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【やる&やら】最凶にして最愛のただ一人の君に捧ぐ

藤の花に見とれた春の日からまたいくらか時が経った。

だが、やらない夫への熱烈な恋文や変質者の行動は続いており、護衛であるやる夫とできない夫の緊張は続いている。

だが、人の噂も75日、流行り事は60日。

だんだんとその数は減っていき、ついにここ何日かは平和な日が続いている。

しとしとと降り続く梅雨の長雨で、あまり晴れやかとはいかなかったが。

「変態な手紙も、偏屈な来訪者も、ここ何日かなくて、ついに平和な日常が帰って来たのかおねー。」

緊張しっぱなしだったこともあり、やる夫はようやく少し落ち着いたかと、美筆家の居間でため息をついた。

「油断大敵だぞ。
最後にでかいのが来ないとも限らねえ。
ま、こんなじめじめした季節じゃ、何をするにも億劫ってだけかもしれないけどな。」

じっとりとした空気に包まれて、汗をかきながら団扇で温い空気をかき混ぜているできない夫が、それでも真面目そうな顔でやる夫に言った。

「恋の季節も過ぎたことだし、そろそろ大丈夫だって思いたいお。」

「それは、まあ、確かに。」

そんなことを話していると、今日の授業が終わったのか、子供達がわらわらと帰宅を始めた。

「おお、もうそんな時間か。
授業が終わったみたいだな。」

「でも、先生が戻って来ないおね。」

「なんか片付けものでもしてるのかな。
人手が必要かも知れないし、ちょっと様子を見に行くかな。」

なんだかんだ長いこと一緒に行動することになって久しいやる夫とできない夫は、それなりに仲良くなっていた。

もちろん、恋の鞘当ての相手なのだが、いつのまにか護衛の協力者、護衛の仲間のような感覚にもなっていたのであった。

やる夫とできない夫の二人が教室のほうへ向かうと、中から何やら話し声が聞こえる。

生徒の一人と、やらない夫が何やら相談をしているようだ。

なにやらただ事ではない雰囲気を察したやる夫とできない夫は、少し顔を見合わせたあと、そっと襖の隙間から部屋のなかをうかがう。

そこ見えたのは、生徒であるできる夫と、やらない夫が、真向かいに座り話し合っている姿。

ただ、ぼそぼそと小さい声で話しているので、内容までは二人には届いては来ない。

「うーん、邪魔したら迷惑だおね。
居間に戻るかお?」

「力仕事じゃないみたいだし、そうするか...。」

やる夫とできない夫がそういいながらそっと身を引いたとき、玄関のほうからガラガラと戸が開く音がした。

「あ、お客さんかね?
ちょいと見に行ってくる。」

できない夫はそういい、廊下を通って玄関のほうへ向かって歩いていった。

やる夫はどうしようかと思ったが、このまま覗きをしているのも失礼なので、音を立てないようにそっと襖を閉めた。

その時であった。

「ぐっ!てめ、あの時の、う...!」

できない夫の苦々しい悲鳴が聞こえて来たのである。

「できない夫?」

やる夫はハッとして玄関の方へ急いだ。

やる夫が駆けつけてみると、そこにはとんでもない景色が広がっていた。

「ぐ、く、そ...!」

赤く染まった脇腹を押さえて片ひざをついているできない夫。

そして玄関の戸の前にヌッと立っていたのは。

いつかの男。

できる夫の父であった。

その手には血に濡れた包丁が握られており、状況からみて、その凶刃によりできない夫は負傷したのだと思われた。

できる夫の父の目には光がなく、その口からは聞き取ることのできない呪詛のような呻き声が小さく洩れている。

どう見積もっても、正気のようには見えない。

「できない夫!」

やる夫は咄嗟に、さらに近づこうとしたのだが、できない夫がサッと手を振って、その足を止めさせた。

「来るな!こいつは正気じゃない!
近づいたらお前も刺される!
やる夫は先生をつれて脱出して、応援を呼んでこい!」

「!

