【やる&やら】最凶にして最愛のただ一人の君に捧ぐ
キル夫医師を荷台に乗せて、一路できない夫は美筆塾を目指し、自転車で三ノ巣の街を爆走した。
「どけどけ!道を開けてくれ!ひいちまうぞ!」
できない夫は舗装もされていない道を土煙を上げながら、全速力で自転車をこいでいく。
何の気なしに道を横断しようとする人物には、容赦なく叫ぶように警告をした。
叫ばれた方は驚きの表情で道を譲り、次の瞬間には、そこをできない夫がこいでいる自転車が通り過ぎるのであった。
激しく振動する自転車の荷台で、キル夫は振り落とされないようにできない夫により一層しがみついた。
出発時は少しロマンを感じていたが、しばらく走ってみれば随分命がけな走行であることに危機感を抱くようになっていたのである。
『やっぱり恋とか愛とかは、僕には縁遠いのかも!
ひいいい、振り落とされる!』
キル夫は正直できない夫の背中に縋りついたまま、半泣きなのであった。
さて、しばらくという時間も掛けず、全速力で爆走した自転車は目的地の美筆塾へ到達しようとしていた。
「キル夫先生、もうすぐ美筆塾ですよ!」
「あ、え、もうですか?!」
キル夫は、ハッとして周囲を見渡す。
言われてみれば確かに、そこは美筆塾まで目と鼻の先の場所であった。
キル夫は気を取り直して、医者として気合を入れる。
キル夫が真剣な顔になった時、ついに自転車は美筆塾の玄関先に到着したのであった。
自転車が止まるか止まらないかの内に、キル夫はさっと自転車の荷台から降り、医者の到着を今か今かと待ちわびる子供たちがうかがう玄関に突進した。
「医者の強飯キル夫です!
美筆先生を助けに来ました!
先生はどこですか?!」
普段でさえ、何事もないのに怖いと子供に泣かれるキル夫が、真剣な形相で子供たちに迫ったとき、年端も行かない子供が泣いたり漏らしてしまうということもあった。
だが、この時ばかりは、子供たちにはキル夫はまさに救いの手であった。
すごい形相で迫られても、待ち受けていた子供たちは、キル夫を急かしこそすれ、その場で泣き崩れたり、漏らしてしまうという失態を犯すことはなかったのである。
キル夫は一瞬そのことに関心しながら、今は言及する暇などないと、子供たちに案内されるまま美筆塾の室内に進んだ。
「お医者の先生、早く早く!」
「怖い先生、やらない夫先生のこと、治して!」
前から手を引かれ、背中を押され、キル夫はやらない夫が寝かされている彼の私室へと誘導される。
たどり着いてみれば、布団の上でぐったりと体を横たえているやらない夫と、彼を心配げに見守る幼馴染のやる夫がキル夫を待っていた。
「きーくん!待ってたお!朝来たら美筆先生が倒れてて!
意識がなかったんだお!
布団には寝かせたんだけど…!
助けてくれだお!」
「分かったよやっくん。
僕に任せて。
人手が必要になったら声を掛けるから、君は子供たちを見ていて欲しい。
子供たちもかなり不安になっているようだからね。」
「わかったお!」
やる夫は選手交代とばかりに、やらない夫の枕元の場を譲るために立ち上がり、子供たちの方へいくために襖を開けた。
子供たちはやらない夫が心配ではあるものの、お医者の先生が怖いのとお邪魔は出来ないということで居間や教室にいて、心配げにやらない夫の私室の方を見上げているのであった。
そして、私室からやる夫が出てくると、わっとばかりに押し寄せてやる夫を取り囲んだ。
「やるおじちゃん!
せんせーなおる?」
「みふでせんせー、大丈夫?」
年端も行かない子供たちでさえ、やらない夫を心配してやる夫を見上げる。
心配で涙に揺れる瞳に見上げられたやる夫は、やらない夫が子供たちに心底好かれている事を改めて理解する。
「みんな、大丈夫だお!
腕のいいお医者の先生が来てくれてたんだから!
先生がみんなを置いていく訳がないお!」
やる夫は努めて明るく言ったが、それは自分自身を励ますためでもあった。
やる夫の脳裏に、布団に横たわるやらない夫の青い顔がよぎる。
(…きーくんが見てくれてるんだから、絶対大丈夫だお…!)
やる夫はギュッと拳を握りしめ、幼馴染を信じる事しかできないのであった。
★★★★
「ぐ、はぁ。
流石に病み上がりに全力だすのはつらかったな。
体がいい加減なまっていやがる。」
キル夫を自転車で運んできたできない夫は、さすがにぐったりとして自転車ハンドルに凭れていた。
ぜいぜいと肩で息をつき、傷がふさがったばかりの腹を押さえ、痛む体をなだめようと必死だ。
全身は汗でびっしょりで、着ている浴衣が張り付いてくるほどである。
「…だが、ここで男を見せなきゃ、他にどこで全力だしゃいいかってところだしな。
助かってくださいよ、美筆先生。」
たとえ自分の手に入らない相手だとしても、やはり一度心から好いた相手を無下にすることは、できない夫にはできなかった。
やらない夫に救われた命、やらない夫の為に散らすなら悔いはないとそう思えてしまうほど、できない夫は本気でやらない夫が好きだったのであるから。
息を整えようと体を起こし、深呼吸をしたできない夫の浴衣の裾が、つんつんと遠慮がちに引っ張られた。
「ん?」
できない夫がきょとんとしながら、浴衣が引かれた方へ顔を向ければ、そこには美筆塾に通う小さな女の子が、水の入った青いシマの模様の茶碗を持って立っていた。
「どうした、嬢ちゃん」
できない夫はやらない夫の護衛についていた時期でも、子供たちに少し怖がれている節があった。
このように子供のほうから近寄って来てくれるのは、少し珍しい。
「はい、お水です。」
「ああ、そいつは助かる。
有難うな、嬢ちゃん。」
できない夫はそう言うと、手渡された茶碗の水をぐいと一息にあおった。
火照った体に井戸水は心地よく、するりと胃の腑に落ちた水分はあっという間に体にいきわたる。
「ああ、生き返った。
助かったよ、嬢ちゃん。」
できない夫が笑い返せば、女の子は少し緊張した面持ちで言葉を紡ぐ。
「きなおおじちゃん、お医者様連れてきてくれて、ありがとう。」
「ああ。そう言ってくれるのかい?
