけでは食っていけないので、自宅の一番広い部屋を子供たちに解放し、【美筆塾】という看板で、私塾を開いていた。
国語算数、常識的なことや道徳といったことを教えている。
文明開化後、列強諸国に並び立つため、政府は子供たちの教育環境を整える法律を整備したが、まだまだ田舎では学舎(まなびや)が足らず、やらない夫がやっているような私塾が学舎に入れない子供たちの受け皿になっていた。
やらない夫の美筆塾にはいつも20人ほどの子供たちが通う。
午前の部が9時から12時、午後の部が13時から15時までという時間割りだ。
やらない夫の住む三ノ巣は、畑が多い。
蚕(かいこ)のための桑畑(くわばたけ)、麦(むぎ)、陸稲(おかぼ)、芋(いも)などがたくさん畑に植え付けられている。
農家の子供は立派な労働力であるため、ずっと塾で勉強をするというのはなかなか難しい。
よって、美筆塾では午前、午後、両方を選んで出席することができるようになっていた。
やらない夫は、あらかたの落ち葉を掃いてしまうと、箒を片付けて、自分も家の中に入る。
やらない夫の家は、玄関の硝子戸を開けると広めの土間になっており、右手に土間続きの台所への入り口、正面に庭まで抜ける廊下、左手に教室に使っている部屋の脇の廊下がある。
教室に使っている部屋は廊下に面しているところが全て襖になっており、今はそこがすべて開け放たれていた。
先ほどまで、静かでがらんとしていた室内は、うってかわって華やかな空間になっていた。
畳敷きの部屋には長机が並び、その間を子供たちが飛んだり跳ねたりと大変賑やかにしている。
やらない夫は、ざっと子供たちの顔を見渡し、いつもの面子がそろっているかを確認した。
「みんな、おはようだろ。
今日も元気そうだね。」
やらない夫がそう言いながら教室に入ってくると、子供たちは元気に返事をして、各々定位置の席につく。
出席をとったあと、やらない夫による授業が開始される。
本日の午前中は、習字と詩の朗読、そろばんによる計算という内容であった。
やらない夫は、少しでも小学校の内容に近づけようと、二人一冊ではあるものの、小学校の教科書を取り寄せて授業中に貸し出して活用しているので、親御さんにも熱心な先生と、なかなか評判である。
一人一人得手不得手はあるものの、子供たちは一生懸命に勉学に励む大変良い生徒で、やらない夫はいつも少し嬉しげに授業をする。
本日の習字では、折り曲げて痕をつけた半紙に【いろは】【イロハ】と、ひらがなとカタカナで文字を書かせた。
昼頃になると、一旦解散となり、皆近所なので昼を食べに子供たちは帰る。
午後も授業を受ける子はまた戻ってくるし、午前だけの子はそのまま畑に出ることになる。午後だけの子供も新たにやってくる。
やらない夫は、子供たちが帰っていくのを見届けたあと、昼休みのうちに、冷えた釜の飯と大根の味噌汁で手早く昼食をすませ、午後の授業のための準備をする。
そうこうしているうちに、子供たちがまたやってきて、午後の授業が始まるのだ。
「せんせー!
おっかちゃんが、持ってけっていってたから、持ってきたぁー!」
中には、そう言いながら、カボチャやら大根、芋やらを担いでくる子もいる。
金額として月謝が払えない親が、かわりとばかりに畑でとれた野菜を子供に持たせてくることがあるのだ。
「立派なさつま芋だろ!
ありがたく頂戴しますだろ。」
だがやらない夫は、それでも良いと思っていた。
丁寧に、差し出されたさつま芋を受け取り、頭を下げる。
「お母上には、美筆が大層喜んでいたと、伝えてくださいだろ。」
「はい!美筆先生!」
いただいたさつま芋をひとまず台所に運び、午後の授業を始める。
午後の授業も習字と詩の朗読とそろばんだが、午前にも来ていた子供には、なかなか読むことができないであろう本を渡して、ゆっくり読んでもらったり、少し応用の入っている計算問題を渡したりする。
皆がもくもくと習字を書いている時、本を読んでいたできる夫という男の子が手を上げた。
美筆塾に通う子供たちの中でも飛び抜けて勉強好きな子である。
「どうかしましたか?
