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【やる&やら】最凶にして最愛のただ一人の君に捧ぐ

明示(めいじ)の世が過ぎ、年号が大翔(たいしょう)となって早10年。

激動の世の中で、東京・小城野(こじろの)の地において小さく芽生えた恋心がありました。

しかしその恋は、叶わぬと諦められた恋なのでした。

これは、そんな気持ちをかかえた男のお話。



最凶にして最愛の
ただ一人の君に捧ぐ



カッチンカッチンカッチン…。

居間に置かれた柱時計の振り子が、右に左に揺れる音と時間だけが、無数に積み重なる。

一方で、文机に向かう着物姿の男の手は、しばらく止まったままだった。

男の手には黒塗りの万年筆が握られており、ペンの先には書き途中の原稿用紙があった。

薄暗い畳の部屋、文机に置かれている花を模した電気スタンドに照らされているその手元だけが、どうにか明るい。

紺の着物に榛(はしばみ)色の羽織(はおり)を着て、机に向かう彼の名前は、美筆(みふで)やらない夫。

児童文学を専門にする小説家であった。

やらない夫は難しい顔をしてウンウン唸っていた。

どうも、小説の文面を一生懸命にひねり出しているようである。

しばらく唸っていたやらない夫だが、とある瞬間、ハッとしたような顔になり、今度はとたんに明るい表情となった。

数度、水泳の飛び込み台で躊躇う(ためらう)人のようにペン先がピコピコと揺れたあと、今度は勢いよく紙の上に飛び込み、素早く走り初めた。

サラサラと流れるような動きで、ペンは先ほど停滞していたことなど忘れたように、どんどんと文字を綴っていく。

そして、ついにやらない夫は万年筆を止め、ふうと詰めていた息を吐き出してから、今かいたばかりの原稿を二、三度読み返す。

「…よし。」

やらない夫が少し表情を和らげた。

「せんせ、あと15分ですがお?
どーですかお?進捗(しんちょく)は。」

背後からの声に、やらない夫はびくりと肩を震わせた。

「す、すみません、新速出編集!
たった今、仕上がりましただろ!」

声をかけた男は、やらない夫から少し離れた真後ろで正座をし、やらない夫の背中を睨んでいた。

座布団に座った鬼、そんな様相である。

灰色ストライプのスーツを着て、ネクタイをしめ、傍らに使い込まれた革の黒い鞄を置く彼は、新速出(にゅーそくで)やる夫。

児童向け雑誌【青い鳥かご】の編集者で、やらない夫の担当ある。

締め切りを破る作家に詰め寄る迫力は、出版界隈でも五指にはいるという噂をもち、作家たちには鬼編集と恐れられていた。

やらない夫は焦りを浮かべながら、まとめた原稿のページを確認し、やる夫に差し出す。

「ぎ、ギリギリまで待っていただき、ありがとうございました。
こちらが原稿になります。
お納めください…。」

やらない夫がおずおずと差し出した原稿を、やる夫も丁寧に受け取った。

枚数を確認し、きちんと揃っていると解る。

すると、そのとたんにやる夫の眉間に寄っていた深いシワは消え、目は険しさが鳴りを潜め、表情はふわりと花が咲いたかのように綻んだ。

そう、締め切りさえ破らなければ、鬼編集は、本当はとても優しいのであった。

「確かに!
ありがとうございますお!
美筆先生!
締め切りギリギリでしたが、間に合って良かったですお!
さっそく持って帰って編集作業に入らせてもらいますお。」

そう言いつつ、やる夫は傍らに用意していた茶色の封筒に、書き上げたばかりの原稿を丁寧にしまいこみ、口のヒモを結ぶ。

そうして、学芸員が宝物を扱うように、大切そうに鞄へ納めた。

やらない夫は、嬉しげで、晴れやかな顔になり、ほっと安堵のため息をつく。

「来月は通常原稿と年始号の前倒し分の締め切りがありますから、こうギリギリだと大変になりますお?」

