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【やる&やら】最凶にして最愛のただ一人の君に捧ぐ

「ようこそお越しくださいました、先生!」

「は、はぁ……。」

熱烈な歓迎の声に、やらない夫は押されぎみに生返事を返した。

現在やらない夫がいるのは、大野にある淡雪講社の本社ビルの中、幻想華の編集部なのであった。

ビルの三階フロアが大きな本棚で2つに区切られており、一つの区画を幻想華の編集部がつかい、隣の区画を青い鳥かごの編集部が使っている。

編集部の中には事務用デスクが並べられ、どの机も紙の束と本で溢れていた。

隣にはきっとやる夫もいることだろうが、紙の要塞に阻まれて、やらない夫にはその姿は見えなかった。

応接用のソファーセットに通されたやらない夫の前には、幻想華の編集長である天月ダディがおり、目の前のローテーブルには、日本茶が満たされた茶碗と、てりのある練羊羹が一切れ塗の小皿にのり、黒文字(和菓子用のつまようじ)が一本そえられているのであった。

(どこか出掛けようと言われて断ったら、仕事として出掛けさせられちゃったもんなあ。できない夫さんって策士な人だろ。)

やらない夫は自分の後ろでにこにこしながら立っているであろう男の方に少しだけ顔を傾けた。


「よく読ませていただきまして、素晴らしい作品だと編集部の中でもわきましたよ。
全員一致で春の特大号で特集を組もうということになりましてね。
是非先生の取材記事なども掲載させていただきたく。」

ダディ編集長はそういいながらニコニコと笑った。

それを聞いたやらない夫はおどろいた顔でダディを見つめ返した。

「私の取材記事なんて読みたい人はいますかね?」

「何をおっしゃいます!必ずいます!
何せ自分が読みたいですから!」

そうダディよりも先に答えたのは、後ろに控えていたできない夫だった。

「好きな作家さんの人となりをうかがってみたいと思う読者は案外いるものです。
きっと読者の皆様にも喜ばれますよ。
青い鳥かごのほうから幻想華のほうに年代が上がって入ってきた読者層もおりますから。」

そういわれたやらない夫は、そういうものかと少し考えを改めた。
確かにやらない夫だって、憧れの作家はたくさんいる。その人となりをうかがって参考にしたいと思う気持ちは理解できた。

自分の人となりが他人の参考になるのか、といわれたら自信がなかったが。

「そういうことでしたら、わかりました。取材をうけさせていただきます。」

「ありがとうございます!取材の日程などは、準備が整い次第ご連絡いたしますね。」

「はい。それでお願い致します。」

やらない夫が頷くと、背後から浮かれた雰囲気がひしひしと伝わってきた。
きっと声をださないようにしながらも、できない夫がとても喜んでいるのだろう。

(案外わかりやすいとこも、あるんだな)
そう思ったやらない夫は、少しだけ笑ってしまった。

ダディとの話が一段落したあとは、やらない夫はできない夫に連れられて、淡雪講社の中を案内された。

淡雪講社は、表通りに面した四階建ての本社ビルと裏庭にある離れのような印刷所の二棟で構成されていた。

二棟の建物の間は、ちょっとした庭になっているのだが。ほとんど駐車場のようである。

やらない夫は庭を横切り、印刷所で大きな印刷機を見せてもらうことができた。
道場のようなサイズの小屋のなかには大きな機械がでんと据えられていて、その回りには大きな紙の筒や、裁断機などがところせましと軒を連ねていた。

インクと紙と機械油の匂いがする小屋のなかは、近代化の象徴のようなたたずまいの空間であった。

大きな印刷機をみたやらない夫は、思わずといった調子で、目を輝かせながら歓声をあげた。

「うわあ、これが噂のオフセット印刷機、大きいですね」

案内してきたできない夫は、にこりとして印刷機に手をおいた。

「はい。
やる夫に聞きましたか?
国内どころか世界でもまだ新しいオフセット輪転機です。
これが回るとあっという間に美しく印刷ができるんですよ。
うちみたいに限られた部数しかすっていない会社だととくにね。
まあ、大手の会社になると、輪転機が止まると会社がつぶれる、なんて言うんですが、うちは新聞の取り扱いはないので、今は止まっているところですね。
回っているところをぜひお見せしたかったのですが。」