嬉しいね。
だが、まだ先生の無事はわかってないだろう?
その言葉はもう少し後の方がいいかもな。」
「!」
女の子はとたんにきゅっとした顔になり、少し泣きそうにないながらも我慢した。
「みんな
美筆先生が大好きなんだな。」
できない夫は女の子に対して表情を和らげる。
「みふでせんせい、やさしいもん。
みんな大好きだよ。」
「そうだよな。
…俺も大好きな人だよ。
でも、その先生は、好きな人に好きだって言えるようになるのかな。」
「センセイが好きな人?」
女の子はきょとんとした顔になり、こてんと頭を傾げる。
「ふふ、恋愛の機微はさすがにまだ早いか。」
「みふでせんせい、塾に来るみんなのこと好きって言ってたよ?」
純粋な言葉に、できない夫の方が今度はきょとんと笑ってしまった。
「そうか、そうだな。
うん
先生はみんなのこと、大好きだよな。」
できない夫は少し一本取られたような気がしながら笑う。
そして、自分もこの純粋さは見習うべきだなという考えが、できない夫の心の中の乾いた砂のようになっていた場所へ吸い込まれていくのであった。
★★★★
キル夫が美筆塾に到着してしばし。
適切な処置を受けたやらない夫の顔色は少し回復に向かい、ほどなくして意識を取り戻すこととなった。
「う、ん…あれ…?」
やらない夫は、目を覚ました時、状況が掴めずにぼんやりとしながらあたりを見渡すこととなった。
その視線が最初に捉えた人物は、キル夫であった。
「ああ、よかった。
目が覚めましたか、美筆先生。」
「ふひゃ?!
あ、強飯医師!?」
やらない夫はいきなり現れたキル夫の強面に、つい悲鳴を上げてしまった。
だがすぐに、やらない夫はキル夫が自分の為にここにいるのだろうという事に気が付いて、恥じた。
「も、申し訳ございません。
失礼をしてしまいました…。」
「く、い、いえ、慣れてますから…。」
キル夫は慣れていると言いつつも、悔し気に顔をゆがめた。
元来小児科医になりたかったのだが、教授たちに猛反対され内科医に落ち着いたという経歴があるキル夫は、自分の強面をこれでもかと自覚しているのであった。
意識を失って強飯医院に運ばれてきたものは、大体目を覚ました時にキル夫かキラナイ夫の顔を見て悲鳴を上げる。
もはやそれが名物というか、恒例行事となってしまっているほどに。
それでも、心のどこかがいつもシュンとしてしまうことには、慣れることはできない。
「とりあえず、今は安静に。
お水はいかがですか?」
「ああ、申し訳ございませんが、いただけますか。」
キル夫は横になるやらない夫の傍に、吸い飲みを持って近づいた。
ちなみに吸い飲みとは、布団に横のままでも水が飲めるようにた容器のことである。
陶器でできた急須のような容器で、細長い口から吸いこむことで水を飲むことができる。
やらない夫は喉が渇いていたので、喉を鳴らして吸い飲みに入っていた水を体の中に流しいれた。
「はぁ、ありがとうございます。
やっと人心地ついた気がします。」
「それはよかった。
美筆先生は、貧血と先日の騒ぎによる神経衰弱が重なったのでしょう。
倒れているのを、やっくん…新速出君に発見され、塾生の子供たちが僕の所に知らせてくれたのですよ。」
「!それは!
新速出編集にも子供たちにも、ご足労いただいた強飯先生にもご迷惑を…。」
シュンと頭を垂れたやらない夫に、キル夫はにこりと笑いかけた。
「皆、貴方を助けるための行動を取っただけですよ。
感謝こそすれ、悪く考える事ではありません。」
「…!
ありがとう、ございます。」
やらない夫は少し安心した顔で、強張らせていた体から力を抜いた。
「さて、吸い飲みの水がなくなてしまったので、私は汲み直して参りますから、美筆先生はもう少し横になったままお休みください。」
「申し訳ありません、助かります。」
キル夫は一度優し気な顔で頷くと、吸い飲みを片手に立ち上がった。
そして何の気なしに襖を開け、悲鳴を聞くことになった。
「へ?」
キル夫がきょとんとしながら見渡すと、居間にはやる夫と子供たちがいて、いきなり現れたキル夫に子供たちがびっくりしてあげた悲鳴であった。
悲鳴を上げた子供は何人かいて、塾の中でも最も低年齢の子供たちだった。
やる夫の後ろに走っていって、すっかり隠れてしまっている。
「…うう。そんなに怖い?
怖いよねぇ、ごめんねぇ…。」
さすがのキル夫も、連続攻撃は効いたのか、涙目でプルプルと震えて、肩を落として立ち尽くしてしまった。
「ああああ、大丈夫だおー!
怖くないおー!
あの先生はやる夫おじちゃんの友達だからお!
取って食べたりしないからおー!」
やる夫も自分の背中に子供が隠れてしまうとは思ってみなかったのか、おろおろしながらキル夫の支援を試みたが、あまり効果はないようだった。
「ええええ、お医者様って、子供取って食べる人がいるの?!」
「しまったぁ!言葉のあやだお!
