【やる&やら】最凶にして最愛のただ一人の君に捧ぐ
淡雪講社の、年度末の一大企画、淡雪講社優秀作品賞。
大翔十年度の優秀作品に見事選ばれたのは……。
「美筆先生!
おめでとうございます!」
「いやー、優秀作品賞以外にも、青い鳥かごと幻想華の両方で、読者大賞を取って、総なめにしちゃうとは、流石先生ですお!」
「いや、あはは、お二人のおかげです。」
美筆家の居間で、やる夫とできない夫から報告を聞いたやらない夫は、照れながら頭を掻いた。
やらない夫は、今年度の淡雪講社の賞を3つも総なめにしていた。
読者に最も選ばれた作品が優秀作品賞を勝ち取るのだが、青い鳥かごと幻想華それぞれで一番人気だった作品にも、賞があたえられるのだ。
賞の性質上、どちらかのトップが優秀作品に選ばれるのだが、両方を同じ作家の作品がとるというのは、非常に珍しかった。
まず、両方に書いている作家が稀だというのもあるのだが。
青い鳥かごの優秀作が、鬼三部作の中の一作である、鬼とゆり。
そして、幻想華の優秀作にして、今年度の淡雪講社優秀作品に選ばれたのは、もちろん、あの作品。
ちなみに、作品には題名がなかったので、発表時には、編集部によって、金木犀(キンモクセイ)という名をあたえられていた。
「今度、本社ビルで、授賞式があるのですが、来ていただけますか。」
できない夫が、ずずいとやらない夫の方に身を乗り出した。
「食事会もありますからお、ぜひ!」
やる夫も、ニコニコとしながらやらない夫を誘う。
やらない夫は、あまり派手な席は得意ではなかったが、それでも今回ばかりは出席する気でいた。
「はい、もちろんです。」
やらない夫が浮かべた笑顔は、編集二人も笑顔にしたのだった。
それから、一週間ほど後、淡雪講社のビルにて授賞式が催され、やらない夫には賞状と記念品が贈呈された。
その後、大野にある料理茶屋(今で言う料亭)で、食事会となった。
会場は広い座敷で、お膳が運ばれてくる。
味噌仕立ての吸い物にはじまり、口取り肴(前菜)、二つ物(魚の焼き物や、甘煮)、刺身、茶碗蒸し、汁物と漬物とご飯、最期はお茶と軽い茶菓子が出た。
どれもこれも美味だったが、やらない夫はあまり落ち着いて食事はできなかった。
淡雪講社の社長である小杉でっていうや、その他編集者たちが挨拶にきたり、写真を撮ったりインタビューされたりと、何かとせわしなかったのだ。
やる夫とできない夫も、気に掛けてくれてはいたが、自分の上司たちが相手では、口出しできない。
とにかく食事会は、あっという間という感じで、やらない夫にとっては、落ち着く暇がなかったのであった。
ようやく、夕方ごろにお開きとなり、やらない夫はやる夫とできない夫に送られて帰宅した。
「今日はご参加ありがとうございました。」
「今日はお疲れでしょうから、ごゆっくりお過ごしくださいお!」
普段と勝手が違う1日で、やる夫とできない夫の顔にも疲労が伺えた。
「お二人もよくお休みくださいね。
お送りいただきありがとうございました。」
玄関で二人に頭を下げ、帰っていく二人を見送った。
やらない夫は二人の姿が見えなくなってから、すぐ布団のなかでぐったり体を横たえた。
こうして、授賞式も終わり、しばし。
やらない夫の賞を受賞した二作品はそれぞれの雑誌で授賞式の写真やインタビューとともに、次の号に再連載された。
その雑誌もなかなか売れ行き好調とのことで、やらない夫はほっと胸を撫で下ろした。
さて、季節はすっかり春。
ふわりと可憐な花が咲き、新芽が芽吹き、蝶が舞う、新しい季節。
やらない夫は作家としても仕事が一段落したこともあり、塾の方で催し物を考えていた。
「新しい子も何人か入ってきたことだし、親御さんも様子をみたいことだろう。
授業参観をしようかな。」
やらない夫は日程を書いた紙を張り出し、子供たちに親御さんへ授業参観についての手紙を持ってかえってもらった。
本来、全て同じ内容の手紙を何枚も用意するのは大変なことなのだが……。
「いやぁ、導入してよかったなぁ。
手書きでやったら日が暮れるところだっただろ。」
やらない夫の書斎の片隅には、また新しい装備一式があらたに導入されていた。
それは謄写版(とうしゃばん)と言われるもので、一般にはガリ版と呼ばれるものであった。
今回ダブル受賞したお祝いに、希望のものを贈呈すると淡雪講社のでっていうに言われたので、思いきっておねだりして入手したものだった。
