ツイステッドワンダーランド 短編
彼女の方から待ち合わせ場所を指定されるのは、これまでを振り返っても珍しいことであった。
いつもならば何気なく鉢合わせた場所から歩みを共にしたり、ジェイドが指定した場所に集まるのが彼らの常であった。人の目を逃れて彼らは時間を紡ぐ。今日も今日とてそうであるが、彼女から切り出されるということはそれだけで特別だ。口の端から漏れる白い息を置き去りにして、ジェイドは足早に約束の地へと急ぐ。
数日前から、今日の何某かを期待する生徒たちの声で学内は浮足立っていた。例年通りならばそれをせせら笑いながら見ているのだけれども、今年ばかりはジェイドもそのうちの一人と数えるべきだろう。
彼女の方から持ち掛けられたこの誘い。十七歳の男子生徒として心を波立たせずにはいられない。彼女の方から言い出されなければ、きっとジェイドの方が意地でも約束を取り結んでいた。だが、なんと今回は彼女の方から会いたいとジェイドに囁いたのだ。
今宵の時に決して特別な何かがあるわけではない。美味しい料理も豪華なプレゼントも用意できないけれども、同じ時間を共有できるだけでよいと思えた。そんな単純なことで満足してしまえる自分が子供のように無垢で、あまりにも幼稚ではないかとジェイドは自分を省みる。想像が自然と口元を緩めた。
固く想いを踏みしめて歩く。視界を覆う銀世界はまばらに並んだ街灯によって儚く煌めいた。海の中では決して見ることのないその世界の美しさにも感動を覚えて彼は進む。舞い散る冷たい粉が肌を冷やそうとするのに、人影を見つけて体の芯は燃えるように熱くなった。
遠くからでも例え暗闇の中にあっても、彼女の姿はジェイドの目においては鮮明に視認できる。ジェイドは思わず大きく息を吐いて呼吸を整えた。一歩一歩喜びを押し留めて、待ち合わせをした大きな枯れ木の前まで足を踏み出す。
空を覆う夜の闇と静寂の白の中。雪の粉を手に受け、己を待っている彼女の姿を見ていると雪が目の中で溶けたのかじわりと涙すら滲む。早く彼女の元へ駆けつけたいという思いと、いつまでもこの幻想的な光景を眺めていたい欲求が混ざり合って判断がつかなくなりそうだ。見ているだけで時の流れすら乱れるだろう。
だが、そんなジェイドの足を動かしたのはこの世界に在るもう一つの色であった。枯れ木に纏わりつく藻のような植物。山を愛するジェイドは容易くその名を反芻できる。本を読んでいるうちに知り得た知識と共に。
「監督生さん……っ」
他には誰もいないはずなのに、どうして取り乱してしまったような声が出るのかは分からない。抑えられなかった焦りを滲ませたジェイドは、ぎゅうと拳を握って彼女を呼んだ。彼女はこの夜に一段と輝く、何ものよりも艶やかな赤を下ろすとジェイドをその中に閉じ込める。
「……ジェイドさん」
彼を見ると張り詰めた表情が解ける。瞳だけではない、それよりは穏やかな紅色で染めた頬。彼女は一体いつからこの場所でジェイドを待っていたことだろうか。通常であればそれをジェイドは屈託なく喜べるのに、今は彼女の行動に胸のざわめきが落ち着かない。ジェイドは距離を詰めながらじっと彼女のことを見つめる。
「どうして、そんなところに立っていらっしゃるのですか」
海の世界に生まれ落ちた、陸の世界に疎い自分でも知っている。きよしこの夜にこの場所に立つ意味を。ジェイドは堪らずに彼女の腕を引いた。いつも温かいはずなのに冷え切った彼女の手を握りしめて、彼は切実に問いかける。
理解が及んでいるのだろうか。もしもこの場所をジェイドよりも早く通りかかる者がいたなら、いったいどうするつもりだったのだろうか。貴女の身に何が起こるとも分からないというのに。
「気づいてほしかったから、ですよ」
「ですが、僕以外の……」
あまりの無防備さを咎める言葉を吐こうとすれば、彼女の人差し指がジェイドの言葉を封じた。ジェイドの焦りをものともせず、彼女は迫る彼を前にしても悠然としていた。
「……大丈夫です」
目を瞬かせて真っすぐにジェイドのことを見つめ返す。そしてこの世界で唯一、ジェイドにだけは心を許して微笑んで見せる。
「私の事なんて、ジェイドさんにしか分からないでしょう?」
明確にはしなかった、だがジェイドは彼女の言わんとすることを察する。植物の知識、この場所での待ち合わせ。そして彼女の秘密……。全ての意味を理解できなければジェイドが至った結論は見いだせない。
それは捉えようによっては寂しい言葉に聞こえるだろうか。そんなことはない、と否定すべきなのかもしれない。
だがジェイドにとって彼女のその言葉は、どんな贈り物にも勝る言葉であった。脳髄まで痺れ上がる衝撃を得る。さりげない言葉で満たされてしまうから、ジェイドはどのような顔を彼女に向ければいいのかが分からなくなった。彼はせめても口元を手で覆う。
彼女の言葉は紛れもなく真実。ちっぽけで何の価値もない。だがそれこそが何物にも代えがたいジェイドの願いそのもの。
「貴女は僕だけに期待を抱き、待っていてくださったのだと……。自惚れてもよろしいのでしょうか」
握りしめた手は指までも、頬に滑らせた手は彼女の体温をも絡めとって夢を見るような眼差しでジェイドが問いかける。彼女の桜貝の色の唇が応えた。面映ゆそうに細められた赤がジェイドを貫く。
「……ぜひ、そうしてください」