...わかったお!」

やる夫は一瞬そんなことはできないといいかけたが、やらない夫の身の安全を考えると、それが一番なことはすぐにわかった。

やる夫もまた、元軍人だ。

主目的のためなら、何をおいても優先されるものがある。

やる夫はすぐにややらない夫へ異常を知らせるために踵を返した。

「まて」

抑揚のない声で
できる夫の父がやる夫を止めようと顔をあげる。

しかし、できない夫がその前に立ちふさがった。

「ここから先はいかせないぜ。
大陸仕込みの軍隊格闘、ちょっと味わってもらおうじゃねえの!」

★★★★

やる夫はすぐさま廊下を走り、教室にしている部屋の襖をスパンと開け放った。

中で立て込んでいる話をしているとしても、緊急事態である。

「先生!できる夫くん!」

いきなり飛び込んできたやる夫に、やらない夫とできる夫はビックリした顔をしていた。

「どうなさったんですか!?」

「それが、...」

一瞬やる夫はできる夫のことが気にかかり、口を閉じかけた。

だが、それだけで、察しのいいできる夫は気がついたところがあったようだ。

「まさか、父が、詰めかけてきたんじゃ!」

できる夫の言葉に、やらない夫の顔も青くなる。

あの日おそわれた恐怖感は、未だにやらない夫にとって薄れていないのだ。

やる夫はその言葉を否定できたらどれだけいいかと思ったが、時間を稼いでくれているできない夫のためにも、ここから二人を逃がさなくてはならない。

やる夫は肯定のために頷いた。

「残念ながら、そうだお!
できる夫くんのお父さんが、包丁もって玄関に

早く二人とも、庭から逃げるんだお!
できない夫が時間を稼いでいるうちに!」

「ひい!」

やる夫の言葉に、やらない夫は真っ青になって悲鳴をあげた。

「...!」

できる夫は、そんなやらない夫の姿を見て、意を決したようにその場をパッと飛び出した。

「あ!できる夫くん!ダメだお!そっちは!」

やる夫が咄嗟に手を伸ばしたものの子供特有のすばしっこさで、いとも簡単に潜り抜けられてしまう。

できる夫はそのまま襖を開けて、廊下から玄関へと走る。

「で、できる夫くん!」

やらない夫は真っ青のまま、できる夫を追いかけようと一歩踏み出したのだが、その足はガクガクと震えていて体重を支えることができなかった。

「ひあ?!」

そのままやらない夫は畳の上に座り込んでしまった。

「新速出編集!わ、私を構わず、できる夫くんを!」

「わかりましたお!
先生はどこかに隠れていてくださいお!」

やる夫はやらない夫に指示を出したあと、できる夫を追いかけて廊下にでた。

教室から玄関は目とはなの先。

父に向かって突進していくできる夫の後ろ姿が見えた。

「ば、こら!やる夫!こっちに越させるな!」

できる夫の父と対峙したいたできない夫が、悲鳴のような声を上げた。

「すまんお!!!!できる夫くん止まるんだお!危険だお!」

やる夫も間に合わないと焦りながら、できる夫の背中を追いかける。

短い廊下を走る子供の足は速い。

走りなれた廊下の木目を裸足の小さな足が踏みしめていく。

目とはなの先には、血のついた包丁をもつできる夫の実父が、ぼんやりとした目で己の息子が走ってくるのを眺めている。

息子が自分のことを止めることはできないと踏んでいるのか、それとも何も考えていないのか。

その表情からは読み取ることができない。

それがなんとも不気味だ。

腹を刺されたらしいできない夫は、できる夫の父のそばで、走ってきたできる夫を止めようと手を伸ばしていた。

だができる夫は大人たちの配慮など気にすることはなく、やる夫を振りきり、できない夫手をすり抜けて、実父の目の前に迫っていた。

「できる夫.ふひ..。」

できる夫の実父がぼんやりとした声でできる夫を呼び、不気味な笑い声をあげた。

その場違いな笑い声に、できる夫は怪訝な顔をする。

できる夫の父はニタリと、どろどろの恋慕を顔に浮かべた。

「お前もずるいよなぁ。
先生の声を生で聞けて、先生の肌に直に触れて、先生の視線を浴びて、先生のお顔を拝見できるんだもんな。

ああ、ああ、なんだか、とんでもないな。

先生のご尊顔を、先生のお声を、先生のお体を、お前は直にそのみに感じることができるのだものな。