「たしかにこんな大きい機械動いたら圧巻でしょうね!」

できない夫はやらない夫の言葉にますます笑顔になった。

「じゃあ、次のお出掛けはぜひ印刷日にいたしましょうね。」

できない夫の言葉を聞いてやらないおはしまったと一瞬思った。

(またいっしょに出掛ける口実を与えてしまった・・・)

そして、思い出されるのは、印刷機のことを自分のことのように嬉しげに話していたやる夫の姿だった。

同じ敷地内にいるのだから一目会えるのではないかと期待していたやらない夫だったが、全く姿を見かけておらず、内心非常にしょんぼりしていた。

(あんな紙の壁にはばなれていたら、千里眼の持ち主でもないかぎり、みえやしないだろ・・・。)

しょんぼりとうつむきかげんになったやらない夫に、できない夫はすぐさま気がついたようだった、

「先生お疲れですか?
そろそろお昼にいたしましょうか。
ここの近くに、いい寿司屋があるんですよ。
そこの助六がうちの会社の人間の大のお気に入りでしてね。
いかがです。
食べにいきませんか。」

そう言われたやらない夫は、やる夫が持ってきてくれた助六弁当が脳裏をよぎった。
なぜ、いなり寿司や巻き寿司がいっしょにはいった弁当を助六弁当というのかと高説を垂れたあの時の弁当。
やらない夫の胸は、またもや、きしきしと硝子を擦り会わせたような音を伴いながら痛んだ。

そんなことは知らないできない夫は、やらない夫を寿司屋まで案内するべく、印刷所の扉を開けてやらない夫を外にでるように促した。

「あそこの寿司屋は酢の塩梅が素晴らしくて、特に疲れていつときでも食べやすいのがいいんです。
きっと先生のお口にも合うと思いますよ。」

できない夫はそんなことをいいながら、中庭の板塀が途切れている場所を目指して歩いていく。

そして何かに気がついたように少し視線をあげ、少々不敵に笑った。

「?
どうかなさいました?比布出編集」

「ああ、すみません。
ちょっと嬉しさが顔から漏れてしまったようです。
お気になさらず。」

にこりと笑い、
できない夫はなんでもないふうであったので、やらない夫はそのまま出版社を出て寿司屋に向かったのであった。

★★★★

夕闇が空を覆い、星がチラチラと瞬き(またたき)、夕餉(ゆうげ)の香りが街角からただよう。

夜が近づく頃合いの強飯医院の診察室で、最後の患者を送り出したキラナイ夫医師はこきこきと肩を鳴らしていた。

少し年期がはいった白衣を着て、頭につけた額帯鏡(がくたいきょう)(医者が頭につける丸い鏡がついた器具。患者の近くに置いた光源より光を集めることにより、医師が無影で患者の患部を診察することができる)を丁寧にはずしているところであった。

「ふう、今日のところはこんなものか。
キル夫、今日はこの辺で終いにしようか。」

似たような格好をしたキル夫も、隣の薬室から顔を覗かせた。

「ああ、そうだね、キラ兄さん。
こっちの施錠も完了したよ。」

キル夫が出てきた薬室には、劇薬や、猛毒の扱いの薬瓶も保管されているため、扱いは慎重を極めるのだ。
鍵がかかるようになっている戸棚にきちんとしまわれているか、ちょうど確かめ終わったところであった。

キル夫とキラナイ夫は、二人でもう一度戸締まりを確認したあと、渡り廊下を通って母屋のほうへ移動した。
表に面した病院棟と自宅である母屋は渡り廊下で結ばれており、中庭には小さな池と植木がいくつか植わっていて、昼間はそこそこ眺めがよくしつらえられているのだが、忙しいふたりはなかなかゆっくり庭を眺める暇がないのが残念なところであった。

二人は薄暗い母屋の廊下の明かりのスイッチを押し、電球によって照らされた廊下を進んだ。

強飯兄弟の両親はすでになく、兄弟でこの医院を切り盛りしている。
二人ともまだ独身であるため、他に家族はいなかった。
廊下をきしませながら先をいくキラナイ夫は少しつかれたようなため息をついたが、顔は穏やかであった。

