ツイステッドワンダーランド 短編


 指先でスイッチを切り替えると店の明かりが落とされた。アズールはこれから今日の売り上げの計算を、フロイドは……おそらくもう自室へ戻っていることでしょう。

 ジェイドはいつものように自分の身の回りを確認し、状況の把握に努める。大切な彼女との秘密を守るために己の索敵能力を用いてアンテナを高く張り、誰にも触れさせないように。

 しかしながら、それでもアズールたちが気づかない理由はないように思う。きっと見て見ぬふりをされている部分もあるのだろう。だがそれならば、これからもそのように振舞っていてほしいと思う。とにかくこれからの時間を誰にも邪魔されるわけにはいかない。

 呼吸を整えてから更衣室の戸をノックした。同時に手に抱えたトレーの上、乗せられたグラスからは氷の崩れる音がする。静寂がわずかながら身を包む。

 少しの沈黙をおいて、部屋の奥からすっかりと聞きなれてしまった声がした。ようやくこの時間にありつけたとばかりにドアノブを回し、ジェイドは閉ざされた場所へと踏み込む。

「お疲れ様です、監督生さん」

 もう他には誰もいないと分かっていても、扉の間隙が塞がれるまでは。彼女に決まって他人行儀な呼びかけをした。しっかりとジェイドはこの部屋唯一の扉に鍵をかけ、彼女の元へ歩み寄る。

 店の華やかさとは裏腹に質素な控え室内には、ロッカーとそして小さなテーブルと椅子がある。慈悲深いアズールの計らいだ。ミルクやガムシロップが並べてあり、業務に従事する者の休憩時間が有意義なものになるよう備えられているのだ。

 既にモストロ・ラウンジのウエイター服から制服へと着替えている彼女はそこにいた。机に乗せていた手を優雅に腕を持ち上げ、髪を掻きあげる。控え室内唯一の椅子に掛けた彼女は、ゆるやかにジェイドを見上げた。

「お疲れ様です、ジェイドさん」

 紅玉のような赤の瞳を覗かせて微笑む。彼女の方は扉をぴたりと閉じ切ってしまったから、彼女はジェイドに柔らかい声色を向けた。そう、この安らぎはふたりきりだからこそ齎される。

 些細なことだが、それだけで口元を緩めてしまうジェイドは手際よくテーブルにコースターを置いた。そして次にグラスを彼女の前に差し出す。

「僕からの差し入れです。よければ」

「ありがとうございます」

 からん、とグラスの中の氷がまた解けて音を立てる。彼女は拒むこともない、ジェイドが用意した気遣いを快く受け入れた。赤の眼差しが伏せられて、グラスとそれに刺さったストローに手を添える。何も言わずにストローに口をつけて、彼女は飲み物を躊躇わず口に含んだ。

「……」

 ジェイドはその様子をじっと眺める。音のない部屋の中で、目を逸らさずに上下する彼女の白い喉を見ていた。無性に、言いようもなく胸がざわめく感覚を覚える。

 ――――おやおや、無防備なお方ですね。

 グラスの中身は何の変哲もない、店でも提供しているフルーツティーだ。シロップで甘さを調整することすらしていない。だが何の細工もされていないと、どうして彼女は判断できるだろう。

 そんな物騒な発想をすることが間違っているだろうか。だが可能性を頭の片隅に留めておくことは悪いことでは無いはずだ。彼女に対し、狂おしい感情を抱く男を傍に置くつもりならば。

 今回は何もしていない。けれどもジェイドは簡単に何であろうと、このドリンクに都合の良いものを混ぜることができる。人間を人魚にするための魔法薬でも、世界一強い惚れ薬でも。

 考えないわけではない。このつがいという特別な関係に身を置いても決して満足は得られていないのだから。いつだって彼女を繋ぎ留めておくための方法を画策し、実行に移せやしないかと夢想する。

