ツイステッドワンダーランド 短編
太陽も微睡むような午後だった。蔵書の香りと生徒たちの息遣い。図書館は海の中のような静けさに包まれている。彼、ジャミルは主であるカリムの課題に役立つ本を選別し、腕一杯に本を抱えているところだった。全く世話の焼ける、と思いつつも、それが己の責務なのだから全うするほか選択肢はない。
自分をそうやって縛り付けると息ができなくなるような気がして、ジャミルはふうと大きく溜息をついた。己のためではない役どころを演じるのは疲れてしまう、何か安らぎがあればと宛もなく本棚から視線を逸らした。
本の波を抜けた奥、カーテンで和らげられた光が柔らかに差し込んでいる。ジャミルは視線の先にその光を受けて輝く黒髪を見た。何かに核心を抱き思考するよりも早く、引き寄せられるように先へ進む。はっきりとした表情が見えるわけでもない。けれどもその人物が誰なのかを彼は理解していた。
本棚の終わりを抜けると視界が開ける。例えるなら温められたミルクのように優しい光がホール一帯を照らしていた。ジャミルは息を潜めて視線の先の人物に歩み寄る。艶やかな黒髪の小柄なひとりの生徒。
…………監督生か。
彼が胸中で呟いた監督生と呼ばれているその生徒は、このところのジャミルの安らぎとも呼べる人物であった。ぱっと見は地味で目立たず、ジャミルを助けてくれる力があるわけでもない。それでも惹かれるものがあった。ダイヤの原石なのかと期待したくなるほどに。
監督生の人となりは、他の誰かにとってはともかく、ジャミルの中では評価は低くない。……控えめで自分自身を開けっぴろげにしないところは好ましいとは感じていた。
……それにしても。
椅子に座ってテーブルに頬をつく監督生の顔を、ジャミルはちらりと盗み見る。本を脇に置いてその正面を陣取った。監督生の顔をさりげなく覗き込むと、いつも凛とし己を律する瞳は伏せられているようだ。規則正しく肩が上下しているのを確認した。
……珍しいな。
監督生がここ、図書館に足を運んでいるところを見るのは珍しいことではない。調べ物が好きなのか、勉強熱心なのか足繫く図書館に通うその姿はよく見かけていた。偶然にも鉢合わせた時には、ジャミルから声を掛けたこともある。珍しいのは監督生がここにいることではなく、こんなところでうたた寝をしているということだった。
思わず意識を絡めとられ、ジャミルは監督生の寝顔から視線を離せないでいる。この学園に居る誰も、ジャミルの目の前にいる人物のこんなにも隙だらけな姿を見たことがないのではと思った。自身が女だということをひた隠しにしている監督生は、山椒の実のようにピリッとした緊張を常に持っていた。
まだ短い付き合いではあるが彼……、いいや彼女と言う人間がこんなふうに人前で無防備な姿を晒す姿をあまり見たことがない。女であることを隠しているうえ、ジャミルと同じように誰かを制する立場にあるのもあってか。彼女にはいつだって隙のなさがあった。特に長い睫毛に縁どられたその眼差しには、何者にも心を許していないような冷艶さを孕んでいた。
…………今なら。
どこか浮世離れした縁遠いこの人物に、常にただの少女でありながら触れ難いと感じる彼女に。今こそ手が届くんじゃないかとジャミルは思う。
固唾を飲み、ジャミルは指先を伸ばしてみる。触れられそうだ、君は俺の気配に気づいていない。せめて顔に掛かる髪を払って、その顔をもう少し眺めていたい。
指先はあと数センチ。ジリジリと距離を詰めていく。彼女の鼻先まで伸び、そこまで来てジャミルの腕はぴたりと宙で止まる。
…………何をしているんだ、俺は。
唇を噛み締め腕を引く。まだ目を閉じたままの彼女を横目に己を諫めた。
自分自身と彼女はただの知り合いで、彼女が女だと知り得ながら触れられるような関係でもない。己のしていることがあまりにも無遠慮だと判断し、それを自分がされた場合最も不愉快なことだと思いなおす。不可侵の領域に足を踏み入れるのは馬鹿だけだ。
ジャミルは監督生の前で頬杖をつく。本当は寝顔を見るというのも遠慮がなさすぎるんじゃないかとは思うが、自分自身の視線がどこへ向くかはこちらの勝手だ。
屁理屈を捏ねつつ静かに、ジャミルの存在に気が付きもしない彼女の寝顔を見つめる。いつもの凍えるような雰囲気とは違い、なんて柔らかで無垢だろうか。心地よさにジャミルは瞼を下ろす。澄んだ鈴の音が小さく耳に聞こえた。