できる夫君。」
やらない夫はできる夫のところまで歩いてきて、正面に座った。
「美筆先生、どうして日本語には、カタカナとひらがながあるんですか?」
やらない夫は少し微笑みながら答える。
「いい質問ですだろ。できる夫君。
それでは、みんなにも聞いてもらいましょうか。
皆。いったん筆を置いて、お話を聞いて欲しいだろ。
できる夫君から、何で日本の言葉には、ひらがなとカタカナがあるのか、という質問がありましただろ。
その昔、日本には口語として日本語はあったけれど、まだそれを表現する文字がなかった時代があっただろ。
一方で、その頃隣の中国では、すでに大変文明が進んだ国が栄えていたんだろ。
日本人は高度な技術を学ぶため海を渡り、一生懸命勉強をした人が帰ってくることによって、漢字という文字が伝わっただろ。
当初は、音に漢字を当てはめて使用していたらしいんだが…、それだと書くのが大変だろう?
特にたくさんの文字を漢字だけで書くのは大変…。
なので、だんだんと漢字が簡略化されることにより形が変わり、それがひらがなになっただろ。
一方のカタカナは、漢字の一部を取って作られたといわれているだろ。
そのようにして、漢字がゆっくり変わっていき、ひらがなとカタカナは、平安時代の初期に作られたと、考えられているだろ。
ひらがなも、カタカナも、元の漢字と見比べると、なるほどと、皆さん思うんじゃないかしらだろ。」
やらない夫は、2枚の半紙をとりだし、あいうえおと書き、もう1枚の半紙には、安以宇衣於と書いた。
それを並べた後、また2枚の半紙を取り出し、今度は1枚にアイウエオとカタカナで書き、もう1枚には阿伊宇江於と書いてから、さらに赤墨で漢字のへんやつくりに色をつけた。
さらさらとやらない夫が筆を動かしていると、廊下の方で気配がした。
チラリと視線を投げると、そこにはそっと教室に入ってきたやる夫が見えて、やらない夫は目を丸くした。
慌てて立ち上がりかけたやらない夫に、やる夫は両手で座っているようにと、身振りでつたえてきた。
そして、やる夫の腕に巻かれた腕時計を指差し、とんとんとつつく。
どうやら、授業が終わるまで、あと30分ほどあるのだが、待ってくれるつもりのようだ。
やらない夫は軽く頭を下げてから、書き上がった半紙を子供たちに見えるように並べた。
「えー、こほん。
ひらがなのい、などは、特に分かりやすいのではないかと思うだろ。
これは以上の以、が崩れてうまれた文字だけど、特徴は十分残ってると思うだろ。
カタカナの伊は、にんべんの形そのものだし、江も、さんずいを取り除いたそのままの形だね。
こうして見ると、漢字もひらがなもカタカナも、まるで独立した文字ではなく、一つの大きな系譜に含まれる、まあ、親戚筋の文字だということだろ。
そして、ひらがなやカタカナだけではなく、漢字も使われているのは、日本語には同音異義語が多くて、音だけを表すひらがなやカタカナだけでは不便だからと言われているだろ。
漢字は日本語において使用される時は表意文字と言われるだろ。
漢字は、一字一字に意味がある。だから同音異義語の区別にはうってつけだった、ということだろうね。
まぁ、本場の中国の方では、漢字は文字のひとつひとつが意味だけを表すんじゃなくて、言語の語やなんかを示しているから、語や形態素の発音も表すことになるらしいだろ。
表意文字としてじゃなく、表語文字に分類されるらしいから…ものすごく奥深い言語なんだよな、漢字…。
面白いものだろ。」
他の子達は最後ちんぷんかんぷんになっていたが、質問をした少年は、なるほどと何度も頷いていた。
やらない夫としては、このような質問は大歓迎なのであった。
やらない夫は半紙を片付けながらやる夫を伺うと、やる夫は眉間にものすごいシワを作って腕組みし、こちらを射殺さんばかりに睨み付けていた。
そう、まさにその形相は、鬼。
(…な、なんか怒らせるようなこと、しちゃったか…!?
え、昨日の原稿、そんなに不出来だったかだろ…?)