 見くびられたものですね、僕がそれほどまでに善良な人物に見えるのでしょうか。腹の中は貴方を手中に留めておくための思惑と欲で溢れかえっているのに。

 彼に対してだけが、そうであるのだろうか。それとも他の者の差し出した何かであっても彼女は口に含めるだろうか。

 ジェイドは何も言わずに目を細める。ジェイドにだけそうであるならば、少しばかり己が満たされるというものだが。

「……あまり見られていると飲みにくいのですが」

 ジェイドの逸らされない視線を気にしてか、彼女が肩を竦めてジェイドを見上げる。彼女は心配しなくても美味しいですよ、と述べて息をついた。

 獰猛な肉食魚に狙いすまされて、これほどまでリラックスした様子であるなんて。本当に警戒心がないと言うべきか、ジェイドが受け入れられているからこそのたまものだと呼ぶべきかは判断付かない。彼女は黒髪を掻き上げ、上目遣いにジェイドを見上げる。

「……飲みますか、ジェイドさんも」

 柔らかな微笑みと言葉が向けられる。さりげない一言が突風のような威力を持って、ジェイドの中の何かを吹き飛ばしてしまうかもしれないというのにこの態度だ。口元が引きつりそうになったため、ジェイドは口元を手で押さえて彼女から視線を逸らす。

 込み上げる感情が理性を潰すためにずくん、と胸を突き上げているのを悟られたくはなかった。いつも揺るがされてばかりなのだから、もう少し堪えるという術を身に着けたい。思わず逸らしてしまったが、五秒も間を置かないうちにジェイドは余裕ぶって面を上げる。

「貴女が、構わないのでしたら……」

 落ち着きを纏ってそう答え、震えを押し殺した指先で彼女からグラスを受け取る。胸の中はなんと形容したものだろう。人の心を察しないさまにはかつて抱いた忌々しさすら覚えそうだ。

 僕は隙あらば貴女を丸のみに食べてしまいたいと思っているというのに、あまりにも無防備な。

 喜ぶべきなのか忌むべきか、はたまた案じるべきなのか。まさか彼女は他の人間にもこのようなことをしてやしないだろうか。ジェイドは表情を形作りながらそれでも視線を逸らせないでいる。己以外にもこのように接しているのだとしたら、平静でいられる自信がとてもない。

「どうしましたか、ジェイドさん」

 いりませんか、と彼女はジェイドの胸中など何も知らずにたおやかに笑う。艶やかな瞳は妖しく蛍光灯の光にも揺らめいて、ジェイドの心をますます揺るがそうとする。ジェイドは唾を静かに飲み込む。にこやかな笑みを貼り付けて、グラスを持ち上げる。

「いえ……。それではお言葉に甘えて」

 先程までは彼女が口づけていたストローの先を口に含む。それだけでアルコール分などはいっているはずもないのに、身体が火照った。ストローを支えている手が柔らかなプラスチックを潰してしまいそうになりながらも、ぎこちなく中のフルーツティーを吸い上げる。

 熱した身体を覚ます冷たさが口の中に飛び込むと、彼女が満足げに微笑む。どうして、そんな顔をしてみせるのでしょう。ジェイドは疑問に思いながらも柔らかな口当たりをごくりと飲み込む。

「……ジェイドさんは」

 彼女が悪戯っぽく口元を歪めた。自分の名を呼んで、どうしてそのように上機嫌そうに頬を緩ませようとしているのか。彼女は口元を覆い隠す。それはいつからか見せるようになった彼女のクセ。

 くすくす、と笑みを零している妖艶な眼差しがじっとジェイドを覗きあげた。口にした飲み物は甘さを控えたはずだった、それなのに口の中は酷く甘い。飲み物を増々欲してしまうほど、甘ったるい。彼女はもったいぶりながら、机の上にころりと手の中に握りしめていたものを転がした。

「私のことを信じてくれているんですね」

 彼女の手から零れたものを見て、彼女が言わんとすることを悟った。

 してやられたと思う。そして思うよりも目敏く彼女が、自分の感情を察していることを思い知らされる。これだから自分ともあろうものが、ここまで翻弄させられてしまうのだろう。

「……全く、貴女という人は」

 再認識させられてしまう、自分自身の彼女に対しての警戒心の薄さも。ジェイドは仕方なしとばかりに目を細める。テーブルの上に転がされたのは、空のガムシロップの容器であった。
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