ツイステッドワンダーランド 短編
その子は、言うなれば外界の恐ろしさを知らぬ蝶のようであった。
彼の周りにいる者はこれまで、誰一人残らず分相応に立場を弁える者たちばかりだった。彼を見ればある者は頭を垂れ、またある者は驚嘆の声を上げる。彼を知りうるものならば殺意がない場合、間違ってもその身に刃を向けたりなどはしない。
彼に無礼な態度を向けたりなどしないその者たちは彼と己との力量差を正確に捉えているのか、それとも彼の後ろに茨の魔女でも見るのか。もしかすると彼の優れたその目でも見えない何かを見ているのかもしれないと時々思わされることがあった。
彼を敬い、崇める。または嫌悪し恐怖する。有象無象のものたちが抱くそれが至極当然な感情であることは間違いない。力や地位というものを人は常に量って生きている。
それらを正確に秤にかけるのだとして、一体誰が誂えたすべてを差し引いた何物でもない僕を見るのだろう。彼がそんなことを思っていたのは、もうずっと幼少の頃までのはずだった。
彼自身も分というものを弁える年頃になると蝋燭の炎のような、吹き消してしまえるような幻想を抱くことはなくなった。己を知れば知るほど、自分には当たり前のように与えられたものが特別であると知る。容易く触れ合うことなどできはしないのだろうと。
――――そう、思っていたはずであったのに。
「見て、ツノ太郎」
あまりにも気安く、例外はまるで頬を撫でる春風のように。ころころと鈴を転がしたような声で何ともふざけた名前を呼ぶ。だがその名前は他でもない彼に向けられたものであった。
不敬にも値するというのに、その子は事の重要さを知りはしない。彼女自身は悪びれるようなこともないし、むしろ悪意などを抱いてはいないのだ。ひたすら純粋に彼を慕い、名を教えなかった自分に対して親しみを込めた愛称をつけただけだ。
「貴方から貰ったお花を押し花にしてみたの。これならきっと長持ちすると思って」
無知とはなんと恐ろしいものか。この花を贈ったのが他でもない、マレウス・ドラコニアだと分かったならその溌剌さは陰るのだろうか。彼が茨だと分かったのならば寄り付きさえもしなかったのか。蜜を求めて飛び交う蝶は、身を突き刺そうとする棘に脅威を感じることがあるのだろうか。
彼という存在の威光に圧されることも、臆することも無い。ただただ何も知らずに無邪気に笑う。春色の花に透明のフィルムを掛けたものを彼に差し出してみせる。簡単に彼の手に触れる彼女は、くるくると花の周りを舞う蝶々のようだと思った。その姿が愛らしくて彼は妖艶に口元を緩める。
「そんなことをしなくとも、僕に言えば好きなだけそいつを長らえさせたというのに」
そんな言葉を、かの次期茨の国の王となる存在に献身的な言葉を吐かせるほど。そう、そのような存在に花など贈らせるほど。
彼女はマレウスにとって特異な存在であった。無知とは愚かしいだけではなかった。それは彼女がこの身に触れることを許す。いいやそれこそが名を知ってなお、凍てつくことのない温かみを失わずに居させるのだろう。
「いいえ、ツノ太郎。こうしたのは貴方にも渡したかったからなの」
彼女はそう言ってポケットから先ほどマレウスに差し出したものとよく似たものをのぞかせて見せる。そういえば渡した花は一輪ではなかったか。それにしてもこの僕にこんなにもささやかな贈り物だなんて、本当に想像もつかないことをするものだ。そう思い片眉を上げるマレウスに彼女は表情を煌めかせて、天真爛漫に笑う。
「この僕に?」
「うん。いつか私が元の世界に帰っても、それがあったら忘れられないでしょ?」
ああ、これだから無知とは恐ろしいというのに。彼がいつしか手放しがたい気持ちを抱いていることも露知らず、残酷な言葉を無邪気に放つ。分かっている、いつかは元の世界に帰ってゆくのだろう。生きるべき場所で今のように君は生きてゆくのだろう。
「……ヒトの子よ」
僕を知るのであれば、僕の名のもとに命じさえすれば二度と帰ることはできないだろう。それ以前に彼の力を持ってすれば赤子の手をひねるように、彼女をどこよりも暖かで安全な籠の中に仕舞ってしまうことも容易かろう。だが今はその笑顔を曇らせることをとにかく彼は嫌う。眠ってしまった城のようにこのまま時が固着してしまえばよいのにと、まだ今は手を伸ばさずにただ見つめるばかりだ。
「お前の気持ちは貰っておこう」
しかし時が流れ、彼女が望む日が迫るのならば。いつか僕もこれに見合う贈り物を授けよう。波乱万丈の世界を生きる彼女のために平穏で普遍的な日々を。終わらない夢の世界の物語を。
それはこの手で羽を捥ぎ取るかの如く。