このサイトは1ヶ月 (30日) 以上ログインされていません。 サイト管理者の方はこちらからログインすると、この広告を消すことができます。

【やる&やら】最凶にして最愛のただ一人の君に捧ぐ

夏がやってきた。
ミンミン、じーじー、じゃわじゃわじゃわ…。
蝉やそれ以外の虫の声があたりを占領し、人間の声など空間に入る余地などないのではないだろうか。

梅雨どきの長雨が洗い流した空は濃い空色で、ふわふわとした綿のような入道雲が空高く立ち上がっていた。

夏の空気に満たされた美筆塾には、変化がいくつかあった。

ひとつはもうすぐ夏休みだという子供たちの浮き足立つ心境。

ひとつは、以前の騒動の後、できない夫が護衛につけなくなり、さすがにやる夫だけでは回らなくなったため、今後のためにもと引かれた電話。

そして、最後のひとつ。

「はぁ……暑い。」

周囲は蒸し風呂のように暑いのだが、茹だるような空気の中にいて、やらない夫の顔色は悪かった。

元から白い素肌が、より白い。
青ざめているといっても良かった。

できる夫の父はあのあと逮捕されたが、やらない夫の心には傷が残ってしまったのだ。

できる夫も、家の手伝いが増えてしまいあまり塾に顔を出すことがなくなってしまったのも気がかりだった。

「農繁期に向けた夏休みも、もう少し。そうすれば一息つけるだろう……頑張ろう。」

ちらりと時計に目をやれば、もうすぐ護衛のやる夫や子供たちがやってくる時間が迫っていた。

「しまった今日はまだ、表の鍵を開けていない……、あ、れ。」

自室から居間へ向かおうと、座布団から立ち上がり襖を開けた時、やらない夫の視界が怪しくゆらいだ。

やらない夫は自分の意思で姿勢を維持できなかった。

「な、あ、う……?」

体が床の上に倒れこむ。

視界には畳の目しかうつらなくなる。

「……体が、重い、動かない……、う、新速出編集……。」

ぱたりとやらない夫の体から力が抜ける。

やらない夫の意識も、そこでふつりと途絶えたのだった。


★★★★

「あー、暑いお、夏はたまらんお~。」

ハンカチで汗をフキフキ列車を降りたやる夫は、真っ青な空を見上げる。

やる夫は昨日の夜はたまたま編集としての本業の仕事の関係でやらない夫の護衛につくことができず、朝イチの列車にのってきて、やらない夫の護衛に向かうところであった。

三ノ巣の街を歩いて美筆塾に向かったやる夫は、塾の手前で怪訝な顔をした。

塾の入り口で、塾生の子供たちが困った顔でたくさんたちぼうけをしていたのだ。

「あれ、みんなどうしたんだお?」

やらない夫の護衛として長く出入りし、庭の畑を子供たちと耕してきたやる夫である。
昔のように悲鳴をあげられることも、にげられることもない。

子供たちはやる夫の方に振り向き、困り事をやる夫に伝える。

「玄関が空いてないんです。」
「叩いても先生が出てこないの」
「いっぱい呼んでも返事がないんだ」

子供たちの言葉を聞いたやる夫は、さっと顔を青くする。

「先生!美筆先生!」

やる夫は戸に飛び付き、拳でばんばんと叩きながら声をかける。

しかし、それでも中からの応答はなかったのであった。

まさか、夜のうちに誘拐でもされたのでは。

やる夫の中で嫌な予感が掠める。

「見たところ、玄関の鍵を破られた形跡はないけど。
中で何かあったんじゃ!」

やる夫は慌てて鞄のなかから、預かっている鍵っを使って玄関の戸を空けた。

「中に怪しい奴がいないか見てくるから、みんなはまだ入っちゃダメだお!
もしかしたらお医者の先生やお巡りさんを呼んでもらうかもしれないから、みんな手伝ってくれお!」