「今日は比較的平和でよかったね。
大きな怪我も、病気もなくて、医者が暇なのは大変よろしいことだ。」

「まったくだね。兄さん。
あ、今日はお手伝いさんが魚の煮付けを作ってくれたっていってたよ。
奥に行って夕餉にしようよ。」

「おおそれはいいな、暖め直して食べよう。
なんの煮付けかな。金目鯛だと飛び上がって喜ぶんだが。」

「ははは、キラ兄さんは昔っから金目鯛の煮付けが好きだねえ。」

「ああ!大好きだ。死ぬ前になにか好きなものが食えるなら、金目鯛の煮付けがいいとたのむだろうな。」

「あは、キラ兄さんらしいや。
僕ならなんだろうな。
栗おこわ、赤飯もいいなぁ。
里芋のにっ転がしも捨てがたい。」

「ははは、キル夫は昔から炊き込み飯が好きだったものな。
まあ、炊き込み飯はごちそうだし、十分気持ちはわかるがね。」

二人はそんなことを言いながら台所にいき、二人で夕餉の支度をし始めた。

「あ、キラ兄さんよかったねえ。
金目鯛だよ」

「何!本当かい!?
やった!」

鍋の蓋を開けて中身を確かめたキル夫の言葉に、キラナイ夫は本当に跳び跳ねて喜んだ。

二人がいそいそと食事の準備を進めていると、裏の路地に面した玄関が、トントンと叩かれた。

「今晩は、申し訳ありません・・・。」

キル夫とキラナイ夫は、食事の準備の手を止め、顔を見合わせた。
裏口は近所のほんの親しい人しか訪ねてこない。
こんな時間にその戸を叩くとなれば、ご近所さんでなにか大変なことがあったときぐらいのものなのだ。

二人の顔はすぐに厳しくなった。

キル夫がすぐに戸のほうにいき、キラナイ夫は往診のための準備を整えるべく、病院棟のほうに身を翻す。

「はい、どなたでしょうか。急患ですか?」

キル夫が少々緊張した声で尋ねると、戸の向こう側にいる人物は少々たじろいだようすだった。

「あ、いえ、急患じゃあないんですがお。
あの新速出やる夫だお、きーくん・・・。」

それを聞いたキル夫は驚いたが、すぐに戸の鍵をはずして開けた。

「やっくん!どうしたの、急に尋ねて来てくれるなんて!
確かにこの前、今度のもうとは言ったけど、すぐに来てくれるとは思ってなくてびっくりしちゃったよ!」

キル夫が急いで戸を開け放つと、そこには憔悴(しょうすい)した顔のやる夫が、背中を丸めるように立っていた。手には大きな一升瓶が包まれた風呂敷をぶら下げていた。

「今晩は、だお。
きーくん・・・。」

「やる夫くん、久しぶり、外は寒かったろ、上がって上がって!」

急患ではないようだと戻ってきたキラナイ夫は、キル夫の横から戸の向こうを覗いて、寒い場所にいるやる夫に中にはいるように促した。

「お邪魔いたしますお」

少々項垂れて入ってきたやる夫を見たキル夫とキラナイ夫は、こっそり顔を見合わせた。

「なんだか傷心みたいだね。
僕たちこれから夕餉だったんだけど、やっくんもどう?
ゆっくり食べて、飲んで、その間に話を聞かせてよ。」

「おん、そうさせてっくれっかお?」

やる夫が弱々しく合意したので、強面兄弟はいそいで食卓の準備を整えた。
ちゃぶ台の上には、金目鯛の煮付け、おこうことたくあん、おにぎり、さつまいもの味噌汁、豆の煮物が並べられた。

そうして、熱燗にした酒が徳利(とっくり)で出され、やる夫とキル夫の前にはお猪口が並べられた。

「あれ、キラお兄さんは、のまないんですかお?」

「ああ、いつも飲むのは片方って決めてるんだ。
もし、急患が駆け込んでいたとき、医者が両方へべれけじゃ、お話にならないだろう?
俺のことは気にしなくていいから、二人とも飲んでのんで、ほら、せっかくの熱燗が冷めちゃうよ。」

キラナイ夫はそういうと、やる夫のお猪口に、熱燗を注ぎ入れた。
ほわほわと断つ湯気には大分酒気が含まれていて、顔を近づけただけで少し酔いが回りそうだった。

「寒かったでしょう。
ささ、やっくん遠慮せずにまず体を温めないと。」

キル夫に促され、やる夫は熱燗をあおる。
喉から腹へ熱いものが流れ落ち、体というランプにぽっと火が灯ったように温かさが小さく生まれる。

やる夫はその温もりにほっとため息をつき、寒さが少しからだから追い出されたことに安堵した。

「あったまるう」

「よかったよかった、ほら、煮付けもおにぎりもある。
腹の中に少しいれてから話してみるといい。」

キラナイ夫に進めらるがまま、やる夫はおにぎりを頬張る。
塩気が米の本来の味を引き立て、旨い。
やはり日本人は米だ、と、やる夫はしみじみ噛み締めた。

金目鯛の煮付けも、とろりとほどけるようにやわらかく、味も染みていて絶品。
香のもの、たくあんの塩梅もよく、米にも酒にも合う。
さつまいもの味噌汁も、味噌の味にさつまいもの甘味が溶けていて、やさしく甘く、これも体がよく暖まった。