「うぐぅ…、ぜ、善処いたしますだろ…。」

安心したところで指摘を受けたやらない夫は、不意打ちの攻めに呻いてしまった。

「ま、今月分は乗り越えたんですから、今日のところはゆっくりしてくださいお。
校正後の修正は、また参りますお。」

やる夫は抱き抱えるように鞄を持ち、座布団から立ち上がる。

「あ、ずっとお待ちいただいていたのですから、お茶を入れ直しますが…。」

畳の上の傍らの盆には、半分ほど満たされた茶碗が冷えきっていた。

「いえ!
ありがたいですが、今からなら夕方の汽車に間に合いますからお!
それでは、先生、失礼いたしますお!」

やる夫はそう言って笑うと、一礼して部屋から早足で出ていった。

せっかく、とも思ったが、時間いっぱいギリギリまで待たせてしまったのだ。時間の余裕はないだろうと、やらない夫は諦めのため息をついた。

「あ、ちょ、ちょっと新速出編集!
…あっ!」

やらない夫は、やる夫を見送ろうと慌てて立ち上がりかけたが、今まで長時間座って物をかいていた体は言うことを聞かず、足をもつれさせて先程までやる夫が座っていた座布団に向かって転んでしまった。

「あいたたたた…。」

衝撃は座布団のおかげでさほどでもなかったが、咄嗟についた肘を畳で摩ってしまい、ヒリヒリと痛んだ。

起き上がろうとした時、表の戸がガラガラリと閉まり、ガチャリと鍵がかかった音がきこえた。

やる夫は、万が一やらない夫が原稿を抱えて立て込もった時のために合鍵を持っているので、それで戸締まりをしてくれたのだろう。

「しまった。
遅かっただろ…。」

やらない夫は、はぁ…と残念そうにため息をつき、そのままくたりと座布団に伏した。

ぼーん、ぼーん、ぼーん、ぼーん、ぼーん…。

居間の柱時計が午後5時を告げる。
ちょっと前まで来るのが恐ろしかった時刻であった。

やらない夫は、その音を聞きながら、頭を座布団に乗せたまま、ゴロリと横になって、天井を見上げたあと、目を閉じる。

脳裏に浮かぶのは、先程原稿を渡した時のやる夫の笑顔。

冷えた体はそれだけで、少しばかり温まるのだった。


★★★


やる夫は、やらない夫の家からまっすぐに最寄り駅である三ノ巢(みのす)駅に向かった。やらない夫の家から駅は歩いていける距離にあり、少し余裕をもちながら汽車に乗り込むことができた。

やる夫が勤める淡雪講社(あわゆきこうしゃ)という出版社は、ここから二つ先の大野(おおの)という場所にある。

やらない夫が締め切りを守ってくれたので、やる夫は汽車に乗ることができたが、乗り遅れてしまったら、人力車や馬車を頼むしかなくなってしまうので大変だ。

夕刻の下り汽車は、そこまで混みあっておらずやる夫は座席に座ることができた。

一瞬、原稿をここで開けて読んでしまおうかとも考えたやる夫だったが、ダメダメと首を振って、はやる気持ちを押さえた。

一字一字、やらない夫が精魂こめて書き上げた、何より大切な原稿だ。
ここで失くしたり、汚したりするわけにはいかない。

やる夫は、原稿の入った鞄を、愛おしげに抱き抱え、動き出した車窓に目を向ける。

だいぶ日も短くなり、黄昏時も過ぎて宵の口だ。

窓ガラスには自分や車内の様子が映るばかりで、外の様子はあまりよく見えない。

やる夫は外を見るのを諦めて、少し座り直してから、しばしの汽車の旅のため体の力を少し抜いた。

胸の中に、生まれたばかりの宝物があることが嬉しくてしかたがないという横顔が、車窓に映っていた。

汽車は、どんどんと濃くなる闇を裂きながら、大翔の世を走っていく。



最凶にして最愛の
ただ一人の君に捧ぐ

続く

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