みんな本気にしないでだお!あああ増えた!」
やる夫が口を滑らせたせいで、その背中に隠れる子供が増えてしまった。
収拾がつかなくなるその一歩手前で、さらにサラリと襖が開いた。
「みんな、せっかく来ていただいたお医者様に失礼はいけないよ。」
「み、みふで先生!」
そこに立っていたのは、もちろんやらない夫であった。
「このお医者様は私を助けて下さった恩人ですよ。」
やらない夫の言葉を聞いた子供たちの目が、一瞬にして尊敬のきらきらした目に変わる。
「みふでせんせいを助けてくれてありがとう!」
「お医者のせんせー、ありがとう!」
そして、あちらこちらから、子供たちの純粋無垢な感謝の声がキル夫に降り注いだのである。
そんな体験をしたのは、生まれてこのかた初めってであった。
難しい手術をこなして感謝されたこともある。
退院した患者の家族に何度も感謝されたことも。
だが、これほどまでの子供たちの一斉による明るい声は、一度として浴びたことのないものであった。
キル夫の目からは感動のあまり雫が零れ、耳から伝わる声に、医者でよかったという思いで胸がいっぱいに溢れるばかりだ。
「い、いや、こちらこそ、ありがとう!」
自分たちがお礼を言ったら泣き出してしまったキル夫に、子供たちはすこし驚いてしまった。
子供たちとしても、嬉しい言葉を投げかけて泣かれた体験は初めてだったのである。
キル夫は流れる涙をハンカチでぬぐい、笑顔で子供たちに言う。
「先生はちょっとお休みするする必要があるけど、もう大丈夫だよ。
みんなの応援や祈りが天に通じたのかもしれないね。」
子供たちは、その言葉を聞くや否や、わっとキル夫とやらない夫の周りを取り囲んで飛び跳ねながら喜んだ。
キル夫は、ますます生きててよかったと打ち震えながら感動を噛みしめる。
子供たちに囲まれながら、やらない夫は隣のキル夫に笑いかけ、深々と頭を下げた。
「あらためて、キル夫先生、ありがとうございました。
新速出編集も…。
ありがとうございました。」
「いえいえ、そのための医者です。こちらこそ元気になってくださって嬉しいですよ」
「とっ、とんでもないですお!やる夫は何にもしてないですし!」
やらない夫の言葉に帰ってきたのは、キル夫とやる夫の正反対の言葉。
やらない夫はそれが少し面白かったのか、楽し気にほほ笑んだ。
「え、今の笑うとこありましたかお?!」
「いや、失礼しました。
お二人とも、なんだかそっくりなのに、言ってる台詞が対照的で」
耐えきれないと、やらない夫はコロコロ笑う。
とにもかくにもどうにかやらない夫は一命をとりとめることができたのであった。
「さて、今日は安静にしてもらえば、もう大丈夫でしょう。
もうそろそろ戻ろうかな。
兄さんに医院の方預けてきてしまったし。」
キル夫も一息ついて落ちついたのか、涙を拭いて笑った。
「おん!急に無理いって悪かったお。
たすかったお!送るお!」
「いや、実は今日送ってくれたのが入院中だったできない夫さんでね。
彼も心配しているだろうから、一緒に帰るよ。」
「えええ!
あいつも無茶しよるお。」
「そんなわけでね。
子供たちは帰して、できれば君は先生についててあげてほしいかな。
で、また具合が悪くなったりしたらいつでも呼んでおくれよ?」
「お、おん。
わかったお。
会社に連絡して、そうするお。
持つべきものは友だおね。
ありがとうおー!」
「どういたしまして。
じゃあえーと…美筆さんも、お大事に。
じゃあね、やっくん!」
キル夫の提案もあり、この日の授業は中止となって、そのまま解散となった。
ぞろぞろと外に出てくる子供たちの群れの中に、キル夫を見つけ、できない夫は手を振る。
「キル夫先生!
美筆先生は?」
「もう大丈夫ですよ。
ただ、今日の所は安静にしていただくために、塾は中止になりました。」
キル夫の言葉を聞いて、できない夫はほっと胸を撫でおろす。
「まあ、そうだろうな。
賢明な判断だ。
あ、すまないが先生。
さっき全力を出し切ってしまってな。
病床でなまったからだじゃ往路しかもたなかった。
復路は面目ないが、歩きでお願いしていいかい?」
できない夫は塀に立てかけていた自転車を立たせながら、申し訳なさそうにキル夫を見る。
「もちろんです!
それより、傷は開いていませんか?
具合は?」
「大丈夫さ。
思ったよりは悪くないから。」
できない夫の言葉に、今度はキル夫が胸を撫でおろした。
「医院に帰ったら、診察させてくださいね。
…でも、今日は助かりました。
できない夫さんの頑張りのおかげで、美筆先生はちゃんと元気を取り戻せたのですから。」
「ふふ、そうか。
役に立ったなら、よかったよ。」
2人はそう談笑しながら、自転車を引きひき、往路で爆走してきた道を、今度はゆっくりと歩いて辿って帰っていくのであった。
★★★★
子供たちが帰えり、美筆家の中にはやる夫とやらない夫の2人きりとなった。
やらない夫は、まだ少し体調がすぐれないため、ゆっくりと布団の中で天井を見上げていた。
小さい頃は、こうして見上げることも多かったが、大人になってからは丈夫になったものと思ったのにと、少しため息が出る。
コツコツコツという柱時計の振り子の音に交じって、やる夫の足音やかちゃかちゃと陶器がぶつかる音が聞こえた。
音がする襖の先を見通したくて視線を向けると、その瞬間にすらりと襖が開き、何かが乗ったお盆を持つやる夫が立っていた。
「あれ、先生?か、顔色悪いですお?また具合悪いですかお?」
「だいぶマシにはなったのですが、まだ顔色が悪いでしょうか?」
自覚がないやらない夫は、少し困った顔をして自分の頬に手を添えた。
「顔色悪いですお。」
やる夫はしゅんとした顔で、枕元にやってくる。
そして傍らに、お盆を置く。
お盆の上には土鍋と、椀などが並んでいる。
「あんな事件があったんですから、体の強くない先生のことですお、ショックとか疲労とかで具合悪くなっちゃってもおかしくないですお。
そんなことにも気が付かずに、1人にしてしまって、この暑さで余計に疲れもたまっていただろうに…も、申し訳…ない、ですお…」
悔し気に、正座をしてうつむくやる夫の声は掠れていた。
横になるやらない夫には、そのうつむいた顔を覗き込んでいるようなものなので、その目に涙が浮かんでいるのが見て取れた。
「鬼の目にも涙ですね。」
冗談なのか、それとも大真面目なのか。
やらない夫は少しため息交じりにそう言った。
やる夫はその言葉の内容よりも、混じっていたため息に、ピクリと体をはねさせる。
「子どもたちには悪い事をしてしまいました。
せっかく来てくれたのに。
新速出編集もさぞ驚いたのでは?」
「そりゃもう驚きましたし、ゾッとしましたお。」
やる夫の脳裏に、倒れていたやらない夫の姿がまざまざと映る。
それだけで、やる夫の手は震え、嫌な汗がぶり返した。
やる夫はその気持ちの悪さを追いやろうと、傍らに用意した鍋に頼る。
「あ、あの、味噌のおかゆ作ったんですが、お食べになりますかお?」
「ありがとうございます!