やる夫はいつのまにかすっかり落ち着いて、ゆったりとした気持ちになっていた。

「さて、やっくん、せっかくきてくれたんだ。理由を教えてよ。」

キル夫に促され、はっとしたやる夫は、ぽつりぽつりと、自分の中のわだかまりを口にし始めた。

「それがお・・・。」

やる夫は、やらない夫への気持ちが尊敬ではなく恋心だったかもしれないということと、いきなりやらない夫が好きだという男が現れて、自分の恋心を指摘されて強制的に恋の鞘当てを命じらたことを伝えた。

それを聞いたキル夫は、「自覚なかったのお」と呆れたような声をだし、内心小さくため息をつくほどであった。

「君も案外鈍かったんだねえ。
文学作品で、恋とか愛だとかはよくある題材じゃない。」

「やる夫のなかでは、自分の身に起こるものじゃなくて、かみのなかの、お話の世界のものだったんだおう!あまりに崇高すぎて!」

「気持ちはわからんでもない・・・。
俺たち兄弟も色恋沙汰とは無縁の生活してるからな。
愛やら恋やら、死んでもなおらぬ不治の病は、おとぎ話に聞こえるからな。」

お茶を飲みながら金目鯛をつついていたキラナイ夫がしみじみ言った。

「こう、いきなり夢が現実にきちまったみたいな感じがして、どうしたものかわからなくなっちまったんですお。
どうしたら、先生に失礼なことじゃないかとか、今までの接し方とか、なんか全部わーってなっちゃって。
第一、先生に片想いで、先生のお気持ちがどこにあるのかわからないし、先生が好きだっていった男はふられていたけど、好きになってもらうためにどんどん攻めていくやつでお。
うかうかしていたら、先生が手が届かない存在になっちまうんじゃないかって怖くて。」

やる夫の自信なさげな言葉を聞いて、キル夫が思い浮かべたのは、診察した時のやらない夫がやる夫に送っていた目線であった。

(だって、あの目はどうみても)

「なるほどねえ」

キル夫はため息をつきながら熱燗を喉に流し込んだ。

「やっくんは、自信がないの?美筆先生とられちゃうって」

「だって、どうしたらいいかわかんないだお。
相手はやり手だし、今日だって、まんまと編集部につれてきてお出掛けしてたんだお。
なかなか塾とかの関係で外出できない先生を連れ出せてたのが、まず
すごいんだお。やる夫は何をすれば対抗策になるんだお?!」

「それなら簡単さ」

キル夫は、お猪口の酒をくぴとあおってから、自信のある顔でやる夫を指差した。

「君は無理に変わらない方がいいと思うよ。
今までだって自覚はなかったとは言え、先生のこと大切にしてきたんでしょう?
美筆先生はそれを感じない鈍感ではないよ。
むしろ君まで変わってしまったら、先生は寄るベがなくなってしまうんじゃないかな。」

「そ、そうかお?」

「先生が君に求めてるのは、君が君でいることさ、やっくん。

今までと同じように、君らしく先生に接して差し上げてよ。」

「やる夫らしく・・・。」

やる夫は口の中で小さく言葉を繰り返した。

今まで意識していなかったことを意識してやるというのは、存外難しいものだ。

やる夫は今までの自分の行動を振り返り、少しの自信を手のひらの中に見いだした気がした。

「ありがとだお、きーくん。
自分じゃなんかよくつかめないけど、でも、いつも通りをこころがけてみるお!」

「うん、応援してるよ、やっくん」

「せっかくきてくれたんだ。ある程度の解決案をもらったんだから、あとはもう景気つけだ!ほれほれ、のめのめ!」

キラナイ夫に酒を注がれて、やる夫はそれをあおる。

やる夫の中に芽吹き自覚された恋心のように、酒はやる夫を暖めたのだった。


つづく






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