ずるいな。

憎いな。

恨めしい。

羨ましい。

お前は先生の色っぽい姿も見たことがあるんだろうな。

俺も、その体をいただきたい。

その体を食べ尽くしたい。

その体を己の欲のまま、べちゃべちゃのくたくたにして、むさぼり尽くしてしまいたい!」

「このド変態が、むちゃくちゃ言いやがる!」

顔面を欲望に染め上げた修羅の男が笑いをこぼす。

その男を見たできない夫は、素直に引いていた。

そして、それに立ち向かったのは、実の息子であった。

「人間の風上にもおけない、このシレモノ!
僕はあなたが実の父であることが、恥ずかしくてしかたありません!
貴方はもう僕の父であると名のってほしくありません!
貴方などこちらから願い下げです!
我が家の敷居を跨がないでください!
警察に付き出してやります!」

そう言うや否や、できる夫は回りの大人が止めるまもなく飛びかかり、包丁を払いおとすと、その顔面に強烈な頭突きをお見舞いした。

「んぐがぁぁあ!」

さすがに頭突きが飛んでくるとは思わなかったのだろう。

できる夫の実父はもののみごとに鼻血を吹き出しながら、大きくのけぞった。

できる夫の実父がもっていた包丁は土間の土にすぐには抜けないほどにまっすぐ突き刺さる。

「よし、今だ!」

そう叫んだできない夫が、ばっと飛びかかり、血が滴るのもそのままに取り押さえた。

「むぎいいいいいいいいい!」

できる夫の父は、悔しそうに顔を真っ赤にするが、押さえ込まれた体はびくともしない。

「できる夫!
ひとっ走り駅前の交番に走って警官呼んでこい!

やる夫!
荒縄でも綱でもなんでもいい!
こいつを縛れるようなものもってきてくれ!
俺が押さえてる隙に!」

「わかりました!いってきます!」

できる夫はパッと走り出ていく。

やる夫は既に丈夫そうなヒモを台所から探し当ててきて、できない夫に届けようと腕を差し出しているところだった。

「もう用意してきたお!
今縛るから、そのままで!」

「おう、だが、早くしてくれ!
さすがにくらくらしてきた!」

できない夫の腹からは今も血がヒタヒタと滴り、白いワイシャツと背広を赤く染め上げている。

やる夫は手早くできる夫の実父を縛り上げ。
その縄は自力では脱出不可能なほどガッチリと何重にも巻かれていた。

「よし、できない夫離れても大丈夫だお!
止血するからそこに横になるんだお!」

「く、ああ、すまねえ...。」

できる夫の実父を押さえることから解放されたできない夫は、よろよろと離れ、玄関の板間に体を横たえる。

やる夫はすぐさまできない夫の止血に取り掛かり、流血が続いていた傷口を縛り上げた。

「こりゃひでえお。」

「先生は無事かい?」

「大丈夫だお。
隠れてもらってるから、怪我一つないお!」

「そうか、よかった。」

できない夫はほっとした様子で、安堵のため息をつく。

そのとき、廊下の向こうの襖が遠慮がちにそっと開き、心配げな顔をしたやらない夫が様子を伺った。

「新速出編集!比布出編集!ど、どうなりましたか!
お、お怪我は!できる夫くんは!」

がくがく震えて青い顔をしたやらない夫が、襖にすがり付くようにして尋ねた。

べっとりと服に血がついたできない夫と、できない夫の止血をしたために血糊がついたやる夫。

絵的にかなり阿鼻叫喚である。

真っ赤に染まった玄関先をみて、やらない夫はさらに顔を青くする。

かくりと膝が抜けたのか、やらない夫の体が力を失う。

「「先生!」」

体が動かないできない夫は手を伸ばすことしかできなかった。

ぱっととびだすことができたやる夫が、やらない夫に駆け寄った。

「あ、...新速出編集。」

血で濡れた手であったが、やる夫はやらない夫の体を支えることが叶う。

支えられたやらない夫の顔が、やる夫をみあげて、安堵の表情に変わる。

やる夫も、ほっとしたような雰囲気に変わる。

その二人の姿を、玄関の板間に横になったまま見ていたできない夫は、急に悟ってしまった。

(ああ、そうか。
先生は、……やる夫が、好きなんだな。
俺ややる夫がはりあう前に。
俺がどんなに気持ちを主張しようと。
先生の気持ちは、やる夫から、変わらないし離れないんだな。)