助かります。いただきます!」
やらない夫は目を輝かせて、起き上がる。
だが、急に起き上がったからか、やらない夫は眩暈を覚えて目元に手を当てた。
「あああ、急に体を起こすから…!」
やる夫はやらない夫を支えようと一歩布団に近づく。
やらない夫はつい、やる夫のその胸に抱き着きそうになってしまい、ハッとした。
そんなことには気がつかないやる夫は、そのままやらない夫をそっと布団に寝かせる。
「今背中に座布団入れますからお。
ちょっとお待ちくださいお。」
やる夫は、押し入れの中から座布団を取り出し、やらない夫の体が少し起き上がることができるように、何枚か丸めて背中に入れた。
寄り掛かったまま体を起こすことができるようになったやらない夫は、ホッとした顔でやる夫を見る。
「熱いから気を付けて食べてくださいお。」
やる夫は手際よく、土鍋から粥を椀によそってやらない夫に差し出した。
「うちの実家で体調崩した時に良く作って貰ってた、味噌おかゆですお。
お口にあうと良いんですがお。」
「お味噌のいい香りですね。
いただきます。」
やる夫から受け取った椀を、やらない夫はありがたそうに受け取る。
粥を匙ですくい、口の中に入れた時。
やらない夫の顔にはようやく笑顔と赤みが差したのであった。
お腹の中に物が入ると、やらない夫は急に空腹を自覚して、あっという間に土鍋の中の粥を食べきってしまった。
腹の中が温かくなると、やらない夫の血の巡りもよくなり、表情もほぐれる。
「さ、おかゆも食べられたし、今日の所はもうお休みになってくださいお。
片づけは自分がやりますし、今夜はおそばにおりますからお。」
背中に入っていた座布団を引き抜かれ、やらない夫はまた布団の中に体を横たえる。
布団からおずおず顔を出したやらない夫は、土鍋などの洗い物をお盆にまとめているやる夫に声を掛けた。
「あ、あの、にゅーそくでへんしゅー…。」
やらない夫がボソリと声を掛ける。
「はい、何か御用ですかお?」
「す、すみません、そのちょっと、手を、握ってはくれませんか。」
やらない夫の白い手が、布団の間から迷子のように現れる。
やる夫の手は、その手をすかさずにぎゅっと両手で握りしめた。
手から伝わる体温に、安心したのか気が緩んだのか。
はたまた別の理由からか。
やらない夫の目からは、はらりと涙が零れた。
「せ、先生!
どうしたんですかお?!
どこか痛むんですかお?!」
その涙を見て、やる夫はぎょっとしてしまうが、やらない夫は首を振る
「すみ、ません!
痛みはないんです!
ただ、その…。」
胸がいっぱいで、嬉しかっただけだと。
やらない夫の唇は微かに動いたものの、声が乗ることはなく。
やる夫には理由は届かず、余計に彼の首を傾げさせるだけにとどまった。
「すみません、失礼いたしました。」
やらない夫はもう一度だけ、今度は自分からぎゅっと握りしめたあと、名残惜し気にではあるが、するりと手を放そうとした。
しかし、その手が離れることを、やる夫の手が許さない。
「やる夫でよければ、ずっと握ってますお。
いくらでも。」
「え、いや、あの。
…では、私が、眠ってしまうまで、よろしいですか?」
「もちろんですお。
具合悪いときって、人恋しくなるもんですおね?
こーいうときぐらい、いくらでもわがまま、言ってくださいおー」
実のところ、内心やる夫の胸はバクバクと高鳴っていたが、外には出さずにやる夫はほほ笑んだ。
そしてまた、やらない夫も全く同じ気持ちだったのである。
やらない夫はついつい手を伸ばして、やる夫の肩や腕を触って確かめる。
そこにいるのは
憧れの
最愛の
最凶の
ただひとりの…。
やらない夫の手がたどたどしくやる夫を確かめた時、やる夫の手もまた、やらない夫の体に触れた。
「あっ…!」
その感触にやらない夫の声が震える。
やる夫の腕は、そのままやらない夫の体を引き寄せ、その胸の中に引き入れた。
そして、ぐっと抱きしめる。
やらない夫の目の前にはやる夫の胸があり、やる夫の目の前にはやらない夫の頭があった。
「大丈夫ですお。
自分、ここにいますお!