やらない夫は内心冷や汗をびっしょりかいていたが、子供たちの手前、どうにか笑顔を維持した。
3時になると、子供たちは別れの挨拶を残して、いつもあっという間に部屋を飛び出していってしまう。
瞬く間に、がらんどうになった部屋に残ったのは、やらない夫とやる夫だけであった。
やらない夫は、いそいそとやる夫の方に近いて、頭を下げた。
「申し訳ありません。
新速出編集。
お忙しいのにお待たせしてしまって。」
やる夫の方は、明るく返す。
先ほどの厳つい表情はしていなかった。
「なんのなんの!
全然ですお!
こちらこそ、まだ授業中にも関わらずお邪魔してしまいまして、申し訳なかったですお。」
「しかし、長い時間いただきまして…退屈でしたでしょう。」
「いやあ、そんなことないですお!
美筆先生はやっぱり頭がいい方だなぁ、授業もわかりやすくて素晴らしいなぁ、なんて考えてたら、あっという間でしたお。
教科書とか、エッセイとかのお仕事のほうが良かったりしませんかお?
他社に引き抜かれないで欲しいんですがお。」
「私なんぞにお声がけいただけるのは、懐の深い淡雪講社の方々だけですだろ…。
はは、他のところからは、見向きもされておりませんから…。
ええ、その辺はご安心ください…。
あ、ずっとお待たせしておりましたし、お茶をお出ししますから、どうぞこちらに。」
やらない夫は、教室にしている部屋から、廊下を横切り、居間へとやる夫を誘った。
やらない夫の家の居間は、玄関の正面に伸びる廊下の右側に面している部屋で、庭に面しているので日当たりがよく、縁側の向こうに広く庭を眺めることができる。
庭と言っても、世話が行き届かないため、ある程度の広さがある割に華がない、貧相な場所であるのだが。
今には大きな柱時計と大きな木の座卓があり、座布団が二枚ポツポツと敷かれていた。
やる夫は、座卓に案内され、座布団の上に腰掛けた。
やらない夫は急いでお湯を沸かし、自家製のヨモギ茶をいれて持ってきて、やる夫のまえに置いた。
自分の分の湯飲みを目の前に置き、やる夫の真向かいに座る。
「して…あの…、昨日の原稿に、何か不手際がありましたか?
それとも、ボツ、とか…?」
やらない夫が恐る恐る尋ねる。
「あ!
いやいや、そうじゃないんですお!
昨日言ってあったじゃないですかお。
校正後の修正にはまた来ますって!
それに、今日は他の用事もありましたので、回ってきたとこだったんですお。」
やる夫は明るくいいながら、鞄の中から丁寧に原稿を取り出した。
原稿用紙には、赤鉛筆でいくつかマークがついている。
「え!
ああ、はい、たしかにおっしゃってましたが…。もう校正の確認作業をしてくださったんですか?」
「もちろんですお!
へへ、自分、先生のお話大好きですからお、昨日、汽車に乗って会社帰ったあと、熟読しながら…。
あ、そうそう、今回のお話の、南蛮渡来の紅茶の妖精が、迷子になって、出会ったお団子の妖精に道を尋ねる場面なんですがお、紅茶の妖精が、『わたしわ』って言ってるんですが、誤字でよろしいですかお?」
やる夫が、原稿用紙の一部に指を沿わせた。
やらない夫も、その部分にさっと目を走らせる。
「あ、その場面なんですが、まだ紅茶の妖精が日本語に慣れてない感じが出したくて、あえて『わ』にしたのですが、やっぱり違和感ありますか。」
「違和感もありますが、やっぱり子供向けの雑誌ですからお。
表記には気を付けてるので、ここは、『は』にできませんかお?」
「ごもっともなご意見、承知いたしましただろ。
では、紅茶の妖精の『わ』については修正いたします。」
やらない夫が言うと、やる夫は赤鉛筆でさっと「わ」を「は」に修正した。
「じゃあ、紅茶の妖精の台詞の主語の『わ』は、修正、と。
ご無理を言って申し訳ないですお。
ありがとうございますお。」
「いえ、大変ごもっともなご意見でしたので、こちらこそ申し訳ありません。
教鞭を取るものとして、見習わなければなりませんだろ。
他には何か修正はありますか?」
「とりあえず、それ以外はないですお。
文章も物語も、大変素晴らしかったですしお。
今回は、このままいかせてもらおうかと…。
あと、来月分の作品の相談をさせていただければ助かるのですがお。」
「う、来月は締め切り二つですからね。
たしかに、早めにご相談できるのは嬉しいですが…。」
「そうなんですおね~。
やる夫たち編集するほうも、年末に向けては超忙しくてですお。
お互い大変ですおね、年末は。
あ、それで、どうですかお?