以前見せてもらった印刷機に感心したやらない夫は、塾でも使えないかと探した結果、ガリ版にいきついたのであった。
ガリ版(謄写版)とは、ワックスを浸潤させたロウ紙と呼ばれる原紙を、専用の金属製やプラスチック製のヤスリ盤の上に載せて、先の尖った棒や鉄筆(鉄製の鉛筆のようなペン)で強く押し付け、削ることで印刷物の原稿をつくり、それにインクを乗せることで印刷する方法だ。
鉄筆でヤスリに押しつけられた原紙のワックスは、ヤスリ目の形に削られてインクが透過する小さな穴ができるので、インクを乗せると下に置いた紙に印刷されるという寸法だ。
ヤスリ盤上の原紙に鉄筆を走らせると、ガリガリ音がするので、日本では謄写版をガリ版と呼ぶらしい。
やらない夫は、この秘密兵器を使い、子供たちに渡す手紙を印刷したのだ。
「文明の力、素晴らしい……!」
やらない夫は、心底、文明か開化して良かったと思ったのであった。
★★★★
そうして一週間ほど後の金曜日。
ついに美筆塾の授業参観が行われた。
授業内容はいつもの調子だが、やらない夫は、やはり緊張したようだ。
一通りの授業が恙無く(つつがなく)行われ、やらない夫は、内心ほっとしていた。
親御さんには、庭と廊下を解放し、立ち見をしてもらったのだが、概ね好評なようだった。
子供たちは親御さんに手を引かれてかえっていく。
「さて、後片付けをしましょうか…。」
やらない夫が、庭側の開け放っていた障子を閉めていると、玄関側の廊下で人の気配を感じた。
「……え?」
やらない夫が、恐る恐る振り向く。
そこには……。
一人の男が立っていた。
一瞬誰だかわからなかったが、やらない夫はその男が、自分の塾にかよう、できる夫の父であるということに思い当たった。
やらない夫は内心安心しながら、声をかける。
「できる夫君のお父さん、こんにちは。
どうされましたか?
今日はできる夫君が風邪とのことで、できる夫君はお休みでしたが。
具合はいかがでしょうか。
しばらく、様子を見たほうがよろしいとは思いますが。」
そう、今日はできる夫は、風邪で欠席だと、彼の家の近所の子が教えてくれた。
この塾一番の秀才で、勉強にもよく励み、質問も多くしてくれる大変いい子であるので、今日の参観で、日頃どのように勉学に励んでいるのか、親御さんに見せてあげられないのは残念と思っているところであった。
しかし、もう授業参観の予定した時間は過ぎているし、授業時間事態も終わってしまった。
このできる夫の父は何のためにここに立っているのか、やらない夫には検討がつかなかった。
そして、先程からこの男はしゃべらなかった。
ただただやらない夫の顔を見つめ、ぼんやりと立ち尽くしている。
「...?あの...?」
やらない夫は、薄気味悪さを感じながらも、一歩できる夫の父に近づいた。
「お加減でも悪いのですか?
それとも、できる夫君のことで、何か...?」
そのとき、思いもがけない変化が、できる夫の父に現れた。
嗤ったのだ。
それはそれは、ニタリ、と。
それは人間というよりも、妖怪とでもいいたくなるほどの笑みで。
やらない夫は、ギクリと体をすくませた。
ただ事ではないことは、すぐに理解できた。
やらない夫は、咄嗟に障子を開け放ち、踵を返して逃げようとしたが、できる夫の父に手を掴まれるほうが一瞬早かった。
やらない夫は、強制的に動きを止められて、恐怖のあまり、顔を真っ青にした。
怖くて、できる夫の父のほうへ、顔を向けられない。
やらない夫の息が早くなり、心臓が早鐘を打つ。
致命的な何かがすぐそこに迫っているような気がして、恐ろしさのあまり、足がすくんだ。
「先生のお話、読みましたよ...。」
「え、あ?ありがとう、ございます。」
思わぬことを言われて、やらない夫はきょとんとしてしまった。
先程まで感じていた恐怖は、何でもなかったということだろうか。
ただの自分の勘違いで、怪しいことはなにもないのではないだろうか。
やらない夫の心理は、冷静さを取り戻そうと必死だった。
そうそれが、楽天的ととらえられるような、悪手であっても。
やらない夫は、つい、顔を上げ
振り向いてしまった。
「...!!??」
そこには、見知らぬ男がいた。
以前、できる夫の父に一度あったことがあったが、そのときとはまったくの別人のよう。
何かに心を飲まれた、妖怪のような男が
そこにいたのである。
「先生つれないな。
そんなに恋をしたがっていたなんて。
今はどうですか?