絶対守りますから、安心してくださいお!」
やる夫はそう言って笑いながら、やらない夫の背中を優しくぽふぽふと軽くたたき、やわらかく撫でた。
「…はい。」
やらない夫は、そっとそっとやる夫の体に腕を回して縋り、抱き着いた。
その感触を忘れないように。
そしてそれは、もちろん拒絶されることはない。
やがて、室内からは2人分の安らかな寝息が聞こえるばかりとなったのであった。
最凶にして最愛のただ一人の君に捧ぐ
つづく
「どけどけ!道を開けてくれ!ひいちまうぞ!」
できない夫は舗装もされていない道を土煙を上げながら、全速力で自転車をこいでいく。
何の気なしに道を横断しようとする人物には、容赦なく叫ぶように警告をした。
叫ばれた方は驚きの表情で道を譲り、次の瞬間には、そこをできない夫がこいでいる自転車が通り過ぎるのであった。
激しく振動する自転車の荷台で、キル夫は振り落とされないようにできない夫により一層しがみついた。
出発時は少しロマンを感じていたが、しばらく走ってみれば随分命がけな走行であることに危機感を抱くようになっていたのである。
『やっぱり恋とか愛とかは、僕には縁遠いのかも!
ひいいい、振り落とされる!』
キル夫は正直できない夫の背中に縋りついたまま、半泣きなのであった。
さて、しばらくという時間も掛けず、全速力で爆走した自転車は目的地の美筆塾へ到達しようとしていた。
「キル夫先生、もうすぐ美筆塾ですよ!」
「あ、え、もうですか?!」
キル夫は、ハッとして周囲を見渡す。
言われてみれば確かに、そこは美筆塾まで目と鼻の先の場所であった。
キル夫は気を取り直して、医者として気合を入れる。
キル夫が真剣な顔になった時、ついに自転車は美筆塾の玄関先に到着したのであった。
自転車が止まるか止まらないかの内に、キル夫はさっと自転車の荷台から降り、医者の到着を今か今かと待ちわびる子供たちがうかがう玄関に突進した。
「医者の強飯キル夫です!
美筆先生を助けに来ました!
先生はどこですか?!」
普段でさえ、何事もないのに怖いと子供に泣かれるキル夫が、真剣な形相で子供たちに迫ったとき、年端も行かない子供が泣いたり漏らしてしまうということもあった。
だが、この時ばかりは、子供たちにはキル夫はまさに救いの手であった。
すごい形相で迫られても、待ち受けていた子供たちは、キル夫を急かしこそすれ、その場で泣き崩れたり、漏らしてしまうという失態を犯すことはなかったのである。
キル夫は一瞬そのことに関心しながら、今は言及する暇などないと、子供たちに案内されるまま美筆塾の室内に進んだ。
「お医者の先生、早く早く!」
「怖い先生、やらない夫先生のこと、治して!」
前から手を引かれ、背中を押され、キル夫はやらない夫が寝かされている彼の私室へと誘導される。
たどり着いてみれば、布団の上でぐったりと体を横たえているやらない夫と、彼を心配げに見守る幼馴染のやる夫がキル夫を待っていた。
「きーくん!待ってたお!朝来たら美筆先生が倒れてて!
意識がなかったんだお!
布団には寝かせたんだけど…!
助けてくれだお!」
「分かったよやっくん。
僕に任せて。
人手が必要になったら声を掛けるから、君は子供たちを見ていて欲しい。
子供たちもかなり不安になっているようだからね。」
「わかったお!」
やる夫は選手交代とばかりに、やらない夫の枕元の場を譲るために立ち上がり、子供たちの方へいくために襖を開けた。
子供たちはやらない夫が心配ではあるものの、お医者の先生が怖いのとお邪魔は出来ないということで居間や教室にいて、心配げにやらない夫の私室の方を見上げているのであった。
そして、私室からやる夫が出てくると、わっとばかりに押し寄せてやる夫を取り囲んだ。
「やるおじちゃん!
せんせーなおる?」
「みふでせんせー、大丈夫?」
年端も行かない子供たちでさえ、やらない夫を心配してやる夫を見上げる。
心配で涙に揺れる瞳に見上げられたやる夫は、やらない夫が子供たちに心底好かれている事を改めて理解する。
「みんな、大丈夫だお!
腕のいいお医者の先生が来てくれてたんだから!
先生がみんなを置いていく訳がないお!」
やる夫は努めて明るく言ったが、それは自分自身を励ますためでもあった。
やる夫の脳裏に、布団に横たわるやらない夫の青い顔がよぎる。
(…きーくんが見てくれてるんだから、絶対大丈夫だお…!)
やる夫はギュッと拳を握りしめ、幼馴染を信じる事しかできないのであった。
★★★★
「ぐ、はぁ。
流石に病み上がりに全力だすのはつらかったな。
体がいい加減なまっていやがる。」
キル夫を自転車で運んできたできない夫は、さすがにぐったりとして自転車ハンドルに凭れていた。
ぜいぜいと肩で息をつき、傷がふさがったばかりの腹を押さえ、痛む体をなだめようと必死だ。
全身は汗でびっしょりで、着ている浴衣が張り付いてくるほどである。
「…だが、ここで男を見せなきゃ、他にどこで全力だしゃいいかってところだしな。
助かってくださいよ、美筆先生。」
たとえ自分の手に入らない相手だとしても、やはり一度心から好いた相手を無下にすることは、できない夫にはできなかった。
やらない夫に救われた命、やらない夫の為に散らすなら悔いはないとそう思えてしまうほど、できない夫は本気でやらない夫が好きだったのであるから。
息を整えようと体を起こし、深呼吸をしたできない夫の浴衣の裾が、つんつんと遠慮がちに引っ張られた。
「ん?」
できない夫がきょとんとしながら、浴衣が引かれた方へ顔を向ければ、そこには美筆塾に通う小さな女の子が、水の入った青いシマの模様の茶碗を持って立っていた。
「どうした、嬢ちゃん」
できない夫はやらない夫の護衛についていた時期でも、子供たちに少し怖がれている節があった。
このように子供のほうから近寄って来てくれるのは、少し珍しい。
「はい、お水です。」
「ああ、そいつは助かる。
有難うな、嬢ちゃん。」
できない夫はそう言うと、手渡された茶碗の水をぐいと一息にあおった。
火照った体に井戸水は心地よく、するりと胃の腑に落ちた水分はあっという間に体にいきわたる。
「ああ、生き返った。
助かったよ、嬢ちゃん。」
できない夫が笑い返せば、女の子は少し緊張した面持ちで言葉を紡ぐ。
「きなおおじちゃん、お医者様連れてきてくれて、ありがとう。」
「ああ。そう言ってくれるのかい?