なんか、書いてみたい題材とか、ありますかお?」
「そうですねぇ…。」
といっても、今月分の締め切りを切り抜けたばかりのやらない夫の頭に、新しいアイデアはまだない。
しかし、ここで何か取っ掛かりを捻り出しておくと、割りと話が楽に進みやすいのは、長年の経験から身に沁みてわかっていた。
やらない夫は、腕を組み、目の前のやる夫の姿を見つめる。
今日も、やる夫の服装は、三つ揃いのスーツに蝶ネクタイ。今流行りのスタイルだ。紳士的できちんとした印象を受ける。
やる夫は、やらない夫より少し年下らしいが、やり手の編集者で、締め切りの門番、敏腕鬼編集…。
やらない夫の脳裏に、先ほどの厳めしい顔のやる夫が過る(よぎる)。
あの形相はまさに。
「…鬼…、鬼なんてどうですかだろ?」
そんな言葉が、ポロリとやらない夫の口から漏れていた。
続く
次の日、やらない夫は久しぶりに晴れやかな朝を迎えていた。
やらない夫は、まず枕元の眼鏡をかけると伸びをしてから、布団を上げた。
それから台所に行くと、慣れた手さばきで釜で飯を炊き、大根の味噌汁を作り、あっさりと朝餉(あさげ)を済ませる。
その後、自室で身支度を手早く整える。
本日の着物は秋らしく、僅かな柄として紅葉があしらわれているものだ。羽織(はおり)は昨日と同じものを羽織る。
柱時計の時刻を確認したやらない夫は、箒を手にとり、門前の掃き掃除を始める。
秋も本番になり、舞い散る木葉は雨のように降ってきている。
それを少しずつ集めながら、秋の空を眺めた。
朝の空気に、しゃかしゃかという竹箒の音が心地よい。
「昨日は久しぶりに締め切りに焦らずゆっくり寝られて、すっきりしただろー。
はー、善きかな善きかな…。」
朝日を浴びながら、落ち葉をかき集めていたやらない夫の耳に、聞きなれた足音が届く。
複数の軽い足音。
やらない夫は、音の方へと顔を向けた。
「美筆先生ー!
おはようございまーす!」
「せんせー、おはよー!」
数名の子供たちが、手を振りながら路地をかけてきていた。
やらない夫は、優しく微笑み返す。
「はい、みんな今日も元気ですね。
おはようございますだろ。」
やらない夫に返事をもらった子供たちは、嬉しそうな顔をする。
子供たちは、やらない夫の脇を通り、勝手知ったる様子で玄関を開けて家の中へと駆け込んでいく。
しかも、何人も何人も。
やらない夫は、淡雪講社という出版社で、児童向け小説を発表する小説家であるわけだが、作家だけでは食っていけないので、自宅の一番広い部屋を子供たちに解放し、【美筆塾】という看板で、私塾を開いていた。
国語算数、常識的なことや道徳といったことを教えている。
文明開化後、列強諸国に並び立つため、政府は子供たちの教育環境を整える法律を整備したが、まだまだ田舎では学舎(まなびや)が足らず、やらない夫がやっているような私塾が学舎に入れない子供たちの受け皿になっていた。
やらない夫の美筆塾にはいつも20人ほどの子供たちが通う。
午前の部が9時から12時、午後の部が13時から15時までという時間割りだ。
やらない夫の住む三ノ巣は、畑が多い。
蚕(かいこ)のための桑畑(くわばたけ)、麦(むぎ)、陸稲(おかぼ)、芋(いも)などがたくさん畑に植え付けられている。
農家の子供は立派な労働力であるため、ずっと塾で勉強をするというのはなかなか難しい。
よって、美筆塾では午前、午後、両方を選んで出席することができるようになっていた。
やらない夫は、あらかたの落ち葉を掃いてしまうと、箒を片付けて、自分も家の中に入る。
やらない夫の家は、玄関の硝子戸を開けると広めの土間になっており、右手に土間続きの台所への入り口、正面に庭まで抜ける廊下、左手に教室に使っている部屋の脇の廊下がある。