好いている人がいないのなら、どうです、俺と」
「な、何を言っているのですか!!!
あ、貴方には、できる夫君という息子と、奥さまがいらっしゃるじゃないですか!」
「あんなに激しく、心を揺さぶっておいて、そんなつれないことを言わないでくださいよ。
あの、金木犀という物語は、恋文だ、そうでしょう?」
「...!!!!」
やらない夫は、顔面蒼白のまま、たじろぐ。
確かにそうだったのだ。
あれは、やらない夫がやる夫を思って全力でかいた恋文。
むなしく消えるはずだった、誰にも読まれない恋文だったのだ。
ただそれが、物語という姿をしていただけに過ぎない。
海千山千の編集者の心を掴めたのは何故か。
誰しもの心を奪い、淡雪講社優秀作品賞という賞に輝いたのは何故か。
そこに、やらない夫の本心からの恋心が宿っていたからに他ならない。
名前のない恋文が世に出たとき。
誰かが誤って受け取る可能性が、最初から、あったのだ!
やらない夫は、その可能性にはじめて気がついた。
「い、いや、違う、あれは...!」
(あれは、やる夫編集への、もので、貴方へのものじゃ...!)
「そんな、今さら恥ずかしがらないでくださいよ。
ほら、先生。
日頃の感謝も込めて、気持ちよくしてあげますから。」
「き、気持ちよく?!
な、何をするきですか!!
や、やめて!お願いします!離して!」
しかし、日頃野良仕事で体を使っているものと、貧弱な体のやらない夫ではまったくお話にならない。
やらない夫はずるずると部屋の奥のほうへ引き寄せられ、畳へ押し付けられてしまった。
背中に乗ったできる夫の父は、やらない夫の体の上に覆い被さるようにして、やらない夫が逃げないように体重で押さえ込んだ。
「い、いやぁ...!」
やらない夫のか細い悲鳴が、口から漏れた。
白い指が、カリカリと畳の地を引っ掻く。
「あ、ああ、やぁ...、はう」
逃れようと必死に伸ばした手が、障子に届く。
だがその手はすぐに引き戻され。
最凶にして最愛のただ一人の君に捧ぐ
つづく
大翔十年度の優秀作品に見事選ばれたのは……。
「美筆先生!
おめでとうございます!」
「いやー、優秀作品賞以外にも、青い鳥かごと幻想華の両方で、読者大賞を取って、総なめにしちゃうとは、流石先生ですお!」
「いや、あはは、お二人のおかげです。」
美筆家の居間で、やる夫とできない夫から報告を聞いたやらない夫は、照れながら頭を掻いた。
やらない夫は、今年度の淡雪講社の賞を3つも総なめにしていた。
読者に最も選ばれた作品が優秀作品賞を勝ち取るのだが、青い鳥かごと幻想華それぞれで一番人気だった作品にも、賞があたえられるのだ。
賞の性質上、どちらかのトップが優秀作品に選ばれるのだが、両方を同じ作家の作品がとるというのは、非常に珍しかった。
まず、両方に書いている作家が稀だというのもあるのだが。
青い鳥かごの優秀作が、鬼三部作の中の一作である、鬼とゆり。
そして、幻想華の優秀作にして、今年度の淡雪講社優秀作品に選ばれたのは、もちろん、あの作品。
ちなみに、作品には題名がなかったので、発表時には、編集部によって、金木犀(キンモクセイ)という名をあたえられていた。
「今度、本社ビルで、授賞式があるのですが、来ていただけますか。」
できない夫が、ずずいとやらない夫の方に身を乗り出した。
「食事会もありますからお、ぜひ!」
やる夫も、ニコニコとしながらやらない夫を誘う。
やらない夫は、あまり派手な席は得意ではなかったが、それでも今回ばかりは出席する気でいた。
「はい、もちろんです。」
やらない夫が浮かべた笑顔は、編集二人も笑顔にしたのだった。
それから、一週間ほど後、淡雪講社のビルにて授賞式が催され、やらない夫には賞状と記念品が贈呈された。
その後、大野にある料理茶屋(今で言う料亭)で、食事会となった。
会場は広い座敷で、お膳が運ばれてくる。
味噌仕立ての吸い物にはじまり、口取り肴(前菜)、二つ物(魚の焼き物や、甘煮)、刺身、茶碗蒸し、汁物と漬物とご飯、最期はお茶と軽い茶菓子が出た。
どれもこれも美味だったが、やらない夫はあまり落ち着いて食事はできなかった。