嬉しいね。
だが、まだ先生の無事はわかってないだろう?
その言葉はもう少し後の方がいいかもな。」
「!」
女の子はとたんにきゅっとした顔になり、少し泣きそうにないながらも我慢した。
「みんな
美筆先生が大好きなんだな。」
できない夫は女の子に対して表情を和らげる。
「みふでせんせい、やさしいもん。
みんな大好きだよ。」
「そうだよな。
…俺も大好きな人だよ。
でも、その先生は、好きな人に好きだって言えるようになるのかな。」
「センセイが好きな人?」
女の子はきょとんとした顔になり、こてんと頭を傾げる。
「ふふ、恋愛の機微はさすがにまだ早いか。」
「みふでせんせい、塾に来るみんなのこと好きって言ってたよ?」
純粋な言葉に、できない夫の方が今度はきょとんと笑ってしまった。
「そうか、そうだな。
うん
先生はみんなのこと、大好きだよな。」
できない夫は少し一本取られたような気がしながら笑う。
そして、自分もこの純粋さは見習うべきだなという考えが、できない夫の心の中の乾いた砂のようになっていた場所へ吸い込まれていくのであった。
★★★★
キル夫が美筆塾に到着してしばし。
適切な処置を受けたやらない夫の顔色は少し回復に向かい、ほどなくして意識を取り戻すこととなった。
「う、ん…あれ…?」
やらない夫は、目を覚ました時、状況が掴めずにぼんやりとしながらあたりを見渡すこととなった。
その視線が最初に捉えた人物は、キル夫であった。
「ああ、よかった。
目が覚めましたか、美筆先生。」
「ふひゃ?!
あ、強飯医師!?」
やらない夫はいきなり現れたキル夫の強面に、つい悲鳴を上げてしまった。
だがすぐに、やらない夫はキル夫が自分の為にここにいるのだろうという事に気が付いて、恥じた。
「も、申し訳ございません。
失礼をしてしまいました…。」
「く、い、いえ、慣れてますから…。」
キル夫は慣れていると言いつつも、悔し気に顔をゆがめた。
元来小児科医になりたかったのだが、教授たちに猛反対され内科医に落ち着いたという経歴があるキル夫は、自分の強面をこれでもかと自覚しているのであった。
意識を失って強飯医院に運ばれてきたものは、大体目を覚ました時にキル夫かキラナイ夫の顔を見て悲鳴を上げる。
もはやそれが名物というか、恒例行事となってしまっているほどに。
それでも、心のどこかがいつもシュンとしてしまうことには、慣れることはできない。
「とりあえず、今は安静に。
お水はいかがですか?」
「ああ、申し訳ございませんが、いただけますか。」
キル夫は横になるやらない夫の傍に、吸い飲みを持って近づいた。
ちなみに吸い飲みとは、布団に横のままでも水が飲めるようにた容器のことである。
陶器でできた急須のような容器で、細長い口から吸いこむことで水を飲むことができる。
やらない夫は喉が渇いていたので、喉を鳴らして吸い飲みに入っていた水を体の中に流しいれた。
「はぁ、ありがとうございます。
やっと人心地ついた気がします。」
「それはよかった。
美筆先生は、貧血と先日の騒ぎによる神経衰弱が重なったのでしょう。
倒れているのを、やっくん…新速出君に発見され、塾生の子供たちが僕の所に知らせてくれたのですよ。」
「!それは!
新速出編集にも子供たちにも、ご足労いただいた強飯先生にもご迷惑を…。」
シュンと頭を垂れたやらない夫に、キル夫はにこりと笑いかけた。
「皆、貴方を助けるための行動を取っただけですよ。
感謝こそすれ、悪く考える事ではありません。」
「…!
ありがとう、ございます。」
やらない夫は少し安心した顔で、強張らせていた体から力を抜いた。
「さて、吸い飲みの水がなくなてしまったので、私は汲み直して参りますから、美筆先生はもう少し横になったままお休みください。」
「申し訳ありません、助かります。」
キル夫は一度優し気な顔で頷くと、吸い飲みを片手に立ち上がった。
そして何の気なしに襖を開け、悲鳴を聞くことになった。
「へ?」
キル夫がきょとんとしながら見渡すと、居間にはやる夫と子供たちがいて、いきなり現れたキル夫に子供たちがびっくりしてあげた悲鳴であった。
悲鳴を上げた子供は何人かいて、塾の中でも最も低年齢の子供たちだった。
やる夫の後ろに走っていって、すっかり隠れてしまっている。
「…うう。そんなに怖い?
怖いよねぇ、ごめんねぇ…。」
さすがのキル夫も、連続攻撃は効いたのか、涙目でプルプルと震えて、肩を落として立ち尽くしてしまった。
「ああああ、大丈夫だおー!
怖くないおー!
あの先生はやる夫おじちゃんの友達だからお!
取って食べたりしないからおー!」
やる夫も自分の背中に子供が隠れてしまうとは思ってみなかったのか、おろおろしながらキル夫の支援を試みたが、あまり効果はないようだった。
「ええええ、お医者様って、子供取って食べる人がいるの?!」
「しまったぁ!言葉のあやだお!