教室に使っている部屋は廊下に面しているところが全て襖になっており、今はそこがすべて開け放たれていた。
先ほどまで、静かでがらんとしていた室内は、うってかわって華やかな空間になっていた。
畳敷きの部屋には長机が並び、その間を子供たちが飛んだり跳ねたりと大変賑やかにしている。
やらない夫は、ざっと子供たちの顔を見渡し、いつもの面子がそろっているかを確認した。
「みんな、おはようだろ。
今日も元気そうだね。」
やらない夫がそう言いながら教室に入ってくると、子供たちは元気に返事をして、各々定位置の席につく。
出席をとったあと、やらない夫による授業が開始される。
本日の午前中は、習字と詩の朗読、そろばんによる計算という内容であった。
やらない夫は、少しでも小学校の内容に近づけようと、二人一冊ではあるものの、小学校の教科書を取り寄せて授業中に貸し出して活用しているので、親御さんにも熱心な先生と、なかなか評判である。
一人一人得手不得手はあるものの、子供たちは一生懸命に勉学に励む大変良い生徒で、やらない夫はいつも少し嬉しげに授業をする。
本日の習字では、折り曲げて痕をつけた半紙に【いろは】【イロハ】と、ひらがなとカタカナで文字を書かせた。
昼頃になると、一旦解散となり、皆近所なので昼を食べに子供たちは帰る。
午後も授業を受ける子はまた戻ってくるし、午前だけの子はそのまま畑に出ることになる。午後だけの子供も新たにやってくる。
やらない夫は、子供たちが帰っていくのを見届けたあと、昼休みのうちに、冷えた釜の飯と大根の味噌汁で手早く昼食をすませ、午後の授業のための準備をする。
そうこうしているうちに、子供たちがまたやってきて、午後の授業が始まるのだ。
「せんせー!
おっかちゃんが、持ってけっていってたから、持ってきたぁー!」
中には、そう言いながら、カボチャやら大根、芋やらを担いでくる子もいる。
金額として月謝が払えない親が、かわりとばかりに畑でとれた野菜を子供に持たせてくることがあるのだ。
「立派なさつま芋だろ!
ありがたく頂戴しますだろ。」
だがやらない夫は、それでも良いと思っていた。
丁寧に、差し出されたさつま芋を受け取り、頭を下げる。
「お母上には、美筆が大層喜んでいたと、伝えてくださいだろ。」
「はい!美筆先生!」
いただいたさつま芋をひとまず台所に運び、午後の授業を始める。
午後の授業も習字と詩の朗読とそろばんだが、午前にも来ていた子供には、なかなか読むことができないであろう本を渡して、ゆっくり読んでもらったり、少し応用の入っている計算問題を渡したりする。
皆がもくもくと習字を書いている時、本を読んでいたできる夫という男の子が手を上げた。
美筆塾に通う子供たちの中でも飛び抜けて勉強好きな子である。
「どうかしましたか?
できる夫君。」
やらない夫はできる夫のところまで歩いてきて、正面に座った。
「美筆先生、どうして日本語には、カタカナとひらがながあるんですか?」
やらない夫は少し微笑みながら答える。
「いい質問ですだろ。できる夫君。
それでは、みんなにも聞いてもらいましょうか。
皆。いったん筆を置いて、お話を聞いて欲しいだろ。
できる夫君から、何で日本の言葉には、ひらがなとカタカナがあるのか、という質問がありましただろ。
その昔、日本には口語として日本語はあったけれど、まだそれを表現する文字がなかった時代があっただろ。
一方で、その頃隣の中国では、すでに大変文明が進んだ国が栄えていたんだろ。
日本人は高度な技術を学ぶため海を渡り、一生懸命勉強をした人が帰ってくることによって、漢字という文字が伝わっただろ。
当初は、音に漢字を当てはめて使用していたらしいんだが…、それだと書くのが大変だろう?