「はい!」

近くにいた一番の年長者の子が、緊張の面持ちで返事をしてくれた。
やる夫はひとつ頷くと、意を決して戸を潜った。

警戒しながら入ったやる夫の想像に反して、美筆家のなかは暗いだけで静かなものだった。

どこも荒らされた形跡もなく。
ひとの気配もなく。
しんと静まり返っていた。
ただただムッとする蒸れた夏の空気だけが、室内に閉じ込められている。

「先生!どこですかお?先生!」

やる夫は、声をかけながら家の中を見て回る。

今の時間に一番いそうな教室は、誰もいない。
玄関から見渡すことのできる台所にも風呂場にもいない。
やる夫は居間の襖を開け放った。

「せ、先生!!」

すると、自室から半分身を溢れさせるように倒れているやらない夫を発見した。

やる夫はすぐさま駆け寄り、安否を確認する。

「息は、...あるけど浅い。
顔色も悪い。
意識もない。
脈は……早い。
外傷はみたところないようだけど。
とにかく、医者を!きーちゃんを、呼ばないと!」

やる夫はすぐさま取って返し、玄関にある電話で、強飯医院に電話をかける。

電話の脇には緊急連絡先として、最寄りの警察と、淡雪講社、強飯医院の電話番号が記載されたメモが置かれていた。

だが、電話をかけようにも、すぐに繋がるわけではない。

「ああもう、電話交換手がめんどくさいお!
誰か!美筆先生が倒れたお!
ひとっ走り行って、強飯先生呼んできてくれお!」

やる夫が大声で外に待機していた子供達に声をかけたとき、大体のこどもたちはその内容にしり込みすることになった。

強飯医院といえば、ここらいっぺんの住人にとって頼りになるお医者であると同時に、恐怖の対象でもあったからだ。

だがその中で、手をあげるものがいた。

それは久しぶりに顔を出したできる夫であった。

塾に到着したばかりだったものの
できる夫はすぐさま手をあげたのである。


「僕、行ってきます!」

その声にはっとした何人かもいくと名乗りをあげ、総勢4人が強飯医院へ走ることとなった。

やる夫は電話を諦め、やらない夫を寝かせて休ませるべく、布団をのべに向かう。

場所も手順ももはや手慣れたもので、すぐに布団を敷き、やらない夫をそこへ寝かせる。

その頃になるといつのまにか子供達が上がり込んできており、心配そうに居間を除くのであった。

「やる夫おじちゃん、先生、大丈夫?」

ある子供が恐る恐るといった感じに訪ねる。

やる夫が振り向くとそこにいた子供達は全員不安そうな顔をしていた。

やる夫は、子供達の顔をみて、やらない夫がどれだけ子供達に好かれているのか、再確認することができた。

「大丈夫だお。今、お医者様がくるからお!
みんなは教室で、ご本を読んでいてほしいお。」

やる夫は子供達をはげまそうと笑いかけた。

そして、家中の雨戸や障子や襖を全て開け放ち、室内の蒸れた空気を入れ替えてまわった。

すっと風が吹き、新鮮と空気が室内をぬける。

少しホッとしたやる夫は、やらない夫の頭に塗れた手ぬぐいを乗せて様子を見る。

「早く来てくれお、きーくん……。」


★★★★


強飯医院では、今日も医者の二人は忙しくしていた。

そこに駆け込んできたのは、汗だくの子どもたちだ。

「すみません!お医者の先生、いますか!
美筆塾の先生が倒れてしまって!助けてください!」

飛び込んできた子供達の鬼気迫る勢いに、受け付けにいた女性は何か察するものがあったようだ。

「先生!急患のようです!」

「兄さん、自分が行きます!」

内容を聞く前に椅子から立ち上がったのはキル夫だった。

黒い医者鞄に、必要なものを次々入れていく。

「まて、キル夫。
今日はいつもの車屋さんが休みだぞ、どうやっていくつもりだ?」

「あ、しまった!」

キラナイ夫がかけた言葉に、キル夫は忘れていたという顔で、悲鳴のような声をあげた。

いつも急患の時は人力車を頼むのだが、今日はいつも頼んでいる隣の家の八郎さんが車を修理に出すとのことでお休みだといっていたのだった。

「しかし、今から手配したのでは...。」

「どうしたんです?」

悩んでいたキル夫に声をかけたのは、浴衣姿のできない夫であった。

できない夫は、いまだ入院中の身ではあったが、体を動かす事はできるようになっていた。

「できない夫さん、それが。」

キル夫が説明しようとするより早く、できない夫に気がついたできる夫が声をあげた。

「きな夫さん!美筆先生が倒れてしまったんです!」

「何?!美筆先生が?!そいつは一大事じゃないか!また襲撃があったのか?!」

「教われたかはわかんないんですが、とにかく家の中で先生が倒れていて!
だから、早くお医者の先生にみてもらいたいんです!」

できる夫の悲痛な叫びに、できない夫は顔を青くする。

できない夫はキル夫のほうを振り向く。

「キル夫先生!みにいっていただけますか!?」

「もちろん、そうしたいのは山々なのですが、今日は急患の時に乗る人力車がお休みで...。
すぐにいける足がないのです。
走っていこうにも、医者鞄を振り回すわけにはいきませんし。」