できない夫は、悲しかったが妙に納得もしてしまった。

(俺が最初言い出したときに先生が困った顔をするはずだ。
片想いしている人がいる前で告白されたんだから。
俺は最初から負け戦を挑んでいたんだな。)

できない夫は心と一緒に体が急激に冷えていくのを感じた。

燃え尽きていく。

心と体、その両方を、できない夫は感じた。

差し出したままになっていたできない夫の手が、はたりと床に落ちた。

血が、思いが、情熱が。

体からころころとこぼれ落ちていく。

足の先と胸の中が、冷たく冷えて固まっていく。

失恋を自覚したできない夫は、ゆっくりと目を閉じて、絶望するがまま、意識を闇の中に溶かしていく。

(このまま目が覚めなかったら、せめて俺は先生の心に足跡を残せるんじゃないだろうか。
足跡どころか、ひどい傷跡を。
ああ、失恋したせいで、ひどいことしか、思い浮かばないな。)

「比布出編集!」

やらない夫が、名前を呼ぶのが聞こえる。

できない夫はその呼び掛けに応えることはなく。

たぷんと完全に意識を暗い闇の中に沈めてしまったのであった。



★★★★





「ん?」
できない夫が次に目を覚ましたとき、そこに見えたのは知らない部屋の天井であった。

白を基調にした天井には、茶色の木のはりが渡されており、電気ランプが設置されている。

なかなかモダンな建物である。

「あ、れ。
生きてら。」

てっきり自分で死んだと思ってたできない夫は、ついそう呟いていた。

天井を見上げてぼんやりしたできない夫だったが、ハッとした次の瞬間には、脇腹から猛烈な痛みが襲われた。

「ぐぁ、ぐううう、痛ってぇ...!」

できない夫がうめく。

その声が聞こえたのだろうか。

部屋の外から声がかかった。

「目が覚めました?
よかった、かなり危険だったんですよ。」

するりと樫の木でできたドアが開き、一人の人物が部屋の中にやってくる。

その人物は白衣を来た男性。

口ぶりからして医者であろう。

「あんたが、俺のことを治療してくれたのかい?」

できない夫は、ベッドの枕元に歩いてきたその人物を横になったまま見上げた。

「ええ。
やっくん...、新速出くんと駅前の警察から連絡をもらいましてね。

現場で応急処置をしてから、うちの医院まで運んできて兄と一緒に処置をしました。

襲われてから、丸一日時間がたっています。

気がついてよかったですよ。」

そう言った医者の顔は、心底安心したようににっこりと笑った。

キル夫のほうといえば、以前やる夫が尋ねてきたときにやらない夫についての恋の鞘当ての話を聞いていたので、この人物が相手あのかなと感じ取っていた。

だが、覗き込んでみれば、話に聞いていたような覇気はない。

怪我人であるとはいえ、その意気消沈ぶりは、あの日のやる夫に負けず劣らずといった感じだ。

「怪我はきちんと処置しましたから、1週間ほどで退院できると思いますよ。
そのあとはしばらく自宅療養していただいた方がいいと思いますが。」

「そうですか。

はは、体の怪我はその程度で治るのか。
心の方はいつまでかかるやら。」

できない夫はそう言ってため息をつく。

「...美筆先生に振られたんですか?」

キル夫の言葉にできない夫はハッとして顔を上げる。

その目は泣きそうな色をしていたが、涙がこぼれることはなく、すっと悲しげに下ろされた。

「はっきり振られたわけでは。
でも、先生には好きな人物がいて、その心が離れることはないってわかってしまったんです。

なんであなたがご存じかはわからないですが、
そんなにわかりやすかったですかね。」

「自分は、強飯キル夫。
強飯医院で医者をしています。
美筆先生とも、新速出くんとも知っている間柄でしてね。

いろいろ聞こえてくるところがありまして。」

「さすがお医者様は耳が豊かだ。」

できない夫はそう言って、悲しげにため息をついた。

「心を癒すことはできませんが、体を治すお手伝いは全力でいたしますから、悩みがあったら聞きますよ。

僕から噂が出ることはありませんから、ご安心ください。」

キル夫はそう言うとにこりと笑う。

その後、できない夫はその優しさに心を揺すられてしまうことになるのであった。


最凶にして最愛のただ一人の君に捧ぐ
つづく
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