淡雪講社の社長である小杉でっていうや、その他編集者たちが挨拶にきたり、写真を撮ったりインタビューされたりと、何かとせわしなかったのだ。
やる夫とできない夫も、気に掛けてくれてはいたが、自分の上司たちが相手では、口出しできない。
とにかく食事会は、あっという間という感じで、やらない夫にとっては、落ち着く暇がなかったのであった。
ようやく、夕方ごろにお開きとなり、やらない夫はやる夫とできない夫に送られて帰宅した。
「今日はご参加ありがとうございました。」
「今日はお疲れでしょうから、ごゆっくりお過ごしくださいお!」
普段と勝手が違う1日で、やる夫とできない夫の顔にも疲労が伺えた。
「お二人もよくお休みくださいね。
お送りいただきありがとうございました。」
玄関で二人に頭を下げ、帰っていく二人を見送った。
やらない夫は二人の姿が見えなくなってから、すぐ布団のなかでぐったり体を横たえた。
こうして、授賞式も終わり、しばし。
やらない夫の賞を受賞した二作品はそれぞれの雑誌で授賞式の写真やインタビューとともに、次の号に再連載された。
その雑誌もなかなか売れ行き好調とのことで、やらない夫はほっと胸を撫で下ろした。
さて、季節はすっかり春。
ふわりと可憐な花が咲き、新芽が芽吹き、蝶が舞う、新しい季節。
やらない夫は作家としても仕事が一段落したこともあり、塾の方で催し物を考えていた。
「新しい子も何人か入ってきたことだし、親御さんも様子をみたいことだろう。
授業参観をしようかな。」
やらない夫は日程を書いた紙を張り出し、子供たちに親御さんへ授業参観についての手紙を持ってかえってもらった。
本来、全て同じ内容の手紙を何枚も用意するのは大変なことなのだが……。
「いやぁ、導入してよかったなぁ。
手書きでやったら日が暮れるところだっただろ。」
やらない夫の書斎の片隅には、また新しい装備一式があらたに導入されていた。
それは謄写版(とうしゃばん)と言われるもので、一般にはガリ版と呼ばれるものであった。
今回ダブル受賞したお祝いに、希望のものを贈呈すると淡雪講社のでっていうに言われたので、思いきっておねだりして入手したものだった。
以前見せてもらった印刷機に感心したやらない夫は、塾でも使えないかと探した結果、ガリ版にいきついたのであった。
ガリ版(謄写版)とは、ワックスを浸潤させたロウ紙と呼ばれる原紙を、専用の金属製やプラスチック製のヤスリ盤の上に載せて、先の尖った棒や鉄筆(鉄製の鉛筆のようなペン)で強く押し付け、削ることで印刷物の原稿をつくり、それにインクを乗せることで印刷する方法だ。
鉄筆でヤスリに押しつけられた原紙のワックスは、ヤスリ目の形に削られてインクが透過する小さな穴ができるので、インクを乗せると下に置いた紙に印刷されるという寸法だ。
ヤスリ盤上の原紙に鉄筆を走らせると、ガリガリ音がするので、日本では謄写版をガリ版と呼ぶらしい。
やらない夫は、この秘密兵器を使い、子供たちに渡す手紙を印刷したのだ。
「文明の力、素晴らしい……!」
やらない夫は、心底、文明か開化して良かったと思ったのであった。
★★★★
そうして一週間ほど後の金曜日。
ついに美筆塾の授業参観が行われた。
授業内容はいつもの調子だが、やらない夫は、やはり緊張したようだ。
一通りの授業が恙無く(つつがなく)行われ、やらない夫は、内心ほっとしていた。
親御さんには、庭と廊下を解放し、立ち見をしてもらったのだが、概ね好評なようだった。
子供たちは親御さんに手を引かれてかえっていく。
「さて、後片付けをしましょうか…。」
やらない夫が、庭側の開け放っていた障子を閉めていると、玄関側の廊下で人の気配を感じた。
「……え?」
やらない夫が、恐る恐る振り向く。
そこには……。
一人の男が立っていた。
一瞬誰だかわからなかったが、やらない夫はその男が、自分の塾にかよう、できる夫の父であるということに思い当たった。
やらない夫は内心安心しながら、声をかける。
「できる夫君のお父さん、こんにちは。
どうされましたか?