キル夫が黒い医者鞄を重そうにかかえているのをみて取ったできない夫は、辺りを見渡して座布団を引っ付かんで外に駆け出した。

「ええ?!座布団持って、どこへ?!」

キル夫が驚いていると、すぐに外からちりりんという警戒な音が聞こえてきた。

「キル夫先生!乗ってください!」

その声にあわててキル夫が外に出てみると、そこには荷台の枠に座布団をひもでくくりつけた自転車に乗ったできない夫が、浴衣をからげた状態でまっていた。

「さあ、美筆先生のところまで送りますから、早く!」

「で、でも、できない夫さん、あなたも怪我人でしょう!」

それでも医者として譲れないところがあるのか、キル夫は玄関先で躊躇する。

だが、それ以上にできない夫の意思が固かった。

「これでも俺は大陸で生き残って帰ってきた元帝国軍人です!
そこら辺のやつとは気合いが違います!
いくら失恋した相手でも、あの人は日本の宝だ!
死なせるわけにはいかないでしょう!早く!」

そこまで言われて言われてしまっては、キル夫も折れざる得なかった。

キル夫はでいない夫が用意してくれた荷台の座布団にまたがり、荷物をからだの前で支えた上で、できない夫の腰に手を回した。

「しっかり掴まっていてくださいよ!
みんなは急がなくていいから、安全に美筆塾に歩いて帰れ!
俺はお医者の先生をつれて先にいく!」

「はい!美筆先生をお願いします!」

できない夫はひとつ子供達に向かって頷いて見せると、ぐっと自転車のペダルをこぎだした。

「く、...つ、重い、うおおおおお!」

一瞬顔をしかめたものの、できない夫は気合いをいれて自転車をこいでいく。

ぐっぐと数度回ると、ふらついていたハンドルも安定し、ぐんっと速度が乗った。

「わあ!すごい!」

キル夫ができない夫の背中で感嘆する。

「よし、急ぎますよ!」

できない夫は大汗をかきながら美筆塾へのみちを急ぐ。

必死になって自転車をこぐできない夫の背中にしがみつきながら、キル夫はその力強い筋肉の躍動を感じていた。

流れていく町並みが、普段とはまるで違って見える。

できない夫が子供達の言葉を真剣に聞いていたことも感心したし、慕われていそうなことにも安心したし、今こうして自分から行動しているたよりがいのある背中にも、不思議な感動を覚えていた。

自分が治療した人物が、こうして体を活動させているという医者としての実感も、キル夫の心を浮き立たせる。

『...なんだろう、こう、気恥ずかしいような。
むず痒いような。嬉しいような。誇らしいような。

心引かれる、ような...。』

あ、と思ったときには、キル夫は赤面していた。

できない夫が自分のほうに振り替えることがなくて良かった、とも。

そして、

『やっくんのこと、笑えなく、なっちゃった、かも、しれない...。』

キル夫は真っ赤になった顔を隠すように、ペダルをこぐたびに力強く動くそのたくましい背中の筋肉に額を寄せた。

そうすると、よりその躍動がわかる。

彼が今、力強く生きていることを感じる。

医者としてなのかはわからないが、それがたまらなく、嬉しく感じた。

しかし、それと同時にキル夫は寂しく思い当たる。

(失恋してすぐの人に心を寄せて、すぐに次の恋に前向きになれなんて、都合がよすぎるだろう。)

この人は心身ともに傷ついている、自分の患者なのだ。

その事実が、キル夫の胸を深く締め付けた。

そんな思いをかかえたキル夫を後ろにのせているなぞいざ知らず。

できない夫がこぐ自転車は、一路美筆塾に急ぐのであった。


最凶にして最愛のただ一人の君に捧ぐ
つづく


18/23ページ
スキ