特にたくさんの文字を漢字だけで書くのは大変…。
なので、だんだんと漢字が簡略化されることにより形が変わり、それがひらがなになっただろ。
一方のカタカナは、漢字の一部を取って作られたといわれているだろ。
そのようにして、漢字がゆっくり変わっていき、ひらがなとカタカナは、平安時代の初期に作られたと、考えられているだろ。
ひらがなも、カタカナも、元の漢字と見比べると、なるほどと、皆さん思うんじゃないかしらだろ。」
やらない夫は、2枚の半紙をとりだし、あいうえおと書き、もう1枚の半紙には、安以宇衣於と書いた。
それを並べた後、また2枚の半紙を取り出し、今度は1枚にアイウエオとカタカナで書き、もう1枚には阿伊宇江於と書いてから、さらに赤墨で漢字のへんやつくりに色をつけた。
さらさらとやらない夫が筆を動かしていると、廊下の方で気配がした。
チラリと視線を投げると、そこにはそっと教室に入ってきたやる夫が見えて、やらない夫は目を丸くした。
慌てて立ち上がりかけたやらない夫に、やる夫は両手で座っているようにと、身振りでつたえてきた。
そして、やる夫の腕に巻かれた腕時計を指差し、とんとんとつつく。
どうやら、授業が終わるまで、あと30分ほどあるのだが、待ってくれるつもりのようだ。
やらない夫は軽く頭を下げてから、書き上がった半紙を子供たちに見えるように並べた。
「えー、こほん。
ひらがなのい、などは、特に分かりやすいのではないかと思うだろ。
これは以上の以、が崩れてうまれた文字だけど、特徴は十分残ってると思うだろ。
カタカナの伊は、にんべんの形そのものだし、江も、さんずいを取り除いたそのままの形だね。
こうして見ると、漢字もひらがなもカタカナも、まるで独立した文字ではなく、一つの大きな系譜に含まれる、まあ、親戚筋の文字だということだろ。
そして、ひらがなやカタカナだけではなく、漢字も使われているのは、日本語には同音異義語が多くて、音だけを表すひらがなやカタカナだけでは不便だからと言われているだろ。
漢字は日本語において使用される時は表意文字と言われるだろ。
漢字は、一字一字に意味がある。だから同音異義語の区別にはうってつけだった、ということだろうね。
まぁ、本場の中国の方では、漢字は文字のひとつひとつが意味だけを表すんじゃなくて、言語の語やなんかを示しているから、語や形態素の発音も表すことになるらしいだろ。
表意文字としてじゃなく、表語文字に分類されるらしいから…ものすごく奥深い言語なんだよな、漢字…。
面白いものだろ。」
他の子達は最後ちんぷんかんぷんになっていたが、質問をした少年は、なるほどと何度も頷いていた。
やらない夫としては、このような質問は大歓迎なのであった。
やらない夫は半紙を片付けながらやる夫を伺うと、やる夫は眉間にものすごいシワを作って腕組みし、こちらを射殺さんばかりに睨み付けていた。
そう、まさにその形相は、鬼。
(…な、なんか怒らせるようなこと、しちゃったか…!?
え、昨日の原稿、そんなに不出来だったかだろ…?)
やらない夫は内心冷や汗をびっしょりかいていたが、子供たちの手前、どうにか笑顔を維持した。
3時になると、子供たちは別れの挨拶を残して、いつもあっという間に部屋を飛び出していってしまう。
瞬く間に、がらんどうになった部屋に残ったのは、やらない夫とやる夫だけであった。
やらない夫は、いそいそとやる夫の方に近いて、頭を下げた。
「申し訳ありません。
新速出編集。
お忙しいのにお待たせしてしまって。」
やる夫の方は、明るく返す。
先ほどの厳つい表情はしていなかった。
「なんのなんの!
全然ですお!
こちらこそ、まだ授業中にも関わらずお邪魔してしまいまして、申し訳なかったですお。」
「しかし、長い時間いただきまして…退屈でしたでしょう。」
「いやあ、そんなことないですお!
美筆先生はやっぱり頭がいい方だなぁ、授業もわかりやすくて素晴らしいなぁ、なんて考えてたら、あっという間でしたお。
教科書とか、エッセイとかのお仕事のほうが良かったりしませんかお?