みんな本気にしないでだお!あああ増えた!」
やる夫が口を滑らせたせいで、その背中に隠れる子供が増えてしまった。
収拾がつかなくなるその一歩手前で、さらにサラリと襖が開いた。
「みんな、せっかく来ていただいたお医者様に失礼はいけないよ。」
「み、みふで先生!」
そこに立っていたのは、もちろんやらない夫であった。
「このお医者様は私を助けて下さった恩人ですよ。」
やらない夫の言葉を聞いた子供たちの目が、一瞬にして尊敬のきらきらした目に変わる。
「みふでせんせいを助けてくれてありがとう!」
「お医者のせんせー、ありがとう!」
そして、あちらこちらから、子供たちの純粋無垢な感謝の声がキル夫に降り注いだのである。
そんな体験をしたのは、生まれてこのかた初めってであった。
難しい手術をこなして感謝されたこともある。
退院した患者の家族に何度も感謝されたことも。
だが、これほどまでの子供たちの一斉による明るい声は、一度として浴びたことのないものであった。
キル夫の目からは感動のあまり雫が零れ、耳から伝わる声に、医者でよかったという思いで胸がいっぱいに溢れるばかりだ。
「い、いや、こちらこそ、ありがとう!」
自分たちがお礼を言ったら泣き出してしまったキル夫に、子供たちはすこし驚いてしまった。
子供たちとしても、嬉しい言葉を投げかけて泣かれた体験は初めてだったのである。
キル夫は流れる涙をハンカチでぬぐい、笑顔で子供たちに言う。
「先生はちょっとお休みするする必要があるけど、もう大丈夫だよ。
みんなの応援や祈りが天に通じたのかもしれないね。」
子供たちは、その言葉を聞くや否や、わっとキル夫とやらない夫の周りを取り囲んで飛び跳ねながら喜んだ。
キル夫は、ますます生きててよかったと打ち震えながら感動を噛みしめる。
子供たちに囲まれながら、やらない夫は隣のキル夫に笑いかけ、深々と頭を下げた。
「あらためて、キル夫先生、ありがとうございました。
新速出編集も…。
ありがとうございました。」
「いえいえ、そのための医者です。こちらこそ元気になってくださって嬉しいですよ」
「とっ、とんでもないですお!やる夫は何にもしてないですし!」
やらない夫の言葉に帰ってきたのは、キル夫とやる夫の正反対の言葉。
やらない夫はそれが少し面白かったのか、楽し気にほほ笑んだ。
「え、今の笑うとこありましたかお?!」
「いや、失礼しました。
お二人とも、なんだかそっくりなのに、言ってる台詞が対照的で」
耐えきれないと、やらない夫はコロコロ笑う。
とにもかくにもどうにかやらない夫は一命をとりとめることができたのであった。
「さて、今日は安静にしてもらえば、もう大丈夫でしょう。
もうそろそろ戻ろうかな。
兄さんに医院の方預けてきてしまったし。」
キル夫も一息ついて落ちついたのか、涙を拭いて笑った。
「おん!急に無理いって悪かったお。
たすかったお!送るお!」
「いや、実は今日送ってくれたのが入院中だったできない夫さんでね。
彼も心配しているだろうから、一緒に帰るよ。」
「えええ!
あいつも無茶しよるお。」
「そんなわけでね。
子供たちは帰して、できれば君は先生についててあげてほしいかな。
で、また具合が悪くなったりしたらいつでも呼んでおくれよ?」
「お、おん。
わかったお。
会社に連絡して、そうするお。
持つべきものは友だおね。
ありがとうおー!」
「どういたしまして。
じゃあえーと…美筆さんも、お大事に。
じゃあね、やっくん!」
キル夫の提案もあり、この日の授業は中止となって、そのまま解散となった。
ぞろぞろと外に出てくる子供たちの群れの中に、キル夫を見つけ、できない夫は手を振る。
「キル夫先生!
美筆先生は?」
「もう大丈夫ですよ。
ただ、今日の所は安静にしていただくために、塾は中止になりました。」
キル夫の言葉を聞いて、できない夫はほっと胸を撫でおろす。
「まあ、そうだろうな。
賢明な判断だ。
あ、すまないが先生。
さっき全力を出し切ってしまってな。
病床でなまったからだじゃ往路しかもたなかった。
復路は面目ないが、歩きでお願いしていいかい?」
できない夫は塀に立てかけていた自転車を立たせながら、申し訳なさそうにキル夫を見る。
「もちろんです!
それより、傷は開いていませんか?
具合は?」
「大丈夫さ。
思ったよりは悪くないから。」
できない夫の言葉に、今度はキル夫が胸を撫でおろした。
「医院に帰ったら、診察させてくださいね。
…でも、今日は助かりました。
できない夫さんの頑張りのおかげで、美筆先生はちゃんと元気を取り戻せたのですから。」
「ふふ、そうか。
役に立ったなら、よかったよ。」
2人はそう談笑しながら、自転車を引きひき、往路で爆走してきた道を、今度はゆっくりと歩いて辿って帰っていくのであった。
★★★★
子供たちが帰えり、美筆家の中にはやる夫とやらない夫の2人きりとなった。
やらない夫は、まだ少し体調がすぐれないため、ゆっくりと布団の中で天井を見上げていた。
小さい頃は、こうして見上げることも多かったが、大人になってからは丈夫になったものと思ったのにと、少しため息が出る。
コツコツコツという柱時計の振り子の音に交じって、やる夫の足音やかちゃかちゃと陶器がぶつかる音が聞こえた。
音がする襖の先を見通したくて視線を向けると、その瞬間にすらりと襖が開き、何かが乗ったお盆を持つやる夫が立っていた。
「あれ、先生?か、顔色悪いですお?また具合悪いですかお?」
「だいぶマシにはなったのですが、まだ顔色が悪いでしょうか?」
自覚がないやらない夫は、少し困った顔をして自分の頬に手を添えた。
「顔色悪いですお。」
やる夫はしゅんとした顔で、枕元にやってくる。
そして傍らに、お盆を置く。
お盆の上には土鍋と、椀などが並んでいる。
「あんな事件があったんですから、体の強くない先生のことですお、ショックとか疲労とかで具合悪くなっちゃってもおかしくないですお。
そんなことにも気が付かずに、1人にしてしまって、この暑さで余計に疲れもたまっていただろうに…も、申し訳…ない、ですお…」
悔し気に、正座をしてうつむくやる夫の声は掠れていた。
横になるやらない夫には、そのうつむいた顔を覗き込んでいるようなものなので、その目に涙が浮かんでいるのが見て取れた。
「鬼の目にも涙ですね。」
冗談なのか、それとも大真面目なのか。
やらない夫は少しため息交じりにそう言った。
やる夫はその言葉の内容よりも、混じっていたため息に、ピクリと体をはねさせる。
「子どもたちには悪い事をしてしまいました。
せっかく来てくれたのに。
新速出編集もさぞ驚いたのでは?」
「そりゃもう驚きましたし、ゾッとしましたお。」
やる夫の脳裏に、倒れていたやらない夫の姿がまざまざと映る。
それだけで、やる夫の手は震え、嫌な汗がぶり返した。
やる夫はその気持ちの悪さを追いやろうと、傍らに用意した鍋に頼る。
「あ、あの、味噌のおかゆ作ったんですが、お食べになりますかお?」
「ありがとうございます!