今日はできる夫君が風邪とのことで、できる夫君はお休みでしたが。
具合はいかがでしょうか。
しばらく、様子を見たほうがよろしいとは思いますが。」
そう、今日はできる夫は、風邪で欠席だと、彼の家の近所の子が教えてくれた。
この塾一番の秀才で、勉強にもよく励み、質問も多くしてくれる大変いい子であるので、今日の参観で、日頃どのように勉学に励んでいるのか、親御さんに見せてあげられないのは残念と思っているところであった。
しかし、もう授業参観の予定した時間は過ぎているし、授業時間事態も終わってしまった。
このできる夫の父は何のためにここに立っているのか、やらない夫には検討がつかなかった。
そして、先程からこの男はしゃべらなかった。
ただただやらない夫の顔を見つめ、ぼんやりと立ち尽くしている。
「...?あの...?」
やらない夫は、薄気味悪さを感じながらも、一歩できる夫の父に近づいた。
「お加減でも悪いのですか?
それとも、できる夫君のことで、何か...?」
そのとき、思いもがけない変化が、できる夫の父に現れた。
嗤ったのだ。
それはそれは、ニタリ、と。
それは人間というよりも、妖怪とでもいいたくなるほどの笑みで。
やらない夫は、ギクリと体をすくませた。
ただ事ではないことは、すぐに理解できた。
やらない夫は、咄嗟に障子を開け放ち、踵を返して逃げようとしたが、できる夫の父に手を掴まれるほうが一瞬早かった。
やらない夫は、強制的に動きを止められて、恐怖のあまり、顔を真っ青にした。
怖くて、できる夫の父のほうへ、顔を向けられない。
やらない夫の息が早くなり、心臓が早鐘を打つ。
致命的な何かがすぐそこに迫っているような気がして、恐ろしさのあまり、足がすくんだ。
「先生のお話、読みましたよ...。」
「え、あ?ありがとう、ございます。」
思わぬことを言われて、やらない夫はきょとんとしてしまった。
先程まで感じていた恐怖は、何でもなかったということだろうか。
ただの自分の勘違いで、怪しいことはなにもないのではないだろうか。
やらない夫の心理は、冷静さを取り戻そうと必死だった。
そうそれが、楽天的ととらえられるような、悪手であっても。
やらない夫は、つい、顔を上げ
振り向いてしまった。
「...!!??」
そこには、見知らぬ男がいた。
以前、できる夫の父に一度あったことがあったが、そのときとはまったくの別人のよう。
何かに心を飲まれた、妖怪のような男が
そこにいたのである。
「先生つれないな。
そんなに恋をしたがっていたなんて。
今はどうですか?
好いている人がいないのなら、どうです、俺と」
「な、何を言っているのですか!!!
あ、貴方には、できる夫君という息子と、奥さまがいらっしゃるじゃないですか!」
「あんなに激しく、心を揺さぶっておいて、そんなつれないことを言わないでくださいよ。
あの、金木犀という物語は、恋文だ、そうでしょう?」
「...!!!!」
やらない夫は、顔面蒼白のまま、たじろぐ。
確かにそうだったのだ。
あれは、やらない夫がやる夫を思って全力でかいた恋文。
むなしく消えるはずだった、誰にも読まれない恋文だったのだ。
ただそれが、物語という姿をしていただけに過ぎない。
海千山千の編集者の心を掴めたのは何故か。
誰しもの心を奪い、淡雪講社優秀作品賞という賞に輝いたのは何故か。
そこに、やらない夫の本心からの恋心が宿っていたからに他ならない。
名前のない恋文が世に出たとき。
誰かが誤って受け取る可能性が、最初から、あったのだ!
やらない夫は、その可能性にはじめて気がついた。
「い、いや、違う、あれは...!」
(あれは、やる夫編集への、もので、貴方へのものじゃ...!)
「そんな、今さら恥ずかしがらないでくださいよ。
ほら、先生。
日頃の感謝も込めて、気持ちよくしてあげますから。」
「き、気持ちよく?!
な、何をするきですか!!
や、やめて!お願いします!離して!」
しかし、日頃野良仕事で体を使っているものと、貧弱な体のやらない夫ではまったくお話にならない。
やらない夫はずるずると部屋の奥のほうへ引き寄せられ、畳へ押し付けられてしまった。
背中に乗ったできる夫の父は、やらない夫の体の上に覆い被さるようにして、やらない夫が逃げないように体重で押さえ込んだ。
「い、いやぁ...!」
やらない夫のか細い悲鳴が、口から漏れた。
白い指が、カリカリと畳の地を引っ掻く。
「あ、ああ、やぁ...、はう」
逃れようと必死に伸ばした手が、障子に届く。
だがその手はすぐに引き戻され。
最凶にして最愛のただ一人の君に捧ぐ
つづく