他社に引き抜かれないで欲しいんですがお。」
「私なんぞにお声がけいただけるのは、懐の深い淡雪講社の方々だけですだろ…。
はは、他のところからは、見向きもされておりませんから…。
ええ、その辺はご安心ください…。
あ、ずっとお待たせしておりましたし、お茶をお出ししますから、どうぞこちらに。」
やらない夫は、教室にしている部屋から、廊下を横切り、居間へとやる夫を誘った。
やらない夫の家の居間は、玄関の正面に伸びる廊下の右側に面している部屋で、庭に面しているので日当たりがよく、縁側の向こうに広く庭を眺めることができる。
庭と言っても、世話が行き届かないため、ある程度の広さがある割に華がない、貧相な場所であるのだが。
今には大きな柱時計と大きな木の座卓があり、座布団が二枚ポツポツと敷かれていた。
やる夫は、座卓に案内され、座布団の上に腰掛けた。
やらない夫は急いでお湯を沸かし、自家製のヨモギ茶をいれて持ってきて、やる夫のまえに置いた。
自分の分の湯飲みを目の前に置き、やる夫の真向かいに座る。
「して…あの…、昨日の原稿に、何か不手際がありましたか?
それとも、ボツ、とか…?」
やらない夫が恐る恐る尋ねる。
「あ!
いやいや、そうじゃないんですお!
昨日言ってあったじゃないですかお。
校正後の修正にはまた来ますって!
それに、今日は他の用事もありましたので、回ってきたとこだったんですお。」
やる夫は明るくいいながら、鞄の中から丁寧に原稿を取り出した。
原稿用紙には、赤鉛筆でいくつかマークがついている。
「え!
ああ、はい、たしかにおっしゃってましたが…。もう校正の確認作業をしてくださったんですか?」
「もちろんですお!
へへ、自分、先生のお話大好きですからお、昨日、汽車に乗って会社帰ったあと、熟読しながら…。
あ、そうそう、今回のお話の、南蛮渡来の紅茶の妖精が、迷子になって、出会ったお団子の妖精に道を尋ねる場面なんですがお、紅茶の妖精が、『わたしわ』って言ってるんですが、誤字でよろしいですかお?」
やる夫が、原稿用紙の一部に指を沿わせた。
やらない夫も、その部分にさっと目を走らせる。
「あ、その場面なんですが、まだ紅茶の妖精が日本語に慣れてない感じが出したくて、あえて『わ』にしたのですが、やっぱり違和感ありますか。」
「違和感もありますが、やっぱり子供向けの雑誌ですからお。
表記には気を付けてるので、ここは、『は』にできませんかお?」
「ごもっともなご意見、承知いたしましただろ。
では、紅茶の妖精の『わ』については修正いたします。」
やらない夫が言うと、やる夫は赤鉛筆でさっと「わ」を「は」に修正した。
「じゃあ、紅茶の妖精の台詞の主語の『わ』は、修正、と。
ご無理を言って申し訳ないですお。
ありがとうございますお。」
「いえ、大変ごもっともなご意見でしたので、こちらこそ申し訳ありません。
教鞭を取るものとして、見習わなければなりませんだろ。
他には何か修正はありますか?」
「とりあえず、それ以外はないですお。
文章も物語も、大変素晴らしかったですしお。
今回は、このままいかせてもらおうかと…。
あと、来月分の作品の相談をさせていただければ助かるのですがお。」
「う、来月は締め切り二つですからね。
たしかに、早めにご相談できるのは嬉しいですが…。」
「そうなんですおね~。
やる夫たち編集するほうも、年末に向けては超忙しくてですお。
お互い大変ですおね、年末は。
あ、それで、どうですかお?
なんか、書いてみたい題材とか、ありますかお?」
「そうですねぇ…。」
といっても、今月分の締め切りを切り抜けたばかりのやらない夫の頭に、新しいアイデアはまだない。
しかし、ここで何か取っ掛かりを捻り出しておくと、割りと話が楽に進みやすいのは、長年の経験から身に沁みてわかっていた。
やらない夫は、腕を組み、目の前のやる夫の姿を見つめる。
今日も、やる夫の服装は、三つ揃いのスーツに蝶ネクタイ。今流行りのスタイルだ。紳士的できちんとした印象を受ける。
やる夫は、やらない夫より少し年下らしいが、やり手の編集者で、締め切りの門番、敏腕鬼編集…。
やらない夫の脳裏に、先ほどの厳めしい顔のやる夫が過る(よぎる)。
あの形相はまさに。
「…鬼…、鬼なんてどうですかだろ?」
そんな言葉が、ポロリとやらない夫の口から漏れていた。
続く