助かります。いただきます!」
やらない夫は目を輝かせて、起き上がる。
だが、急に起き上がったからか、やらない夫は眩暈を覚えて目元に手を当てた。
「あああ、急に体を起こすから…!」
やる夫はやらない夫を支えようと一歩布団に近づく。
やらない夫はつい、やる夫のその胸に抱き着きそうになってしまい、ハッとした。
そんなことには気がつかないやる夫は、そのままやらない夫をそっと布団に寝かせる。
「今背中に座布団入れますからお。
ちょっとお待ちくださいお。」
やる夫は、押し入れの中から座布団を取り出し、やらない夫の体が少し起き上がることができるように、何枚か丸めて背中に入れた。
寄り掛かったまま体を起こすことができるようになったやらない夫は、ホッとした顔でやる夫を見る。
「熱いから気を付けて食べてくださいお。」
やる夫は手際よく、土鍋から粥を椀によそってやらない夫に差し出した。
「うちの実家で体調崩した時に良く作って貰ってた、味噌おかゆですお。
お口にあうと良いんですがお。」
「お味噌のいい香りですね。
いただきます。」
やる夫から受け取った椀を、やらない夫はありがたそうに受け取る。
粥を匙ですくい、口の中に入れた時。
やらない夫の顔にはようやく笑顔と赤みが差したのであった。
お腹の中に物が入ると、やらない夫は急に空腹を自覚して、あっという間に土鍋の中の粥を食べきってしまった。
腹の中が温かくなると、やらない夫の血の巡りもよくなり、表情もほぐれる。
「さ、おかゆも食べられたし、今日の所はもうお休みになってくださいお。
片づけは自分がやりますし、今夜はおそばにおりますからお。」
背中に入っていた座布団を引き抜かれ、やらない夫はまた布団の中に体を横たえる。
布団からおずおず顔を出したやらない夫は、土鍋などの洗い物をお盆にまとめているやる夫に声を掛けた。
「あ、あの、にゅーそくでへんしゅー…。」
やらない夫がボソリと声を掛ける。
「はい、何か御用ですかお?」
「す、すみません、そのちょっと、手を、握ってはくれませんか。」
やらない夫の白い手が、布団の間から迷子のように現れる。
やる夫の手は、その手をすかさずにぎゅっと両手で握りしめた。
手から伝わる体温に、安心したのか気が緩んだのか。
はたまた別の理由からか。
やらない夫の目からは、はらりと涙が零れた。
「せ、先生!
どうしたんですかお?!
どこか痛むんですかお?!」
その涙を見て、やる夫はぎょっとしてしまうが、やらない夫は首を振る
「すみ、ません!
痛みはないんです!
ただ、その…。」
胸がいっぱいで、嬉しかっただけだと。
やらない夫の唇は微かに動いたものの、声が乗ることはなく。
やる夫には理由は届かず、余計に彼の首を傾げさせるだけにとどまった。
「すみません、失礼いたしました。」
やらない夫はもう一度だけ、今度は自分からぎゅっと握りしめたあと、名残惜し気にではあるが、するりと手を放そうとした。
しかし、その手が離れることを、やる夫の手が許さない。
「やる夫でよければ、ずっと握ってますお。
いくらでも。」
「え、いや、あの。
…では、私が、眠ってしまうまで、よろしいですか?」
「もちろんですお。
具合悪いときって、人恋しくなるもんですおね?
こーいうときぐらい、いくらでもわがまま、言ってくださいおー」
実のところ、内心やる夫の胸はバクバクと高鳴っていたが、外には出さずにやる夫はほほ笑んだ。
そしてまた、やらない夫も全く同じ気持ちだったのである。
やらない夫はついつい手を伸ばして、やる夫の肩や腕を触って確かめる。
そこにいるのは
憧れの
最愛の
最凶の
ただひとりの…。
やらない夫の手がたどたどしくやる夫を確かめた時、やる夫の手もまた、やらない夫の体に触れた。
「あっ…!」
その感触にやらない夫の声が震える。
やる夫の腕は、そのままやらない夫の体を引き寄せ、その胸の中に引き入れた。
そして、ぐっと抱きしめる。
やらない夫の目の前にはやる夫の胸があり、やる夫の目の前にはやらない夫の頭があった。
「大丈夫ですお。
自分、ここにいますお!
絶対守りますから、安心してくださいお!」
やる夫はそう言って笑いながら、やらない夫の背中を優しくぽふぽふと軽くたたき、やわらかく撫でた。
「…はい。」
やらない夫は、そっとそっとやる夫の体に腕を回して縋り、抱き着いた。
その感触を忘れないように。
そしてそれは、もちろん拒絶されることはない。
やがて、室内からは2人分の安らかな寝息が聞こえるばかりとなったのであった。
最凶にして最愛のただ一人の君に捧ぐ
つづく